2006年7月30日


■偶発の革命

 「キューバ:偶発の革命」(Cuba:The Accidental Revolution)は、大きな経済危機に直面した国家がその自給に成功したことを祝い、その最新の革命である農業革命や科学・医療革命がいかに波及しているか、そして、いかに世界に影響するかを描いた一時間ずつの二本のドキュメンタリーである。

 第一部は、1989年のソ連圏崩壊により生じた食料危機へのキューバの対応を検証する。当時のキューバ農業は、他国と同じく慣行的なものだった。ロシアがキューバに化学投入資材や機械を提供し、キューバは「緑の革命」を経験したのだった。だが、1989年のソ連崩壊がそのすべてを終わらせる。ほぼ一夜にしてキューバの全経済体制は危機的状況に投げ込まれ、工場は閉鎖し、食料供給は急落する。1年もたたずして、キューバは対外貿易の80%以上を失ったのである。輸出市場と輸入用の外貨を失い、キューバはその国民を養うことができず、危機に陥る。キューバ人たちの平均日カロリー摂取量は3分の1も落ち込んだ。

 化学肥料と農薬がない中、キューバ人たちは有機農業に転換する。燃料と機械部品がない中、キューバ人たちは牛耕に転換する。食料を輸送する燃料がない中、キューバ人たちは、消費する都市内で食料を生産していく。空き地、校庭、パティオ、裏庭に都市菜園が設けられていく。結果として、キューバは持続的農業でこれまでなされた最大のプログラムを産み出したのである。1999年には、キューバの農業生産は回復し、史上最高水準に達した品目もあった。フェルナンド・フネス博士は、キューバ人がいかに自立に向け転換し、持続可能な農業とオルターナティブ医療で驚くべき成果をあげたかを語っている。

 第二部では、キューバが1961年以来経済封鎖を受けながらも、現在のキューバの生活水準、平均寿命、識字率が、ラテンアメリカ地域内で最高であることについて学ぶ。ソ連圏の崩壊で、キューバは高価な医薬品を購入するのに欠かせない外為を失う。その結果、キューバの医薬品の多くはいま薬用植物に基づいているのである。それらは農場で栽培され、小規模な研究室で処理され、大規模な医療クリニックのネットワークを通じて、患者に利用できるものとなっている。オルターナティブ医療におけるキューバのこの進歩は、全世界の他の国々に重要な成果をもたらすかもしれない。

 キューバには他にも誇れるものがある。ハバナにある遺伝子工学・バイオテクノロジーセンターは、開発途上地域では最も優れたバイオ科学研究所であるとされている。キューバの科学者たちはエイズ・ワクチン、髄膜炎ワクチン、肝炎Cワクチンやその他の製薬業のために働いている。

 キューバは、国際的な医療プログラムも始めている。全世界の貧しい68ケ国で2万5000人のキューバの医師が働いており、ラテンアメリカ医科大学では、発展途上国、主にラテンアメリカやカリブ海からの1万人の学生たちが学んでいる。彼らは、祖国に戻り実践するとの理由で無料教育を受けている。

 さて、多くの危険を乗り切ってきたフィデル・カストロもいま弱い78歳で、多くの病気を抱えているとうわさされている。もし、フィデルが体調を崩したら、どうなるかと世界は注目している。フィデルなき後、キューバのエコ革命はどうなるのだろうか。今でもカストロが政治システムを統括していることが、物物交換や「グリーン」なセクターを含む多くの商業や職業に影響を及ぼす企業や社会主義体制が維持されている。そして、カナダやヨーロッパ諸国は、キューバの政治体制と折り合いを付けるよう米国に絶えず圧力をかけてもいる。キューバの「エコ革命」は持続的農業、持続的医療、そしてバイオテクノロジーのブルー・プリントとなるのだろうか。それとも、海外投資の経済圧によって一掃されてしまうのだろうか。あるいは、選択不足にうんざりし、疲れ切ったキューバ人民の消費財への欲望から、現代のキューバは打倒されてしまうのだろうか。米国の経済封鎖が解除され、キューバが残忍な世界貿易の競争の場にさらされれば、持続可能な開発におけるキューバの壮大な実験は維持されるのだろうか。だが、キューバの偶発革命の将来がどうであれ、カストロとその国は、オルターナティブな手段が存在することを顕示しているのだ。

■フェルナンド・フネス(Fernando Funes)博士とのインタビュー

 キューバは緑の革命式の農業経済をモデルとしてきた。輸出作物を生産するため巨大な生産ユニットで大量に輸入された化学資材と機械を用いてきたが、食料の半分以上を輸入してきた。1989年、このモデルは突然に瓦解し、キューバ人たちはいかにして自ら食料を生産するかとまどうまま放置されてしまう。ハバナの牧草資料研究所の研究者で、ACTAFの有機農業グループ(GAO)の幹事であるフェルナンド・フネス博士は、キューバ人たちがいかに自立に向けて転換し、持続可能な農業とオルターナティブ医療で驚くべき成果をあげたかを語る。

ソ連圏の崩壊後に何が起こったのですが。それはキューバ農業に何をもたらしたのでしょうか。

 私どもは、ソ連や他の社会主義諸国からの大きな支援に慣れきっていました。牛を飼育するための穀類を廉価で輸入していましたし、長期の返済がもたらす恩恵も享受してきました。ですから、そうした時代には緑の革命モデルをよい成果で維持できるよう石油や機械を輸入していたのです。私たちは「ウブレ・ブランカ(Ubre Blanca=白い乳房)」と呼ばれる牛も手に入れました。その牛は6~7リットルのミルクを出し、平均乳量は6リットルでしたが、エネルギーコストはとても高いものでした。ですが、エネルギーについて話すものは誰もいませんでした。多くの牧草を播種してきましたが、おわかりのように、こうした大量の化学製品や石油と同じく、大量の家畜飼料に依存していたわけです。

 1989年、突然何かが起こりました。そうした瓦解がかくも早く起きるとは予期していませんでしたから、それは誰にとっても大きな驚きでした。社会主義圏はまさに一まばたきの間に崩壊しました。ですから、多くの著者がすべてが不意に起こったと認めるように、次に私たちがわかったのは、社会主義圏が崩壊し、私たちを主に支えてきたソ連が解体したということでした。私たちの経済の85%以上が社会主義諸国の市場に依存していましたから、たった15%だけが残り、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリーとごくわずかの社会主義諸国からごく少量は輸入されていましたが、困難であったのは、それらがソ連ではなかったことでした。ですから、私たちがすべてを使い果たした瞬間、キューバにとってとても困難な時期となったのです。

 ウブレ・ブランカのような牛やその子孫は大量の家畜飼料を消費しましたから危機に陥り、家畜飼料はもはやなく、鶏を飼育するための餌もごくわずかしか残っていませんでした。ブタの場合も牧草や資料のようにセルロースが豊かな家畜飼料を少ししか食べません。ですから、私たちはそれまでと同じやり方では牛に給餌をできず、それが、40リットルの牛が熱帯の牧草だけでは生きられなかった理由です。それは国民を深刻に打ちのめしました。結果として、1990年、1991年、1992年には大きな難民も発生しました。何人かは膝を抱えて泣き始めましたが、にもかかわらず、私たちは働き始めたのです。

こうした課題の解決策を見出すうえには、どんな要素があったのでしょうか。

 そう、まさに1970年代から、私ども何人かは、「緑の革命は正しいモデルではない」と考え始めていました。そうした発想から解決策を模索し始めていた人々はごく少数でしたが、その中に自分や私の妻も入れることができます。穀物の代わりに青野菜を牛の餌にする。私たちは、化学農業や緑の革命モデルとははるかに隔たるバイオ肥料やその他の選択枝で研究を始めました。1970年代以来、バイオ的な手段が研究されていました。そして、国が支援し、資金提供する他の多くの研究と同じく、野菜やタンパク質銀行、バイオ肥料の研究開発のための当時の国家計画が、とても強力に研究センターで私たちを支持し始めました。この計画は70年代と80年代に続けられ、いくつかの面ではかなりの進展が見られました。

 最高司令官、フィデルの言葉ですが、スペシャル・ピリオド(Periodo Especial)と名づけられた危機が始まったとき、この危機は本当に凄まじいものでした。そこで、私たちは既存の研究成果のすべてを用いて働き始めました。農民たちの伝統も甦らせ始めました。スペシャル・ピリオドの中でも機能していた私どもの両親、祖父母たちの伝統を甦らせ、その名誉を取りもどしたのです。牛のくびきも復活しました。化学物質も化学肥料も家畜飼料も決して使っていなかった先祖たちが教えてくれたことすべてを復活し始めました。こうして首尾よく、かなり効率的に牛が飼育されはじめました。泣き出して国を去る人もいましたが、私たちは立ちあがり働きはじめたのです。

 政府は、新たな道を見出すため、生産者や私ども研究者全員を支援しました。それが、経験を積んだ農民、老いた農民がまさにその重要な役割を果たし始めたポイントでした。どうやって牛のくびきを準備し、どんな器具をつけ、操作するのかを彼らが教え始めました。そして、雄牛を雌牛に変える行動も調整しなければなりませんでした。キューバでは約40万頭の牛のくびき、30万頭以上の数値が約9万頭まで減っていました。にもかかわらず、この新しい時代にそれらは復活し、私の推測ではいま、約20万頭の牛のくびきがあります。

 そうした経済的な状況の中、私たちは多くの物事を生み出しはじめ、都市農業も始めました。1992年には都市農業は皆無でした。ですから、ゼロからはじめ、1993年に数100トン、1994年に数千トン、その後は数百万等を生産したわけです。以前にはまったく耕作されていなかった都市内で、今は300万トンを生産しているのです。食料を生産するため、私たちは、あらゆる空き地を活用し始めました。私たちの多くは体重が軽くなり、5キロ痩せた人もいれば、10キロ、14キロ痩せた人もいました。私自身も食べ物が十分に手に入らなかったので、11キロ痩せました。

スペシャル・ピリオドは、医療にどのように影響をもたらしたのでしょうか。

 そう、人の健康についてはまだ何も言っていませんでしたね。この運動は健康とも関連しています。私どもは、薬用植物や「緑色の薬品」を使うことを支える運動を奨励しています。当時、軍からかなりの支援がありました。この運動を最初に始めたのは軍なのです。軍はいつも破壊者や戦争メーカーと考えられてきましたから、誰もそんなことを想像できませんでした。アスピリンを使い果たしてしまったので、植物を使って人の命を救うというとても素晴らしい運動をキューバ軍が始めたわけです。私たちは食料だけでなく、医薬品も使い果たしてしまいましたが、野生のマジョラムが呼吸のためにとても良く、あるものは皮膚のオデキの治療薬となり、他のものも他の病気に良いことがわかったのです。軍は重要な役割を果たした後、それは農業省にゆだねられました。こうして、予防アプローチ用に生産されてきた薬用植物を大量生産し、治療目的でそれを用いているのです。薬用植物についての私どもの概念は、今の近代的な医薬品とはとても異なっています。それは、人の体を養生するものなのです。こうしたすべての問題があったにしても、キューバ人の平均寿命は67歳前後で、最新ニュースでは約76歳です。この平均寿命も考慮されるべきものです。私は、この運動には全国各地に多くの追随者がいると信じています。

 それがキューバが世界に示すことができ、カナダのような先進国ともわかちあえることなのです。そして、他の諸国もキューバから少しは学ぶことができることなのです。私たちは、より効率的でより経済的なやり方でそれをやれていますし、とても重要なことに、それはより健康なのです。浪費されている石油や化石エネルギーを使う必要がなく、進行している土壌や空気や私たちの環境汚染もなく、環境と調和しているのです。

偶発の革命の脚本を書き監督したのはレイ・バーレイ(Ray Burley)である。

(偶発の革命は、カナダのデビット・スズキがコーディネートする「The Nature of Things」という番組で、第一部は7月30日、第二部は8月6日に放映された)
 cuba: the accidental revolution, The Nature of Things, 2006.