2004年5月


 キューバへ視察に行くことは最近2004年に米国では禁止されている。だが、コミュニティ・サービスの専務理事、パット・マーフィー(Pat Murphy)とコミュニティ・サービス・トラストのフェイス・モーガン(Faith Morgan)は、それ以前の2003年にキューバに2度スタディ・ツアーに出かけている。1990年にソ連が崩壊し、キューバは石油を輸入できなくなったが、その後、どのようにして生きのびたのかを二人は知りたがっていた。そして、二人が見出したのは、コミュニティの重要性や相互扶助を理解・感謝し、つつましくも楽観的で希望に満ちた人々だった。大きく石油使用量を大きく減らしながら暮らしている脱工業化社会についてのパットとフェイスの見聞をわかちあおう。

 最近私たちは、ウェス・ジャクソン(Wes Jackson)の土地研究所(Land Institute)からの土地リポート(Land Report)の2003年秋号を評論した。リポートには「いくつかのさらなる言葉」と題せられたウェンデル・ベリー(Wendell Berry)の素晴らしい10の詩も書かれていた。その詩のいくつかをここで再現しよう。ウェンデル・ベリーとウェス・ジャクソンは、小規模でローカルなコミュニティを評価するリーダーである。

(詩1)
「親愛なる読者よ。君とわかちあいたい。僕は古くさい男だ。死ぬリスクがあったとしても僕は自然の世界が好きだ。自然界に借りを返し、自然との絆を保つ限りは、僕は人の世界も好きなんだ。僕は天の約束が好きだ。僕の目指すのは、こうした贈り物に感謝し、名誉をお返しできる言葉だ。きざな偽りには縁なき言葉だ」

(詩5)
「僕は生まれたときのように愛に包まれて死ぬだろう。貧乏でも愛で終わる人生を生きたい。僕は機械が嫌いだ。僕は機械を使うことを控えているが、それは死にはしない。けど、いつかはなくなるだろう。経済は盗みや高利貸しや浪費や破滅ではなく、モノを大事にする倹約に基づくべきなんだ」

(詩6の一部)
「僕は暮らしや知識が機械からもたらされるとは思っていない。機械経済が人の精神に火をつけたんだ。そして、どの生物もその中で燃えている」

 土地リポートには、同じテーマで、ピーク・オイルについて論じた記事が含まれている。7つのキーポイントが記載されていたが、うち2と3と4を引用してみよう。

2. 近い将来、石油はもはやその需要増と足並をそろえて発見されることはないだろう。このエネルギー源が豊かな炭素化合物を消費することで、我々は人類史の中でも最も珍しい時期を形成してきた。だが、約70年間の1936年に生まれた人間がこれまで生きてくる中で、すでに汲み上げられた全石油の97.5%はすでに燃やされてしまっているのだ。

3. いかなるオルターナティブ技術も、この液体化石燃料の量や便利さには引き合わない。

4. そして、最近の人間の食料は、かなりの部分この燃料に依存している。

■過去のピーク・オイル・キューバからの学び

 石油が減少していくことへの意識の高まりを反映した記事が増えている。この課題をめぐっては、多くの良書が出版されており、著者の何人かは私たちも知っているし、尊敬もしている。ピーク・オイル研究協会(ASPO= The Association for the Study of Peak Oil)は、そのウェブ・サイトが月に2万件ヒットしていると報告している。私たちはこのテーマの研究を続けるため、この5月末にベルリンで開催される第3回ピーク・オイル研究協会の会議にもでかけるつもりだ。この会議では、それ以降に産油量が落ちていくピーク・オイルに到達する時期がいつなのか、正確な時期を決定することに重点がおかれるだろう。

ピーク・オイルとは何か?。ピーク・オイルとは石油生産がその最大に達する年のことである。全世界の石油の半分が燃やされてしまう時点のことである。その年以降は、石油がことごとく消費されるまで、生産量は減少し続けることであろう。ピーク・オイルは「石油が使い果たされる」ことは意味しない。だが、着実にその供給量が減り、値段があがり、私たちがすでに慣れ親しんだライフスタイルが大きく変化していくことを意味する。

1960年代以降、発見数は減っている。このテーマへの関心や認識が高まり、将来への懸念も高まっている。今よりも機械がはるかに少ない世界は、ウェンデル・ベリーが詩の中で描いたようなものに似ているのだろうか?。いかにして社会はそれ自体を再構築するのだろうか?。問いかけられ、答えなければならない質問は何十とある。そして、その仕事はあなどれない。

 多くの人々は絶望し、暴力や飢餓によって人口が激減する「死」を予言し、記載している。だが、幸いながら、私たちは解決策があることを信じているので、落胆したりはしない。とはいえ、私たちは、人類が直面する途方もなき困難と残された時間の短さにプレッシャーを感じてはいる。だから、私たちは、ひとつの事例、ソ連崩壊によって引き起こされた人工的な「ピーク・オイル」をうまく切り抜けた唯一の国、キューバに注目しているのである。米国政府がキューバに出かけることを法律で禁じているため、キューバの取り組みは米国の市民にとっては隠されている。昨年、私たちは、キューバの人々がいかにして生きのびたのかを学び調査するため、研究ビザによりキューバにでかけた。だが、2004年の始めに、米国政府は、キューバの文化や石油喪失への対応策を学びたいと願っているごく普通の米国人がそうはできないように、キューバへの旅行禁止令を強化してしまう。

 この狂気にはまったくうんざりさせられる。石油供給の突然の激減をいち早く経験し、首尾よくそれに対処しているひとつの小さな国がここにあるというのに、私たちはそれを訪れることができないのだ。「とても貧しい1200万の人々が、どれほど私たちに脅威なのでだろうか」。私たちはおもわず自問した。

 昨年に私たちがキューバにでかけた2度の旅は、グローバル・エクスチェンジのスタディ・ビザを通じてのものだった。今年は、グローバル・エクスチェンジは、より煩雑になった新規制の適用を受けない組織と合体することで、これとは別のツアーを準備していた。そこで、私たちは、「クーバ・ソラール」が主催する4月9日の「第6回国際再生可能エネルギー会議」に出席する計画を立てた。パットはこの会議で「ピーク・オイルと米国の対応」を講演することになっていた。キューバの低コストの再生可能エネルギー技術を学べる会議に参加することは楽しみだった。だが、出発の一週間前に国務省は、許可証をとりあげ、ビザを取り消してしまった。

 さて、最初の旅では、私たちはキューバの一般状況や歴史文化、そして、突然のソ連からの石油供給の喪失にいかに対処したのかを理解した。二度目の旅ではトラクターを牛にかえたり、石油に依存した農薬の代替として生物農薬を利用すること等、キューバの有機農業について学んだ。そして、三度目の旅では、キューバ人たちが石油の代替手段として何を開発したのかが示されることになるはずだった。

 最初の旅で、私たちはある経済学者と対談したが、彼は「キューバは100万ドルもする大規模な風力発電もできないし、高額な太陽光発電システムも孤立地域以外では使えない」と語った。以来、こうした代替手段が高コストである中、限られた予算の中で、人々がどのように実用的な選択枝を開発したかのを目にすることを楽しみにしていた。

 石油減少の解決策としての複雑な技術的解決策には、いまだに疑わしものがある。私たちは、それとは対照的に、コミュニティの解決策が重要であるとの考え方を持っていた。そして、キューバへの最初の旅は、その考え方を発展させる一助となり、また、実際にそれを目のあたりにすることになった。私たちはキューバで10日間を過ごしたが、数ページでその経験をまとめるのは難しい。そこで、このリポートでは、医療、教育、住宅、交通に関連した事項に光をあてることとしよう。

■予防を重視する無料の医療

 キューバは貧しいうえに、最近の石油不足で苦しんでいる。だが、キューバの医療システムは、第三世界の国としては信じられないほどのもので、かつ、全国民に無料なのである。キューバ人たちは、この分野で成し遂げたことを誇りに思っており、進んだ医療制度のことがいつも強調される。どの子どもも子どもの病気に対する13種類もの予防接種を受け、キューバの乳児死亡率は米国のそれよりも低い。キューバは貧しいが、その平均寿命は米国と同じだ。キューバ人たちは、第三世界での多くの死因である伝染病では死ぬことはなく、先進国と同じ病気で死ぬ。そして、心臓切開手術やそれ以外の複雑な治療が実施されているのだ。

 1959年の革命以前には、2000人に1人の医師がいるだけだったが、今は167人に1人の医師がいる。そして、国際医学校もある。驚くべきことに、この医学校には何百人もの米国人もいる。帰国後に貧しい地区で働くことを条件に無料で入学しているのだ。故郷に戻るときに貧しい人々のために尽くすと誓う限り、キューバは数多くの国々から医学生を受け入れる。そして、キューバは他の貧しい国々に医師も派遣している。こうした医師たちは自分の命を危険にさらしながらも、僻地にまででかけていく。2万人ものキューバ人の医師たちが海外でこうした仕事に従事しているのだ。

 キューバは貧しい国だから、医療費を無駄づかいできない。それが、予防医療の重視につながった。予防の重視は、キューバ人の医師が、病気を治療するよりも、人々を健康に保とうとしていることを意味する。その努力が主に注がれているのは、良質の食事の促進だ。これは個人の選択というより、食料が制限されていることにもよるのだが、キューバ人たちは低脂肪で健康的なベジタリアンの食事をしている。そして、米国人のように座ったままでなく、健康的なアウトドアのライフスタイルを送っている。交通手段が不足していることが、たくさん歩いたり、自転車に乗ることにつながっている。農村の僻地には、3階建ての建物が建築されている。1階が医院で、2階と3階がアパートだ。ひとつには医師、もうひとつには看護婦が住み込んでいる。農村でも重点がおかれているのは予防医療だ。

 都市では医師と看護婦は、サービスを提供する地区に住む。彼らは全家族を見知っており、家庭環境の中で人々を治療しようと心がけている。患者を離れた病院に入院させることのストレスをいつも意識しているのだ。私たちはハバナの地元の診療所を訪ね、医師や数人の看護婦と話してみた。診療所は、900人の住民にサービスを行い、心理学者、小児科医や老人医療の専門家等、専門家にアクセスする手段もあった。

 医師たちは、針療法を含め、コミュニティにオルターナティブな治療を提供していた。キューバ人たちはワクチン研究は進んでおり、経済封鎖で制限されはいるものの、十分な抗生物質もある。医師は「主に不足しているのは針と手袋と使い捨て用品だ」と私たちに言った。どの医師も6の医学校で訓練され、さらに3年研究を重ねる。助産婦は全くおらず、99%の子どもが入院している。医師は、通常は午前中に診療所におり、午後と晩に往診する。医師たちは施設よりむしろ自宅で患者が死ぬことを助けようとしている。医師の60%は女医である。

 興味深かったのは、2人の女医の議論だった。私たちのメンバーの一人は、医師の娘でハーバード医学校の生徒だった。彼女は西洋医学の観点から、医療の経済事情について多くの質問をした。その質問のベースは「金銭的なインセンティブがないのに、なぜ医師になるのか」ということだった。米国の学生とキューバの医師との間に文化の違いがあることは明白だった。二人の医師は、お互いの疑問の内容が明らかになるにつれ、顔に驚きの色が表れた。そして、最後に質問のバックにある意図がわかるとキューバの女医は力強くこう語ったのだった。

「医師は仕事ではなく、職業です」

これは、第三世界だけでなく、先進国にとってもキューバがモデルとなる態度といえる。キューバ人の平均寿命が米国人のそれとほぼ同じで、キューバがかなり貧しいことを考慮すれば、人々に向いた職業としての医師の態度が強力にキューバ・モデルを支えているわけである。なお、これは医療の問題ではないが、健康的なライフスタイルの一部は自分を酷使しないことである。キューバでは早期退職する鉱山の坑夫を除き、35年間の仕事をした後、男性は60歳で、女性は55歳で定年を迎える。米国からの経済封鎖の圧力を受けている中、多くの人々は2つの仕事を抱えているが、一週間の労働時間は40時間である。

■国家的に優先される教育

この刺繍はトリニダードの特産である。職業訓練所では、こうした地元の工芸を生かし続けることが教えられる。各町の工芸はユニークである。

 教育はキューバで最も重要な社会活動であり、幼い子どもの100%が生徒だ。初期教育1~9学年と中等教育10~12学年は義務教育だ。どんなに小さな村にさえ校舎があり、VCRとテレビが、娯楽用ではなく訓練用に使われている。大学への進学率は米国よりもはるかに低いが、どの子どもも最低12年の学校教育を得ている。

 革命後に直ちに12万人の教師たちが農村に派遣され、70万人の人々が数カ月で読み書きを習った。革命以前は3,000人に対して1人の教師がいるだけだったが、今では42人に1人の教師がいる。教師と生徒の比率は1:16で、この数値は、世界で最も高い。キューバのメディアは限られ、とりわけ、テレビはそうだが、テレビは主に教材として役立っている。多くの科学番組や健康プログラムの番組があり、学校、家族での番組や性教育もある。国民の99%にはテレビがある。

 キューバの教育には職業訓練も含まれるが、それは手作業の技能のためのもので、米国の概念とは異なる。7~8月の夏休みには、パイオニアと称される全国組織が、サマースクールとキャンプを組み合わせたものを提供している。このキャンプは無料だ。土曜日と日曜日は、お誕生日会、レクリエーション、山やビーチへの遠足になる。子どもの多くは、地方出身ではなく、キャンプで育つ。その学習内容は様々で、農業、海の研究(魚釣とボート)、交通(自動修理を含む)、刺繍(地方の歴史的な工芸品)、建築、料理、そして、植物育苗を含んでいる。少年や少女は、刺繍の技能と自動修理をともに学ぶ。学校には制服があり、経験を高める各種のツールがある。観光業はキューバ最大の産業だが、観光客への販売が大きな所得格差を作り出すことから、地域での手工業教育は国家的な優先課題なのである。パイオニア・プログラムは元々1975年に始まったが、私たちが訪ねたパイオニア・キャンプは1985年からあるものだった。こうした訓練では、ユニークな授業がある。農業では、生徒たちは豆、種子、土とコーヒーについて学ぶ。サトウキビはそれ自体がキューバの主産業であることから、それ自身が学ぶ余地がある。別の授業では子供たちは海について学ぶ。その活動は、魚釣、ボート、ダイビングまである。

トリニダードの小さなコミュニティの「パイオニア」職業訓練所とサマー・キャンプでは、12歳の少女が大工仕事道具について私たちに話します。各教室では、私たちが、子供がバランスをとってはっきりものが言えていることがわかった。

パイオニア・キャンプの主な目的は、幅広い範囲の様々な選択肢を経験し、自分が何が好きかを子どもが発見することで自分で職業を選らぶのを助けることにある。

 私たちが出会った子どもたちは、こうした勉強以外の活動を楽しんでいるようだった。

 そして、ピンク色の洋服を着た10歳の少女がソロで踊ったバレエ・ダンスがその旅のハイライトだった。

 さて、私たちの旅には米国の4人の公立学校の教師がいたのだが、バスに戻ると、うち2人が泣いていた。何かあったのかと理由を問いかけみると、彼らはこう言った。

「私たちが教師になったときに夢見たことがここにはあります。でも、米国の学校ではそれが実現できないのです」。

■交通・相乗りのシステム

1990年のソ連からの石油を損失した後、車通勤はハバナでは不可能になった。必要に迫られ、キューバ人たちは「ラクダ」と呼ばれるこの簡単な大型バスを開発した。乗員は300人で、運賃は1ペソである。

 ソ連からの原油供給が急に失われた後、1993年には交通は完全に麻痺してしまった。走る車は皆無で、公共交通機関は崩壊し、通りには人影がなかった。キューバは200万台もの重たい中国製の自転車を輸入する。ある男性は「食料不足に加え、熱帯の中でペダルをこいだからハバナでは誰もが痩せたんだ」と私たちに語った。

 幸いなことに、事態は改善された。現在のキューバの交通事情は、とても魅力的である、だが、困難だとしか書きようがない。

 キューバでは車は10人に1人も持っていないし、その率が高まることもありえそうにない。ハバナのバスはいずれも満員で、ほとんどがおんぼろに思えた。ひとつの特別なハバナ交通は、トラクタが牽引する金属製の大型トレーラからなるものである。この奇妙な乗り物は乗員300人で「ラクダ」と呼ばれている。いつも暑苦しく混んではいるが、値段はとても安く、キューバ1ペソである。

この古い車はキューバ全域で交通用に使われている1950年代の車のひとつである。部品を買えないため、キューバ人たちは必要なものを自分でこさえている。ほとんど、素晴らしい走行オーダーにみえた。

 キューバ人たちはよく「必要は発明の母だ」というフレーズを口にする。資金と燃料がごくわずかしかない中、キューバはハバナのラッシュアワーに大量の人々を輸送している。発明は、手作りの手押し車からバスまで、あらゆる交通に及んでいる。大きなものから小さなものまで、石油を使うものから、家畜が動かすものまで、そして、大量輸送手段の構築まで、あらゆる乗り物が使われている。最近はいくらか小型車も輸入されているが、それはごく限られたものだ。

 革驚かされることに、何十台もの1950年代の古い米国車も目にできる。今となっては、米国ではコレクターが高く評価する品だろう。だが、キューバ人たちはそれをタクシーとしてハバナ全域や他の場所で使っているのだ。こうしたアンティークな乗り物を国外に持ち出すこと違法である。ずっと小さな町では、馬や馬車も使われているが、ハバナでは自転車や動力付の黄色い二人乗り人力車も一般的だ。

このように、キューバは、不便ではあるものの、有事においても、ごく少量の燃料で交通が可能であることを示している。石油がない中、個人での移動は犠牲にされ、共同の交通に置き換えられている。まだ空席がある公共の乗り物やトラックを止め、乗客を乗せる権限を持つ黄色い服装をした役人が路上にいる。前に4人、後ろに4人が乗った状態で走っているオールド・カーを目にすることも珍しくはない。

 

上:古いトラックがキューバ全域で交通用に使われている。ステップが後部と雨露を凌ぐように天蓋にある状態で、多くが改造されている。
下:バラコアの海岸近くの町で、私たちは、仕事の後にこの由緒ある輸送手段を使用することで家へ帰る人々を目にした。人々を満載して、次々と馬車は過ぎていった。

ハバナに入る道路やハバナから出て行く路上には、いつも乗車したいとお金を振るヒッチハイカーがいた。フレームにタクシー・許可証を打ち付けたロバの馬車が目にされた。多くのトラックは人々が簡単に乗降車できるよう、後部にステップを溶接することで乗客輸送車に改造されていた。ある場合には、トラックの後ろにいる2人の男性が乗客をトラックに乗せたり、降ろしたりする仕事をしていた。こうしたトラックの多くは上に日よけの屋根を取り付けていたし、1950年代の旧式のタクシーが時には10人もの乗客を乗せていたのである。政府高官もたいがいは車を持っていない。通勤用の小さなバスか、車を持つだれかと相乗りしている。

 一回の農村への旅では、私たちは馬が引くワゴンに乗ってビーチへでかけた。途中で私たちは、ヒッチハイカーを拾い、旅行の途中で彼らを降ろした。 ある場所では、私たちは、家族に出くわした。両親は二人の小さな子どもは乗せたが、自分たちは歩き続けた。また別の場所では、ドライバーが私たちが拾った十代の少女といちゃついていた。こうしたカジュアルで、スローで、フリーな特別なバスはまったくチャーミングだった。

 通りにも高速道路の路上にも広告もなければ掲示板もない。これは米国の広告に見慣れた観察者には救いだった。ホテルの中やその近くにもどんな今風の店もない。旅行者がいる店は、ハバナの葉巻とラム販売店と、村の民芸品や芸術品のショップだ。広告が限りないニーズを作り出さないから、物資が限られていても、キューバ人たちは米国人ほど心理的にはまいってはいない。

 旅の頂点は、「スイテ・ハバナ(Suite Havana)」と称される映画を見ることだった。音楽、通りの音、そして、子どもを呼ぶ女性の声がときおり入ることを除いて、まったく静かなことが特徴の映画である。映画は、食料や住宅と同じく厳しい交通事情も描いている。だが、それは、創意工夫やモノをわかちあうことを描いていた。それは、何十年にも及ぶ米国の経済封鎖へのキューバの対応なのである。

■住宅、モノがないが豊か

 ハバナは250万人の人口を持つキューバで最大の都市だ。都市はいくらか荒廃しているように見える。ビルが明らかに劣化しており、あるものは、崩れているか、放置されている。

 

農村部では、人々が家を建てるように土地が提供されている。私たちはキューバ全域でこのタイプの家(玄関、居間、台所と3つの寝室)を目にした。農村や小さな町では、人々が自分たちの裏庭やパティオで鶏やブタを飼育することも奨励されている。

ハバナは込み合っており、多くのアパートは一人あたりたった1坪しかなく、数世代が同居している。一軒に数世代の家族が同居するこの混雑ぶりが、離婚率の高さにもつながっている。ハバナには21の社会転換センターがあり、人々と共に地区の住宅計画を立てている。新たに住宅が建築される場所では、地区住民が、だれが新築の家を手に入れるかを決めている。砂、石、そして軽量コンクリートを使う簡単な技術で新たに家を建てている場合もある。どう家を建てるのかを人々に教えるコースもある。

 キューバの住宅問題はとても深刻だが、ブラジルや他の第三世界国のようなスラムはまったくない。未利用地が住宅建築用に提供されており、標準住宅は、小さな寝室と居間と台所と小さな玄関がある7.5m×10mの長方形で、コンクリート・ブロックで作られている。建築資材は政府から提供されている。米国での平均的な新築住宅はいま65坪以上だから、キューバの新築住宅の約3倍だ。

 

ハバナの住宅はとても混雑しており、多くの建物はひどい状態にある。資源がわずかしかなく、古いレンガと漆喰のビルは、時間と雨風で荒れ果てている。住宅需要を満たすため、新開発計画は、長距離移動をする必要がないよう設計されている。居住地からバイクか歩いていける距離に職場、学校、市場とレクリエーション施設がある。

 キューバ人たちは、ソ連の崩壊以降の時代を「スペシャル・ピリオド」と呼んでいる。この「スペシャル・ピリオド」が、農村からハバナへの人々の流出を逆転させることにつながった。その期間以前には、学校を出た農家の息子や娘たちは、農作に従事したくなかったし、出身州に戻りたがりもしなかった。土地の上で働くインセンティブもなかった。だが、今キューバはいっそう農業国となり、賃金水準がそれを反映している。 もともとキューバでは食料生産はさほど重視されず、東欧から大量の食料を輸入していた。今、キューバ農村では、食料を栽培できる技を持つ人々がとても重要になっている。

 トリニダードの海岸近くの町では、私たちは、ブロックのパーティーに招待された。開かれたのは夜遅くで、家に入り口に隣した歩道は狭かった。それぞれの家の前から通りまでの距離は、私たちの大きな居間の長さほどしかなかった。私たちは歓迎され、革命防衛委員会の代表による演説を聞いた。彼女は管理する3人を紹介し、それぞれが簡潔なスピーチをした。軽食後に、歌とダンスがあり、人々は自分たちの家に私たちを招待してくれた。住宅は居心地が良かった。トリニダードはハバナに比べ広々とした宿泊設備があったからだ。子ども用に3つの寝室があり、入ったリビングはシンプルだった。家具は古く中古だったが、修理が行き届いているように見え、装飾もわずかしかなかったが、壁の芸術は、シンプルで魅力的だった。農村や小さな町のほとんどの家は背後に小さなパティオがあり、そこで何人かはブタや鶏を飼っていた。

 キューバには、たくさんの住宅を建設できる技能をもった労働者が十分にいる。だが、住宅資材、とりわけ、コンクリート不足が深刻で、それが製造するのに膨大なエネルギーをかけている。天災も住宅に影響する。近年、ただひとつのハリケーンが4,000戸を破壊した。

■持続可能な世界は誰しもへの課題

 この記事の冒頭で指摘したように、私たちはピーク・オイルのことを学んだ多くの人々が落ち込むという経験はしていない。ウェンデル・ベリーのすべての詩やランド・リポートのそれ以外の部分は紹介しなかったが、そこで描かれているビジョンとは、連帯感、道徳、そしてヴァーチューのある世界である。それは、持続可能な世界であり、農業の毒や機械の毒がなく、資本主義的工業主義の原則に基づく競争とは対照的に、人々はお互いに地球とも調和して生きている。キューバがこの工業化時代の石油への依存からモダンな地方分権型の農的社会にいかにすばやく転換したかを学びことは、私たちに希望を与える。 キューバ人にとってもそのことは簡単ではなく、多くの困難がキューバに対する米国の経済封鎖からもたらされている。

 だが、ほとんど人々は、陰気でもなければ、荒れてもいない。彼らは、コミュニティとコミュニティの価値の重要性を発見している。多分、彼らはいつもそのことを知っていたのだ。キューバ人たちが私たちに言ったのは、物事はとても難しいが、教育の質、予防に焦点を置いた無料のヘルスケア、長い寿命。スポーツにおける素晴らしさ、米国の禁輸にもかかわらずの生存を誇りにしているということだった。経済封鎖でキューバはより強くなったと思うとすら言うものもいた。

 

キューバからは機械がなくなったわけではないが、それは1990年以前よりもずっと少ないし、以前と同じほどは多くは使用されていない。私たちは、あなたをキューバを訪ねるようにお誘いしたいが、政府がそれを認めないこともわかっている。そして、私たちはこの方針を理解できる。キューバは米国的生き方への脅威なのだ。そして、そのことをコミュニティ・サービスとして、私たちは感謝している。キューバの農的、低エネルギー型の協力的なライフスタイルは、絶えず減り続ける化石燃料に基づき、成長し、競争し、消費する現代の消費社会よりもずっと私たちの価値観に沿うものだ。私たちは、ウェンデル・ベリーやウェス・ジャクソンが、私たちがしたように、生まれ変わってキューバを訪れ農的暮らしを目にすることを望んでいる。ウェンデルの詩はこう述べている。

「私は機械が嫌いだ。いつか、それらはなくなるだろう。そして、それは喜びの日であり、聖なる日になることだろう」

そう、キューバはその喜ばしく聖なる日に向かっている途中なのだ。

 

(コミュニティ・ソリューションの記事)
 Pat Murphy Community, a solution for saving the environment and conserving resources with equity for all.2004..

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