私がピーク・オイルについて関心を持つようになったのは2年前からのことですが、私には明白な解決策が見えず、使えるモデルもありませんでした。ですが、キューバのことを調べてみるように示唆してくれる人がいて、調べてみたのです。そして、1990年代の初めに、キューバへのソ連からの援助がなくなり、経済が崩壊し、石油を失ってしまったことがわかりました。キューバはソ連から財政的にとても援助されていましたが、それ以上に重要だったのは石油の援助でした。石油供給はほぼ一夜にしてなくなり、キューバ経済は深刻な不況に突入しました。事態はとても深刻で、食料不足によりキューバ人たちは平均9㎏も痩せ、電気は日のうち12~14時間止まりました。このとてもハードな生き残りの期間をしのぐには2~3年がかかり、多くのキューバ人が栄養失調のために失明しました。
政府は、自分たちの経済や全体的な将来展望を抜本的に再構築しなければならないことを悟ります。キューバはソ連経済圏の一部で、この経済圏内でのキューバの役割は、ソ連やその衛星諸国に砂糖を提供することでした。無論のこと、キューバそのもののための農業はほとんどなされないままにおかれていました。ですから、彼らは、エネルギーを使わないだけでなく、作物面からもきわめて迅速にその農業を転換しなければならなかったのです。
キューバには、ラテンアメリカ内でも最も工業化された農業がありました。どの国よりも大量の化石燃料を農薬や化学肥料のために使っていましたから、この農業は一夜にしてストップせざるをえませんでした。キューバ人たちは土を作り直し、栽培品目をかえ、食事の内容も変えることを強いられました。ですから、この期間に、キューバ人たちは近代的な集約農業、工業的なシステムから、小規模農業に基づく有機農業にまでいってしまったのです。キューバ人たちが社会を通じて実際に経験したことは、都市に移住していた元農民たちが再び農村に戻ったことでした。そして、最終的に十年後には、地力が高まり、栽培品目は徹底的に変わり、自給力を手にしていたのです。
キューバの人々はその食事も変えました。一種の疑似のベジタリアンになったのです。事実、家畜飼料や私たちの家畜飼育方法は大量の化石燃料を使っています。ですから、キューバでは、食を見直す観点から、食育制度を改革し、基本的には工業文化ではなく、より農的な文化になったわけです。そして、今、このことは社会全般に影響を及ぼしています。栄養や食が教育で重要な部分を占めるようになり、危機の期間に、キューバの学生たち全員が教育過程の一環として農場で数週間を働いて過ごし、それは、もちろん、今でも続いています。この教育は一般国民にも広げられ、一般人民が食料生産にかかわるよう激励されました。
そして、ハバナで最も興味深いのは、市全域にわたる菜園です。数え切れないほどの自給用の屋上菜園もあります。私が訪ねたある場所では、一人の男性が屋上でハムスター、ウサギ、鶏を飼育し、ウサギの餌用に屋上で草も育てていました。ハバナ全域のどこにでも菜園があります。そのうちいくつかは30~40aと本当に大きなものです。キューバやハバナでは、利用可能などの土地についても、誰もが事業計画を申請でき、その計画が適切ならば農業をするための土地を与えられるのです。
ですから、キューバが重点をおいたのは、より健康的な食料システムを構築することでした。今では土壌は以前よりもずっと健康になり、ごく少量の化学資材やその他の農業用の石油の投入だけで、実際に都市内で食料を生産しているのです。ただ駐車場に盛土しただけの数多くの苗床を目にすることもあります。地方で食料を生産すれば、それを輸送しなければならないことが、キューバ人たちにはわかっている。ですから、キューバ人たちがやったのは、大量の土を持ち込み、駐車場の上にこれを置き、その環境内で食料を生産することでした。
そういうわけで、キューバ人たちは、今、世界のどの国以上に自給自足するようになっています。莫大な量の投入資材が必要だったことから、小麦や米栽培もやめました。そして、次に、もっと狭い土地で米を栽培する新たな農法の開発を学んだのです。ですから、ある程度までは、キューバは大規模な有機農場なのです。
さらに、キューバ人たちは今多くの家畜トラクターを使っています。システムが崩壊した時、トラクター燃料がなく、牛を繁殖させるプログラムが始められました。ですから、農村全域で植え付けに機械トラクターではなく、牛を使っているのを目にできることでしょう。土づくりの一部として、これとはまた別に興味深いのは、キューバ人たちが、バーミカルチャー、ミミズ農法を開発していることです。ですから、キューバ全域でミミズ農場を目にできることでしょう。農場のゴミや食物残渣の多くはこうしたミミズ農場に持ち込まれ、ミミズの餌となり、ミミズは土壌を生み出します。そして、土を再建するために様々な他の場所に運ばれていくのです。ですから、今、人々を養えているのは農業システムです。私は、全輸入品に対し、今では自分たちで食料の90%以内を生産していると思いますし、恐らく入力量も90%は減ったと思います。
キューバがやったこれとはまた別のことは、私は、これは農的文化へのシフトの一部だと思うのですが、大がかりな森林再生に取り組み始めたことです。キューバの森林は破壊されていました。この改革がスタートした時には国土の13%ほどしか森がなかったと思います。そして、キューバ人たちは、これを急速に18%まで高め、20~22%まで目指していると思っています。ですから、もちろん、食料が最優先事項ではありましたが、その次には環境が優先され、環境のためだけでなく、森を必要とする持続可能な環境を構築しようと、一般的な環境改善のための森づくりだけでなく、持続可能を達成するための森林再生をやっているのです。それは、キューバ人たちが最初にやった努力でした。
次の努力は交通です。どの国もそうであるように、キューバでも自家用車が望まれていました。ですが、自家用車は国の目標ではありえないこともすぐにわかりました。そこで、自動車の私有は、特別の必要性があるか、ある記録を保持者に制限されていました。キューバ人たちには、ライト・レール(light
rail)や地下鉄といったものを導入するための時間も資金もありませんでしたから、そこで、彼らは、大量輸送用の乗り物を建造し始めました。カメジョ(camelo)と呼ばれる奇妙な形をした乗り物があります。それは300人を輸送し、従来のディーゼル・トラクターにより牽引され、とても安いのです。ハバナ全域でそれを目にできます。また他の場所では、座席を溶接し、天蓋を設けたトラックに乗っています。ですから、キューバ人たちがやったのは、多くの改革や既存資源を利用し、馬を含めて、あらゆる種類の輸送手段に基づき大量輸送システムを開発したことでした。また、見回せばどこでもヒッチ・ハイクをしているのが目にできるように、キューバ人たちはヒッチ・ハイク政策も立てています。そして、キューバの治安はかなりよく、特別な危険はなく、若者たちはヒッチハイキングをよくしています。政府には一種のハイウェイ・パトロール・プログラムがあり、戦略的にハイウェーに黄色のユニフォームを着た人々がいます。この一種のハイウェー・パトロール警官は、権限を持ち、どこかに乗っていきたい人々が一定の場所で並んで待つように指導していますし、トラックを監視して、ある許可プレートがあるトラックが来れば、それを止めさせ、人々を満載させ次に、走らせます。とても魅了されたのは、キューバ人たちがこれをとてもすばやくやり、手にしていた既存資源を使用したやり方でした。
ですから、これは社会にとって、とても重要な転換でした。そして、おそらく最も重要なことは、キューバ人たちが産業・物質主義の将来展望を捨てざるをえなかったことでしょう。それは、今、何十年間も世界が進んできた方向ですが、いまやどの地域であれ、その焦点を他のところに変えなければならないことなのです。
革命以前にスペインやその他の植民地として占領されていた時代には、キューバの福祉医療は悲惨なものでした。ですから、医療が優先事項とされ、今では、一人当たりでは米国よりも多くの医師がいます。おそらく世界の他のどの国よりも多いでしょう。優れた医学校があり、医師をかなり早く育成できるので、実際にこれは、ある程度キューバの輸出産業にもなっています。現実に他の国々はキューバの医師を雇うことでしょう。彼らは1~2年の契約を行い、各地にやって来て、帰国するまで逃げずにそこに滞在するのです。例えば、ベネズエラは、キューバに石油を提供していますが、その見返りに多くのキューバの医師を使っています。
キューバの医療としては、バイパス手術やその他の複雑な治療が強調されていますが、重視されているのは予防です。また、それ以外の特徴として必要条件のひとつとなっているのが、医師が治療活動を行う地区に住まなければならないことです。ですから、多くの場合、キューバ医師は町の通りを歩いているかもしれないし、タバコを吸ったり、豚肉のサンドイッチを食べるなど、症状を持つ知り合いの患者にどこかでばったり会うかもしれません。すると、医師は彼らを通りで止めて、健康上のアドバイスをするでしょう。キューバの医師はとても進んでおり、医師を特別のキャリアではなく職業として見ており、地区の健康統計に大きな誇りを得ているのです。ですから、物質的な崩壊はとても大きな事態でしたが、これで人々は痩せたとはいえ、大量死や飢餓がなかったのは、この高度な医療システムのためだったと考えます。それは、いまだにキューバで優先されています。今、キューバは、米国からの生徒も含めて、学生を引き受け、他の国々に医学訓練を行っています。そして、米国やそれ以外の国々の学生たちの責務は、第三世界の豊かな首都ではなく、貧しい地域で働かなければならないということす。ですから、医療は重要です。キューバ人の平均寿命は米国と同じで、乳幼児の治療を重視しているので、乳児死亡率は米国よりも低いのです。
さて、話を続けましょう。医療、食料とくれば、次にキューバで最も重要なものは教育です。前政権が倒れ、革命がもたらされたとき、まず行われたことのひとつは、学生たちを全国に送りこみ、年上の人々に読み書きを教えることでした。これは驚異的なことで、何万人もの学生がおり、その中には、高校1年生だけでなく、小学校6年生や中学1年生すらいました。彼ら全員が村に入り、数か月を費やして、村人たちを教育したのです。識字教育プログラムもあり、一年以内にその目的を達成したのでした。以来、教育はとても重視され、医療が無料であるように、教育も大学までずっと無料です。どの学生も高校生レベルまでいき、それから一定割合の生徒が大学に進学します。その比率は、私たちのものよりも低いでしょうが、競争を通じて最高の成績をあげた生徒は誰もが大学に進学するのです。
キューバ人たちは本当に子どもを愛しています。文化全般にわたってそのことを目にすることができ、子どもたちはとても大事にされています。私は、コーヒー・プランテーションがある丘陵地に登って、高校生の生徒たちと出会って、彼らの指導員と話しをしたことがあります。指導員たちは、農業や食料の生産方法を学ぶことは授業の一部であり、そのため、学生たちが一ケ月、ここで寝起きしコーヒーを取っていると伝えました。さらに告げられたのは、キューバが高校制度を改革したことでした。毎年教師が変わって一連の授業を受けるのではなく、学生たちに一定期間、同じ教師がいるほうがよく機能すると決めたというのです。その結果、同じ教師が4年間生徒たちを教えることになり、生徒たちは教師と一体となり、ふつうの高校の状況では、ありえないある種の絆を育んでいきます。
私は「どうやって、教えなければならない幅広い科目があるという現実に一人の教師が対応しているのですか」と尋ねてみました。彼は、重点が置かれているのは、多くの援助、とりわけ、コンピューターの援助だと言い、「コンピューター学習で生徒たちは、本や他の種類のコースから技術情報の多くを得ることができている」と答えました。ですが、重要なのは教師との関係です。ですから、教育はとても強調されています。また、その教育はとても多様でもあり、国語や算数といった従来のコースに加え、夏にはパイオニア・キャンプと呼ばれるサマースクール・プログラムがあります。生徒たちはこうしたキャンプで数カ月を過ごし、肉体的なスキルも学びます。例えば、農業だけでなく、魚釣りやボートを学び、ある学校では機織も学ぶのです。キューバの各地域には、そうした分野に生徒が注目するよう専門指導員がいます。同じく、成人教育プログラムもあり、その多くはテレビの教育番組によるもので、夜間学校と同じく、とても幅広い番組があります。こうしたことが優先されており、以前にお話したように、キューバは工業的ではなく、より農的になり、そこで、優先医学・教育が優先されているのです。
そして、三番目に優先されているのは、奇妙ですがスポーツ・プログラムです。キューバ人たちは、オリンピックでとても良い成績をあげ、人口が1100万人しかいないのに、前回のオリンピックでは、12/14個ものメダルを獲得しました。私は教師の一人と実際スポーツ教師であるもう一人の教師に話しかけましたが、彼は「これはキューバの教育システムの点で、とりわけ、ティーンエイジャーにとってとても重要だ」と言いました。というのは、もし、生徒が練習をせず、肉体的に活発でないと、それが知力にも影響することを彼らが発見したからです。ですから、キューバ人たちは、チームづくりやスポーツ・プログラムを通じてスポーツマンシップを学ぶことがとても重要で、それが精神活動にも良い別の効果がある、と思っているのです。
さて、キューバでこれとは別に重要なことは、社会保障制度です。男性の定年は60歳で、女性は55歳です。ですから、農業、医療制度、学校制度と定年制度の組み合わせで、キューバ人たちは「守られている」と感じ、それがすさまじいまでの物的資材不足を相殺しているのです。私は、物質的にキューバでは個人所有の自動車が存在しないと述べましたが、私は多くのキューバの家庭も目にしました。彼らの住宅は私たちの家よりはるかに小さく、ずっとシンプルです。まず、気候のおかげで、複雑な暖房や空調装置を持つ必要がありません。典型的なキューバの家庭は、24~27坪ほどです。典型的な米国の住宅は62坪で、それが今建てられている平均的な住宅の規模だと思います。ですから、キューバ人たちの家はずっと小さく、家具もとてもシンプルで、居間にも器具が詰め込まれることもなく、単純な木製のクッションがあるくらいです。そして、キューバ人たちは本当に社会的に暮らしている人民であるので、それは考え悩むことではありません。彼らは街に出て、広場でやりくりしています。キューバ文化は、一種のアフリカとインディアン文化で、近所との緊密な交流があり、まず家族がとても大事にされ、次に地区にもそれが広げられます。キューバ人たちは一緒に生活し、ドアがノックされることはしょっちゅうで、すぐにドアを開いて近所の人々に「パーティーをしましょう。十分な食物も飲み物も、コーヒーもありませんが」と言います。そして、パーティーに必要なすべてを近所の人に与え、次に、受けた人はお返しをします。ですから、まさに、キューバ文化には親密さが多くあるのです。
そして、キューバ人にとっては音楽もとても重要です。どこにも音楽バンドがあり、どのレストランに入っても、首都では確実に、そして他の遠隔地でさえ、3~4人のバンドがいます。多くの場合に、バンドは老人で、ミュージカル・グループが60歳や70歳代です。音楽は文化に浸透し、ダンスもとても重きを置かれています。キューバ人はとてもダンス好きで、私はキューバのナイトクラブにでかけ、とても素敵なショーでしたが、そこで、気づいたのは、大人だけでなく、子どももいたことでした。ですから、家族がナイト・クラブに入って、若者や高齢者や母親と一緒の子どもがダンスをしているのを目にできるのです。それはとても重要で、ごく一般的に目にできます。海岸沿いのマレコン(Malecón)通りを散策すれば、夜には大型の携帯ステレオを手にした若者グループがダンスをしているのを目にすることでしょう。ですから、それがキューバ人たちの生活の別の姿です。もし、モノがたくさんなければ、あなたの選択枝はなんでしょうか。そう、あなたの選択枝は、ある程度まで音楽、ダンス、社会活動に参加することです。ですから、それがキューバでは全く重要なのです。
私は、キューバとの間に障壁があると思います。最初の障壁は1959年の革命とその後のピッグズ湾以来ずっとキューバが米国に対抗する力だと考えられているという意味での政治的な障壁です。私たちはこの反映を目にし、あらゆる状況が作られています。例えば、キューバ人たちがボートでやって来た時期がありました。両国政府は互いにできる限りこれに対処しようとしましたが、その後、エリアン・ゴンザレス(Elian
Gonzales)事件がおきます。そこで、少なくとも公式レベルでは、大きな緊張があります。そのうえ、フロリダの状況もあります。早くから米国に移住した高齢のキューバ人たちは、キューバととても対立していますが、その後に政治的な理由よりも機会を求めて、米国にやってきたもっと若いキューバ人たちは、故郷の家族を現実に支援したいので、ここに矛盾があります。なお、最近では、キューバ人同士の訪問は制限されています。これは米国内に住むキューバ人が彼らの家庭を訪問できないことを意味します。年に一度か二年に一度いけるだけです。ですから、マイアミにいるキューバ人のうちの何人かは対立的で、政府を打ち倒すことを望み、他のキューバ人は旅行ができるように、開かれた関係をただ持ちたいというパラドックスがあるのです。私は、キューバで起こっていることを見通すのは米国人にとってはとても難しいと思います。なぜなら、実際に文化を経験することがとても難しく、プロパガンダや見解の相違があるからです。
第2の要因として、私がとても重要だと思うのは、いつ米国人がピーク・オイルやそれが意味することを理解し始めるかです。私は自分の仕事柄、ピーク・オイルには、キュブラー・ロス(Kübler-Ross)の言う死の否認と受理の5段階のような種類があると見ています。まず、最初に人々はそれを理解し、その後それに抵抗します。ですが、次にそれを受け入れます。そして、今、私の組織の展望や私の個人的な生き方から、そのモデルは、小規模なコミュニティです。そして、私たちが小規模なコミュニティの展望や緑の地帯の概念をもちはじめれば、次には地元での食料生産を実際に行っている場所にでかけ、そして、裏庭菜園に戻っていくとき、あなたは、キューバ人たちが1990年代の初頭以来、重視している環境にいくことになるでしょう。ですから、ピーク・オイルへの意識が高まるにつれ、私が思っていることが起きるでしょう。まず、私たちは、選択枝が何なのかを問い、そして、実際に大きな変化を私たちに強いることないハイテクの選択枝を考慮するでしょう。そそいて、その後に小規模なコミュニティ、農的文化の可能性を見始めるでしょう。そして、そのときに、キューバ人たちが私たちにある種の技術サポート、おそらく、ある種の有機的な支援を供給できると思うのです。有機農業が発展しているこの国を目にすれば、それは興味深いと思うでしょうし、私は何万戸もの有機農家がいると確信しています。キューバでは国民の20%が農業に関わっていますが、もし、キューバにでかければ、1200万人のうちの20%の人民たちは、こう言うでしょう。「1990年代以来これを大いに実行している200万の有機農家は、バイオ農薬のような望ましい有機的なツールを開発する政府全体と教育インフラに支援された」と。
私は、いつの日か、私たちがピーク・オイルのための解決策に興味を持つようになると思います。そして、私たちは、化石燃料を使わない農業への改革を加速するため、群れをなしてキューバの農民たちを引き入れることができ、希望を持ってともに働けることでしょう。
さて、コミュニティ・ソリューションです。基本的に、それは新しい用語で、私たちの団体名は、コミュニティ・サービスでしたが、私が小規模なコミュニティについて触れたように、私はそれに注目しています。2~3年前に私たちはピーク・オイルの意味することを理解し始め、その解決策が小規模なコミュニティに現実に見出せることがわかりました。それで、私たちはあるプログラムを提案しています。私たちの公式名称はまだコミュニティ・サービスですが、主に、コミュニティ・ソリューションのブランド名でこれを運営しているのです。そして、私たちは解決策は主に社会で文化的なものだと見ています。それがピーク・オイルの時期から後には必要なのです。ですから、私たちは、それを文章に書き、教育プログラムを持ち、ピーク・オイルに関する研究協会といった世界中の会議に数多く参加し、次に読者に対してそれについて報告します。また、私たちはキューバについても報告しています。私たちは、過去18か月に3回キューバを訪問しましたが、さらにいくことを計画しています。現実に、私は、かつピーク・オイルについて政府系機関の人々のうちの数人と話すように依頼されました。彼らは、石油なしでどうやっていくかの方法を知っていても、それらは方向性をまったく気づいていません。私はそれを2005年の最初の数か月後にするつもりです。私たちが別に記述しているのは、こういうことです。
私たちは、選択枝のいくつかを分析するでしょう。私たちは、水素で多くの仕事をやっていますが、それはきちんとした分析をせずに促進されすぎている選択枝です。私たちは、実際に他の人々からの情報を集め、私たちの暮らしをしないですむと技術に熱中している人々に示しています。
私たちは、今、第1回のピーク・オイルとコミュニティ・ソリューションと呼ばれる会議を開催し、200人が参加しました。それは大成功で、コミュニティの解決策、小規模なコミュニティ、地域コミュニティ、再地域化を重視する多くのスピーカーが参加し、エコ・シティで仕事を実際にしている人や、パーマカルチャーの分野からの参加者もいました。ですから、私たちは、教育プログラムを計画し続け、低エネルギー型の解決策のデザインに向け、世界を教育しているのです。
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