2005年6月12日

中米の有機農業革命

グァテマラの山村から始まった有機農業革命

 有機農業革命が進められているのはキューバだけではない。キューバほど劇的ではないにしても、中米各国でもいま静かに有機農業革命が進行しているのである。

 1970年代、中米各国では、どこであれ農業生産が滞り、近隣の街へ逃げ出す農民が増えていた。人々は極貧状態におかれ飢えていた。化学肥料や高収量種子等世界の各地で食料増産に寄与してきた「緑の革命」の技術は、物理的にも経済的にも農民たちの手の届くものではなかったし、たとえ利用できた地域であっても、導入作物が在来種を駆逐し、化学肥料や農薬で水が汚染されたり、地力が低下したりして、結果的には農民に借金を残すだけに帰着した(1)

 例えば、グアテマラを見てみよう。国内各地に多くの遺跡が残ることからわかるように、マヤ文明の中心地としてかつては多いに繁栄していたが、今は極貧国のひとつで国民一人当たりのGDPは4100ドルにすぎない。加えて貧富の差が激しい。1400万国民のうち上層10%が全所得の47%を占め、国民の57%は貧困状態下におかれている。都市と農村の格差も大きく1993年時の調査では地方農村では貧困率は83%にも及んでいる。とりわけ、国民の大半を占めるマヤ族等の先住民はスペイン語ができないために雇用機会も得られず、零細な小規模農業に従事するしかなく、実にその93%が極貧状態に置かれている。加えて、米国の内政干渉がある。グアテマラではCIАの介入によって1960から96年まで実に36年間も内戦下にあり、この間に20万人以上が死んだり行方不明となったりした。いまもグアテマラは戦禍の再建途上にある。だが、そうした中でもいま新たな希望の兆しが見え始めている(2)。

 例えば、住民が自力運営する製粉作業所でマリア・ベブ・カールさんは次のように語る。

「以前はトウモロコシを石臼で製粉するのに毎日3時間もかかっていました。ですが、製粉作業所を手にして今はたった5分です。畑に出かけて働く時間のゆとりができたのです」。

 他の貧しい山村の女性と同じく、マリアさんは以前は毎日15時間近くも働いていたが、うち3時間が製粉作業に費やされていた。しかし、作業所が設置されたおかげで、労働時間は2割も減り、休みをとったり所得につながる活動に携えるようになった。いま、女性グループは、自給や地元市場への販売用に有機農業に取組んでいる。  
マリア・ベブ・カールさん
変化のきっかけとなったのは、米国の開発組織ワールド・ネイバーズが1972年から農業改革の支援を始めたことだった。例えば、中央高地にあるサンマルティン・ヒロテペケでは、農民たち自身が実験をしたり改革を進め「開発の主役になる」ことが目指された(2)。グアテマラの山岳地は熱帯雨林であるだけに土壌が脆弱である。加えて、在来の農民が手にできたのは疲弊した土だけだった。だが、一年も経ずして農民たちはそれを生産的な農地へと回復させていく(4)。窒素分を維持するためにトウモロコシとマメ科作物とを輪作し、土壌浸食を防止するため、植林をしたり、一年中地面が植物で被覆されるような工夫をこらした。その結果、化学肥料や農薬を一切使わずに1972年から5年間でトウモロコシの平均収量がヘクタール当たり400kgから2500kgへと高まったのだ(1)。今となっては世界各地の開発支援組織が使う斬新な戦略の多くがプロジェクトを通じて開発され、サンマルティンでの取組みは75年には世界で最も優れたオルターナティブな開発プロジェクトと称された(2)。だが、内戦の激化によって、ワールド・ネイバーズは1981年にはグアテマラからの撤退を強いられる。そして、翌82年にはプロジェクトの内容が「共産主義的である」との理由から、参加した200人以上の農民がグアテマラ軍によって虐殺される(4)。だが、貧しい農民たちはこれにも臆せず自分たちで工夫をこらし努力をし続けた。草の根で様々な技を開発しては、相互扶助を通じて、農民から農民へとその技を伝授していった。「持続可能な農業」が国際開発機関の概念として登場するはるか以前から、グアテマラの山村ではこうした取組みが進められていたのである(5)。その後の調査によれば、窒素固定作物や土壌浸食防止用の草本植物の導入、病害虫防除のためのマリーゴールドの活用、手製のスプリンクラー等、80〜90もの新たな農業改良技術が開発されていた。結果として、トウモロコシの収量は94年には4500kgを達成し、米国の平均単収と大差ないまでに向上したし、マメ類のヘクタール当たりの収量も72年から94年にかけ170kgから1500kgと高まった。生産性が向上し所得が高まれば、医療福祉や教育へも投資できる。栄養水準、衛生状態、識字率はいずれも向上。農薬が減ることで水質が改善されたり、土壌中の有機物が増えて地力が高まり旱魃への抵抗力が付く等、地域環境の改善にも大きな成果が見られた。結果として、サンマルティンから近隣都市への人口流出は90%も減少した。いま、サンマルティンの農民たちの多くは農業普及員としての職を得て、自分たちの知識や技を他の町や村に広めている(1)

■グアテマラからニカラグアへ

 ニカラグアの山村サンタ・ルカで農業に従事するドン・ホセ・ヘサス・メンドサ氏は60代の根っからの農民だ。

 「4年前、私は鋤で土地を全部おこして畑の準備をしていたんです。ですが、大雨で土が全部流されてしまい石しか残りませんでした。以前は10アール当たり4袋の豆が得られたものでしたが、その年以来1袋の収穫しかありませんでした。ですが1987年の11月、私はUNАG(ニカラグア農民組合)を通じて、メキシコのNGОから土を守る講義を受けます。教えられた技を使って88年に6袋の収穫をあげました」。

 その技とはテラスや溝を使うことだった。

 「まず最初に溝とテラスを作ったんです。10〜14%も傾斜がある斜面に溝を掘り、豆を植え付けました。さらに急な斜面には土を守るために果樹を植えました。私は毎日40mの溝が作れます。今年は、テラスに沿って石を置き溝の側面には草を植えるつもりです。 雨が降っても作物の周りにマルチを敷くので水分が蒸発しませんし、雑草を抜かなくても良いのです」。

 ニカラグアの農民たちは以前はよく雑草を燃やしていたが、メキシコのNGОは雑草を窒素分に富んだ有機質肥料として使うことを教えた。

「今、堆肥の山が11あります。 それはタダですし土壌浸食を防ぎ、多くの命を育み、風味の良い果物をもたらしてくれます。 そのうえ、輸入肥料を買わずにすむのです。雑草を厩肥、水、土に混ぜているのを目にしたとき、皆は私が気が狂ったと考えました。ですが、収穫量を倍増したのを目にするとどうやったのかを知りたがりました。以前は大地主になることが生産の落ち込みを補うただひとつの手段だと思っていたので、大地主になることをよく夢みていました。ですが、今はどう土地を耕せばよいのかがわかっているし、自分の土地だけで全く問題がないんです」(4)

 ニカラグアは、人口540万人。GDPは2200ドルとグアテマラよりもさらに貧しい。加えて、1936年から米国の傀儡であるソモサによる独裁政権が続いていた。だが、1979年に武装蜂起したサンディニスタ民族解放戦線に破れてソモサは米国に逃亡し、新革命政権は貧しい農民に土地を与えるための農地改革を強力に推進し、10年間で何万人もの小規模農家や土地なし農民が農地を取得していく。革命を危険視した米国はCIАを通じて反革命勢力を支援。ここでもグアテマラと同じく内戦が勃発し、81年にはCIАの支援を受けた反革命戦線がホンジュラスから侵攻したために内戦は本格化する。86年には国際司法裁判所が「ニカラグアへの攻撃は国連憲章をふくむ国際法に違反する」との判決を下すが、米国は軍事介入をますますエスカレートさせていった。

 グアテマラと同じくニカラグアにおいても米国の軍事介入が国の発展の障害となっていることがわかるだろう。だが、グアテマラへの米国の軍事介入は素晴らしい「恩恵」をもたらした。共産主義者とのレッテルをはられ虐殺から生き延びた者たちは、メキシコやホンジュラスと国外へ離散し、そこを拠点に新たな農民運動が根づくことになるのである(4)。メキシコやホンジュラスのNGО、ワールドネイバーズやオクスファム等の国際開発NGОがこれを支援した。例えば、ニカラグアのUNАGは、この農地改革の一貫として1987年からオクスファムの援助も受け、その知識や技をメキシコやグアテマラから導入し始めた(5)。ドン・ホセ・ヘサス氏の事例で紹介したように農法はシンプルで簡単なだけに急速に普及した。サン・フォラン流域では、わずか一年で千人以上の農民が新農法に取り組み劣化土壌を回復させた。被覆作物を採用することでヘクタール当たりの化学肥料使用量が1,900kgから400kgへと減った反面、収量は700kgから2,000kgへと逆に増えたのである。生産コストは、モノカルチャーで化学肥料を使っている農民よりも20%以上も低くなり、被覆作物が雑草を抑制したため除草労力もかなり減った(3)

■中米各地へと広まるカンペシーノ運動

 農民たちは自分たちの運動をいつしか「カンペシーノからカンペシーノへの運動(Campesino a Campesino)」と称しはじめた。カンペシーノとはスペイン語で小作農のことである。貧しいグアテマラの農民たちが始めた努力は「プロモーター」と呼ばれる何千人もの農民教師による地域運動へと発展した。いま、カンペシーノ運動は、メキシコからパナマに至るまで何十ものNGОが推進しており、一万人以上の農民たちが農民主導で持続可能な農法を導入している(5)

 ホンジュラスでも1980年代半ばにワールド・ネイバーズが農業支援を開始した。土壌浸食を抑え地力を回復するため、等高線沿った排水や草や石垣による土留め、鶏糞の利用、マメ科作物の輪作といった農法が導入された。プログラムを実施した農民たちはヘクタール当たりの穀物収量を400kgから1200〜1600kgへと3〜4倍に増収させ十分な食料を確保できるようになった(3)。運動で使われている技術は、いずれも、取り立てて目新しくはないローテクだが、約30年にかけて小規模農家の実践によって各地で実証ずみの以下のような農法である。

(1)被覆作物とアグロフォレストリー
 窒素固定用にマメ科の作物や緑肥を植付け、雑草を管理し、土壌水分を保持し、降雨から土壌を保護する。また、果樹や燃料源となる樹木を植林することで、土壌浸食を抑える。
(2)耕作方法の改善
 土壌浸食を減らすため、等高線に沿って耕起したり、播種したり苗を植付ける場所だけを耕す。
また、傾斜地では石、草、樹木等地元で得られる資材を用いて溝やテラスを作り、土壌侵食を最小に抑える。
(3)有機肥料の利用
 堆肥やミミズ堆肥で地力と保水力を高める
(4)統合病害虫管理
 輪作や旬作とあわせ、天然殺虫成分を含むニーム、バチルス菌、伝統的な忌避植物や有益な天敵等を活用し、総合的に害虫を防除する。

ホンジュラスのCIDICCOのポスター

 中でも大きな成果をあげたのが、養分を確保し強い熱帯暴風雨の衝撃から地表を保護するための被覆作物としてのビロード豆(Mucuna prurien)の活用だった。NGОによって豆の利用は、すでに中米全域に広まり一般的な習慣となっている(5)。例えば、ホンジュラスには、緑肥や被覆作物の活用を専門に普及推進する目的で1990年にCIDICCOというNGОが設立されている。このNGОが廉価な有機肥料としてマメ科植物の利用を進め、北海岸では何百人もの農民たちが活用するようになった。豆はヘクタールあたり年間90〜100kgの窒素を固定し、30トンのバイオマスを産み出す。土壌浸食は抑えられ、トウモロコシでは全国平均の倍以上のヘクタール当たり3000kgの収量をあげるという大きな成果をあげた(3)

 運動は地力を高め生産性を向上させているだけではない。重要なことは、輸入化学肥料や農薬に依存することなく、どのようにして環境を保全し食料を増産巣るのか、農民自身が将来の開発ビジョンを持ち、相互に訓練しあって、農民主導で持続可能な農法を普及していることにある。まさに運動は草の根のネットワークによって推し進められているのである(5)

■ハリケーン・ミッチという運動の試金石

 とはいえ、全体的に俯瞰すれば、まだカンペシーノ運動による持続可能な農場は、慣行農業の「海」の中に点として浮かぶ島でしかない。持続可能な農業は実現性に乏しく経済的でもないとする見方が一般的で、農政全体が有機農業に転換するまでには至っていなかった。だが、90年代末に運動や有機農業の効果を実証する大事件が起こる。

 1998年10月、カリブ海地域は20世紀最大とされるハリケーン・ミッチの襲来を受け、大被害を被ったのである。降雨量は2000ミリにも達し、いくつかの地域では作物や家畜が一網打尽に流失した。山腹からは表土が失われ、土砂崩れや地滑りでビル、道路、橋梁を押し流し、河川から溢れた土砂が都市部にも流れ込んだ。死者は一万人以上に及び300万人が住宅を失ったり、転居を強いられた。インフラや産業への被害額は中米の国民総生産の13.3%に匹敵する67億米ドルにも達した。中でも、最も大きな打撃を受けたのがグアテマラ、ニカラグア、ホンジュラスだった。

ハリケーン・ミッチの被災
被災後に山に植林するニカラグアの人々

 当初の農業災害報告は被害がいかに大規模であるかを示すだけに留まっていた。だが、その後に詳細な現場調査が行われた結果(5)、カンペシーノ運動に取り組んだグアテマラ、ニカラグア、ホンジュラスの各農地は、それ以外の近代農業の農地と比べて暴風雨に実によく耐え、地滑り被害を被った農地面積も三分の一にすぎないことがわかってきたのである(1)

 実証調査はワールド・ネイバースの支援を受け、1999年2月から5月にかけ、持続可能な農業研究開発(SARD)と40ものNGОによって執り行なわれた。技術者や農民プロモーターからなる100以上のチームが編成され、グアテマラ、ニカラグア、ホンジュラスの360のコミュニティで1800以上の持続可能な農場とそれ以外の慣行農場との差異を調査したのである。

 研究に参加することは運動を進めてきたNGОや農民プロモーターにとっても絶好の機会となった。持続可能な農業は何年も「実行可能ではなく、経済的でもない」と言われ続けてきただけに、自分たちの実践の有効性をつまびらかにしたかったのである。プロジェクトは普通はワークショップの回数や事業への参加者、設置されたテラスや生産された堆肥量等に基づき評価される。だが、この研究では表土の深さや土壌浸食の度合い、ハリケーンの被害、農業生態系を取り巻く全般的な問題点等、農民へのインタビューを通じて様々な観点から詳細に調査されたのである。収集された現場情報が各国でデータ・ベース化され、処理・分析された結果、驚くべき結論が導き出された。場所によって多少の相違があったとしても、全般的に見れば、持続可能な農場では20〜40%も表土や土壌水分が多く、近隣の慣行農法に比べて経済的な損失も少なかったのである。作物が多様で損失が小さかったために、ニカラグアでは被災したにもかかわらず、利益さえあげていた。統計的な調査によれば、こうした相違が偶然に起きる確率は0.01%にすぎない。

 農民プロモーターやプロジェクトのコーディネーターは、この成果をまとめて地元に還元するとともに、調査結果をわかちあうために各農村でワークショップを開催した。そして、ワークショップでの結果は、グアテマラ、ニカラグア、ホンジュラスの各国首都で、大臣や国連代表等の参加のもとでも提示され、研究者たちが農業経済だけでなく防災面からもその効果を発表した。農民プロモーターたちは、各地の農場で実践に携わり、30年間も国境を越えて知識をわかちあってきた。だが、共同での地域研究プロジェクトが行われたのは初めてのことだった。そして、この調査がもたらした最大の成果は、持続可能な農法の有効性が実証されたこと以上に、調査に参加した慣行農業を営む生産者の90%以上が、持続可能な農法に取組む意欲を示したことだろう(5)

 ラテン・アメリカの農民はいまだに貧しく多くが食料不足に苦しんでいる。とはいえ、運動に参加しない農民ではこれが50〜65%にのぼるのに比べ参加農家では30%にとどまっている。数え切れないほどの農民が、他の農民と知識をわかちあうことで、高収量、高賃金を得られるようになっている。自給農業を通じて、農薬や化学肥料の使用量は削減され、生物多様性は高まり、健全な農業が山腹崩壊から国土を守っている。地球温暖化の進行によって今後もハリーケーン・ミッチのような気候災害は多発するに違いない。だが、気候変動であろうと世界市場の変化であろうと、カンペシーノ運動に参加した農民たちの方が、自分たちで食料を確保できる能力が高いことは間違いないのである。


参考文献
(1)家の光協会『地球白書』2002年版
(2)World Neighbors helps communities help themselves!
(3)Miguel A. Altieri, Enhancing the Productivity of Latin American Traditional Peasant Farming Systems Through an Agroecological Approach
(4)Eric Holt-Gimenez, Campesino a Campesino: Sustainable Development from Below, Global Pesticide Monitor, May 1990.
(5)Eric Holt-Gimenez, Hurricane Mitch Reveals Benefits of Sustainable Farming Techniques, The Cultivar, Winter/Spring 2000.


Cuba organic agriculture HomePage 2006(C)All right reserved Taro Yoshida