2005年12月12日

超稲作技術、SRIは人類を救うのか

無理な焼き畑農業で国土の一割以下にまで森林が激減
 アフリカ大陸の南東、モザンビーク海峡を隔ててインド洋西部に浮かぶマダガスカルは、世界でも最も貴重な野生生物の宝庫である。面積が58.7万km2 と日本の1.6倍もあるだけでなく、大陸移動でアフリカから分離して以来、現在に至るまで孤立していため、生物が独自の進化を遂げ、バオバブやカメレオン、キツネザル等、他には見られない貴重な生物がいる。だが、いまマダガスカルでは深刻な森林破壊が進行し、かつては島の九割を占めていた自然林は、いまや7パーセントまで激減している。保護地域は国土の1.3パーセントほどしかなく、9,500種にも及ぶその貴重な固有種は、森ともに現在、絶滅の危機にさらされている。

 森林破壊の最大の原因は農業にある。かつては森林の再生力を配慮し、一定サイクルで行われていた伝統的焼畑農業が、人口増加や社会変化の中で崩壊し、森への十分な知識がない農民たちが無理な焼畑農業を行っているのである。秋にマダガスカルを上空から赤外線映像で撮影すると島の中央部を走る高地は、森から新たに農地を造成するための数えきれない程の焼き畑の炎によって濃赤色を帯びている。そして、焼き畑による森林破壊の影響は、森の消失だけにとどまらない。森が破壊されれば周辺土壌が流出し、貴重な表土が失われる。事実、中央高地には何千もの深いガリ侵食が刻まれ、鉄分に富んだ表土が、川を錆で赤く染めながら海に流れ込んでいる。

森林破壊が進むマダガスカル

 だが、貧しい農民たちが生きのびるために行なう焼き畑農業だけを責めるわけにもゆかない。農民たちは増産の必要性を迫られている。マダガスカルでは農業は、国内総生産の34パーセント、労働人口の76パーセントを占める基本産業で、コメ、トウモロコシ、キャッサバ等が栽培されている。とりわけコメは、文化的にも歴史的にも重要なだけでなく、その日消費カロリーの約六割を占める主食である。だが、このコメの収量が低い(1)。1960年当時の農家の平均水田規模は0.68ヘクタールで収量は2トンにすぎなかったが、この時には2万5000トンのコメを輸出しており、一人あたりの年間のコメ消費量も150キロだった。だが、以降はコメの輸入国になり、2000年の消費量は以前から3割近く110〜112キロにまで下ってはいるものの(10)、人口1500万人のうち(9)、半分が15歳以下の若者たちで、かつ人口増加率も3.0パーセントと著しく、年々高まる食料需要に生産性が追いつかない。だが、国際援助機関が、これまで農民たちに提供してきた唯一の解決策は、化学肥料や農薬に依存する近代品種を使うことで、米を増産することだった(1)

■ノーマン教授の驚き

 キツネザルの生息地として生物多様性のホットスポットにもなっているラノマファナ国立公園の近隣では水田面積が限られているうえ、その収量はヘクタール2トンにすぎない(2)。同地域の土壌はPHは4.2〜4.6と酸性で、カルシウム、マグネシウム、カリウムの陽イオン交換容量も非常に低く、リン含有量も平均3〜4ppmと欠乏している。こうした痩せ地であっても、コメの飛躍的な増収がなしえなければ、貴重な熱帯雨林が焼畑式の陸稲栽培で破壊されてしまうであろう(3)

 こうして、1993年、ラノマファナ国立公園の周囲の環境保全と焼き畑農業にかわる持続可能な生産手段を見出し、熱帯林の破壊に歯止めをかけるべく、コーネル大学の国際食料農業開発研究所のグループがマダガスカルに乗り込む。そして、リーダーであったノーマン・アップホプ教授はSRIと呼ばれる農法と出くわすことになる。
ノーマン・アップホフ教授

 ファノマファナ公園への最初の調査から首都アンタナナリヴォに戻ったアップホフ教授は、友人でもあるNGOのスタッフ、ベンジャミン・アンドリアミハジャ(Benjamin Andriamihaja)と野生生物の保護と食料不足に悩む農民たちとの調整をどう図るかについて議論をした折、アンドリアミハジャがテフィ・サイナというNGОの存在を教授に紹介したのである。教授は当時のことをこう想起している。

 「森林の周囲で焼畑農業を行う農民たちに適切なオルタナティブをもたらすことができなければ、国立公園も持続可能であるはずがありません。私たちはそうしたオルタナティブを模索していました。そこで、ラノマファナ国立公園の周囲で森林を破損しないためには、農業生産をあげる必要があると、テフィ・サイナの代表ラファラライとラベナンドラサナ事務局長に告げたのです。すると、彼らは、そのことはわかる。SRIを使えば、在来品種のままで、化学肥料も農薬も使わずに、ヘクタール当たり、5トン、10トン、15トンの米さえ生産でき、さらに水の使用量も少なくてすむと言ったのです(1)。私はせいぜいヘクタール4トンの収量が得られれば良いと思っていました。ですから、テフィ・サイナの人々が15トンかそれ以上の収量が得られていると口にしたとき、率直に言って信用できませんでした」。

 アンドリアミハジャは、ラファラライやラベナンドラサナの発言は嘘ではないと保証し、コーネル大学のグループは、合衆国国際開発庁(USAID =United States Agency for International Development)のプロジェクトのもと、テフィ・サイナとの共同試験を1994年から着手する(1,7)。そして、教授の疑問も農民たちがひとたびSRI農法を導入し始めるとたちどころに確信にかわった。教授は言う。「結果は、驚くべきほどで、まさに凄まじいとしかいいようがありませんでした。二期作目には、ヘクタール8トン以上の収量を得たのです」(4)

 以前のヘクタール2トンに比べ、SRIに取り組んだ38人の農家の平均収量はヘクタールあたり8トン以上で、12トン以上の収量をあげた者もおり、一人の収量は14トンに達した(7)。翌年には栽培農家を68人まで広げたが、結果はやはり高いままで(1)、1994年以降の5年間の平均収量も8トン以上だった(2)。加えて、数人の農家の収量は16トンにも達した。16トンという数字は、農学者が想定する稲の生物的な収量限界を遙かに越えている。だが、この計算結果は、劣化した根系や先端を切った稲に基づいて計算されたものなのである(7)。また、同時期にフランスのプロジェクトによって別の場所でもSRIが導入されたが、そこでも平均収量は8トン以上だった(2)

■イエズス会神父の奇跡の発見
 SRIとは、イエズス会の神父、ペレ・アンリ・デ・ロラニエ(Pere Henri de Laulanie 1920〜1995)が20年にわたるフィールド・ワークの中から編み出した独自の農法である。ロワニエが、イエズス会からの要請を受けマダガスカル語もろくにできないままに、フランスからマダガスカルへやってきたのは1961年のことだった。1896年以降、マダガスカルはフランス領となっていたが、1960年に共和国として独立したばかりの頃だった。ロラニエは、首都アンタナナリヴォ(Antananarivo)の南部にある農学校で、彼以上に稲作について詳しい農民たちを教育指導することになる(1)

アンタナナリヴォの風景

 ロラニエは1981年に農村の若者向けの教育機関としてアンツィラベ(Antisirabe)に農学校を設立するなど1995年に死去するまでマダガスカルの農民のためにその人生を捧げたが、中でも一番関心を寄せていたのは主食であるコメの増産だった(2)。ロラニエがまず目にしたのは、貧しく餓えた人々だった。そして、土壌侵食と森林破壊の加速化と貧困問題は関連していた。主食のコメの収穫量をあげることが、マダガスカルの人々を幸せにするための最大の貢献である。それがまた貴重な熱帯雨林の破壊に歯止めをかけるのに不可欠である。こうロラニエは結論を下した(7)

 ロラニエは、1941年に神学校に入学したが、それ以前にパリのエコール国立農学校(現在は、Paris-Grignon、Ecole National d'Agriculture)を卒業後し農学士号を持っていた。熱帯稲作には詳しくなくても、農学の基本はよくおさえていた(1)。当時、マダガスカルの稲作には二つの農法があった。ひとつは、伝統的な在来農法で、よく成熟した苗、なかには2〜3ヶ月も経った数株を田んぼに無造作に植えるというもので、一カ所に10株も植えられることすらあり、水も常時張られるわけではないという粗放的なものだった。もうひとつは、1940年代に導入されたSRА(Systeme de Tiziculture)と称される近代農法である。こちらは、3〜4週間目の苗を一カ所あたり1〜3束で列状に植えるもので、水田にはきちんと水も張られ、化学肥料も併用するものだった。だが、それでもマダガスカルの収量はたかだかヘクタール2トンにすぎなかったのである。

 ロラニエは、はじめはSRАに取り組み、それを農民に指導していた(9)。だが、独立したばかりのマダガスカルには十分な研究機関や設備が整っておらず、ロラニエは、農民たちのやり方に学び、自分のほ場で試すという研究方法をとることにした。ロラニエは、どんなファクターが収量に影響するのか、農民たちやり方を几帳面にノートに記録しては、全島の水田の状況をきめ細かく観察した(1)

 そして、二つのことに気づく。

 ●稲は適正な条件のもとでは凄まじい分けつ力がある
 ●土が空気にさらされ、酸素がある状態下でこそ最高の収量が得られる
(9)

 例えば、ロラニエがまず発見したことは、田んぼの縁に一本で植えられた苗が時折、他の苗よりもすくすくと成長し多くの稲穂を実らせたことだった。ロラニエはその科学的な鑑識力を伝統的な農法に向け、1970年代に全島を旅する中で、地域によって収量差があることも見出していく。世界のどの農民も稲は束で田植えをする。だが、ある高地の村では、農民たちは稲を5、10本と束にせず、一本苗で田植えをしていたが、そのことによって高収量をあげていた。また、そうすることで種子代も削減できていた。ロラニエは自分でもこれを試てみて、実際に成果があがることを知った(1,7)。また、別の場所では、出穂までの成育期にときおり田んぼから完全に水を抜いて、田んぼを空気にさらしている農民が、多くの収穫量をあげていることを観察した(1)

 稲は水中で最も良く育つと信じられている。たしかに稲は湛水条件下でも生きられる。だが、土壌が酸欠状態にあると、稲の根は最大で78パーセントまで劣化するという研究結果がある(Kar et al., 1974)。根系の生育への酸欠のマイナスの効果は、科学者も農民も見落としていたのである。ロラニエは、生育時期には灌漑をやめ、土を湿らすだけにし、かつ、一本苗で育ててみた。穂ばらみ期の後も深さがたった1〜2センチしかないようギリギリの水だけを入れてみた。その結果、稲はもっと良く稲が育った。

マダガスカルでのSRIの風景

 マダガスカル政府は、手押し式の草刈り機を奨励していた。小さな回転鍬の歯車で雑草を土の中に埋め込むというシンプルなものだが、それは土を激しく動かし、土を空気にさらした。当時は誰もそれにメリットがあるとは想像もしなかった。専門家は列状の田植えを勧める。だが、ロラニエは、25×25センチ間隔で正方形のパターンに苗を植えてみた。草刈り機械を縦と横の両方向で使えるからである。その結果、稲はさらに良く成長した(7)

 そして、1983年に、ロラニエはさらに興味深い発見をする。この年はひどい旱魃で、多くの農民が十分な水を水田にひくことができなかったが、そうした水不足の水田でも稲が良く育ち、とりわけ、その根が異常なほど発達していることに気づいたのである(4)。ロラニエ自身も、旱魃のためにやむを得ず田植えの時期を通常よりもずらし、中央高原にあるアンツィラベの農学校の生徒たちに、早目に苗を田植えするように頼んだ(1)。苗はまだ15日目で小さく、収量はほとんど見込めないように思えた(7)。だが、この偶然にも早く植付けられた稲が、一月後には、古い苗を凌ぎ始め、その後、良く分けつし、豊かな実りをもたらしたのである(5,7)。収穫後にロラニエはこう書き記した。

「その結果は、まるで稲妻のように私を打った。例外的だと私が考えた技術が、私たちの稲作の規則になった。私は以前にこれほどまでに多くのコメを収穫したことは一度たりとしてなかった」(1)

 まさにまぐれあたりだった。ロラニエは、翌年にはもっと若い苗を植えてみた。そして、稚苗を植えた方が結果が良いことが明らかなるのである(7)。この早期の田植えが新農法の開発につながる一連の発見の最後のものとなった(1)。この発見をヒントにロワニエは、後にSRIの主原則となる3つのポイントを打ち立てる。

  まだ苗が小さいうちに、田植えすること。

 苗は間隔をあけて一本植えすること。

 水田は水分を保ちつつ、湛水しないこと(4)

 普通、苗が植えられるのは30〜60日後である。だが、SRIでは15日間未満の稚苗を一本植えする。また、間隔も25×25センチ、そして土壌が良ければ、50センチ間隔などさらに粗植する。こうすることで、密植ではヘクタールあたり50〜100キロを要する種子量が、80〜90パーセントも減らせる。そして、土壌を湿らすだけのごくわずかの水だけを田に入れる。田んぼが乾き、ひび割れができることもある。だが、栽培期間中には気にしない(7)

 一見すると、革新的なアイディアに思われがちだが、実はロラニエの技術はすべて島全域を観察する中から育まれたものである。SRI技術の個々の要素は、島で既に使われていたものだったが、これらの各要素を総合的にひとつの農業体系として組合せたものはロワニエの前には誰もいなかっただけだったのだ(1)。どのような農業イノベーションであれ、農民たちと共に働く中から創り出すことが必要である。ロラニエには、農民たちへの深い愛があり、農民の知識を尊重し、彼らから熱心に学んだ。だが、農民の知識を理想化するべきではない。いまある農法が常に最高であるとは限らない。SRIの発明に結びついたのは数人の「異常」な農民たちだった。ロラニエにはすばらしい独創性があった。科学的な訓練を受けてはいたが、固定観念や先入観に囚われることなく、自分の意見を持ち、アイデアは実証的なテストを行うことで、真実を見極めようとした(7)

 ロラニエは福岡正信の言葉を引用しながら、よくこう語っていたという。

「農業は芸術なのです。農民は弟子であり、稲が農民の師匠です。農民たちよ、あなたの稲を良く見て、それに耳を傾けなさい。なぜなら、稲だけが真実を知っているからです。そして稲だけがそのことをあなたに教えてくれます」(9)

故アンリ・デ・ロラニエ

 ロワニエは成功した。だが、SRIはマダガスカルの外部はおろか国内でもほとんど知られず、活用されることもなかった。農業研究者たちがずっと疑いの目を持ってみてきたからである(4)。例えば、ロラニエは自分の発見を政府の研究者や農業改良普及員、農村開発の技術者たちに話した。だが、誰も信じようとはしなかった。あるコメの研究者は、ロラニエが推奨する試験研究を一切行なわず「そのようなことは稲の生理学上ありえない」と机上で断定した(9)

 ロワニエの農法は、地元の農民たちも困惑させた。SRIを実行するにはドラスティックな意識改革が不可欠だが、マダガスカルには「ファディ」と呼ばれるタブーがある。例えば、多くの農民たちは牛耕をせず、手でほ場を耕すが、これは牛耕がタブーになっているからだ。農民たちは変化を恐れた。ロワニエは失望感を味わうことになる(1)。農民たちは次第にロラニエの発言に耳を傾けなくなり、ごく一部の農民やロラニエを信じる女性グループしか周囲にいなくなった。だが、ロラニエはそうした中でもさらに若い苗を植える研究を続け、成果をあげていく。たった8日目の苗すら植えた。SRIはごく初期には「8日苗田植え農法」と呼ばれた(9)

 ロラニエが理解されなかった理由のひとつには、新農法の理論的背景を構築できずにいたこともある。だが、1988年にロラニエはフランスで出版されたコメの専門書、Moreau(1987)「Analyse de l, Elaboration des Rendements du Riz」を読む中で、偶然50年以上も前に日本人の研究者、片山佃が提唱した稲の分けつモデル理論を発見する。

 それは、九州大学の教授であった片山佃の「 稲・麦の文ゲツ研究 稲・麦の文ゲツ秩序に関する研究」養賢堂(1951)である。片山によれば、稲麦の分げつには、母茎の葉の抽出と時期的に規則的な関係がある。主稈の第N葉が抽出したとき、第N−3葉の葉腋から分げつの葉が出現する。その後は、主稈が1枚葉を出すごとに分げつも1枚ずつ葉を出す。この関係は1次分げつ(主稈から出た分げつ)と2次分げつ(1次分げつから出た分げつ)、2次分げつと3次分げつとの間でも原則的に成り立つ。

 すなわち、分けつは、主稈の葉がでるのと同時に起こり、主稈が葉を出す速度と同じスピードで成長してゆき、主稈が葉を出すときには、どの分けつも同様に葉を出す。これを同伸葉理論という。

 片山の理論は複雑で、ロラニエはそれを彼なりに解釈するのに2年の歳月を要したうえ「片山・ロラニエ分けつモデル」と称するものを完成させる。ロラニエは、片山に直接会い、自分の提唱したモデルについて議論することを願い、1992年には在マダガスカルの日本大使館に会合を依頼した。だが、残念なことにすでに片山佃は数年前に世を去っていた(9)

■有機農法の導入

 有機農業の父として知られるアルバート・ハワード卿というイギリス出身の植物学者がいる。卿は、1905年から1931年にかけて農業アドバイザーとしてインドに赴任し、当初は品種改良によってその土地の生産を増産させようと試みた。だが、土を含めた農業全体の改善がなければ品種改良だけ行なっても無意味だと気づき、同時に、無農薬・無化学肥料で農作物を健全に育てている地域があることを知り、地元農民の伝統的な技術や知恵に関心を寄せていく。そして、その伝統的な農業の中からいま知られる有機農法の古典技術を編み出すのである。50年も前のこととはいえ、フィールドワークと伝統農法を謙虚に観察する中から新農法を編み出していったロワニエの態度には、卿を想起させるものがある。だが、ロラニエは卿とは違い、最初にSRIを開発したときは化学肥料を用いていた。つまり、SRIは有機農業から発達した技術ではなかった。マダガスカルの土壌は非常に痩せている。ロラニエを含め、誰もが、収量を高めるには化学肥料が欠かせないと考えていた。だが、政府が1980年代後半に化学肥料への補助金を打ち切り(7)、1990年代前半に肥料価格が急騰したことから(5)、ロワニエは自然堆肥を使った実験にも着手する(1)。

 マダガスカルでは金のある農民しか化学肥料を使えない。貧しい農民がSRIに取り組むには有機農業が必要である。こう考えたロワニエは、まず手に入る牛糞を手始めに、稲わらを含めてありとあらゆるバイオマスを使ってみた。そして、豆科植物や低木のチップがとりわけ有益なことを見出し、有機堆肥を使うことで、化学肥料ではとうてい得られない生産水準を達成したのである。例えば、マダガスカル北部では、民間企業によって化学肥料を用いた試験が行われていたが「近代農法では平均ヘクタール6.2トンが達成できるのみ」との報告がされていた。だが、同時期に同じ地域でSRIを用いた農民たちは平均10トンをあげていたのである(3)。こうして、前述した基本原則にさらに有機農法が付け加えられることになる。

■テフィ・ファイナの設立へ

 1990年、ロラニエは、農村開発のために働くNGОに対しSRIを紹介するセミナーをはじめて開催する。このセミナー後、同年にSRIの普及や農村開発を目的にNGОテフィ・サイナが設立される(10)。1920年産まれのロラニエは70歳になっていた。テフィ・サイナの代表を勤めるセバスチャン・ラファラライ(Sebastien Rafaralahy・1937〜)氏はこう語る。
晩年のアンリ・デ・ロラニエ

「ロワニエはすでに年をとっていましたし、自分が見出した栽培方法の広がりがどれほどのものか誰も理解していないと失望していました」。同じく事務局長であるシャスティン・レナード・ラベナンドラサナ(Justin Leonard Rabenandrasana・1939〜)もこう述べる。「私たちは農業と環境保護は対立しないことを農民たちに示す必要があったのです」。テフィ・サイナは、マダガスカル語で「心を育む」の意味を持つ。ロワニエは、あらゆる開発の核心には人間の発展があると信じていた。NGОの名称には、コメが豊かに実るだけでなく、心も豊かに育まれることを望んだロワニエの想いが込められている(2)。ラベナンドラサナ事務局長は農家の息子として生まれ、アンタナナリヴォ大学を卒業した後、1968年からフィアナラントソアにある農村芸術推進センター長となったが、そこでロラニエと知りあった。センターではときおり、ロラニエが農業の講義をしていたのである。一方、ラファラライ代表も僻村に生まれたが、フランスの高校、大学を卒業し、1964年に帰国後は教員をしていた。だが、1979年にマダガスカル国立工芸センターの所長に任命されることで、同センターの副所長をしていたラベナンドラサナが、ロラニエを紹介することになる。1990年、ラベナンドラサナとラファラライはNGОを設立するため、センターを退職し、ラベナンドラサナの自宅がオフィスとなった(1)

フィアナラントソアの光景

 テフィ・サイナは設立時から、小規模農家向けの積極的な普及に着手する。SRIのトレーニングは、フィアナラントソア(Fianarantsoa)州の農村学校で始まった。最初の現場実証試験は1991年に同州のイソラナ(Isorana)地区で行われたが大成功をおさめ7.7トンの収量をあげた。しかも、フィアナラントソラでは、ひこばえだけからも前作の60〜70%もの収量が得られたのだ。これほどの収量はいまだかって得られたことがなかったが、ロラニエは片山理論をもとにその理由を語り、農民たちも奇跡を疑問に思うことはなくなった。このトレーニングから「緑の中学校」が1995年にはイソラナで設立され、農学校の生徒が親たちの教師となっていく(9)

 テフィ・サイナは、島内で何千人もの農家、行政職員、農業改良普及員たちをトレーニングしてきた。また、農民たちのほとんどが文盲であるため、図を中心としたリーフレットやビデオも製作した。ラファラライもラベナンドラサナも大半の時間を、デモンストレーション用の水田で教えたり、国内各地の水田を訪ね歩くことに注いだ。だが、残念ながら、両人が望んだほどは、SRIはマダガスカルの稲作に影響を与えることはなかった。口コミではその成果は広まってはいたが、国内外の機関を説得するために必要な科学的な調査を欠いていたし、森林破壊や土壌浸食の危機が叫ばれても、マダガスカルに対する国際的な援助機関は、焼畑式農業への代替手段として、大量の化学肥料やハイブリッド米品種への支援金を供給し続けたのだ(1)

 1990年代前半に援助資金を与えたヨーロッパのNGОもあたったが、国内のみならず、海外の科学者も無視しつづけた(7)。例えば、テフィ・サイナは1990〜95年にかけ、年間集会を6回開催した。また、普及を促進させるため、1993年には国内で最高の収穫量をあげた農民に賞も創設した。1994年から2001年にかけ競争が行われ、695人の参加者の中には17.5トンもの収量をあげた農民すらいた。だが、政府の援助もない中、資金はとどこおりがちで協議会は10回開かれただけだった(9)。世界各地にSRIが普及していくには、適切な伝道師が必要だった。そして、前述したノーマン・アプホフ教授が登場する。テフィ・サイナは、コーネル大学とのプロジェクトをはじめたのは1994年5月のことだった。新農法がようやく真剣に受け止められるようになったのは、教授が精力的にSRIの普及をはじてからにすぎない(2)。ロラニエは1995年6月に死ぬ。いまでこそ、SRIは世界的な運動となっているが、ラファラライとラベナンドラサナの努力がなければ、SRIは神父の死とともに世に出ることもなく、死に絶えてしまったことであろう(1)。例えば、テフィ・サイナは、ロラニエの死後もフランスの開発協力庁の援助で、マダガスカル政府の農業農村開発省と1995年末からSRIの評価に協力をはじめる(11)。1998年からは、アンタナナリヴォ大学のロバート・ランドリアミハリソア(Robert Randriamiharisoa)教授の協力もあって同大農学部(ESSА)が研究に参加し、最も優れた学生を派遣し、なぜSRIが機能するのかの調査研究に着手する(10)。1999年には、政府の農業研究所(FОFIFА)の研究者ブルノ・アンドリアナイヴォ(Bruno Andrianaivo)が、テフィ・サイナやコーネル大学、アンタナナリヴォ大学と協働し、はじめてフィアナラントソアの農民ほ場でSRIを評価する研究を実施する(9,10)。こうして1990年代からようやくマダガスカルの研究者も関心を示しはじめるのである。

■解き明かされつつある驚異的な収量の秘密

 SRIでは、一月後には、穂の数は30〜50、多ければ80〜100に達する。また、穂/稲と粒/穂数では、科学的にはマイナスの相関関係があるのだが、SRIではそれがない。粒数も多ければ、非充填粒も少なく、粒も重い。そして、土壌条件が最適であれば、収量はヘクタールあたり20トン以上に達することすらある。いったいなぜ、SRIではこれほど驚異的な収量が得られるのだろうか。

 ひとつの鍵は、稲の根にある。SRIの株を引っこ抜いてみると、その根系が驚くほど大きくて、より発達していることがわかる。実際、根を引き抜く抵抗力を測定してみると、SRIで育てた苗は普通の5〜6倍もの牽引力を要するのだ。根が良く生育すれば、苗は微量栄養素を含めて、養分を多く吸収できる。穂の成長も良くなり、多くの実りが得られることになる。「緑の革命」の発想では、稲を品種改良したり、大量の農薬や化学肥料、水を使うことで収量を高めようとする。だが、SRIの発想は全く違う。稲の根を良く成長させ機能を高めることや土壌微生物(バクテリア・菌類)、土壌動物(線虫、ミミズ)等、生物相を多様で豊かにすることにポイントを置く。雑草管理に回転鍬を使い、成長期に頻繁に土を空気にさらすこと。そして、土壌に堆肥を加えることで土壌微生物が増えること。ここに鍵が驚異的な収量の鍵があるのかもしれない(7)

 例えば、アンタナナリヴォ大学農学部のジョセリ・バリソン(Joeli Barison)は、1998年にSRIに取り組む4地域の108人の農民の実情を調査した。農家の80%は化学肥料も有機肥料もやっていなかったが、それでもSRIに転換することで収量が倍増していた。2000年にモロンダヴァ(Morondava)で実験がされた。ここは乾燥地で土も痩せた砂質土壌である。16日目の苗を3束植えて常時湛水し、NPK肥料や堆肥を与えても収量はヘクタール2.58トンにすぎなかった。だが、SRIでは5.95トンもの収量が得られたのだ。なにか、肥料以外のファクターがあるに違いない。こうして調査をしてみると、SRIの根系では窒素固定菌アゾスピリリウム(Azospirillum)の濃度が異常に高くなっていた。アゾスピリリウムは酸素がある環境で育つ好気性菌なのだが、水田を空気でさらすことにより、SRIの稲はマメ科作物と同じく自前で窒素固定をしていたのである(10)

■スロー・フード賞の受賞
テフィ・サイナの事務局

 テフィ・サイナはマダガスカルの農民たちの心の恐れを少しずつ破りつつある。SRIに取り組む農家は1992年には1000人にすぎなかった。だが、2002年には100万人に達している(9)。フィアナラントソアでは2006年には、ほぼ全ての水田がSRIに転換すると見られている(10)。そして、2001年の10月にはアンタナナリヴォに「ロラニエ・グリーン大学」が設立されている(9)。ラファラライとラベナンドラサナは、SRIがマダガスカルの森林や生物多様性の保存に役立つことも望んでいる(1)。だが、ロワイネ神父が編み出したSRIのインパクトはそれにとどまらないだろう。キューバだけでなく、インドネシア、スリランカ、カンボジアと世界各地でSRIはマダガスカルをはるかに超えるペースで迅速に広まりつつある。そして、コーネル大学をはじめとする各地の研究や実験データは、故ロラニエ神父が行なった詳細な研究の価値を実証しつつある。例えば、スリランカでSRIに取り組む農民、プレマラトナはこう述べている。

「いま、化学資材の過剰な使用で、米生産はコスト面でも健康面でも、世界各地の農民にとって、魅力的なものではなくなっています。ですが、オルタナティブな手段がない中、減農薬や減化学肥料に取り組むのは困難です。ですが、SRIをもってして、いま私たちは、この状況を変えることができます」。  2003年、テフィ・サイナは、スローフード協会が生物の多様性の保全に寄与する個人や団体に与えるスローフード賞を受賞した(1)


参考文献
(1)Anya Fernald, Premio Slow Food Tefy saina,2003.
(2)Uphoff,Origins of SRI
(3)Revolution in rice intensification in Madagascar
(4)Christopher Surridge, Rice cultivation:Feast or famine?,2004.
(5)Dixit, Kunda. The miracle is it's no miracle In The Nepali Times, 256,
July 15 - 21,2005.

(6)Review of Results and Progress with the System of Rice Intensification
during 2003.

(7)Rena Perez,Experience in Cuba with the System of Rice
Intensification,2002.

(8) Strengthening Local Organizations, Development of the System of Rice Intensification in Madagascar
(9)Sebastien Rafaralafy, An NGO Perspective on SRI and its origin in Madagascar,Cornell International Institute for Food, Agriculture and Development,2002.
(10)report to the Rockefeller Foundation
(11)Justin Leonard Rabenandrasana, SRI Experience of Association Tefy Saina in Madagascar,Cornell International Institute for Food, Agriculture and Development,2002.


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