コミュニティタリアニズム
    普遍的正義と自立した個人の自己決定を否定する

2004年5月8日

 リベラリズムもマルキシズムも普遍性という理念に立脚していた。普遍性という大前提が崩れるとき、リベラリズムもマルキシズムもともに成り立たない、、、。
 そして、自立した主体による「自己決定」も、ともにスローを嫌う資本主義やマルキシズムが産み出した幻想にすぎない。
 コミュニティに根差したゆるやかな人々のネットワーク。様々なオルターナティブを配慮したスローな意思決定こそが、いま求められているのだ、、、。

■自由と平等の両立を目指したロールズのリベラリズム
 90年代までは、現代思想と言えば、フランスの「ポスト構造主義思想」が中心だった。だが、今は流れはアメリカへとシフトし、アメリカが現代思想の主流となっている。
 その最大の本流をなしているのは、
ジョン・ロールズ(1921〜2002)が切り開いた「リベラリズム思想」である。福祉、生命倫理、医療、科学技術、教育、、、。いま、様々な場面で行われている議論は、リベラリズムを軸に展開していると言えるだろう。
 「市民に対する国家の干渉を最低限に抑え、自由に活動させよ」。これが古典的なリベラリズムの発想である。だが、ロールズが掲げたリベラリズムは、この古典的リベラリズムとはかなり違い、自由と平等とを可能な限り両立させることを目指す。
 なぜ、ロールズは「
公正としての正義論」(Justice as fairness)を持ちださなければならなかったのだろうか。その背景には、自由なアメリカの基盤が揺らぎ始めた1960年代〜70年代初頭の社会状況を考えてみなければならない。
 アメリカは「自由」を国の看板として掲げてはいる。だが、その自由なアメリカ人には、アフリカ系の人々やネーティブ・アメリカンは含まれていなかった。公民権運動、フェミニズム、ベトナム反戦運動と様々な運動が高まる中、自由という近代市民社会の基本原理を守りながらも、その自由競争の結果の歪みとして生じてくる、不平等という矛盾を制度的に是正する必要が生じていたのである。
 もちろん、平等を重視するあまり、個人の自由に制約を加えれば、自由という大前提が崩れてしまう。そこで、ロールズは、仮想実験装置として「無知のヴェール」という概念を導入した。地位、能力、キャリア等、社会の中で自分が他人よりも有利であることを知ってしまえば、誰もが、その既得権益を守ろうとするだろう。だが、自分が他人と比べてどの程度の競争力があるかがわからなければ、自分が一番弱い立場に置かれたものとして、自分に一番有利な制度を選択するはずである。つまり、自己中心的なエゴイストであったとしても、異なった利害関係を持った人々であったとしても、無知のヴェールの下で理性を働かせれば、社会全体としての公正さは合意が保たれる。ロールズはこう考え、社会的な公正を目指した(1)。

■リーバタリアニズムvsコミュニタリアリズム論争
 ロールズの正義論はある種の合理性を備えたもので、法制度や政治領域では、まだ有力な理論であり続けている。だが、80年代以降に登場してきたアメリカの二大思想潮流は、ロールズのリベラリズムに批判を加え始める。リバータリアニズムとコミュニィタリアニズムがそれである。
 コミュニタリアニズムは、歴史的に培われてきた共同体的な価値を尊重する。個人を「形成」する共同体を抜きにした個人の自由はありえない、という立場を取っている。経済的な取引をするせよ、政治行動を行うにせよ、必ず特定の場所で行われる。人間は共同体の中で生きている。そして、共同体には「共通善」という価値観があった。グローバリゼーションが進む中で、今人と人との関係が疎遠になっていく。そこで、共同体をもう一度復権させ、瓦解する人間関係を復旧しようと主張した。
 それに対してリバータリアニズムは、徹底的に個人の自由を主張する。家族や共同体が再建されるのはいい。だが、それを一般化すればやがて国家になっていくであろう。それは望ましくないと、コミュニタリアリズムに批判を加えた(1)。

■普遍的な正義という大前提は虚構である
 個人の自由という面に着目すれば、リバータリアニズムとコミュニィタリアニズムは対立している。だが、理性に根差した「普遍的な正義」がありえないとしている点では、共通している。リベラリズムは、普遍的な理性に基づいて、社会の全構成員に受け入れ可能な「公正」を確立しようとしたが、彼らが攻撃を加えたのはまさに、この点だったのである。
 アメリカが「正義」を掲げ、旧ユーゴスラビアやアフガニスタン、イラク等の体制を崩壊させ、真の「民主主義」を打ち立てようとしていることが、今、批判されている。
 コミュニティタリアニズムからすれば、正義は、共同体の中で慣習的に形成されてきた様々なルールを反映したものにすぎない。それゆえ、共同体を超えた普遍的な「正義」や「理性」を否定する(1)。

■普遍的正義に基づくフランス革命とマルキシズムの暴力
 日々の生活に苦しむ最下層の貧しい人々、かわいそうな人々の苦しみに共感・同情する。そして、あわれな境遇から救いだす。フランス革命は、貧しい人々にパンを与えるために出発した。だが、それは人間性の喪失という皮肉な結果をもたらした。このイデオロギーに同調しない人間は、反革命分子として処刑されたのである(1)。
 例えば、フランス革命のロベスピエール(1758〜1794)は、観念として頭に描いた自分の理想を達成するため、革命の防衛という名目で、それが理解できない人間を暴力で弾圧した。そして、1793年から行われた独裁体制による恐怖政治は、94年のテルミドールのクーデタによって幕を閉じ、ロベスピエールは処刑される(2)。
 レーニン率いるロシアのボルシェビキ(多数派という意味のロシア語)も同様の過ちを犯した(2)。マルクス主義は、ナチズムやファシズムとは対立するものとされている。だが、プロレタリアートとして普遍的な人間性を求めるため、統一された意志を持つ集団として、労働者たちを集団行動に駆り立てる点で、マルクス主義はナチズムと同類である。
政治哲学者、ハンナ・アーレント(1906〜1975)は、そう言い切っている。
 アーレントの徹底した多元論的な考え方は、第三世界の反植民地闘争に影響をもたらした精神医学者、
フランツ・ファノン(1925〜1961)の思想とも相通じる。ファノンは、フランスの植民地マルチニークに黒人として産まれた。はじめは自分が白人ではないことにコンプレックスを抱いていたが、次第に植民地主義について深く考え、アルジェリアで民族解放戦線(FLN)の活動に協力するようになったのである。
 アーレントが、古典的な人間像を理想として掲げる一方で、ファノンはそれを拒絶する。このために目指すところが一八〇度違うようにも思えるが、普遍主義を否定し、多元的な人間性を追求する姿勢は驚くほど似ている(1)。

■共同体を超えた正義はありえない
 実は、哲学や倫理学では、すでに「普遍性」という主張そのものが否定されていた。
 さて、普遍的な意志や正義が存在しないというのは、実は大変な問題である。例えば、日本国憲法は、日本国民の「普遍的意志」に根ざして、成立している。憲法を頂点とする法体系から逸脱することは、エゴイスティックな行動として法の名の下に否定されても仕方がないであろう。だが、もともと、全国民が共有する普遍的な理性や一般意志が存在しないとなれば、ある特殊な集団の自治や治外法権も認めるざるをえなくなってしまう。
 コミュニティタリアニズム的な立場を取れば、国家は、「普遍的な合意」というフィクションから成り立つものにすぎず、そうした枠組みは限りなく解体し、コミュニティの構成員が慣れ親しんでいる「共同体」の意志にすべてを委ねてしまえばいい、となるであろう(1)。

■個人は共同体の文化から遊離した自由な意志決定はできない
 コミュニティタリアニズムが、もう一つ否定しているのが、リベラリズムやリバータリアニズムが重視している「自己決定」についてである。
 例え、どんな文化的な背景を持っていても、人は強制されることなく自由になりさえすれば、その都度自律的な意志で判断できるはずだ、というのが、近代的なリベラリズムの大前提だった。その点では、リバータリアニズムも同様である。
 だが、少し考えてみればわかるように、言語、エスニシティは生まれ落ちた時に、「他者」から与えられるものである。アンデンティティを形成する宗教や風習も自分の意志では選択できない。どれだけ徹底したリバータリアンでも、自分が選んだわけでもない共同体の中で、他者と相互に制約しながら生きていかざるを得ない。
 ラカン派の精神分析では「想像界と呼ばれるものがある。想像界とは、他者と相互関係する中で、他人を鏡としながら、自己を形成していく領域である。逆に言えば、人間は、他者を鏡としないと、自己を最終的に知ることはできない。
 要するに、いくら自分なりの判断をしているつもりでも、現実には全く自由に判断しているわけではない。ほとんどの人間は、その人間が属する共同体的な「文脈」の中でものごとを判断しているのである(1)。

■自己決定についてもオルターナティブが求められる
 
普遍的な正義と同じく、完全に独立した自己決定もありえないというのも、大変な問題である。
自分の意志だけで決められる部分は極めて少なく、共同体という自分を取り巻く様々な人間関係やネットワークの中で意志決定のあり方を考えなければならないとすると、決定を下すためには時間がかかるし、責任も求められる。
 人々が置かれた状況を全般的に把握し、自分の決定によって、相手との関係がどのように変化するかを想定し、様々な意思決定のオルターナティブな選択肢の中で最善のものを選択しなければならないからである(1)。

■スローではない自己決定は、市場主義が強制したものである
 自分で素早く意志決定ができないのであれば、経験が豊かな専門家が、それに代わって決定を行なってあげた方が親切である。これをパターナリズム(温情的干渉主義)と呼ぶ。
 だが、様々な場面でアカンタビリティを求められる現在では、自己責任の方が、パターナリズムよりも便利であり、自己決定をさせてしまった方が意思決定を早くできる。
 精神分析的な視点から近代家族史を研究してきた
エリ・ザレツキーは、「自己決定ができるという近代的な主体性は、欧米人の「せっかちさ」から出てきたと指摘している。
 回転効率を重視する近代資本主義にとっては、このような煩わしさはむしろ邪魔である。つまり、効率性を重視する新自由主義思想は、自己決定論とも近い。いま、人々は、相手との関係を考えず、さっさと素早く自己決定するように強制されているが、それは市場効率性の原則によって、主体であることを強いられているとも言えるのである(1)。

■スローと自発性を犠牲にした左翼運動からの脱却を
 意思決定がスローではないという面では、市場主義と同じく、マルキシズム左翼も同様だった。資本主義に対抗する世界的運動を速やかに立ち上げ、「革命主体」に変身しなければならない。自発的に一定の主体的活動に従事するように、「組織的」に強制されてきたから、左翼的な主張にうさんくささを感じて、シンプルな市場論理と結びついた自己決定論が蔓延するようになったのである。
 このような状況の中で、イタリアの哲学者
アントニオ・ネグリ(1933〜)は、伝統的な革命主体としての「プロレタリアート」のかわりに、世界を変えていく運動の担い手として、マルチチュード(multitude)という概念を持ちだしている。マルチチュードとは、もともとは17世紀のオランダの哲学者、スピノザが用いた政治哲学用語で、神的霊感にインスパイアーされ、その場に集まってくる雑多な群衆のことをいう。
 確固として集団を形成するほどの明確な共通性はない。だが、なんとなく、変化を求めた人々のゆるやかな集まり。しかし、いろんな人々がその場になんとなく集まって、その場その場での出会いに応じて、コミュニケーションしている間に、自分をめぐる新たな関係性がイメージされていく。そうした新たに産まれた関係性が、さらに複合的にネットワーク化されていくことで、自分もなんとなく変化していく。そこでは、デモ活動を行なったり、ビラをまいたり、ボランティア活動をするようにプレッシャーをかけられることもない(1)。ゆるやかなマルチチュードのネットワークの動きはスローかもしれない。だが、コミュニティに根差したゆるやかな社会変革こそがいま求められているのである


引用文献
(1)仲正 昌樹(2003)『不自由論』ちくま新書
(2)姜 尚中、宮台 真司(2003)『挑発する知』双風舎