高度経済成長をなさせしめしもの
    
1989年のソ連崩壊と冷戦終結は日本の戦後経済成長パラダイムの終焉を意味した

2004年5月8日

 コミュニティが崩壊しても日本社会が混乱しなかったのは、カイシャが疑似共同体として機能してきたからだった。そして、高度成長を支えてきた日本のカイシャ社会は、大東亜戦争を推進するため、ナチスとソ連社会主義体制をモデルに作られたものだった。冷戦構造の中、アメリカは戦後も日本が戦争推進型のカイシャ社会を温存することを望んでいた。だが、ソ連崩壊はこの戦後構造を一変させる。情報とバイオ産業社会ではなく、ダムに象徴される公共事業へと日本がひた走っていった背景にはアメリカの思惑があった。

■合理的だった日本型雇用システム
 
終身雇用、年功序列処遇、企業別労働組合の三種の神器。要するに、いったん組織に所属すればよほどのことがない限り、解雇されない。業績は直接処遇に反映させず、年齢とともに右肩あがりで賃金があがっていく。そうした市場原理を無視した家族主義的な雇用形態が日本の特徴だと言われてきた。
 だが、終身雇用や年功賃金は、日本だけに見られる制度ではない。国際的に比較した場合、日本の勤続年数はヨーロッパ諸国とほとんど同じだ。そこで、最近は、日本的雇用形態は、情緒的なものではなく、経済的にも合理的だという主張がされるようになった。
 スタンフォード大学のエドワード・ラジアー教授は、若い間には安い賃金で我慢するかわりに組織に貯金をし、中年になってから若い時代の貯金を取り崩していくシステムが年功賃金であると解釈した。それは、労働者の勤労意欲を引き出すうえではきわめて有効なシステムである。従業員からすれば、若い間は組織に貯金をしているが、それは長期間働き続けた場合にのみ引き出せる。途中で勤務を怠けて解雇されれば、もともこもなくなるし、企業の業績が悪化すれば支払われなくなる。そこで、貯金を守るために必死で働くことになるからである(5)。

■モラルハザードを発生させない内部競争システム
 年功序列や終身雇用で、ある程度の処遇が保証されるとすれば、クビにならない程度にほどほどに働くのがいちばん合理的といえるだろう。組織にただぶら下がろうとする職員が増えるというモラルハザード現象が発生してもおかしくない。
 だが、サラリーマン社会で現実に起こっている現象は、まったく逆で過労死が頻発している。なぜ、家族との暮らしを犠牲にしてまで組織に滅私奉公しようとしてしまうのだろうか。
 そこには、サラリーマン社会に激しい競争を持ち込むことに成功した日本の組織特有の巧妙な仕掛けが存在した。その仕掛けとは、「小さな格差」を最後まで設けることである。
 アメリカでは出世コースをひた走るエリート社員と、出世コースからは外れた一般従業員とが、入社時点か、入社数年後の時点で明確に区別されてしまう。だから、一般従業員はエリートになろうとはせずに普通に働く。
 だが、日本の場合は、小さな格差が有効に機能するように、遅い選抜が行われてきた。建前上は誰しもが社長になれる可能性を持っており、明確な白黒評価がなされないままの勤務が、中高年まで続いていく。年収による格差は拡大していくが、40歳になっても、年収格差は上と14%、下と11%の合計25%でしかない。
 高い評価を与えれば、評価を受けた労働者のインセンティブは高まる。だが、低い評価を受けた労働者はやる気を失う。組織全員のインセンティブを高めておくには、いつでも「逆転できる」と思わせる小さな格差を設けたほうがいい。
 競争激化のための第二の仕掛けは、身近なライバルの設定である。日本組織ではこのライバルに同期を設定する。海外では新規採用従業員の一括採用や一斉配置はほとんどなされない。中途採用も多いし、たいていは通年採用である。日本企業が、一括採用にこだわるのは、競争集団をそこに作るためである。年齢も学歴も近い集団は、小さな格差の競争を続けていく。
 最も、格差が小さいといっても、全体から見れば、日本のサラリーマンは平等ではない。98年の労働省の賃金構造基本統計調査によると、40歳の大卒の所得は、上から10%は69万円だが、中位は49万円で、賃金格差は上に40%、下に28%と合計68%もの開きがある。つまり、どの会社に入るかによって、これだけの大きな賃金格差が生まれる。だが、企業内の組織では差がない。この組織内の平等主義こそが日本の年功序列システムの最大の特徴だった(5)。

■高度成長を支えた戦時体制システム
 
高度成長を支えた日本的経営システムは、日中戦争・太平洋戦争を遂行するため、資源を総力戦に総動員することを目指して企画院によって作られた統制システムを原型にしている。
「戦略的補完性理論」の提唱者、奥野正寛教授と岡崎哲二教授は『現在日本経済システムの源流』の中で、次のように指摘している。
(1)日本的終身雇用制度、間接金融主体の金融システムや下請け制度等、戦後の日本経済を特徴づける様々な経済システムの部品は、そのほとんどが日中戦争の開戦から太平洋戦争の終結までのわずか8年間に、戦時経済システムとして確立された1940年体制を形成する部品だった。
(2)それぞれのシステムは相互に補完しあっているが、それは戦争が作りだしたものであり、決して日本の文化や国民性に根ざしたものではない。
(3)日本的経営システム以外にも日本が選択しうる安定的なシステムがある。

 この総力戦体制は、一党独裁下で策定されたナチス・ドイツの戦時経済体制と、計画・指令によって重化学工業化と軍事大国化をめざしたソ連の社会主義的計画経済をモデルにしたものである。社会主義国では、国家計画委員会によって、人、モノ、金というすべての資源が中央集権的に管理・配分される。戦後日本社会がソ連型社会主義システムを模倣したものであれば、企業の雇用管理システムもそのミニチュア版であっても不思議ではない。かくして、年功序列制度の下で強力な所得配分を行い、終身雇用の下で中央集権的な人事資源の配分が行われる社会主義システムと非常によく似た仕組みが作られたのである(5)。

■戦争中からソ連崩壊まで不変だった日本の国家システム
 労働力動員、官僚支配など1920年代から進んでいた日本の総力戦のための体制は、敗戦後もなくなることはなく、軍事的な側面が削ぎ落とされることによって、むしろ社会構造としては強化された(1)。
 例えば、吉田内閣では、石橋蔵相のもと、経済統制、経済計画の導入がなされる。1946年には、経済安定本部が設置され、傾斜生産方式が導入される。1947年の片山内閣も、物価統制等、統制色の強い政策を実施した。通産省は重点産業を指定し、海外からの貿易を制限し、産業育成を行なう。大蔵省も都市銀行、地方銀行、信用銀行といった金融秩序を作り上げる。
 55年体制は、アメリカ型の自由競争市場でも、ヨーロッパ型のケインズ主義でもなく、エリートを中心とした一種の統制経済だった(6)。
 国民が貧しく、絶対的な所得水準をあげることが重要な時代には、強力な中央集権政府の指導下に希少な資源配分を計画的かつ効率的に行う必要がある。そのためには、民主的な権利を大幅に制限することもやむを得ない。これが独裁開発主義の考えである。
 鉄鋼、化学、家電、半導体など、日本の経済成長を担ってきた大規模産業は、計画経済の中から生まれてきた。そして、この経済政策は、アメリカに留学したテクノクラートと呼ばれるエリートたちが牛耳っていた。戦後の日本はまさに開発独裁国家だった(5)。
 では、なぜ、こうした体制ができたのだろうか。それは、戦後日本が、間接的なアメリカの統治下におかれたからである。
 1942年頃から、アメリカでは戦後の占領体制についての方針が決められ、そこでは、朝鮮半島、台湾、沖縄、旧満州を日本から切り離すことが決められていた(1)。
 はじめアメリカは戦後アジアの安全保障のコアとして、中国を考えていた。だが、1949年に中国に共産主義政権が誕生すると状況が変わる。そして、1948年にソビエトが初めて原爆の実験に成功し、50年からの朝鮮戦争がさらに状況変化を決定的にした(6)。
 この冷戦の深刻化で、占領方針は「日本の封じ込め戦略」から「復興支援」に180度転換する(4)。日本をただ民主化するだけでなく、可能なかぎり国際社会に復帰させ、経済復興を支援するようにアメリカの対日本方針が転換するのである(6)。アメリカは40年体制の維持に重点を移し、1948年、バンデンバーグ決議に基づき、交戦権利を剥奪した舌の根も乾かないうちに、再軍備、自衛力の強化を要求した(4)。
 そして、西側の世界戦略に日本を組み込むことを決定づけたのが1951年のサンフランシスコ講和条約だった(6)。吉田茂(1878〜1976)は、1948年以降のアメリカからの再軍備要求を拒絶し、基地を提供するかわりに日本を守って欲しいと、日米安保選択した。
「軍事なんてアメリカにやらせておけ、改憲を主張する奴はただの馬鹿だ」。吉田はこう発言している(2)。吉田は一見、対米追従に見える枠組みをあえて採択することで、アメリカのいいなりにならず、国益を増進するというしたたかな計算を持っていた(4)。
 一方、アメリカは、敗戦によって傷ついた日本のはけ口を東南アジアに用意した。大東亜共栄圏は政治的には挫折したが、経済的には温存された。国際的な安全・保障や秩序維持のための海外派兵といった政治的な問題をすべてアメリカが担い、経済部分に特化させることが、冷戦時代にフィットしたシステムであった。
 マサーセッチュ工科大学の歴史学者、
ジョン・ダワー(John Dower 1938〜)は、日本占領研究の第一人者だが、『敗北を抱きしめて』(岩波書店)の中で、日本は社会経済的に見れば、1945年では断続はしておらず、1920〜1989年までひとまとまりの時代として考えられると主張した。そして、連合軍司令部(SCAP)と日本政府とを組みあわせたこの談合体制を「スキャッパニズム」という造語で表現した。つまり、技術力や生産力が優れているために、戦後の日本が経済大国になったというのは、嘘である。日本に優れた技術力があったことは事実だが、日本は国際的な基盤に乗ることで、経済成長することができた。だが、それは経済界ではほとんど意識されることがなかった(1)。

■冷戦後に壊れた日米の甘い関係
 サンフランシスコ講和条約と55年体制で、日本は、民主=人民主権=自己決定という通常の国家からはほど遠い体制に陥っていた。だが、この日米安保体制は、次の二条件から当時としては国益を満たしていた。
 (1)日本の経済復興が第一である
 (2)アメリカが日本のために利他的な行動をとる冷戦体制があった。

 経済復興が終え、冷戦体制が終わった暁には、日米安保体制はその役割を終え、日本が独自外交に踏み出す時がやって来る。戦後の高度成長を成し遂げた後に最初に首相となったのは、田中角栄である。田中は、対中東、対中国の独自外交を行い、戦後復興体制からの脱却を目指した。また、日本列島恵贈論を唱え、内政面においても、戦後復興体制からの脱却を目指したため、これが、アメリカの不興を買い、田中はロッキード事件を通じて処分された(4)。

■情報とバイテク産業への道を捨て、公共事業へと日本がひた走ったわけ
 1980年代に入ると、サッチャーやレーガンによって、グローバル化に対応するための、新自由主義的な改革が行われだす。スキャッパニズム的体制はすでに時代遅れになりつつあった。そして、90年代に入ると、むしろ、スキャッパニズム的体制は構造的な障壁になっていく(1)。
 その後、田中の後を継いだ竹下内閣(1987〜89)時代には、日米構造協議がはじまる。アメリカは、膨大な赤字が日本市場の閉鎖性にあるとし、内需拡大と規制緩和を要求した。これは、日本の高度情報化社会への適応を遅らせ、時代遅れの産業構造に縛りつけるために、アメリカが仕組んだものだった。
 例えば、情報ハイウェイ構想という80年代末のゴア上院議員(当時)のアイデアは、日本の構想をアメリカがパクったものである。当時、日本は、坂村健東大大学院教授の開発した純国産ОSトロンを持っていた。トロンはマイクロソフトのウィンドゥズを超える能力を持つだけでなく、坂村はこれを無料で配付しようとしてた。このため、アメリカが圧力をかけ、日本は公教育の現場にトロンを配付する支援計画を打ち切った。90年代に世界的な競争力を持っていたコンピューター関連産業は、アメリカの下請けと化し、台湾・韓国に追い上げられ、空洞化していった。
 また、バイオテクノロジーの面でもアメリカと肩を並べていたが、これにも圧力をかけられた。
この結果、日本は、アメリカに勝るとも劣らないITとバイオ分野産業から手を引いた。
 また、政府は内需拡大を図るため、コンクリートと金を地方にぶち込む公共事業をやれとアメリカから要請され、公共事業中心の経済政策にシフトすることを約束した。また、GEの発電機を買うことを約束した(規制緩和)。日本にはコンクリート型公共事業で利益を得る土建屋それと癒着した官僚・政治家、金融機関の三味一体の構造があったが、この方向を強化したのはアメリカだったのである(4)。

■会社という疑似共同体の崩壊で不安にさらされる会社人間
 共同体とは、生活空間や生活時間を共有し、そのこともあって、同じものを同じように体験しているであろうと互いが思いあっている人間の集団である。
 日本は、日露戦争後に重化学工業化と都市化の道を歩み始めた。その結果、地域共同体は空洞化・崩壊し続けた(4)。近代化が進む中で、人々の暮らしは目に見えて向上した。だが、同時に、暮らしの内容は画一化し、人々は連帯感も失った。核家族化が進み、その核家族も、離婚、子育ての失敗、家庭内暴力とさらに解体が進んでいる。
 だが、それでも社会が崩壊しなかったのには二つ理由がある。
 第一は、福祉国家が、共同体の機能をまかなかってきたからだった。バラバラにされた個人は、年金、福祉、育児といった社会制度によって保護されてきたのである。だが、同時にそれは社会制度への依存度を高めることだった(3)。
 第二は、大正時代から一部企業の間で、そして敗戦後は、企業全体に広がった終身雇用と年金制度である。勤続20年はしなければ元が取れない賃金体系の下では、長く勤めなければ損をする。そして長く組織に所属し続ける以上は、人間関係を第一に優先した方が得である。こうして「和をもって尊しとなす」という共同体的システムが機能しつづけた。要するに、崩壊する地域共同体のかわりに「企業共同体」が存在し、そこに共同体的なメンタリティを委ねることで、自分の居場所がない、という存在にならないですんできた。
 だが、バブル崩壊以降の情報化の進展と平成不況の深刻化によって、企業は共同体的としての組織をコスト的にも維持できなくなってきた。企業の寿命は短くなり、労働市場も流動化していく。所属や肩書きもいつまで保てるかわからない、はかないものとなってしまった。企業共同体といっても機能集団にすぎないことが暴露してしまう。バラバラとなった人々は、未来への夢も希望も持てない閉塞状況に置かれることとなったのである(4)。


引用文献
(1)姜 尚中、森巣 博『ナショナリズムの克服』(2002)集英社新書
(2)姜 尚中、宮台 真司『挑発する知』(2003)双風舎
(3)篠原一『市民の政治』(2003)岩波新書
(4)宮台 真司『絶望から出発しよう』(2003)ウェイツ
(5)森永卓郎『リストラと能力主義』(2000)講談社新書
(6)佐伯啓思『現代民主主義の病理』(1997)NHKブックス