◆愛恋指南書 その参
「ひおり?」
「何驚いてんです。練習ですよ」
練習、という言葉を強調しているのは、和から嫌われないための成瀬への義理か、それとも磯前への弁解か。
この状態で和が逃げないことに日織が調子に乗って、自分がちょっとだけ下心があることを承知でこめかみへと唇を寄せてみれば、そこで漸く日織の意図を掴めたらしい和が、制止の意味で以って着流しの袖を引っ張った。
「れ、練習って言われても…日織相手じゃ無理だよ」
「なんでです?」
駄目ではなく、無理という言い回しに引っ掛かりを覚えて和の表情を伺えば、心持ち赤くはなっていても、羞恥というよりどちらかといえば戸惑いの色が強いだけで。
そして、これはもっと言い回し方がストレートな方がいいのかと、日織がそう考えた矢先。
「だって僕、日織が相手じゃドキドキしないもん」
と、日織に対して死刑宣告にも等しい爆弾発言が、容赦なく和本人の口から飛び出した。
「……………………………」
この時ここに第三者がいたとしたら、日織の背後がびきっと鋭い音を立てて凍りついたのを目にしたかもしれない(実際、日織は和の顔を覗きこんだ笑顔のまま凍りついている)
そして日織を良く知る者が見たら、彼が笑顔の裏で慟哭を押し殺し咽び泣いているように見えたかも知れない(今まさに顔で笑って心で泣いてを文字通り実践している)
が、生憎(幸い?)とその場に居合わせたのは日織の飼い猫だけで、そんな猫といえば、慰めているのか呆れているのか判別つかない声音で以って、飼い主に向かって軽く一声鳴いただけだった。
「和さん…」
しかし、そんな猫の鳴き声でも、凍りついた日織を溶かす役割を担ってはいたようで。
「あ、言っておくけど全然ドキドキしないわけじゃないよ?
日織だって凄く恰好いいし、それになんていうか、時々あれっ?て思うくらい凄く色っぽい時あるし」
売れていなくとも、日織とて役者の端くれ。
何とか平静を保ち、動揺を知られないように低めの声で和の名前を呼ぶと、和は自分が変な事を言ったと思ったらしく慌ててフォローし始めた。
「そ、それにほら、日織には磯前さんがいるんだから」
「…磯前の旦那は、生憎とこれくらいで目くじら立てるようなお人じゃありませんぜ」
「でもっ!」
「和さんは、俺じゃ練習相手に不足だってんですか?」
「そうじゃない!そうじゃないけど、でも無理っ!」
じりっと更に間合いを詰められて、和がその分じりじりと尻込みして牽制すると。
「…すみません」
「日織?」
暫しの間を置いてから、日織は大きくため息を吐いて、少しだけ残念そうな笑顔を見せた。
「ちょいと冗談が過ぎましたね」
「う、ううん。そんなことは、ないよ」
すっと日織が身体を離してそういうと、和はふるふると緩慢な仕草で首を左右に振る。
「本当に、男の僕から見ても日織は十分恰好いいんだ。
…でも、日織は壮くんじゃないから。ドキドキしても、そのドキドキが壮くんが相手の時とは全然違う。だから日織相手に練習なんて言われても、僕には無理なんだよ」
「ええ、判ってまさあ」
「ごめん、ごめんね」
「アンタが謝る必要はありませんぜ」
「日織…」
お茶を淹れ直しましょうか、と、いつもと変わらぬ柔和な笑みを浮かべながら腰を上げた日織に、和が心の底から申し訳なさそうに声をかけると。
日織はただ黙って頷くだけで、あとは何も言わずに部屋から出て行った。
…が、しばらくして。
「ひひひひ日織、それ…っ」
お茶を淹れ直すと言って席を外したはずの日織が和の元へと戻ってきた時、お盆とは別の手にあったもののせいで、和はまた悲鳴に近い大声を上げる羽目になった。