大後退 06










夜も深けて。








「ん…?」


ふみこから割り与えられた仮の部屋で(ようやく)くつろいでいた日向は、かすかに聞こえた音にベッドから身を起こした。


「……」


そしてその音を確認すべく、日向は全神経を耳に集めて、かすかに聞こえるそれを意識して拾って。


「…寝てたんじゃなかったのか」


その音を無礙にできないどころか、それの音の主の所へは駆けつけずにはいられない。
器用なことにドアの音を全く立てずに部屋を出ると、廊下も音を立てずに早足で歩き、部屋を出た時同様に音を立てずにその部屋へ身体を滑りこませた。


「…っ、…………ぅぇ……ッ……」
「どうした?」


そこは金を運んで寝かしつけた部屋。
完全に寝入ったと思っていた金が、ベッドの上に上半身を起こして何やら泣いているではないか。

「おい金、どうかしたのか」
「ふぇ…ッ…」

(中身が)幼子そのままに手の甲で溢れる涙をごしごしと拭い、それでも止まらないせいでまた涙を零す。

「き…」
「おかぁサン…」

さてどうしたものかと日向が思案している所に、金がぽつりと合点のいく言葉を呟いた。

「(寝入っていたのに目が覚めて母親を恋しがるということは、もしかして…)恐い夢でも見たのか?」
「……っ…、…」

合点がいった上で更に思い当ることを問いかければ、金はひっくひっくとしゃくりを上げながら、コクコクと目一杯強く首を縦に振った。

「大丈夫だから」
「おかぁサン…」

だがしかし、母親を恋しがられてもさすがにこれはどうにもならない。

「…ふぇ…」
「泣くな」

しかし日向はどうにもならない代わりに、しゃくりを上げ続ける金の身体を抱き締め、ごく自然に腕に収めてしまった。
そしてごしごしと目を擦っていた手をやんわりと外させ、溢れる涙を自分の指で拭ってやる。

「大丈夫だ」

それでもなかなか止まらない涙に、今度は唇を寄せて涙を掬い取ってやりながら、まだ小さく引きつる背中を撫で叩いてあやしてやると。

「………」

すると金は日向へぎゅっと縋るようにしがみつき、まだ小さくしゃくりを上げながら胸へ顔を埋めてしまう。

「(これは…)」

そんな金の様子に、日向は心の中で感嘆の声を漏らす。

「(随分と…可愛いじゃないか)」

普段二人きりの時でさえ、金が日向に甘える(え?)時は大抵遠慮がちなのに、それとはまた違うこんな甘え方をされてしまうと、正直可愛いという感想しか出てこない。
しかしそれは子供にたいして抱く感情の「可愛い」であり、いつも日向が金に対して抱くものとは意味合いが違うということを(日向の名誉の為)付け加えておく。

「金」

個室を与えられたことで、一応自制の意味を兼ねて金から離れていた日向だったが。

「朝まで一緒に寝るか?」

今の金に対して疚しい(というか邪?)な感情が湧かないと思った途端、ゆっくりとあやしている金にこんな事を切り出した。

「おじちゃん、いっしょねんね、する?」
「お前が嫌じゃなければだがな」

すると金はぱっと面を上げて、すぐに明るい表情を見せる。

「おじちゃんと、いっしょねんね、するっ」
「よし。じゃあもう泣くな」
「うん、もうなく、しないっ」

それがよほど嬉しかったのか、金は面を上げた状態でまたより一層強くしがみ付いた。

「いい子だな」

そんな金の頭を撫でて頬に口付けを落とせば、無精髭がくすぐったいとくすくす笑い出す始末。
こんな事でも「金は金」である事が実感できてしまう日向は、それならば…と一つ思いついた。

「ちょっとだけ、俺から離れていろ」
「?」
「すぐに済む」

そういうと金をベッドの上に座らせたまま、日向は自分だけ床に降りて牛柄パジャマを脱ぎ始めた。
おとなしくベッドの上に座って、目線だけで日向を追いかけている金だったが…。

「おじちゃ…」

自分の目の前で起きている現象に言葉を無くし、細い瞳を目一杯見開いてそれを凝視するのだった。


それはそうだろう。
人間が狼に変化すれば、誰だって驚かずにはいられない。



「わんわん…!」

しかし金は驚き以上に好奇心と歓喜の方が勝っているらしく、銀灰色の毛皮が美しい、見事な狼(金視点では大きなわんわん)に、今にも飛びつきたいといった感じであった。

『わんわんじゃない。狼だ』

日向は金のそばへ乗り上がると、器用に前足で軽く額をぺしっと叩いてから『わんわん』を訂正させようとするが。
金はわずかにためらった後、ぱすぱすと乾いた音を立ててシーツを打ち鳴らす尻尾にとうとう堪え切れず、目一杯の力で日向の首に抱きついた。
ぎゅう、と音がしそうな力で抱きつかれた日向は、それでも金を叱りつける事はせず、ただ黙って金が落ち着くまでじっとおとなしくやり過ごす。
しかも時折涙の後の残る頬を舐めてやると、金はわずかながら頬を染めて歓喜の声を上げてまたしがみつく。

『さてと』

日向はしばらく(金の気が済むまで)抱きつかせ触らせていたが、ちらりと時計を見て、いい加減じゃれている時間ではないと気付くと、金の腕からするりと抜け出して逆に押し倒してしまった。

「わんわん…?」
『子供はもう寝る時間だ』
「や!もっとわんわんとあそぶ、する!」
『俺はわんわんじゃない…じゃなくてっ!寝ないなら俺はもう部屋に戻るぞ。一人でここに置いて部屋に帰るぞ。また恐い夢を見ても知らないからな』
「…っ、ヤだぁ…」

日向が少しだけ強い口調で立て続けに言うだけ言うと、金はまたじわっと涙を浮かべてしまう。

『なら言うことを聞け』

ちょいっと押し倒されるままにシーツへコテンと長身を横たえ、寄り添うようにすぐ隣に身体を寄せた日向を、帰ってしまわないようになのかしっかり抱き締める。

「わんわんと、ねんねする…」
『だからわんわんはヤメロ』
「んと…わんこ?」
『わんこも駄目だ。…頼むからおじちゃんだけにしてくれ…』

金からしがみつく勢いで抱き締められているせいでにらみつける事が出来ず、一応威嚇するように喉を鳴らしてはみるが、どうせ効果はないと日向は内心諦めてはいた。
だが「わんこ(わんわん)」と呼ぶのだけは絶対に容認できない。したら光太朗やロジャーまでもが面白がってそう呼びそうなだけに、間違っても!容認してはいけない。

「………」

しかし、身動きならないまでも一人葛藤していた日向をよそに、金は変化した狼身体を抱き込むようにしながら、早くも小さな寝息をたてていた。

(本当に貧乏くじ体質なんだよなぁ…)

毎度の事とは言え、これだけ騒ぎの元にされている金が不憫になってはくるが、今回はこんな事になった理由がわからない。

(オゼットから金をどうこうしたいかなんて言われた覚えはないし、金が自分から進んであの飴を舐めるとも思えないしなぁ…)

だが実際金は自分の目の前で倒れ精神年齢が後退したのだから、間違いなく口にはしたのだろう。

(オゼットが何かを企んだんだろうが…さて何を企んでいたのかだな)

金が「若返らなかった」ことに首を傾げているくらいなのだから、飴(もしくは同成分の何か)を飲ませたのがふみこだとしても、彼女の思惑は外れてしまったことになる。
金はふみこから新しい薬の実験台にされたのだろうが、その元の目的の向かう先は、多分というかほぼ間違いなく己の弟子のところだろう。

(ったく、あのお嬢ちゃんを盾に、今度はどんな無茶を言い出したのかねぇ…)

ふみこから頼まれただけでもまず断れない金に、小夜からまで重ねて頼まれたら金は絶対に断れない。
だからふみこは、無茶な頼みと判っている事は(その内容によっては)まず小夜にけしかける。
小夜は決して無理強いする訳ではないが、金がそれを承諾してしまうから、いつもいつも騒ぎが起きているのだ。
日向としては放って置けば良いと言いたいが、金の性格を考えたらそれはまず無理な話と言うものだろう。
自分がどうこう言おうが、その金が苦に思っていないのだから、喚いたところで話にならない。

『早く元に戻ってくれよ』

流石に今の状態では金を抱きたいという欲求は起きないが、日向にとって金が『特別』である事に変わりはないだけに、このままの状態はとても歓迎出来るモノではない。

『なんというか…早く戻ってこい』

日向の心労など露も知らず、実に幸せそうな寝顔でくぅくぅと寝息を立てる金を眺めたまま、日向は抱き込まれた身体をずらす。




『…ゆっくり眠れ』



そうして規則正しい寝息を更に安定させるべく、尻尾でリズムを取るようにぽすんぽすんと軽く優しく叩き出した。






「……」
「……」





調度その頃、金と日向が仲良く眠っている部屋の外には、遅れを取ったために中へ入れずこそこそと聞き耳を立てている光太朗とロジャーの姿があった。

「なぁ、ロイ…」
「何だいコウ」
「所長が部屋の中に入って、大正の泣き声が聞こえなくなったのはいいんだけどよ。しばらくどころか出て来ねぇよな…」

誰がとはあえて口にせず、一人呟くようにそう尋ねてくる光太朗にロジャーは答えを言って良いものか考えあぐねていた。
もっとも、いくら光太朗だとて(言わなくとも)気付いているだろうが。

「こうしてても仕方がないし、俺達は戻るか?」

ロジャーが「馬に蹴られる前に…」と続ければ、光太朗はそれもそうだと立ち上がる。

「さてと、明日は何をして遊ぶんだ?」
「ふむ…とりあえず子供が思いつきそうなモノを考えておいて、後は大正殿に選んでもらえば良いんじゃないカナ?」
「だな」




二人は立ち上がってからちらりと一度だけ部屋の扉を振り返り、互いに肩をすくめてそのまま自分に与えられた部屋に戻って行った。





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