未来の作業部屋
真宗海外開教についての思惟(平成15年8月15日)
先日、熊谷宗務総長さんとお話しをする機会があり、総長さんの見識の広さを感じました。その折に、米国開教について語り合い、微力ながら協力をさせて頂く事を申し上げさせて頂きました。
海外開教については、米人に禅を紹介された故鈴木大拙師のような特出した人物の出現を待っているだけでは、私自身としては情けなく思います。勿論真宗教団中には、優秀なお方もおられますが、傾向としては学問的な考察が中心になり、とても米国人の社会の中にまで伝わる手立てとは、なっていかないように感じます。
私の取組みの方向性としては、「念仏の教え」が文化を超える時に、新しく得るもの(教えの進化)と失うもの(馴染まない教え)があることをまづ整理する事を、思惟すべきと感じます。
分り易くするために、私が故ニュ−ヨ−ク仏教会の関法善師に教えを受けていた頃を思い浮かべ、思う事柄をまとめてみることにします。関先生の門下で、3人の米人僧が修学されていた。彼らに先生は米国の真宗への礎を期待されていた事が思い出されてきます。
では、開教についての思惟を進めてみる事にしましょう。過去から現在まで、親鸞聖人の教えを世界に伝える努力がなされています。しかし、開教の現場に立つと大きな言葉と文化の混乱が想定されます。例えば、米国で開教について考察すると、開教使たちは、日本で真宗学(お念仏の教え)を学び、英語力を身につけて開教の任に就くことになります。その方に深い宗教体験をが備わっていれば、何とか伝導の活路を見出して行く事が出来ると思いますが、普通の凡人では異文化の壁に突き当たり、如何にもならなくなり、思考が空転してしまう事でしょう。真面目に努力するほど、大きくなる宗教異文化の壁と向き合うことになってしまいます。
現状を見れば、先人達が苦労されて、親鸞聖人のお言葉が翻訳されています。しかしながら現在親鸞聖人のお言葉の英語訳は、未だ充分に翻訳が確立されていないように思えるのです(例:他力=the
Other Power or the Great Natural Power)。それは、対象の人々となる言葉(英語)の宗教用語基盤が、キリスト教だから当然であるといえます。インドから中国に伝来し、数百年かけて漢文経典が成立して行った過去の足跡を見れば、理解できるはずです。その上、真宗の教えがキリスト教と教学体系(1仏と1神)が類似しており、その違いの理解が真宗開教者と米国人の間には、困難となっています。
しかし、仏教の中でも禅宗の場合は、行体験から仏法を伝えていく方法を用いています。禅行は、欧米人にとって取組みやすいし、理解もされやすい。多くの米人が、禅に魅力を感じるのもうなずけるのです。それに比べ、真宗の場合は日本人文化の枠から脱却出来ずに、停滞し空転しているように思えます。修行を否定して「信」を強調しようとする教学は、信仰を中心とする生き方を聞いて育った米人には、新鮮味無い異文化の宗教に感じとられ、馴染みにくいようにさえ感じられてしまうと思います。それは、言葉の壁以上に、英語での教学展開と伝導方向論に原因があるように思えるのです。私は、決して「信の念仏の教え」が、「禅の修行」に対して、英語圏で開教に関して劣っているとは思いません。それに少数ですが、日本における真宗門徒の多くが、同時に神道の信徒であることも、敬遠される一因と思えます。
それでは、具体的に打開策を思惟してみましょう。@米国人に理解できる、キリスト教と真宗の相違点と類似点の説明ができるのテキスト作成する。A一般の人にも理解できる(特に真宗とキリスト教を中心とした)比較宗教用語の日英語辞書の作成する。B仏教学全体の中から、文化を越えて伝わるものと、伝わり難いものを合理的に整理する(社会生活の視点も加える)。C開教方法(伝導活動)の工夫(Meditation、Nirvana等に興味を示す)と研究(マルチメデイアの活用等)D海外開教に繋がる若者の人材育成と宗門との連携等々が考えられる。それに、E教えが理解しやすい英語聖典(創作)の読誦も有効であり、F宗教的行為(儀式等)もその文化に似合ったものに変化してもよいと考えます。また、Gお西で使っている雅楽器等を使用して、賛美歌のような真宗賛歌を創作してみるものいいと思う。さらにH大阪の教照寺岡橋晃鸞師のように、音楽を使った布教活動方法も素晴らしいと思う。開教には、自らが「法は求道者の上に宿る」と言われる真実を体験していく自覚と、開教伝導への工夫が常に求められていると思います。
今こうして振り返ると、龍谷大学で普賢先生や山本先生等から学び、Drew UninersityでDr.De Jong等から学び、感じたことを整理できるようになりました。そこには、真宗の海外開教への入口が感じられるし、「私は如をなすべきなのか」と熟考してしまう。
(中 外 日 報 記 事)
住職の思惟
現在の葬儀式にたいして、不自然な事が多すぎます。仏式といいながら祭壇が組まれますし、その費用も大きくて、残された家族には大きな負担なります。残された家族が故人に対しての感謝の想いが葬儀式の中心であれば、そのように変革しなくてはならないと思います。もう少し考えて、具体的に提案をしたいと思います。
○ご質問、ご相談があれば、Eメ−ルで受け付けます。
和文聖典への挑戦 (平成12年3月1日)
昭和52年頃の事である。米国ニュ−ジャ−ジ州のマデイソンの町に、メソジスト派ドル−大学院がある。森の中にある校舎で、在学時は学生数200人以下であった。そこでキリスト教神学を学んでいた時、カソリックのコレス神父の講義を受けた。カソリックでは、今でもラテン語聖書を大切にしていることが教わった。「聖教の原点を常に見つめること大切さ」が良く理解できたそのカソリックが、第二バチカン会議で、世界に人々に理解のできる、自国の「ことば」で書かかれた聖書の使用を承認した事を知った。民衆にとって、大きな決断である。 |