山口の伝説
生き物にまつわる話
萩の白牛 −萩市ー
今から千二百年あまりむかし、奈良の東大寺に大仏殿が作られたとこのことである。
萩川島郷(はぎかわしまごう:萩市沖原)からも、おおぜいの若者たちが、
たくさんの牛とともに大仏殿建設にかりだされて働いていた。
それらの若者と牛の群れの中に、ひときわ目立つ牛がいた。
見るからにたくましい若者につれらた白牛だ。
全身が真っ白な毛におおわれ、小山ほどもある大きなからだをした牛だ。
力もたいへん強かった。
三頭の牛でかかっても動かない重い材木や石を、らくらくと引っ張るというほどであった。
そのために、むずかしい工事もどんどんはかどって、
大仏殿はなんなくできあがった。
こうした牛の働きぶりは、やがて都じゅうの評判になった。
やがて、その評判は、天皇の耳にも入るようになった。
天皇は、白牛の働きのすばらしさをほめたたえて、
「これからはだいじにして、けっして百姓仕事に使ってはならぬ。」
と命じた。
ほうびとして、五反歩(約五十アール)の土地を与えた。
また、若者にも、
「東大寺は、全国の国分寺の総本山である。
この総本山の工事がはかどったのも、ひとえに白牛を連れてきたおまえには、
『国守(くにもり)』の姓を与えよう。」
と、姓を与えた。
その頃、百姓には姓がなかった。
姓があるのは身分の高い者だけだった。
だから姓を与えられるということは、百姓にとっては、たいへんな出世であった。
さて、「国守」となった若者は、いよいよ奈良の都に別れを告げて、
白牛とともに国へ帰ることになった。
そこへ、朝廷から役人が来て、
「これ若者よ、これから長門の国もとへ帰るとのことであるが、長い間ご苦労であった。
みかどもたいそうお喜びになって、さらにごほうびをとらせるとのことである。
望みのものがあればなんでも申してみよ。」
といった。
そこで若者は、
「別に、これといった望みもございませんが、
せっかくのおおせでございますので申し上げます。
宮中の女官を妻にいただければありがたく思います。」
と、いった。
役人は、思いがけない申し出におどろいたが、望みとあらばしかたがない。
役人は、このことを天皇に申し上げた。
天皇もお困りのようすであったが、若者の望むとおりに、
「葵の前(あおいのまえ)」という女官をあたえた。
こうして、美しい葵の前をいただいた若者は、天にものぼるここちで
葵の前を白牛にのせて都をあとにした。
奈良を出て数日たったころ、白牛がふいに病であおれた。
若者と葵の前は、ねるのもわすれてひっしに看病したが、
とうとう死んでしまった。
川島郷に帰ると、白牛の霊をなぐさめるために寺を建て、
白牛山龍蔵寺(はくぎゅうざんりゅうぞうじ)と名づけた。
一方、葵の前は、都が恋しくて恋しくて、いつも泣きくらしていた。
若者は、
「そなたのさびしそうな顔を見るのは、何よりつらい。
どうすれば喜んでくれるのか教えてくれ。」
と、困りきってたのんだ。
葵の前は、美しい顔をくもらせながら、
「ただ都が恋しくてならないのです。
このような草深いいなかにはどうしてもなじめません。
あれを見、これを見ても都のことが思い出されてならないのです。」
と、泣き泣きいった。
若者は、
「よしよし。それでは、都のようなりっぱな家をつくろう。
少しでも都になるように、なにもかもにせてつくってあげよう。」
次の日から、大がかりな工事がはじまった。
工事は大勢の番匠(ばんしょう:大工)によって、またたくまにできあがっていった。
家だけでなく、広い家の東がわを流れる小川を金ののべ棒でせきとめて、
葵の前の化粧水にしたりした。
このようにして、葵の前の心をひきつけようとしたが、葵の前の都を思う心は
前にもましてつのるばかりであった。
そのうち、一日中もの思いにしずんでいるようになり、食事もとらなくなった。
からだはどんどんやせ細り、とうとう都をこがれながら息をひきとった。
若者は葵の前をてあつくほうむり、その霊をまつるために社をたて、
そのそばにタブノキを植えたという。
それが萩市にある葵大明神といわれている。
今もその子孫といわれる国守家の庭には、タブノキが、
むかしをものがたりように建っている。
文:内田 清 絵:土肥一郎
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