山口の伝説
生き物にまつわる話
磨墨と生づき(するすみといけづき)―下関市豊浦―



  ある日のことだ。

一頭の馬が、御崎山(みさきやま:下関吉母)の牧(牧場)をきもくるわんばかりに

かけまわっていた。

かわいい子馬が見えなくなったのだ。

あちらの山、こちらの山と、母馬はかけまわった。

けれども、いくらさがしても見つからなかった。

  日は、まもなく海にしずもうとしていた。

母馬は、牧じゅうをさがしまわったあと、淵が谷(ふちがたに)の滝つぼまでやってきた。

ふと、その滝つぼをのぞいた。

子馬がいた。

母馬は、それが滝つぼにうつった自分のすがただとはしらない。

母馬は、うれしさのあまり、滝つぼの子馬めがけて身をおどらせた。

  子馬は、遊びつかれて、母馬のいるところへ帰ってきた。

しかし、母馬のすがたはなかった。

ヒヒーン。

子馬は、母馬をもとめていなないた。

それからというもの、母馬をさがしもとめる子馬のいななきが

御崎山の牧にたえることがなかった。

なかまの子馬がさそっても、いつもひとりで母馬をさがしもとめてはいなないていた。

  ある日、子馬は、岬のはしに立って、母馬をよんだ。

すると、海のむこうの蓋井島(ふたおいじま)から、

なつかしい母馬のいななきが聞こえてきた。

それがこだまとはしらない。

子馬は、高いがけから海にとびこんだ。

そして、荒波にもまれながら、蓋井島めざして泳いだ。

  やっと泳ぎついた島。

しかし、そこに、母馬のすがたはなかった。

うちひしがれた子馬は、牧に向かって、ひと声高くいなないた。

すると、こんどは御崎山の方から母馬の声が返ってきた。

子馬は、つかれもわすれて、また海へとびこんだ。

  御崎山と蓋井島の間を何回となく行き来しているうちに、

いつしか子馬はくろがねのようなたくましい馬に育っていった。

この馬が、のちに源頼朝(みなもとのよりとも)の愛馬となった名馬磨墨(するすみ)で

あったといわれている。

 一方、生づきという馬がいた。

この生づきは、ふしぎなことに、磨墨が母馬をさがしもとめてわたったという蓋井島で

生まれ育った。

生づきは、生まれて半年もたたぬうちに母馬に死にわかれた。

まだおさない子馬は、母馬をしたって、なきくらしていた。

  ある朝のこと、飼い主は、生づきの毛なみが、しずくがたれるほどぬれているのに

気づいた。

どうしたことだろうかとふしぎに思って気をつけていると、

次の朝も、その次の朝も、やはりびっしょりぬれている。

とうとう飼い主は、ねずの番で、しのわけを見とどけることにした。

  月の美しい夜だった。

月に向かって、子馬が大きくいなないた。

と、広い海をこえて、吉母のあたりからいななきがかえってきた。

子馬は、やにわにさくをこえて、海べに向かってかけた。

海べへ出ると、そのまま海へとびこんで、声のした方へめざして泳ぎだした。

子馬のすがたは、やがて海のむこうに見えなくなった。

  しばらくすると、こんどは、本土の方から生づきのいななく声が聞こえた。

やがて、波しぶきをあげながら、生づきがもどってきた。

「さては、こだまを母馬の声と思って、ああしていつも、海をわたっていたのか。」

母馬を思う子馬の心にうたれた飼い主は、だいじにだいじに子馬を育てた。

海できたえただけあって、生づきは、かんのするどい、すばらしい馬に成長した。

  こうして、生づきも東国の馬商人に買いとられ、

やがて頼朝の愛馬となったということである。

  のちに宇治川の合戦(1184年)で、梶原源太景季(ふじわらのげんたかげすえ)の

乗った磨墨と、佐々木四郎高綱(ささきのしろうたかつな)の乗った生づきとが、

宇治川で先陣争いをしたという話は、あまりにも有名である。

      文:菊野佐智子    絵:土肥一郎



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