山口の伝説
お宮やお寺にまつわる話シリーズ

白ギツネと福徳稲荷(ふくとくいなり)    〜下松市〜



  下松市花岡の上市(かみいち)に、朱塗りの大鳥居のある法静寺(ほうじょうじ)というお寺がある。

お寺に鳥居があるのは、めずらしいことであるが、それは、このお寺の境内に、

福徳稲荷大明神(ふくとくいなりだいみょうじん)がまつられているからである。

  いまから二百五十年ほど前、このお寺に称誉智順上人(しょうよちじゅんじょうにん)というおしょうさん

がいた。

おしょうさんは、生き物をかわいがる心のやさしい人であった。

こまった人や苦しんで人を助けたり、悪い心をもっている人を正しくみちびいたりして、

村の人びとからうやまわれ、したわれていた。

  秋のはじめのある日のことである。

おしょうさんは、いつもより早く朝のおつとめをし、よそゆきの衣(ころも)に着替えると、

じゅずをもって、外へ出た。

きょうは、徳山(とくやま)の町へ法事へ出かけるのである。

山門をくぐりぬける朝の風はすずしく、たいへんここちよかった。

「きょうもいい天気だわい。昼間はあつくなるぞ。

さあ、すずしいうちにでかけよう。」

と、山門のすぐ前の山陽道を西へむかって歩きだした。

  徳山の町まではかなり遠く、二里(約8キロメートル)はある。

とちゅう山を二つも三つもこえ、くねくねと曲がった山道を行かなくてはならない。

近道はあるのだが、山の中ややぶ道なので、朝のうちはつゆで衣がぬれる。

それで、遠まわりだが、広い道を行くことにした。

やっと徳山についたころには、お日さまは高いところにあがっていた。

  さて、法事を無事にすませると、帰りは午後のあつい日ざしをさけて、山林の近道を通ることにした。

めったに人が通らないので、道には草木がおいしげっていた。

草をかき分けながら大迫田(おおさこた)の白牟ヶ森(しろむがもり)の中ほどに来たとき、

急にあたりが暗くなった。

と思うと、ゴーッと風がふいて、草や木がザワザワと音をたてた。

「おかしなことじゃ。さっきまであんなに明るかったのに。」

と、ひとりごとを言いながら、しばらくそこにたちすくんでいると、まもなく、もとの明るさにもどった。

おかしなことがあればあるものだ、と気味悪く思いながら急いでその森をぬけ、

やっとお寺に帰りついた。

  お寺に帰ったおしょうさんが、

「やれやれ、きょうはよう歩いた。お茶でものむとするか。」

と言いながら、ふと手を見ると、手にかけていたはずのじゅずがない。

あわててそでやふところに手をつっこんでみたがない。

こまったことになった。おしょうさんにとって、じゅずはさむらいの刀とおなじくらいたいせつなものだ。

お茶をのむどころではなくなって、あちらこちらとさがしまわったが見あたらない。

おしょうさんはがっかりしてすわりこんでしまった。

  その夜は、とこについてもなかなかねつかれなかったが、昼のつかれで、

いつのまにかうとうとしはじめた。

すると、まくらもとで、

「わたしたちは、大迫田の白牟ヶ森で死んでいる白ギツネの夫婦でございます。

どうか、わたしたちのなきがら(死体)を、人間と同じようにこのお寺にほうむってください。

ねがいごとをかなえてくださったなら、このお寺や村の人々が火事やぬすみにあわないように

守ってさしあげます。

それに、おしょうさまが昼間になくされたじゅずも、ここにおとどけいたします。」

とう声がした。

目をさましてみると、おどろいたことに、なくしてこまっていたじゅずが、

まくらもとにちゃんとおいてあった。

  次の日、おしょうさんは、さっそく寺男をつれて白牟ヶ森へ行ってみた。

昨夜の声のとおり、白ギツネ夫婦が死んでいたので、すぐに死体をお寺にはこんだ。

そうして、人間と同じようにお経をとなえ、墓をつくって戒名(かいみょう:死んだ人につける名)

までつけてやった。

  その後、お寺や村の人々は、白ギツネに守られ、火事やぬすみにあうことがなくなった。

村人たちはありがたく思って、白ギツネの墓におまいりする人がたえなかったという。


  さて、それからおよそ百年たった文政(ぶんせい)十三年(1830)二月のことである。

この地方の代官所(だいかんしょ)で、たいせつな書き物がなくなった。

役人たちが困っていると、村人たちから白ギツネのことを教えられた。

さっそく法静寺の白ギツネの墓にまいり、願(がん)をかけた。

するとまもなく、その書き物が見つかった。

代官所では、お礼にお寺の境内に社(やしろ)をたてて、白ギツネをまつった。

そうして官領長公文所(かんりょうちょうくもんじょ:文書をあつかう役所)に願い出て、

この社に「出世福徳正一位稲荷大明神(しゅっせふくとくしょういちいいなりだいみょうじん)」

というりっぱな名まえもさずけてもらった。

  この後、このお社は「福徳稲荷」とよばれて、村内だけでなく、

まわりの村や町まで広く知られるようになった。

毎年、十一月三日には、豊作をねがって稲穂祭り(いなほまつり)が行われる。

この日には、「キツネのよめ入り行列」がにぎやかに町をねり歩いて、

見る人を楽しませている

おわり

         文:田中セツ子





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