山口の伝説
お宮やお寺にまつわる話シリーズ
身代わり名号(みょうごう) 〜宇部市〜
いまから五百年ぐらいむかしの話である。
長門の国(山口県)須恵の黒石(すえのくろいし:宇部市厚南区黒石)に蓮光(れんこう)という
おぼうさんがいた。
このおぼうさんは、もとは武将で、名前を伊東順光(いとうとしみつ)といった。
順光は室町幕府の六代将軍足利義教(あしかがよしのり)の家来で、武芸にすぐれ、
将軍にもしんらいされていた。
ある年、順光に、悲しいできごとがつぎつぎと起こった。
妻と子があいついで病死したかと思うと、こんどは将軍義教が家来に殺されるという
大事件が起きたのだ。
妻と子をなくした悲しみも大きかったが、主君が殺されたというおどろきもたいへんなものであった。
すぐさま味方の武将と力を合わせてうら切り者をうちはたし、主君のかたきをとった。
さきにいとしい妻と子をなくし、今また主君と別れてしまった順光は、生きていくはりあいをうしなって、
とうとう仏の道にはいるけっしんをした。
順光から話をきいた本願寺の蓮如上人(れんにょじょうにん)は、順光の心にふかくうたれ、
弟子にむかえた。
順光は、上人のもとでむちゅうになって仏の道を学んだ。
何年もの修行をつんだあと、上人に、
「蓮光坊、おまえは西国(さいこく:今の九州地方)へ行って、仏教を広めてきなさい。」
と、言われた。
そこで蓮光は、上人からいただいた六字の名号(南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の六字を書いたもの)
と木仏をもって、ひとり九州へ旅立った。
蓮光は、周防山口の湯田をへて、小郡から船にのった。
船には、黒石の番所の富岡七兵衛(とみおかしちべえ)という役人がのっていた。
蓮光と七兵衛は、半紙をしているうちにうちとけ、はじめから兄弟のように親しくなった。
七兵衛は、黒石に住むようにねっしんに蓮光をくどいた。
蓮光は、九州行きに心をのこしながらも、黒石に住むことにした。
黒石の村に住むようになってから、田や畑であせを流している百姓(ひゃくしょう)や道で会う人たちに、
蓮光はわけへだてなく声をかけ、元気づけた。
人々の元気なすがたを見ては喜び、やまいに苦しむ人を見ては同情をしはげます毎日をおくった。
そのうち、黒石の人々は、
「法師さま(ほうしさま:ぼうさん)の顔は、わたしたちとはどこかちがうようじゃ。」
「法師さまのおことばは、ほんとうにありがたいのう。生きかえるようじゃ。」
と、蓮光を心からうやまうようになっていた。
蓮光もまた、人々のかざりけのないあたたかさに心をひかれ、この村に住むことがほんとうに楽しく
なっていった。
その頃の須恵の黒石は、厚東川流域(りゅういき)のよい港だったので人の出入りも多く、
蓮光のうわさは口から口へと広がっていった。
蓮光をしたう人々はふえるばかりであった。
そんな蓮光をおもしろく思っていない者がいた。土地の僧たちだ。
僧たちは、黒石をおさめる大内の役人に、
「蓮光は、もともとは伊東順光という武将で、ひそかに大内のようすをさぐっているけしからん者です。」
「蓮光の教えはまちがっています。」
と、ありもしないことをならべたてた。
そのため蓮光は大内氏の役人にとらえられた。
役人は、いつも罪人をさばくときのように、ろくにしらべもしなかった。
蓮光は、
「わたしが仏の道を歩んでまいりましたのは、実は・・・・・。」
と、心のうちをあかそうとしても、役人はそんなことは聞きたくもないというふうに、
「民びとの個々rをばどわかしたお前の罪は、たいへん重い。」
と、打ち首の刑を言いわたした。
横州の浜で首をきられることになった蓮光は、その日から、牢の中でひとりしずかに念仏を
となえるようになった。
いよいよその日がやってきた。
刑場にむかうとちゅう、蓮光は、上人からいただいた名号を、役人の目をぬすんで
中野(厚南区)の土地にうめた。
刑場についた蓮光は、これから刑をうける人とも思えないほどおちつきはらっていた。
目をとじ、手をひざの上にのせて、刑をまっていた。
やがて刑の時こくになった。
役人は、しずかに刀をとって、蓮光のうしろにまわった。
「えいっ。」
役人は刀をふりおろした。
刑場をぐるりとかこんで見守っていた村人たちは、顔をおおい、手をあわせた。
念仏をとなえる村人たちの声がしずかにおこった。
が、それはすぐにおどろきのどよめきに変わった。
蓮光が、さっきと同じままの姿ですわってていたのだ。
もちろん首はそのままに。
首切役人は、青い顔をして、
「これはいったいどうしたというのだ。」
と、ふるえる手に力を入れ、また刀をふるかぶった。
が、その時だった。
「待てえっ、待てえっ。」
大声でさけびながら、早馬が刑場にかけこんできた。
城からの急ぎの使いだ。
「その刑は待たれい。法師さまには罪のないことがわかった。
この土地での布教はゆるされたぞ。」
使いの声は、山やまにこだました。
役人はあわてて刀をおさめた。
ゆるされた蓮光は、走るようにして中野にむかった。
うめておいた名号をほりだすためだ。
蓮光は、うめたあたりにつくと、急いで手でほりかえした。
「あっ。」
蓮光は息をのんだ。
手にとった名号は”南無”の二字のところでふたつに切れ、真っ赤に染まっていた。
話をつたえ聞いた村人たちは、
「なんでも、法師さまは、刀さえよせつけないりっぱな方だそうな。」
「いや、もっとふしぎなことは、名号のほうじゃ。
あの名号こそ、法師さまのみがわりになられた、たっとい(尊い)ものだそうな。」
うわさは国じゅうにひろがった。
それからというもの、あちらこちらから蓮光をしたってやってくる人がたえなかったという。
そののち、名号を埋めたあたりにお寺を建て、蓮光法師をむかえいれた。
それが今の蓮光寺である。
名号を埋めたといわれるところは名号塚といわれている。
身代わりの名号は、今も寺の宝として、たいせつにしまわれている。
おわり
文:永谷敏正