山口の伝説
錦帯橋の人柱(きんたいきょうのひとばしら) 岩国市
周防の国(山口県の東部)岩国に、錦川という大きな川が流れている。
この錦川にかけられた錦帯橋は、日本三大奇橋(めずらしい橋)のひとつに数えられ、
四季を通じて観光客でにぎわっている。
今からおよそ三百五十年前、岩国の初代殿さまとなった吉川広家(きっかわひろいえ)
自分の住んでいる横川と、城下町の錦見(にしきみ)を結ぶ橋をかけたいと思っていた。
しかし、それは、口でいうほどやさしいことではなかった。
なにしろ、錦川の川は、幅が二百メートルもあり、いったん雨が降り続くと、
濁流(だくりゅう)がうずをまき、かける橋かける橋がつぎつぎと流されてしまうのであった。
だから、もう橋をかけるのをあきらめて、渡し舟をつかってみたこともあったが、
それもあまり便利ではなかったので、やめてしまった。
このようにして、なかなかよい橋ができないまま、七十年もの年月が流れ、
岩国の殿さまも、三代目の広嘉(ひろよし)の時代になった。
広嘉は学問好きの殿さまであったので、なんとかして錦川に橋をかけたいと思い、
いろいろと考えていた。
ある日のこと、広嘉がかきもちを食べようと思い、金網のうえにおいて焼いていた。
すると、もちが焼けるにつれ、プーッとふくれて弓のようにそりかえった。
ひばしでおさえても、また、すぐにふくれてそりかえった。
おもしろいので、ふくれたもちを四つも五つも金網にのせてみた。
そのとき広嘉は、
「そうだ。こんなかたちの橋をかければいいのだ。
これなどんな大水にも流されることはあるまい。」
と、思わず声に出してさけんだ。
橋は今度こそはの期待を受けて、延宝元年(えんぽうがんねん 1673)九月三十日に
できあがった。
城下の人々は、今まで見たこともない形の橋を見て、
「この橋なら、どんな大水が出てもだいじょうぶだ。やっと流されない橋ができた。」
と、手をうって大喜びをした。
ところが、あくる年の五月、梅雨の長雨で錦川は大洪水となり、
人々が心配して見守る中で、あっという間に中央の二つの橋台がくずれ、
三つめのそり橋が流れ落ちてしまった。
どんな大洪水にも流れない橋だと信じていた人々は、
目の前でくずれ、流れ落ちていく橋を見て、泣くに泣けない気持ちで、言葉も出ず、
ただ立ちつくすだけだった。
そのうちに、だれともなく、
「もう、こうなったら人柱をたてて、水の神様のおいかりをしずめるほかにてだてはないぞ。」
という声がでてきた。
人柱というのは、生きた人間を橋の土台の下にうめて、工事の成功をいのるのである。
「わたしが人柱になりましょう。」と申し出る者などいるわけがない。
流れた橋のそばに集まったたくさんの人々は、ただ、がやがやと騒ぐだけだった。
すると、そのとき後ろの方で、
「ここにいる人の中で、横つぎのあたっているはかまをはいている者を、
人柱にしたらどうだろう。」
という声がした。
人々は今度こそはと思った端が流されたのを目のあたりに見て、
ぼうぜんとしていた時だけに、
「そうだ。それはいい考えだ。横つぎのあたっているはかまをはいている者をさがそう。」
と決まってしまい、さっそくはかまを調べはじめた。
ところが、横つぎのあたっているはかまをはいている者はたったひとり、
それを言い出した男だった。
男は、日ごろから信仰心があつく、自分が多くの人の役にたつのなら、
いつ命をなげだしてもいいと、人柱になる決心をしたのだった。
その男が、人柱になることが決まったが、男にはたいそう親思いの娘が二人いた。
二人の娘は、父親が人柱になることを知り、このうえもなく悲しんだ。
「お父様、なぜそのようなことを・・・・。」
と、父親にとりすがり、泣いて人柱になることをやめるようにたのんだ。
ところが、父親は娘たちの手をとり、
「よくお聞き。これまでに橋は何回もかけかえられた。
しかし、橋はかけてもかけてもすぐ流される。
その苦労と不便さはお前たちもよく知っているだろう。
こんどの新しい端は、お殿様ご自身が、長い年月をかけてくふうされ、
ようやくできあがったものなのに、また流されてしまった。
この大きな錦川は、日ごろはとても流れがしずかで、水もきれいだが、
いったん長雨がふると大洪水となり、人々の生活をおびやかす。
このような川に、流れない橋をかけるには、神様のお助けが必要なのだ。
わたしは、わたしの力でそれができればうれしいと思っている。
だから、もう悲しまないでおくれ。」
と、いい聞かせた。
娘たちは、父親の決心の強いことを知り、
「それではお父様のかわりに、私たちにやらせてください。」
「どうぞ、私たちに親孝行をさせてください。
お父様は、まだまだみんなのために働けるお方です。
お父様にかわって、私たちが、水の神様にお願いに参ります。」
と、涙ながらに父親をときふせた。
そして、二人の娘は、父親の身代わりに、人柱となって橋台の下に埋められた。
こうして、流れない橋「錦帯橋」は、その年の十月に、りっぱに完成したのである。
その後、錦帯橋の下の石の裏側に、
小さな「石人形」がついているのが見られるようになった。
石人形は、小さな小石が集まってできており、大きくても2センチメートルぐらいの、
それはかわいいものである。これを見つけた人々は、
「これは、あの人柱になってくれた娘たちが、石人形に姿を変えたのだ。」
と信じるようになった。
水ぬるも春のころ、橋の下を流れる水ぎわで小石を裏返してみると、
石人形が見つかることがある。
人々は、これをそっとはがし持ち帰り、親孝行な二人の娘をしのび、
子供たちに語り伝えたという。
吉川広嘉の時代に造られた錦帯橋は、昭和25年9月14日のキジヤ大風によって
流されるまで、276年間、どんな洪水にも流されることはなかった。
今、錦帯橋は、その当時の姿のまま造りかえられ、
その美しい姿を錦川の流れにうつしている。
おわり
文 : 川本 純子