第一回 特殊な経営環境で急増した民間の老人ホーム事業
高齢者数の増加だけでなく、核家族化による独居・高齢世帯の増加、長期入院の削減・廃止などの様々な要因が重なり、高齢者住宅事業の需要は、高まっている。超高齢社会に突入する日本において、有料老人ホーム等の民間の高齢者住宅整備は、社会的インフラの一つとして不可欠になっており、有料老人ホーム・高専賃など、民間の高齢者住宅は右肩上がりで増えている。
しかし、残念ながら、現在の有料老人ホーム業界は、その期待からは大きく離れたところにあると言わざるを得ない。
スタッフ不足や契約トラブルなど、さまざまな問題が発生している。国民生活センターによると、有料老人ホームに関する苦情・相談は900件(2006年)を越えており、入居中の事故や退居時の返還金トラブル等を巡って訴訟にまで発展しているケースも少なくない。誇大広告や経営の不透明さも重なって、公正取引委員会からは何度も警告を受けており、『札付きの悪徳業種だ』と自嘲気味に笑う経営者もいる。
実際の経営も安定している訳ではない。一般的に有料老人ホームの損益分岐は入居率の80%だと言われているが、近年開設されるホームの平均入居率は大きく落ち込んでおり、入居者不足、介護スタッフ不足で、経営が逼迫している事業者も少なくない。
何故、このような状況になっているのだろうか。
これらの問題を考えるには、高齢者の介護サービス事業、高齢者住宅事業が特殊な社会環境・経営環境の中で増加してきたということを、理解しておかなければならない。
昭和の終わりから発生した未曾有の不動産バブルが、平成3年に崩壊し、日本経済は、大きな傷跡とともに、その後始末に10年、15年という長い期間を要することになった。北海道拓殖銀行、山一證券などの大手金融機関が相次いで倒産し、銀行による貸し渋り、貸し剥がし、リストラという言葉が至るところで聞かれ、社会全体に先の見えない閉塞感が蔓延する。
介護保険制度が発足したのは平成12年、まさに先の見えない暗く長いトンネルの中での出発となった。行政施策は後手に廻り続け、税収は落ち込み、高齢化が急速に伸展する中で、介護が必要な高齢者を全額公費(税金)でサポートするという福祉施策では限界があった。この介護保険法によって、介護を一般的なサービスとして社会保険制度に財源を移行し、また市町村や社会福祉法人に限定されていた高齢者介護サービスが営利目的の事業として民間企業に解放されることになった。
その結果、成長産業として高齢者介護サービス事業・高齢者住宅事業に対する期待は一気に高まる。一つの企業の倒産が、新たな倒産を招くという連鎖倒産が社会問題化していたため、国が担保する社会保障施策で貸し倒れがないという安心感も経営者にとっては大きな魅力となった。特に、公共事業の減少、少子化による住宅着工件数の先細りによって、構造的な不景気に見舞われた建設業界・不動産業界にとっては、拡大する高齢者住宅事業は一筋の光だったとも言える。
高齢者介護に対する社会的な認識も大きく変わった。これまで高齢者介護と老人福祉は、ほぼ同意と捉えられており、『福祉のお世話になる』『社会的弱者・かわいそうな人』というイメージが強かった。この介護保険制度によって、介護サービスは権利として捉えられ、その関心の高まりから大手新聞社や経済誌の一面を飾るまでになっている。
この高齢者介護に対する意識変化、バブル崩壊後の長期不況という特殊な社会環境が、有料老人ホームの商品設計・事業計画にも影響を与えることになる。
その一つは、ホームヘルパー・介護福祉士などの介護労働者の増加だ。
失業率が高く、買い手一色の労働市場の中で、これからの成長産業である高齢者介護事業に従事したいという人が急増することになる。全国各地に社会福祉系の大学、介護福祉士の専門学校が数多く開設され、高齢者介護を担うホームヘルパーの養成所は、受講まで数ヶ月待ちという盛況となった。マスコミにも『これからは介護の時代』『福祉の時代』ともてはやされ、バブル期の『金儲け主義』の反省から、『人にやさしい仕事・感謝される仕事』というイメージもその人気に拍車をかけた。
二つ目のポイントは、ベンチャー企業ブームだ。
後で詳細を述べるが、介護サービス事業、有料老人ホーム事業は非常に特殊な事業であり、需要が高いということと、事業性が高いということは一致しない。事業実績・事業ノウハウが十分な構築された事業でもない。
しかし、この過剰な期待から、これまで介護や高齢者に対する関わりや知識が全くない、事業ノウハウの乏しい民間業者が大挙して参入した。新規参入が全てダメだと言う訳ではないが、有料老人ホーム等の高齢者住宅事業は長期安定経営が不可欠な事業であり、『勝ち組・負け組』『ヒルズ族』等の短期利益優先でできるものではない。また、失敗したから、利益が出ないからと言って簡単に止められるという種類の事業でもない。『ベンチャーの雄』と言われた企業・経営者がどのような手法を取っていたか、末路を辿っているのかは、ご存知の通りだ。
そしてもう一つ、この時代の特徴は低価格化だ。
景気浮揚の有効な手だてを示せずに、後年『失われた10年、15年』と言われた時代、不景気が長期に続く中で、平成13年に流行した言葉は『デフレスパイラル』だ。ハンバーガーや牛丼、カジュアルウエアなど、モノやサービスの値段が継続的に下がり、これらの一部の企業に注目が集まったことから、『安ければ売れる』という風潮が広がった。
この流れの中で有料老人ホームは、超高額商品というイメージから脱却するために、一気に価格が下がることになる。それまでは入居一時金が数千万円以上、月額費用も月額50万円以上という一部の富裕層のみを対象とした高額なものが中心だったが、介護保険制度以降は、入居一時金は300万円未満、月額費用も20万円程度というホームが増えた。中には一時金がゼロ、月額費用も15万円程度という、個室の新型特別養護老人ホームと大きく変わらないものも増えている。
もちろん、価格が相対的に下がった理由には、対象者がそれまでの元気な高齢者から要介護高齢者に変わったことによって、建物の広さや設備・サービス内容が変化したこと、介護保険からの収入が見込めることなど、様々な要因があり、同じサービスのものが安くなったわけではない。しかし、それらの理由を差し引いても、事業計画の段階で、価格を抑えるインセンティブが大きく働いていることは間違いない。
現在、運営されている有料老人ホームの多くは、バブル崩壊後の閉塞感の蔓延する日本経済の中で、『高齢社会で高齢者住宅の需要が高まる』という過剰な期待によるノウハウの乏しい企業参入と、『介護労働者の増加による買い手市場』『デフレによる低価格化』といった特殊な環境の中で計画され、急増したのだ。
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