所在地 | コメント | 一ノ鳥居 | 二ノ鳥居 | 神額 | 神紋 | 狛犬(左) | 狛犬(右) | 灯篭(左) | 灯篭(右) | 手水舎 | 本殿 | 神楽殿・境内社等 |
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麻賀多神社 (稷山) (成田市台方) |
式内社、場所は国道464号線沿いで宗吾霊堂近くに鎮座している。一ノ鳥居は印旛沼畔にありそこから見れば広大な大きさの社と言えようか。ニノ鳥居の道路を挟んで向かいに空地がありPK可能。ゆっくり参拝できる。一ノ鳥居で写真を撮っていると通りがかりの婦人が「夏にはお祭があってねぇ、上の台方とここの下方が交互にするんだよ。たいそう賑わうだから来てみなよ。」と声をかけて下さった。 | 印旛沼畔に建つ大鳥居。平成7年7月吉日とある。延暦2年(783年)勅使として大伴家持が参拝し建立と伝え爾後61年毎に建替えと石碑に刻まれる。 |
寛政7年(1795年)乙卯夏6月吉日、下総国印播郡、神主従五位下大田〜とある。額束部分には十六菊の神紋が入っている。 |
麻賀多神社とあり。 |
神紋:「麻の葉」以下境内由緒書から抜粋「此の地方は二千年の昔から麻の産地で麻縣とも云われた時代がありました。当時麻は織物類の原料として貴重なものでありました。朝廷の身に着ける衣はこの土地から献上されていたとのことです。其のため神様の御紋は特別に麻の葉になったと云うことであります。」 |
昭和59年7月31日と入っている。 |
同左。 |
拝殿前に並ぶ3対の灯篭。階段下にも2対の灯篭が並んでいる。宝暦9年(1759年)己卯冬11月、文化2年(1805年)夏6月など。 |
階段下の灯篭2基は慶応及び文政のもの。 |
宝暦11年(1761年)辛巳4月吉日公津稷山下方村とある。宝暦期の手水鉢としては風化が進んでおらず新しい感じを受ける。 |
本殿西向き1間社流造り。堅魚木3本、千木あり。寛文13年(1673年)建立と境内掲示板にある。また境内由緒書には元禄9年、千葉県神社名鑑には本殿は元禄10年(1697年)拝殿は宝永5年(1708年)再建とある。 |
神楽殿あり。筒粥神事及び獅子舞・豊年神楽あり。境内社には天神神社・猿田彦神社・青麻神社・幸霊神社・印旛国造神社・馬来田郎女神社・三峯神社・古峯神社・祓戸神社そして天之日津久神社が鎮座する。天之日津久神社は岡本天明の日月神示(自動書記)で有名。 |
麻賀多神社 (手黒) (成田市船形) |
台方の奥宮とも云われるが、最大の特色は境内に隣接して伝伊都許利墳墓の古墳が存在することである。公津原古墳群に属し横穴式石室と絹雲母片岩の箱式石棺を持つ。昨年(2008年)には神社に南東側に隣接した古墳から石枕・立花・刀などが発掘された。台方の稷山とこちらの手黒を混同している史料があるので注意を要する。場所は成田市の台地先端部に鎮座し印旛沼を見下ろす感じである。PKは道を挟んで空地がある。 | 「昭和60年6月吉日 在位60年」と脚部に入っている。右側の石柱には「総社 麻賀多神社」とあり。道からもよく見える。 |
朱塗りの両部型鳥居。一ノ鳥居から参道を進むと北側に折れた場所にある。 |
なし | 神紋「三ツ巴」。 |
昭和62年2月吉日。 |
同左。 |
2対あり、奥にわずかに写る新しい灯篭は、昭和56年2月吉日とある。 |
さて手前の歴史ある灯篭は「麻賀多大明神御神燈 総之下州印播郡 安永四乙未年(1775年)4月吉日 神主出雲守 従五位下藤原家斎謹言 願主北須賀村 土肥〜」とある。 |
これも「安永4年 願主北須賀村船形両村氏子 泉水荘左衛門 麻賀多大明神廣前」とある。北須賀村とは船形の西隣にあり印旛沼に面した村で現在もその名を残している。 |
本殿南向き流造り。堅魚木6本、千木あり。 |
境内社は、香取神社・祓戸神社・菅原神社・熊野神社・世直神社・八代稲荷神社・加志波比売神社がある。 |
麻賀多神社 (成田市米野→中台) |
千葉県神社名鑑記載の住所は米野121だが現在の場所に、ここ数年の間で遷座したとの事(2009年)。旧公津新田村の鎮守で現在の成田市米野・赤坂・中台・加良部・玉造の全部または一部を含む地域である。米野集会所脇にあり、本殿・鳥居の他の設備は見られない。 | 年月など見当たらず。 |
なし | なし | なし | なし | なし | なし | なし | なし | 本殿流造、南向き。堅魚木3本、千木あり。 |
浅間神社他。 |
麻賀多神社 (酒々井町酒々井) |
旧成田街道沿いに鎮座しており鳥居は東向きで、参道は右に曲がり拝殿と本殿がある。京成酒々井駅から旧道沿いに15分程度の場所。ところで酒々井町では「酒々井町観光ナビ」を神社仏閣史跡などに設置しておりQRコードを読取って案内をしてくれるスグレもの。半日程度の散策でも十分楽しめる。 | 朱塗の両部型鳥居で、鳥居前にある掲示板は残念ながら色褪せてしまい判読不能。 |
なし | 「麻賀多大明神」とあり。 |
神紋「三ツ巴」。 |
なし | なし | 年月など見られず。近年の建立と思われる。付近には昔の灯篭が分解されて置かれていた。 |
同左。 |
「奉納 御寶前」と「宝永2(1705年)乙9月吉日」とあり。風化が進み判読困難な部分あり。 |
本殿南向き(南南西)、流造り覆い屋根あり。 |
境内に、粟島神社・山王神社・妙見社・水神社・大杉神社などあり。 |
麻賀多神社 (酒々井町下台) |
国道296号下台交差点脇に鎮座、設備は新しいものが多く手水鉢などは神社ではちょっと見られない日本庭園風のものである。樹木が伐採された後なのか境内は明るくて風が爽やかだった。 | 写真で見るように、かなりがっしりとした造りの鳥居である。柱間がやや狭く、背が高い。 |
なし | 「村社 麻賀多神社」 |
判別し難いが「三ツ巴」。 |
昭和52年9月吉日 氏子中と記載あり。 |
同左。 |
昭和57年9月吉日と願主名あり。 |
同左。 |
昭和52年9月吉日と願主名あり。 |
流造り。本殿東向き。堅魚木5本、千木あり。 |
道祖神他境内社あり。 |
小麻賀多神社 (駒形神社) (酒々井町上岩橋) |
手の行届いた鎮守の森。日本昔話に出てきそうな社。多くの神社を訪れたがのんびりとしたイチオシの1社である。鳥居の左側には由緒を記した石碑が建立されており往時を偲ばせる。鳥居奥には新築された拝殿があった。神社の向いに空地があり駐車は可能だが是非歩いて訪れたい社である。 | 「昭和58年10月15日建立 施工 酒々井町小坂石材 奉納 氏子中」とあり。 |
なし | 石版に駒形神社と入っている。 |
神紋不明。 | 年記なし。 |
同左。 |
明和5(1768年)戊子6月、(産)宮駒形大明神御守とある。(産)は不確か。風化進みかなり読み難い。 |
本殿流造り、南向き。覆い屋根あり。酒々井町史によれば欅(ケヤキ)材間口4尺奥行3尺向拝付とある。 |
境内社には大六天社・八幡社・妙見社あり。 | ||
小麻賀多神社 (駒形神社) (富里市久能) |
小さな公園と消防団の脇に鎮座している。前の道は道幅の割には通行量が多い。参道を入って左右に境内社が鎮座する。狛犬灯篭ともに年月などが入っていなかったが明治期か江戸末期頃のものと思われる。 | 昭和49年4月3日丸山家八代〜とあり。 |
両部型鳥居。 | 未 | 神紋不明 | 年月などなし。 |
同左。 |
年月などなし。 |
同左。 |
明治45年1月吉日とある。境内内にも1基あるが、これも明治のもの。 |
覆屋根で確認できないが文献上では流造り。本殿南東向き。 |
歩射あり。写真左に弓と右に的。 境内社は妙正大明神・廿三夜月天王・五社様(五角柱地神塔)他と鳥居外に南無道祖神あり。文献上では、麻利支天王も境内社にあり。 |
小麻賀多神社 (駒形神社) (富里市大和) |
細長い参道を進むと拝殿とそれに続く本殿がある。拝殿は既に崩壊寸前、本殿前にはお賽銭箱の代わりにステンレスの箱が置かれていた。根木名川沿いの道から、車はすれ違えない程の道を台地上に向って行くと鎮座している。付近には新しく住宅地などが開発されているようではあるが、神社は手入れがされている気配は無く残念である。 | 平成8年3月吉日、富里大和講中とあり。 |
なし | 神紋不明 | なし | なし | なし | なし | 半ば地中に埋もれている。正面には願主名が並ぶ。年月は不明。 |
南向き流造り。正面には「白馬」の彫刻が見える。 |
疱瘡神の他に立派な境内社2基あり。文献では明治時代末に八幡神社・小安神社を合祀しているので、この2社かもしれない。 | |
麻賀多神社 (富里市新橋) |
鹿島川支流の高崎川右岸高台に鎮座する。この神社境内は非常にめずらしい造りをしており、まず鳥居前左川にお地蔵様一体がおられ、鳥居奥の右側にも仏様一体がおられる。階段を上り拝殿かと思った建物には神額(額殿)が掛かり、建物の真中を抜け、さらに一段登った処に本殿が鎮座する参道入口から2段構えの造りとなっている。本殿左脇の「五角柱地神塔」も必見。 | 平成16年8月吉日と願主名あり。 |
なし | 「正一位麻賀多大明神」とある。 |
神紋不明 | なし | なし | 明治31年5月吉日。 |
同左。 |
天保2(1831年)卯2月吉日と願主他の名前が刻まれる。 |
本殿南向き、流造り。 (写真提供:1948さん) |
境内社は五角柱地神塔、子安大明神等あり。写真は地神塔だが木が成長して塔を巻き込むようになっている。 |
麻賀多神社 (富里中沢) |
新橋の麻賀多神社から東へ500mの距離にあり、やはり高台に鎮座する。入口はうっかりすると見落としてしまうが参道を登ると赤い鳥居が見えてくる。灯篭・狛犬・手水鉢などの構造物は無く、本殿左側手前にある疱瘡神の小さな赤い社殿と座像が目を引く。この新橋・中沢地区の歴史は古く、平安時代末の久寿2(1155年)年の「印東庄郷司村司交名」にその名を見ることができる。 | なし | なし | 神紋不明 | なし | なし | なし | なし | なし | 本殿確認できず。資料には、本殿・幣殿、亜鉛板葺流破風造八坪としている。南西向き。 |
境内社には、疱瘡神宮 元文元年(1736年)辰年とある。社殿内には石祠と座像が鎮座している。 |
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麻賀多神社 (佐倉市大佐倉) |
京成線の大佐倉駅近くの標高30m近くの高台に鎮座している。線路沿いの道からは「産土うら参道」の石碑が立っている。道幅狭く、参拝には徒歩か自転車をお勧めする。 | 昭和56年7月吉日 氏子一同とあり。 |
なし | 神紋「三ツ巴」覆屋のため撮影不可。 | 昭和56年7月吉日と願主名あり。 |
同左。 |
なし | なし | なし | 本殿南西向き流造り。 |
子安神社・三峯神社他あり。 | |
麻賀多神社 (佐倉市大蛇) |
住宅街にある鎮守で樹木も間引きされているため明るい境内である。最近は防犯対策でもあるのか住宅街に近い処はこのように明るいカラっとした鎮守が多くなった。場所としては長熊廃寺跡にほど近く、国道296号線からすぐの場所にある。 | 記名等なし。石造両部鳥居。 |
なし | 麻の字の替わりに「摩」をを充てている。「夛」は「多」の旧字。 |
神紋「三ツ巴」。 |
願主名あり。 |
同左。 |
記名等見当たらず。 |
なし | 風化激しく「2月吉日」の他は読取れず。 |
本殿南向、流造り。 |
境内社は、弁財天・五角柱地神塔・天満宮・白幡神社・疱瘡神社等あり。鳥居前に道祖神の祠あり。 |
麻賀多神社 (佐倉市飯野) |
鹿島川の低地から飯野観音のある台地の上の出て行くのだが、観音様への参道が急峻で上りはともかく下りはものすごく怖い。一歩踏み外ずせば真っ逆さまに落ちてしまいそう。神社は飯野村と北側にある土浮村の鎮守も兼ねる。 | なし | なし | 神紋不明 | 平成17年7月吉日と願主名あり。 |
同左。 |
なし | なし | 文化6年(1809年)己巳9月18日、当邑氏子中とあり。 |
覆屋のため本殿を確認できなかったが、資料では流造り。向きは南。 |
境内社は見られなかったが、敷地外には道祖神の祠が鳥居から少しはなれた場所に鎮座。印旛郡誌には、境内社に「大杉神社」が見える。 | |
麻賀多神社 (佐倉市飯田) |
佐倉市飯田の地も飯野地区同様台地上にあるのだが北は中央排水路低地と南の鹿島川の低地に挟まれ、かなり急な、まるで崖のような坂道を登らねばならずアプローチに苦労した。しかしながら宝永元年(1704年)に印旛沼大洪水が襲い社殿他流失の厄に遭い、社地を現地に移転再興したと伝える。日曜日の朝に参拝したのだが地区の方たちが集まって清掃を行っていた。 | 石造両部型鳥居。 |
なし | 「正一位 麻賀多大明神」とある。社伝によれば永禄2年に「正一位」を贈られていると云う。 |
神紋「三ツ巴」。 |
なし | なし | 灯篭の受部と火袋部は崩れてしまい、近くに置かれていた。 新しい灯篭は昭和63年12月のもの。 |
文政13庚寅年(1830年)と入っているようであるが、暦上、文政13年は存在しない。その年(1830年)の12月に改元され本当は文政13年ではなく天保元年と云う面白い例。 |
風化激しく読取り難いのだが宝暦2年4月と見える。手水鉢も新旧2基あり、新しいものは昭和63年12月のもの。 |
本殿南西向き流造り。千木外向き、勝男木5本。 |
境内社は、蚕神社(昭和3年)、三峯神社及び五角柱地神塔あり。 |
麻賀多神社 (佐倉市岩名) |
京成佐倉駅北川台地の宮前中央公園西側に隣接する。鳥居と本殿を中心としたシンプルな造りの社である。神社西側には、山崎ひょうたん塚古墳(前方後円墳40m級)があり、神社境内も縄文から古墳時代の複合遺跡である。 | なし | なし | 神紋「三ツ巴」。 |
なし | なし | なし | なし | 文化7(1810年)庚午6月吉日。境内社の前の手水鉢。鳥居前にはコンクリートのような手水鉢がある。 |
ご覧の通り流造、南南西向き。 |
疱瘡神・道祖神他。 | |
麻賀多神社 (佐倉市江原新田) |
江原新田村は隣の角来村などから入植開墾した村で、詳細な史料である承応元年(1652年)の「下総国印旛郡荏原新田村開発覚帳」が残っている。つまり当地の麻賀多神社は古くとも承応期に鎮座したことになろう。境内は公園と隣接して境内社も鎮座する。 | なし | 神紋「三ツ巴」。 |
なし | なし | 平成10年10月吉日と願主名あり。 |
同左。 |
宝暦7年(1757年)の手水鉢、江原新田村と見える。正方形の手水鉢はめずらしい。 |
本殿北東向き、流造り。 |
稲荷大明神他境内社あり。 | ||
麻賀多神社 (佐倉市太田) |
場所は鹿島川右岸台地上にある。隣は根郷小学校分校跡地である。境内は良く手入れがされ樹木が間引きされた明るい境内となっている。旧社殿は火災で焼失、後再建される。 | 鳥居の島木だけが朱色に塗られているのもめずらしい。 |
なし | 「摩加多神社」としている。 |
神紋「三ツ巴」。 |
なし | なし | 昭和46年の灯篭。 |
鳥居脇に古い灯篭の断片があり、「文政4年(1821年)辛巳8月吉日」とあり。 |
文化4(1807年)丁卯9月吉日とあり。拝殿前にもやや小型の手水鉢がある。 |
本殿南向き。但し拝殿の中に収められ形式不明。 |
天満宮・三峯社・鷲宮神社・疱瘡神・五角柱地神塔他あり。 |
麻賀多神社 (佐倉市大篠塚) |
こちらも鹿島側右岸台地上に鎮座している。台地下の参道入り口から登り階段をしばらくを進むと鎮座している。境内は広く、よく見ると境内社もあちらこちらに鎮座している。鹿島側を挟んで古代物部郷に比定される四街道市の物井・山梨に隣接する。 | 少し見え難いが石造の両部型鳥居。年記などはない。 |
なし | 「夛」は「多」の旧字体を使用。 |
神紋「三ツ巴」。 |
なし | なし | 奥の小型灯篭には寛政11年(1799年)己未9月吉日と世話人などあり。 |
火袋は失われ柱の直上には笠が乗っかっている。(奥・小型灯篭)大型灯篭に記名等見当たらず。 |
明和7年(1770年)庚寅9月吉日 大篠塚村氏子中とある。正面には流水と菊模様が入る美麗な手水鉢である。 |
本殿南向き流造り。 |
めずらしい木製の5角柱地神塔。神名には稚産霊神・豊受姫神の他に五穀豊穣などと記されている。その他境内社には子安大明神・天満宮等あり。 |
麻賀多神社 (佐倉市鏑木) |
近世佐倉城東側に鎮座。城下の発展と共に、元宮の船形・台方と肩を並べる程の社。早朝6時に参拝したのだが、早くから散歩がてら参拝される人が後を絶たない。 | なし | 神紋「三ツ巴」と「麻」。 |
昭和61年11月吉日 岩名 願主名あり。 |
同左。 |
天保?年秋8月 風化のため見え難い。1830〜40年頃。 |
同左。 |
願主名と正面に「三ツ巴」紋。 |
本殿南南西向き。流造りだが、幣殿で拝殿と連結している。 |
摂社三峯神社・同稲荷神社。 | ||
麻賀多神社 (佐倉市城) |
灯篭・狛犬などは比較的新しいものであるが旧六崎村(六崎・城・石川・表町)の鎮守。境内内外には庚申塔やその他の祠が多数見え、かつての村の鎮守を伺える。拝見させていただいている間にも、散歩途中の方が参拝されていた。 | 石造両部型鳥居。平成元年。 |
なし | 神紋「三ツ巴」。 |
昭和11年10月吉日と願主名あり。 |
同左。 |
記名等なし。 |
風化激しく読み難いが明和元年甲申(1764年)諸願成就とある。 |
本殿南東向き、流造り。 |
道祖神・五角柱地神塔他あり。 | ||
麻賀多神社 (佐倉市高崎) |
比較的細長い参道の奥に拝殿と本殿、左側に境内社が並ぶ。参拝した時には、ちょうど本殿覆屋の修理で中の本殿を拝見する事ができ、拝殿の中には「稚産霊命」の額がかかっていた。境内社の粟栖神社は、印旛郡誌では祭神を保食神としているが、物部氏関連氏族との関係も考えられるのかもしれない。 | 石造両部型鳥居。平成20年8月吉日 高崎区・八木区氏子一同建之とある。 |
なし | 修繕中の隙間から本殿の鬼板部分を撮った。わかりずらいが、神紋「三ツ巴」が見える。 |
平成11年7月吉日と願主名あり。 |
同左。 |
嘉永4辛亥(1851年)4月吉日。 |
同左。 |
風化激しい。宝暦9年(1759年)か。9月大吉日とはめずらしい。 |
本殿流造り南向き。 |
大鷲神社・天満宮・粟栖神社・疱瘡神社・三峯神社・天照皇大神・道祖神他。 | |
麻賀多神社 (佐倉市高岡) |
ここ高岡の麻賀多神社を見つけたのは全くの偶然。千葉県神社名鑑にも印旛郡誌にも掲載が無い小さい社。。しかしながら、本社他境内社にも手が行届いてとても気持ちがいい社でもある。 | なし | 堅魚木先端部にあった「三ツ巴」。 |
なし | なし | なし | なし | 三峯神社・浅間神社・子安神社・天満宮神社・熊野三社大権現。 | ||||
小麻賀多神社 (駒形神社) (佐倉市内田) |
印旛郡南部の鹿島川上流部に位置する社である。位置的には谷を一つ越えれば千葉市になる。大通りから一本中に入った場所で入口には消防分団、境内内には小さな公園があって子供とお爺さんが遊んでいた。境内は広く、西側の妙宣寺と北側へも続いているようであった。付近には飯塚古墳群などがある。 | 明治39年5月建立。日露戦紀念とある。 |
なし | 神紋「三ツ巴」。 |
文久3(1863年)癸亥年春2月穀旦、願主〜とあり。 |
石工 千葉町川口屋〜とも刻まれている。 |
天保13(1842年)壬寅年9月吉日とあり。 |
同左。 |
右側の手水鉢は元治元(1864年)甲子年6月吉日、左側は延享元(1744年)甲子年11月吉日とある。同じ甲子年に新しくしているのも興味深い。 |
本殿南向きであるが母屋のために確認できず。資料には銅板葺寄棟造とある。面白いのは屋根の上の神紋を付けた棟上部が乗っかっている。 |
上の写真は本殿奥に鎮座する境内社。付近の方に伺ったところ「奥宮」と呼ばれていると云う。その他、天保6年の妙荘(正?)明神等あり。 |
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小麻賀多神社 (駒形神社) (八千代市勝田) |
勝田地区の鎮守。すぐ近くにある円福寺が別当と思われる。境内社の白幡大明神の祠に「別当勝田山円福寺〜」とある。明るい境内とよく整備された境内社が目に付く。本殿は覆い屋根で中の本殿は見えない。車1台分程度の駐車スペースはありそう。 | 木製両部型鳥居。 |
なし | 神紋不明 | 文久元年9月吉日立とあり。 |
同左。 |
風化で判別しづらいが「嘉永3●年5月吉日」と思われる。 八千代市の歴史資料編には、嘉永3年としている。 |
嘉永4亥年(1851年)12月吉日氏子中、願主がある。 |
文政2己年(1819年)願主 若者中とあり。 |
朱に染められた本殿、流造り。普段は覆屋で見られない。 (写真提供:1948さん) |
疱瘡神・仙元宮・天満天神・古峯神社・白幡大明神・子安大明神他。神事にはオヤ・セナ・カカによる三匹獅子舞が二百十日にあたる9月1日に行われる。(八千代市教育委員会境内掲示板より抜粋) | |
小麻賀多神社 (駒形神社) (八千代市上高野) |
鬱蒼と茂る森に細い道、昼間でも薄暗いよくある鎮守の風景。船橋五日市の石工さんは現在の東船橋あたり、千代田町の石井さんは四街道あたりの方、100年前の情景が浮かんでくる社である。昭和51年10月に本社改築、拝殿新築。 | 「明治25年9月吉日建立」とあり。 |
なし | 「駒形神社」の神額。 |
神紋「三ツ巴」。 |
「明治12年12月15日」、「船橋五日市 石工勘次郎」とある。 |
左の年月の他に「千葉県印旛郡上高野村伊勢太講中」願主多数あり。 |
手前(写真左)の灯篭は文久2(1862年)壬戌9月とある。 |
奥(写真左)は「大正13年1月1日寄進 印旛郡千代田町吉見区石井〜」とあり。 |
「天保13年(1842年)寅6月、当村氏子中」と刻まれる。 |
本殿南西向き流造り。 |
金毘羅神社・疱瘡神あり。 |
麻賀多神社 (八千代市神野) |
印旛郡誌にその存在を記す。「まかたさま」として地元でお参りされていた社である。平成平成21年6月再建。当初同敷地内にある他社と勘違いしていた。m(_ _)m同年10月写真差換及び記事改定。 | 平成21年6月建立。 |
なし | なし | なし | なし | なし | なし | なし | 本殿南向き石祠。 |
印旛郡誌には「大巳貴命社」が境内社として掲載されているが、同敷地内には金色の坐像が鎮座する。 |