所在地 | 境内由緒書 | 千葉県神社名鑑 | 印旛郡誌 | その他 |
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麻賀多神社 台方(稷山) (成田市台方) |
神代のその昔、日本の国が豊葦原の瑞穂の国と稱された時代がありました。当時の神でいわば我が国の初めのころの神とも云へましょう天照大神の妹神になります産業を司どる神として生まれました。此の地方は二千年の昔から麻の産地で麻縣とも云われた時代がありました。当時麻は織物類の原料として貴重なものでありました。朝廷の身に着ける衣はこの土地から献上されていたとのことです。其のため神様の御紋は特別に麻の葉になったと云うことであります。昭和の今日でも初着には麻の葉の「がら」又婚礼・棟上・地鎮祭等お祝ひにはかならず麻を用いるのは此の神様の象徴で二千年の昔から現在まで、づっと続いて居ります今から一千七百年余前(応神天皇)のころ伊都許利命が印旛の国造(地方長官)に任命され、この地方の開発につくされました時に夢の中で洞木の下の地中に玉(勾玉)あり掘り出して和久産巣日の神を祭れとのお告があり勾玉を掘り出して御鏡と共に霊代として併せて祭り麻賀多の大神として崇め奉りましたこのお社は国幣社で勅使の往来があり印旛湖畔に建つ大鳥居(一の鳥居)は約一仟二百年前(桓武天皇)のころ勅使大伴家持の寄進によるものとされて居ります。この地方には古くから人が住み周囲が海であったことから昔この地方を神津(神のミナト)といわれておりました。現在の本殿(大宮殿)は元禄九年の再建にて神楽と共に市文化財になって居ります。(境内掲示板より) その昔日本武尊東征の折、この地方の五穀の実りが悪いのを知り、里人を集め大木の虚に鏡を掛け、その根本に七つの玉を埋めて伊勢神宮に祈願いたしましたところ、その後は豊年がつづきました。又三世紀の頃、印旛国造伊都許利命は、この御鏡を霊代として祀られる、稚日霊命の霊示をうけ、玉を堀り御霊代として、稚産霊命(伊勢外宮の親神)を祀り、麻賀多真の大神と崇め、八代神津の両郷を神領として奉斎しました。その後推古天皇十六年(608年)新に宮居をこの地に建て、麻賀多の大宮となづけました。本地御鎮座以来一千三百六十余年、印旛郡下十八麻賀多の総社として、筒粥祭・御田植祭・豊年神楽などの古い儀式が継承され御祭神にゆかりのある古い地名等も現存しています。又明治五年に郷社に、昭和十年御神本大杉は、県の天然記念樹に、更に近年、御本殿は市の文化財に神域は史跡に撰ばれ、産業・開運・長寿・厄除けの守護神として崇められていることはよく知られています。 ここに伊勢神宮御遷宮記念の当社改修を機に、本碑を奉献して神徳のいよいよ万民に、光被されんことを祈る次第です。(境内石碑より) |
当社は古く「延喜式」に名を止める由緒ある神社。大神紀、印旛国造伊都許利命が神託を受け、地中より珠を得て御鏡と共に霊代として公津郷手黒の地に祀り、推古の御代、現在の稷山の地に寓居を定め麻賀多大宮殿と号した。現本殿は元禄10年、拝殿は宝永5年の再建。桓武治世には大伴家持卿が勅使として参拝、印旛沼畔に大鳥居を建て寄進し、以後61年毎に建替え現在に至っている。また本殿裏の御神木は樹齢1300年と称せられ、幹廻り10mの大杉。昭和10年千葉県天然記念物に指定される。 | 郷社麻賀多神社。 ●台方にあり祭神を稚産霊神となす。応神帝の朝印波国造伊都許利命の齋祀せる所なりという延喜式内神社の1つ。(中略)印旛沼畔に一大華表あり延歴2年9月勅使大伴家持卿始めて建立せる所なりと云う。爾来61年毎に建替を定例とする又郡内の一勝地なり。●延喜式印旛郡字稷山鎮座創祀伝聞に云う、当地方は遠く橿原朝阿波の忌部の開拓に係わり、地味麻に適し黄麻生産之を朝献するを以て地名を麻縣と云う。当区には今に麻野と云う旧名を残し是は往時の麻播殖の地なり。人民群居一都村に化し、人民等穀食の神を祭り地名を以て麻賀多(フサガタ)神社と称す。麻紡績織事業の発展日進の隆昌に向いしも、中頃衰微し神社もまた敗退に属するに至り茲(ココ)に賀朝(志賀高穴穂宮=景行・成務天皇?)縣主の再興に係わりし所の神社たり。爾来縣主の祭祀するところたり。難波長柄豊前(碕カ)朝(孝徳天皇)の改新以来官幣勅使の奉幣あり後、国幣を以て国司の祭るところとなり、往時七氏の神官五畑の下社家等(共に神領を食む)あり諸祭を弁じ来たりしも、天正度神領没収以来神官等自然に解任の止む無き不幸に陥落し遂に帰農して民間に投ずるに至り(今公津の七軒百姓と云う者是なり)是を以て寺院の神勤とする所となれり(中略)明治5年10月佐倉藩士門脇氏当社の神官となり(中略)因に云う当区には七氏七霊七井七坂七免田(当社祭田)七干場(祭田稲干場)七塚等総てで四十九個、往古より之を公津の七不思議と云う。●神名帳考に云う、麻賀多神社は姓氏録の豊城入彦命六世孫下毛野君奈良弟真若君あり麻賀多者真若田なるか云々。●姓氏録左京神別上、真神田曾彌連饒速日命六世孫伊香我色乎命男気津別命之後也。大和国神別、真神田首伊香我色乎命後也。●栗田寛(幕末明治期の国学者)云う、旧事紀の天孫本紀に伊香色雄四世孫に物部印葉連公と云いありて真神田氏と同祖なれば麻賀多の神の印旛郡に座するに由縁あるか匝瑳連祖なる小事連も伊香色雄五世孫にて匝瑳郡を建てしは下総は元物部氏に由縁ある国なるべし。 |
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麻賀多神社 船形(手黒) (成田市船形) |
伊都許利命は、神武天皇の皇子神八井耳命の八代目の御孫で、応神天皇の命を受けて 印旛國造としてこの地方を平定され、産業の指導などに多くのご功績を残されています。その昔、日本武尊ご東征の折、大木の虚に鏡をかけ根本に七つの玉を埋めて伊勢神宮に祈願されました。命は「この鏡をあがめ祀れば永く豊作が続く」との教をききその鏡をご神体として、この地に稚日霊命を(手黒神社)祀り、その後ご霊示によって、七つの玉を掘り出して稚産霊命(台方神社)を祀り、共に麻賀多眞大神として里人の崇敬を指導されてから、益々豊年と楽土が続きました。なお、佐倉藩磯部昌言氏の記す佐倉風土記を始め塚上の古建碑等によって治績が広く知られ、又明治四十四年大正三年の二回に亘って古墳が保存され、近年成田市の史跡に選ばれました。御墳墓は土砂が少しけづられている様子ですが、周囲120m高さ7mの方形墳で南の麓には、広さ約5uの岩屋と、西麓には直刀・金環・鎧片等を納めた石棺とその出土品が現存しています。伊都許利神社々務所(境内掲示板より) | 1800余年前、日本武命が国内平定のため水路ご東征の折り、当地に上陸されて農作の不振を知り、里人を集めて大杉の幹に鏡を掛け、伊勢神宮に祈願され、「印波国タマ(草冠に鬼)瀛津鏡(オキツカガミ)」として崇め祀れば、永く豊作が続くと教えられた。応神の御世、伊都許利命によってこの地に瀛津宮(オキツミヤ)として祀られる。その後、天照稚日女社、麻賀多大明神、同大神宮と改称、産業諸願成就の神として特に千葉家の崇敬をうけた。式内社麻賀多総社。境内地は市の史蹟とされている。 |
村社。船形村字手黒にあり。稚日霊命を祭る。人皇16代加嶋豊明天皇(*15代応神天皇代の間違いか)御代我此国ニ至りて巡り視るに土地甚(ハナハ)だ悪く穀物の成り力てまし(実りがよくない?)と思い故に老民を召して問えば「昔より穀物実らざりしを麻支向之日代天皇(纏日向代=景行天皇)の御代、小碓命、東夷を言向け平和し(古事記に記載あり)、行幸の時(中略)、大なる杉木のウロへ鏡を掛給いいて伊勢の大御神を降ろかし奉り給いて、この鏡を瀛津鏡と崇め、祭れば米麦自ずから実ると教え賜りしと伝える。(一部略)印旛国瀛津鏡と崇め奉りて大宮柱大敷立て鎮め奉りて若日霊命と称え奉る。奇々妙々なるかな、甘き雨降り甘き泉湧き出し殖した田も播し畠も益々開け実り給いは民悦びて大神を敬いき故爾天照稚日霊命教えて曰く稚年須毘之命を祭るにうろ木の下に玉あり、掘出し奉れと教え七つの玉えお取出して奉るにより麻賀多直能大神と称し奉りしかば〜。印旛国造伊都許利命か記す是れの文は神代の文字を以て記し賜いし事、書直し置くも、其の様の誤りを有るかは子孫等比べしよからん。推古天皇16年国府津台稷山に和久牟須日能命を遷し奉りて大宮殿と称し、共に麻賀多直の大神と祭りける。(中略)延喜18年延喜式の御文に記させ賜いき故、御宝の玉とを名なせるを畏みて麻賀多神社と御名を改め給いき。(抜粋要約) | |
麻賀多神社 米野 (成田市米野) |
なし | 神社名鑑に縁起記載なし | 村社。公津新田村字宮下にありて稚産霊命を祭る由緒不祥、或云う宝永元年甲申(1704年)正月勧請にかかると。社殿間口三間奥行三間境内250坪。神官は、稷山久興にして氏子12戸を有す。然るに此の地は昔公津村の一部なりしかば、稷山の麻賀多神社を奉還せしものか。 | 旧公津新田村。村名は公津村の原野を開拓したことによる。明暦年間(1655〜1658年)に成立。印旛郡佐倉藩領。麻賀多神社は宝永元年(1704年)本殿再建、この時の遷宮の導師は円能寺(現円応寺)の本寺である成田山新勝寺の住職照範であったと伝わる。(日本歴史地名大系より要約抜粋) |
麻賀多神社 酒々井 (酒々井町酒々井) |
麻賀多神社は印旛沼の南東部、酒々井町を中心として、佐倉市・八千代市・成田市・富里町などの地区に19社、駒形(小麻賀多)神社5社を加えると24社がある。祭神はすべて稚産霊命であることから、古代には麻賀多神社のある地区は同一氏であったと推定され、その本宮は成田市台方の麻賀多神社であり印波(印旛)国造と深い関係のある氏族の氏神であろうとの説もある。 (以下酒々井町史に続きあり)古代この地方は、麻の産地であり、麻県(マノアガタ)と云われていたのが転化して麻賀多神社なったとの説もあり、五穀を司る農業神であるとも伝えられている。 |
後冷泉天皇の天喜年間(1053〜1057年)の創祀で、本佐倉城主千葉介の崇敬した社という。 | 無格社、酒々井村字内方にあり稚産巣日命、天香々瀬男命、水波ノ売命、火具土命、少名彦命を祭る。創建不詳。 | 麻賀多神社(無格社)は字内方(下宿)、酒々井小学校の隣にある。酒々井の鎮守であるが日常の管理は下宿・新堀地区で行っている。(中略)祭礼は10月15日幟旗が立てられ山車が出て町内を練り歩き賑やかであったが久しい間中止されている。 由緒:社殿に曰く、酒々井の地は後冷泉天皇の天喜年間発祥せし部落にして、長禄元年(1457年)、千葉氏輔胤この地に城を築きしより、その滅亡天正18年迄城地なりしかば、城地鎮護の神として崇敬厚く、農民生成の神として深く信仰したり云々。(酒々井町史より) |
麻賀多神社 下台 (酒々井町下台) |
なし | 創祀年代等明らかでない。明治以前は麻賀多大明神と称号した。 | 村社、下台村字宮ノ前にあり稚産巣日命、猿田彦命を祭る。創建不詳。 | 麻賀多神社(村社)は、字宮ノ前にある。昭和51年国道296号線工事に際し、境内の一部が削られたのを機会に本殿・拝殿・鳥居・灯篭など一切が新造された。御神体は、祭神稚産霊命、高さ68pの木彫り像が鈴木満寿夫によって作られ安置されている。由緒不祥なれど明治以前の古文書、村人別帳にいずれも「氏神麻賀多大明神」とあり、また住所は字殿ノ内(現在は宮ノ前)と称し、境内前の窪地を神楽谷(神楽作)と称した。(酒々井町史より) |
小麻賀多神社 (駒形神社) 上岩橋 (酒々井町上岩橋) |
鎮守地:酒々井町上岩橋字天神原1795、御祭神:稚産霊命、御神徳:五穀豊穣の神、由緒:天文中(1532〜1553年)、創建者:木村加賀守胤綱、胤綱は千葉家23代利胤の御一家、木村出雲守胤重の息男にて岩橋に城居し妙楽寺も再興す。当区木村氏の祖。御神体:成田市台方麻賀多神社より御遷座。元来は乗馬御神体におわしたが元禄年間(1688〜1703年)彩色の座像御神体に改められた。社名:当初は小麻賀多神社と称し、後に駒形神社と字を改む。再興:天正7年(1579年)木像造立。元禄14年(1701年)彩色木像造立(江戸大仏師 法橋香澄)寛政9年(1797年)社殿再興。 | 天文年中に木村加賀守胤綱の創建。、胤綱は千葉家23代利胤の御一家、木村出雲守胤重の息男にて岩橋に城居し妙楽寺も再興す。御神体は、成田市台方麻賀多神社より遷座。当初は小麻賀多神社と称し、後に駒形神社と称号を改める。天正7年木像を奉献、社殿再興し、元禄14年彩色木像造献、寛政9年岩橋村名主、福田次郎右エ門外檀中にて再興、明治42年本殿建立、同44年拝殿建立。同43年妙見社・八幡社・第六天社の前記三祭神を合祀する。 | 無格社、上岩橋村字天神原にあり稚産霊命、天御中主命、誉田別命、高皇霊命を祭る。天正7己酉3月5日、木村加賀守胤綱創建(中略)。神官は公津村船形麻賀多神社社掌太田家效にして氏子百戸を有す。 | 創建は中世末期の天文年中(1532〜54年)に当時この地を領知していた木村加賀守胤綱によると伝えられている。胤綱は、千葉氏22代利胤の一族であった木村出雲守胤重の子で岩橋殿と尊称され、日蓮宗妙楽寺と駒形神社を創建したといわれている。そのために駒形神社は、神仏混淆の時代には妙楽寺の支配下になっていた。このために氏子は、上岩橋地区の妙楽寺の檀家が主となっている。祭神は稚産霊命で印旛沼南部に分布している(麻賀多神社)19社・駒形神社5社と同系統である。公津の麻賀多神社の分霊で小麻賀多神社と称したのが駒形神社となったもので、麻賀多神社系統の氏族の氏神であるとの説がある。(酒々井町史より) |
小麻賀多神社 (駒形神社) 久能 (富里市久能) |
なし | 神社名鑑に縁起記載なし | 村社。久能村字比丘尼内にあり稚産霊命・大己貴命・面足少名彦命・惶根命を祭る創建不祥なれど(中略)本殿間口4尺奥行6尺7寸雨屋間口2間3尺奥行3間。 | |
小麻賀多神社 (駒形神社) 大和 (富里市大和) |
なし | 神社名鑑に縁起記載なし | 村社。大和村字松花にあり稚産霊命・応神天皇・木花開邪姫命を祭る創立不祥なれど(中略)社殿間口4尺奥行4尺。 | |
麻賀多神社 新橋 (富里市新橋) |
なし | 弘化4年(1847年)再建。それ以前不祥。神階正一位。明治9年4月10日村社。 | 村社。新橋村字宮ノ下。由緒不祥。 | |
麻賀多神社 中沢 (富里市中沢) |
なし | 創建年代不詳だが、隣部落新橋麻賀多神社よりの分霊という。 | 村社。中澤村字花輪台。由緒不祥。境内藤崎庄左衛門他廿持ち。 | |
麻賀多神社 鏑木 (佐倉市鏑木) |
麻賀多神社という社名は、今から1050年前の政令というべき「延喜式」の下総の項に、この社名がすでに記載されております。佐倉の総鎮守、産土さまで遠い昔から「まかたさま」とこの地方の人々にしたしまれて崇敬されてきたお社です。徳川時代は佐倉城の大手門近くに位置する神社なので歴代の城主、家臣も城地鎮護の神としてあがめました。現在の御社殿は天保14年藩主堀田正睦公が再建、境内全面の石垣は明治初年に最後の藩主同正倫公が奉納されたものです。(境内掲示板より) | 佐倉の総鎮守で、はじめは上代この地方に移り住んだ多氏族の氏の神としてまつられる。その後、時代が下って慶長年間、神社の西方に佐倉城が築かれてからは城地鎮護の神としても代々の藩主や家臣にあつく崇敬され、社殿の度々の造営や神鏡・太刀などの宝物類の寄進が続いた。現在の社殿は天保14年、幕府老中首座を務めた堀田正睦公の再建になり、社宝の甲冑(紫裾濃胴丸)は、最後の藩主同正倫公が奉納するところである。 | 村社。鏑木町字七峰ににあり稚産霊命を祭神とす。社殿は九尺四面。 | 創立年代詳らかでない。明治2年、社人の住家が火難の際古文書ことごとくが焼失してしまい徳川以前の事は知ることができない。徳川時代となり土井利勝が佐倉城主となってからは本社がその外郭にあったため城地鎮護のの神として代々の城主が大いに崇敬せられた。(佐倉市誌資料より抜粋要約) |
麻賀多神社 大蛇 (佐倉市大蛇) |
當摩賀夛神社は、大蛇の鎮守で古くから産土様として崇敬されてきたお社です。このお社は大同元年、當地に鎮座すると伝えられ、棟札等によると「寛文十一年九月吉日奉再造」とあります。御神木は、樹齢およそ600年を数え、幹廻り二丈六尺もある杉の大木でした。ここは街道筋であったため、近郷近在の人々から「大杉様」と親しまれ、大勢の方が参拝されたと言い伝えられて来ました。再度、落雷に遭い昭和8年8月、地元の人達に惜しまれつつ伐採されました。(境内摩賀多神社略記より) | 大同元年鎮座と伝える。棟札に「寛文十一年(1671年)九月吉日奉再造」とある。 | 村社。大蛇村字麻賀多脇にあり。稚産霊命・天照大神・大括巳貴命・少彦名命・埴安姫命・稲魂命・猿田彦名命・菅原道真・日本武尊・大国主命・須勢理毘売命を祭る。創立不祥(中略)社殿間口八尺奥行九尺五寸。 | 社伝によれば大同元年(806年)創立で寛文11年(1671年)再建と云う。佐倉風土記に大蛇社とあるのがこの神社である。祭礼は10月15日。(佐倉市誌資料) |
麻賀多神社 大佐倉 (佐倉市大佐倉) |
なし | 千葉県神社名鑑に記載なし。 | 無格社。大佐倉区字大御堂にあり稚産霊命を祭る。由緒不祥社殿間口一間一尺奥行一間一尺。 | 村落の中央部最高所に奉斎しあり印旛沼を眼下に見て眺望絶住、おそらく大佐倉村成立と同時、農民が五穀の神を以て産土神として創建したものであろう。祭礼は10月15日。(佐倉市誌資料) |
麻賀多神社 飯田 (佐倉市飯田) |
当麻賀多神社の御祭神稚産霊命は、豊受大神の御親神にまします。社殿の草創は極めて古く私共の祖先が住みついた頃当地で一番高く清浄なこの丘を卜して奉斎したものと伝承し子孫また朝夕神威を仰ぎ神恩を畏みつつ今日に及ぶ。従来の社殿は今を去る260年前の享保13年12月の造営であったが、昭和61年5月不慮の災禍によって焼失恐懼した氏子一同は協力一心敬神和睦の美風をもって復興に務め茲(ココ)にめでたく遷宮祭を斉行した。当社弥栄氏子中の繁栄安泰を祈念し碑を建立す。昭和63年12月吉日。(境内記念碑より) | 創祀年代等明らかでない。永禄2年正一位の神階を受け、明治3年まで正一位麻賀多大明神と称す。 | 村社。飯田区字宮の腰にあり。稚産霊命を祭る由緒不祥社間口一間奥行一間。 | 祭礼は10月15日。社伝によれば永禄2年(1559年)神道管領より正一位を贈られている。また、宝永元年(1704年)印旛沼大洪水の際社殿社室流失の厄に遭い、社地を現地に移転再興した。今は、印旛沼を眼下に眺められる高所であるが昔は、沼畔にあったようで増水の際は利根の水逆流し来り沿岸侵食せられ被害甚だしいため村人相譲り社地をうつしたものであろう。(佐倉市誌資料) |
麻賀多神社 城 (佐倉市城) |
城麻賀多神社はかつて六崎村といわれた六崎・城・石川・表町 4区の氏神である。神輿の巡幸は「明神祭り さーらばさし」の独特の節回しで荘重かつ勇壮に行われ、伝統的な巡幸の様式が残されている。(佐倉市教育委員会 境内掲示板より抜粋) | 創祀年代は明らかでないが一説に保元2年(1157年)とするのがある。現在の氏子区域は六崎・城・石川・表町の4区に分かれるが、堀田氏が佐倉城主に封ぜられた以前はこの地域全体を六崎と称した。神輿(寛文12年(1672年)作)が市の文化財に指定されている。 | 郷社。城字春路にあり稚産霊命を祭る。由緒不祥社殿間口一間半奥行一間半。 | 俗伝ではあるが創立は保元2年(1157年)と伝えられる。六崎・石川・城・表町の氏神である。この4区は六崎なる一名称から分かれたもので堀田氏の佐倉城主に封ぜられてから後のことである。祭礼は元は9月9日であったが今は10月15・16日の2日間で神輿の渡御がある。神輿は寛文13年(1673年)にできたものである。神仏分離まで別当は鏡宝寺・普門院・長永寺が交互に勤めたことが棟札によって知られる。(佐倉市誌資料) |
麻賀多神社 大篠塚 (佐倉市大篠塚) |
なし | 社伝によれば明応元年(1492年)9月10日の創立。 | 郷社。大篠塚村字龍替にあり稚産霊命を祭る。創立は明応元年(1492年)9月10日にして郷社の列に加わる。社殿は間口二間奥行一間半。 | 創建は明応元年(1492年)9月10日(神社明細帳)。大篠塚・小篠塚2区の産土神である。由緒は明瞭でないが氏子は2部落に及び古代より五穀の神として崇敬せられた社である。祭礼は10月15日。(佐倉市誌資料) |
麻賀多神社 太田 (佐倉市太田) |
太田鎮守麻賀多神社は印旛十八麻賀多の一社にしてご神威は広大無辺、正一位の神階を賜りし由緒の社である。その神域は樹齢300年以上の椎が茂り神寂。御本殿の屋根は天高く近隣では類を見ない宮居であった。しかしながら歳月を経、星霜の降るを氏子愁い御修営の計画を起こすも、平成15年睦月不慮の出火にて江戸期の社宇並びに境内諸社灰燼に帰す。氏子落涙するも即日清祓斎行、宮司役員協議の結果仮殿建設の後御社殿再興を決議し、神社役員工匠等の献身的奉仕また氏子各位の協力により平成18年神成月浄暗のなか正遷座祭を斎行。日を改め氏子参列のもと盛大に竣工奉祝祭を執り行った。再び御神威が赫奕たるを嬉しむと共に太田区の安寧と氏子崇敬者益々の弥栄を祈念し、長く後世に伝えるためこの碑に刻むものとする。(境内復興記念碑より) | 神社名鑑に縁起記載なし | 村社。大田村字用替にあり稚産霊命を祭る。由緒不祥社殿間口四間三尺奥行二間三尺。 | 創立年代不詳。太田の産土神である。由緒も残らないが古社で手洗鉢・燈籠に天明・文化・安政の銘があるものが見られる。祭礼は、10月15日。(佐倉市誌資料) |
麻賀多神社 高崎 (佐倉市高崎) |
- | 神社名鑑に縁起記載なし | 村社、字羽由にあり稚産霊命を祭る由緒不祥。社殿間口二間一尺奥行三間四尺。 | 由緒不祥。祭礼10月15日。(佐倉市誌資料) |
麻賀多神社 高岡 (佐倉市高岡) |
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麻賀多神社 岩名 (佐倉市岩名) |
境内入口の佐倉市による保存樹掲示板に以下の記載あり。「江戸時代に穀物生成の神として建立された神社〜」。 | 棟札に天和3年(1683年)に造立されたという墨書があるが、創祀ははるか以前と思考される。境内地は縄文・弥生時代の著名な複合遺跡である。 | 村社。岩名字宮前にあり稚産霊命を祭る由緒不祥社間口1間4尺奥行1間4尺境内236坪、氏子41戸。 | 創立は社伝によれば天明年間(1781-88年)。祭礼は10月15日。寛政5年(1783年)に雨気祭(雨乞?)をした記録あり。この古文書(願旱魃五神社御祭札記)によれば穀物生成の神として氏子農民の崇敬厚く遠近より詣づる者多かったことが明らかだ。(佐倉市誌資料) |
麻賀多神社 飯野 (佐倉市飯野) |
境内入口の佐倉市による保存樹掲示板に以下の記載あり。「当神社は江戸時代中期に建立され、以来管理保存されていると伝わる」。 | 縁起記載なし。 | 村社。飯野区字宮腰にあり祭神由緒不祥、社殿間口4間奥行3間。 | 社伝で徳川中期創立とあり。その他の由緒不明。(佐倉市誌資料) |
麻賀多神社 江原新田 佐倉市江原新田 |
なし | 創祀等明らかでない。一説に慶長年間土井利勝が鹿島台に佐倉城を築いた時、その地に居住した人々が現在地に移り、氏神である鏑木の麻賀多神社の分霊を迎え奉斎したと。境内社の天神社は暦応元年(1338年)臼井興胤の祭る処と「新撰佐倉風土記」に見える。 | 村社麻賀多神社。江原新田明神前にあり。稚霊魂命を祭る。由緒不祥明治35年9月28日社殿前没す。(中略)氏子47戸境内社1社あり即ち春日神社、大山祗命を祭る由緒不祥建物方6尺。 | 創立年代不詳。今は宝暦7年の水洗石があるも、昔の由緒は伝わらず。農民が五穀蚕桑の神を祀った郡内18麻賀多の1つで、祭日は9月15日。(佐倉市誌資料) |
小麻賀多神社 (駒形神社) 内田 佐倉市内田 |
なし | 縁起記載なし。 | 村社駒形神社。祭神は稚産霊神・皇産霊神・木花開邪姫命・大山祇命・天御中命とす。応永21年(1414年)正月10日の創立。明治41年3月3日、無格社・皇産霊神社・羽黒神社・浅間神社・日枝神社・北斗社を合併す。社殿間口奥行各1間。 | 創立応永21年(1414年)(神社明細帳)由緒不祥。但し、明治41年区内にあった4社を本社に合祀したので祭神4柱を増加した。祭日は10月13日。(佐倉市誌資料) |
小麻賀多神社 (駒形神社) 勝田 八千代市勝田 |
なし | 縁起記載なし。 | ||
小麻賀多神社 (駒形神社) 上高野 八千代市上高野 |
なし | 縁起記載なし。 | 村社、高野区字殿台にあり稚産霊命を祭る由緒不祥、社殿は三尺五寸四方にして境内176坪。山本吉蔵社掌を拝命し、氏子63戸あり(以下略) | |
小麻賀多神社 (駒形神社) 保品 八千代市保品 |
なし | 千葉県神社名鑑に記載なし。 | 無格社、保品区字南にあり、稚産歴(霊)命、由緒不祥、社殿ニ尺四方、境内19坪、氏子73戸。 | |
麻賀多神社 神野 八千代市神野 |
なし | 千葉県神社名鑑に記載なし。 | 無格社、神野区字台にあり稚産霊尊を祭る由緒不祥、社殿間口三尺奥行三尺境内49坪。社掌、山本吉蔵にして氏子四48戸を有し(以下略) | 観音堂の庭先に屋根の形骸だけを残す小祠。旧村地図に熊野神社と並んで記載され、オビシャ行事においても熊野神社の本ビシャとは別のオビシャ(マビシャ)として行われているため、かつては崇敬の厚かった神社と思われる。マカタ神社が観音堂の庭に有ることはに付いては、村人は本尊仏が馬頭観音であり、馬に関係しておりマカタ神社も駒形神社といって馬を祀る神であるために同じ場所に祀ると言っている。毎月2日が縁日であった。(神野の民族より) |