-秩父事件のあらまし-

1884(明治17)年11月1日、埼玉県秩父地方の農民を中心とする3千余名が椋神社(埼玉県秩父市吉田:龍勢祭りが有名))に決起し、吉田や小鹿野の高利貸、

役場、警察などを襲撃し、翌2日には大宮郷(現秩父市)に進出した。其の時には民衆は1万余に膨れ上がり、郡役所、裁判所、警察署などを占拠した。

とくに郡役所に、中心となった「秩父困民党」の本陣を置き、そこを『革命本部』と命名した。まさに秩父地方の権力を手中に収め秩父地方は、「無

政の卿」と化したのである。


 5日には明治専制政府の鎮台兵、憲兵隊、警察権力により鎮圧されたが、なお一部は、上州の神流川上流地方(群馬山中谷)から十石峠を越え、信州南佐

久地方
にまで進出する。上州や信州においても高利貸などを襲撃するが、11月9日未明、ついに八ヶ岳高原、野辺山原の戦闘で壊滅する。

 秩父困民党の指導下、農民を中心とする壮大な蜂起は、明治自由民権運動、最後期の、いや日本近代史上かって現出されたことのない最高の闘争

形態と評価
されているのである。

 それでは、「秩父事件」の背景や、闘いのエネルギーをいま少し詳しく記してみる。

龍勢祭り紹介



 


吉田町椋神社
信州八ヶ岳高原