-秩父自由党-

 板垣を総理とする自由党が結成されたのは明治14年10月末である。秩父自由党は、明治15年11月、中庭蘭渓、若林真十郎の二人が党員となって活動が始められた。この二人に自由党をひろめたのは、上州南甘楽郡坂原村の新井塊三郎である。つまり、群馬県から埼玉県秩父地方に自由党の思想が入ってきたのである。秩父事件直前に、自由党は解党してしまうが、秩父事件に様々な影響を与えることになる。

 当時の秩父や上州、信州南佐久地方は、山間部での山地農業を主とし生糸に唯一の生活の糧を求め、さらには厳しい自然とのたたかいも余儀なくされていた。このような条件下の農民によって、自由民権運動の思想や行動形態が率直に共感を得ていったようである。

その後、中庭蘭渓(下日野沢・重木耕地)の家の近くの村上泰治が入党する。若い泰治は、「党中の麒麟児」とまで呼ばれるようになり、明治17年になると、秩父自由党の幹事役になっている。しかし泰治は、明治17年4月、密偵・照山俊三の暗殺事件にまきこまれ逮捕されてしまう。そして、明治20年の予審判決で、当時未成年ということで無期徒刑を科せられた泰治は、6月、上告中に浦和の獄中で変死する(死因は謎のままである)。

泰治逮捕後、秩父自由党の中心人物は、吉田の井上部落に住む井上伝蔵であった。伝蔵は、「秩父事件」のなかで「会計長」として活躍し、事件後は関耕地の斉藤新左衛門の家の土蔵にしばらくかくまわれ、その後行方をくらまし、逃亡生活にはいる。井上伝蔵には、浦和の重罪裁判所で、伝蔵欠席のまま、死刑判決が下される。

伝蔵は、北海道に渡り、「高橋姓」、あるいは「伊藤姓」を名乗って各地を流浪し、大正7年6月、北見国徒呂郡野付牛村で農業を営み、死の直前に、妻子に過去の経歴を明かしたそうである。死刑判決を背負った井上伝蔵が、35年間、徹底して逃亡しきった事実は、頑強なる自由民権思想の持ち主であったと言えるであろう。井上伝蔵はまさに、秩父事件の象徴的人物である。


下日野沢周辺地図
皆野町下日野沢地区
  井上伝蔵の墓