-秩父困民党- |
明治15〜16年にかけての秩父自由党員は、「名主」などの上層農民が主力であった。したがって、「旦那自由党」などとも呼ばれ、一般農民の蜂起には、ついてゆけず、後の「秩父事件」への直接的な参加者は、ごく少数の者となっている。 秩父自由党の発展的契機となったのは、自由党左派といわれる大井憲太郎の秩父遊説(明治17年2月)であり、以降の秩父自由党員は、没落中小農民が主流となってくる。 井上伝蔵の入党も、明治17年になってからであるが、彼の家は、「丸井」という屋号を持ち、幕末から明治にかけて雑穀などを商い、日本橋にまで進出した豪家である。彼自身も村会議員、衛生委員、助役などを務めていた。また彼は、大井憲太郎と、最も親しかったと言われている。 秩父困民党副総理となる加藤織平の子分で、秩父困民党の組織確立、動員などに最も活躍した、落合寅市、高岸善吉、坂本宗作の「困民トリオ」も明治17年の秩父自由党入党組である。つまり、明治17年の秩父自由党入党組が、秩父困民党組織者の中心になっていくのである。 |