-負債農民と高利貸-

 明治16〜17年、秩父の農民の窮乏化は、急速に進行する。明治専制政府のもと、松方正義によるデフレ政策、いわゆる行政改革や、軍拡、軍国主義政策は、秩父農民の生活をどん底に落としてゆく。

 マユ、生糸の暴落による収入減の反面、重税や義務教育の強制、米価の高騰などにより、「税は払えない」、「子供の教育費が払えない」、「米が買えない」、さらには秩父新道工事への強制労働力の駆り出し、出られない家は金による負担責任など、様々な要因が重なり、多くの農民は高利貸から借金しなければ生きてゆけなくなり、負債農民が急増することになる。

 利息制限法(明治11年)があったが、まさにザル法であり、高利貸から農民が金を借りる場合、土地を担保とし「書入れ」という形式ににより、利子は「切金貸」とか「月縛り」という利子計算によって法外な利息を請求されることになる。まさに悪徳金融業者であった。

 裁判所は、「借用証書」を証拠とする証拠裁判により、高利貸の法外な利息請求には言及せず、負債農民が法廷でこれを訴えても「いったん証書を書いたのだから早く返済せよ」と逆に裁判所からも請求され、その返済ができなければ差押えを受ける始末であった。これが「身代限り」という処分である。この「身代限り」にまでおいこまれる農民も続出し、明治17年になると、逃亡や自殺に追い込まれる負債農民さえ現れる。

  (マユ、生糸の高騰によって収入が増えたときは、秩父の農民は、伝統的に「賭博」、「花火」、「お祭り」にその金をほとんどつぎ込んでしまっていたようである。今でも秩父は祭りが非常に多い地域であり、花火の音が、一年中どこかで聞こえる。祭りのある所必ず、花火が上がるのが秩父である)