-運動の広がりと困民党建設-

 高利貸しの暴利をむさぼる実情に対して高岸善吉、落合寅市、坂本宗作の「困民トリオ」は、明治16年12月末頃から秩父郡役所へ、高利貸し説諭請願を始めることになる。この合法的請願運動は、多くの農民の支持、共感を得て広がり、困民党の組織作り、組織固めにもつながっていったようである。

 
明治17年8月になると、請願運動もいっそう激しくなる。また8月下旬から9月にかけては、小坂峠、和田山、粟野山、蓑山などで集会条例違反の山林集会が警察の弾圧にもかかわらず、次々に開催され、負債農民への呼びかけや広がりとともに、困民党員の拡大へと発展していく。

 
9月になると、困民党総理となる田代栄助や副総理となる加藤織平が幹部として迎えられた幹部集会で戦術の変更が提案される。そして9月下旬になると再び、合法的な請願運動が開始される。今度は、秩父警察署に対しても高利貸しに対する説諭方を請願していく。

 高利貸しへは個別交渉も実施され
困民党の一大示威運動が展開される。警察署への集団請願や高利貸しへの個別交渉の中で負債農民の要求は、「借金10年据置き、借金の40年償還」という具体的な要求になっていく。

 さらに借金据置きという切実な要求以外にも、
減税や教育問題、徴兵令反対に至る政治的課題も掲げて国家権力との闘いも視野に入ってくるのである。