-蜂起- |
明治17年10月31日、「秩父事件」にほとんど挙村で参加し、最も団結強固な部隊といわれた風布村の農民が11月1日を待たずに決起する。風布村でのオルグに活躍した大野福次郎の先発隊は、蜂起集合場所である椋神社(現吉田町)に向かう途中で警官隊に押さえられてしまう。 「恐れながら天朝様に敵対するから加勢しろ」と檄をを飛ばした大野苗吉の一隊130〜140人は椋神社へと進撃する。風布村での蜂起の状況が県警本部に、午後2時50分入電する。この電報が、警察側に入った「秩父事件」の第一報となる。 ところでこの日は、奥羽視察旅行の三条実美太政大臣一行が、埼玉の行田を経て帰京する日であったため、県警本部は沿道警備に手をとられていた。したがって「風布隊」の行進を阻止できなかったといわれている。(困民党幹部が警備の手薄になるこの日を意識的に選んだかどうかは不明) 10月31日の夜の、新井周三郎らの一隊による金貸会社永保社襲撃に端を発する警官隊との最初の銃撃戦が翌11月1日、清泉寺と下吉田村役場で行われる。この銃撃戦により困民軍に死傷者が出て、全面蜂起の予定時刻を繰り上げることとなる。 11月1日、椋神社に集合決起した農民は、3千余名といわれている。 午後7時頃には、総理・田代栄助、副総理・加藤織平、会計長・井上伝蔵、参謀長・菊池貫平以下困民軍の役割表が発表される。さらに「五ヶ条の軍律」が定められ困民軍は、統一的指揮のもとに規律も行き届いた組織となっていったのである。 この「五ヶ条の軍律」こそが、当時各地で起きた「○○騒動」との決定的相違点として「秩父事件」が高く評価される所以となっている。 |