-革命本部樹立-

11月1日の夜
、困民軍は
甲隊(大隊長:新井周三郎)、乙隊(大隊長:飯塚盛蔵がそれぞれ二手に分かれ、高利貸が最も多い小鹿野の町へ向かい、
椋神社を出発する

 そして、悪徳高利貸の打ち壊し、役場にある公証簿の焼き捨てを決行する。

 11月2日には、札所23番音楽寺の鐘を乱打し、竹の鼻の渡しで荒川を渡り、
大宮郷(現在の秩父市)へと進出する。
 大宮郷での蜂起農民は1万余となり、悪徳高利貸、郡役所、裁判所、警察署を襲撃し、甲・乙両隊は秩父神社の境内や周辺に集結する。

 そこで、信州北相木村より参加し、参謀長となった菊池貫平の指示本陣(指導部)を秩父郡役所に移し、町の治安を自分達の手で確保する。
 
 軍用金を徴収した際に発行された受領書には
、「革命本部」あるいは「革命党本部」と署名を入れた。この署名を書いたのは、やはり信州北相木村からの参加で軍用金集め方となった井出為吉であった。

 以上のことは、いち地方の出先機関とはいえ、秩父地方の権力を困民軍が手中に収め、そこを「革命本部」と位置づけたことが「秩父事件」を高く評価されてる大きな所以のひとつと言われている。単純な蜂起との決定的な相違点なのであろう。

炊き出しが行われた長楽寺

警官最初の犠牲者青木巡査の碑

音楽寺周辺地図

北相木村周辺地図