11月5日に「天皇の軍隊」である東京鎮台兵、憲兵隊が秩父全域を制圧し、秩父一帯は戒厳令下におかれる。
そしていち早く、11月6日には「暴徒糾問所」が4ヶ所に設置され、警官による残忍過酷な取調べが始められることになる。
椋神社と貴布祢神社の神官を兼務していた田中千弥という人の日記に、「秩父事件」について「秩父暴動雑録」という貴重な記録が残されている。
その中には、高利貸が農民から過酷な収奪を行った事実の他、「小鹿野訊問所の警官は暴徒の二の手也」と警官による過酷な取調べも記されている。
埼玉関係の裁判により田代栄助以下、幹部7人の死刑を含む3618人が重、軽罪を言い渡される。
さらに「暴徒」、「暴動」、「騒動」等、ありとあらゆるレッテルが貼られていく。
ここに明治専制政府は、秩父困民党武装蜂起を完全に鎮圧し、歴史上からの抹殺にも成功していくのである。
事件参加者の子孫は、祖先を「犯罪者」として意識化されて心重い生活を送り、身元を隠し「秩父事件」を語ることさえ許されず、事件後逃亡し行方のわからない祖先の調査も行われないまま近年に至ったのである。秩父困民党副総理・加藤織平の墓には無数の石が投げつけられた跡がある。
秩父地方には今尚、「秩父暴徒」という言語が固有名詞的に語りつがれているようだ。
しかし長野県東馬流には、菊池貫平の子孫により「秩父暴徒戦死者の墓」が昭和8年に記念碑として建てられたことは特筆すべきことである。
また、「秩父戦士之墓」という言い方もされている。
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