光明皇后      万葉集 八巻 1568番
                          【 歌の大意 】   いとしい人と一緒に見るのなら この降る雪もどれほど嬉しいことでしょう


燕の王都、薊の春は今が盛りである。 ここ天勝宮の奥深く、春の花々に彩られた百華園もその美しいことは限りない。
百花咲き匂う小径の奥の、そり返った六角の屋根を持つ華清亭に昭王がやってきたのは朝議の前のまだ風の涼しい頃である。
「牡丹も終るか。」
「はい、ほとんど咲き終えまして、この白とあそこの桃色だけがまだ見られます。」
答える貴鬼は十四歳になる。 ようやく子供の域を脱して侍童から侍僕の扱いになったところだが、幼少より昭王の側近くで寵愛を受けていることは周知のことで自然と侍僕の中でも一目置かれる立場となっている。 まして養い親のムウが兵部省長官となれば後ろ盾は十分であった。
「鋏を。」
貴鬼が盆に載せた鋏を取った昭王は、自ら咲きかけの白牡丹と桃色のそれを一輪ずつ切り取った。
「白は太后様にお届けせよ。 桃色は芳春殿に。」
侍僕の一人が承り、牡丹を載せた盆を捧げて山吹や芥子 ( けし ) の咲き競う小径を戻っていった。
「明日には芍薬 ( しゃくやく ) が咲きましょう。」
「やはり春はよい。 気は万物に満ち、水は四海を巡る。」
「御意に。」
「この冬はついに雪は降らなかったか。」
「いつもにまして暖かい冬にございました。」
「おかげで花の開きも早い。 見よ、酔芙蓉まで小さい蕾をつけている。」
機嫌よく花を愛でながら茶を喫する昭王がきざはしの傍らを指し示す。
「こちらよりも紅綾殿の酔芙蓉のほうが蕾が遅いように思われます。」
「慎み深いということであろうよ。」
「天勝宮で一番きれいな花と思います。」
「うむ。」
それきりで話は終わり、やがて昭王は大勢の侍僕を従えて来た径を戻っていった。

その夜である。
「今宵は少し冷える。」
「お風邪を召されませぬように お掛け物を多くいたしております。 」
御寝台に横になった昭王に寝具をかけた貴鬼が隣室に姿を消した。 御簾が下ろされ独りになった昭王だが、どうしたことか妙に目が冴えて眠れない。 暫くはそのままでいたが、ついにあきらめて銀鈴を鳴らすとすぐに貴鬼がやってきた。
「如何あそばされました?」
「水を。」
水差しから注がれた水を昭王が一口含んだとき、その胸元がぽうと明るく輝いた。 燈芯ひとつのわずかな灯りしかないこの部屋で、それはひときわ目立つのだ。
「あっ…」
水差しを戻そうとした貴鬼が息を飲んだ。 昭王の懐の中には錦の袋に入れられた招涼玉が掛けてある。 貴鬼もあのとき以来一度も見たことはないが、昭王が肌身離さず持っているのは熟知している。
「貴鬼、外を見て参れ!」
「はいっ!」
声をひそめた貴鬼が音もなく御簾をくぐり廊下へ出て行った。 警護の兵に軽く合図をして中庭に出た貴鬼は瞠目する。
「これは………!」
急ぎ身を返した貴鬼が昭王の元に馳せ戻り、
「昭王様、雪が降っております。」
と告げた。 無言で立ち上がった昭王に急ぎ長衣を着せ掛けようとすると手で軽く制された。
「不要ぞ。 いささかも寒くはない。」
そのまま御簾をくぐり廊下へ出てきた昭王に仰天したのは警護の近衛兵である。 なにしろこの任務について半年というもの、いまだに昭王の姿はおろか声さえも漏れ聞いたことはない。 昭王が寝所に入ってのちに交代しているので、見かけるものは時折り出入りする貴鬼だけである。 目の前を通り過ぎようとする貴人が燕王であることに気付き 気が動転していたところに 「他言無用。」 という抑えた竜声が聞こえたのだから、その驚きは想像を絶するものがある。 さぞかし心臓が縮み上がり足が震えたろうが、それでも微動だにしないのはさすがであった。

さて、貴鬼を従えて中庭に出た昭王は手をかざし降る雪を受けてみた。

   やはりな……

同じようにした貴鬼が眼を見開いた。
「これは………あの時と同じにございますね。」
手のひらの上できれいな六角の形が繊細な美を見せている。 それぞれに異なる美しい雪の結晶がひっそりと二人の手に舞い降りてきていた。
暗い空を見上げた昭王の、髪にまつげにそれは降りかかり、声もなくなにか呟いた唇にも触れてすぐに融けていった。
「貴鬼、そちに頼みたいことがある。」
昭王の声が少し震えていた。

中庭に面した窓が大きく開けられているが、声をひそめている昭王と貴鬼の話が庭の向こう側に立つ近衛兵に聞こえる筈もなければ、暗い部屋の様子が見える気遣いもない。
「カミュが来ているに相違ない。 確かめて参れ。」
「ここに雪が降っておりますからには、それほど遠くのはずはありませぬ。 暫しお待ち下されますよう。」
「所在が知れたら、ひとまず会わずに戻るがよい。 ことづけるものがある。」
「……は。」
ことづけるということは、昭王は会わぬということなのだ。 寝室から飛雲の法で跳べば誰にも気付かれぬというのにもかかわらず、なぜ昭王がカミュに会おうとしないのか貴鬼はわからない。 しかし、臣下の身でどうしてそれを尋ねることができようか。
わからないままに貴鬼はカミュの気を求めて天勝宮の外へ跳んだ。
六年経った今もカミュの気を忘れることはない。 薊の誰とも違うそれを探って何回か跳ぶと、やがて武徳門近くの林の中にひときわ強い気を感じたものだ。 眼を凝らすと木立の向こうに淡い金色の輝きが仄見えた。

   あそこに………あそこにカミュ様がおいでになる!

いまにも溢れそうになる涙をこらえながら無我夢中で法を使い昭王の元へ立ち戻る。
「いたか!」
「はいっ、武徳門近くの林におられます!」
一息に言い、感極まって涙が流れるが、もはやとめることはできぬのだ。 ひとつ息をついた昭王が声をあらためた。
「それでは、これをカミュに渡してくれぬか。」
やっと涙をぬぐった貴鬼が見ると、昭王の手に龍の彫り物をした小箱が載っている。 何が入っているのか密かにいぶかしく思いながら紫の袱紗を出してきて丁寧に包み、いざ跳ぶ段になってどうしても貴鬼は言いたくなったのだ。
「あの………昭王様は…」
これだけでも喉が震え、足がすくんでしまうというのに、いったいほかに何が言えようか。 ただこれだけでも身分をわきまえぬ僭越な物言いに違いない。 叔父のムウが聞いたらどれほど叱られるか知れたものではないのだ。
「……予は行けぬ。 そちだけ行って予の息災を伝えてくれれば良い。 それでカミュにはわかる筈だ。」
「……は」
こうまで言われてはいたし方もない。 袱紗を大事そうに持った貴鬼が姿を消し、あとには昭王が残された。

「カミュ様っ!」
貴鬼の声にカミュが振り向いた。 新緑に覆われた林の中にはまだ雪が積っておらず、ただひんやりとした気が漂っている。
「貴鬼か!」
変わらぬ声に姿に貴鬼は泣いた。 泣くよりほかに いったい何ができようか。 それでも震える声を励まして、
「このたびはご健勝なお姿を拝したてまつり…」
と言いかけたとたん、カミュに抱きしめられていたのだ。

   あ……!

「こんなに大きくなって!じきに私に追いつくやもしれぬ! 昭王はお元気でおられるか? 変わりはないか?」
と矢継ぎ早に尋ねられた。 泣き笑いしながら、
「はい、ご健勝でおられます。 男御子様がお二人と女御子様がお一人おられまして、燕はますます栄えております。 これもみなあの水難の折にカミュ様にお救いただいた賜物と人は皆申しております。」
「そうか、 お子が三人もおられるか! それは重畳、これで燕も安泰ぞ!」
いきなり抱かれてびっくりしたが、考えてみれば泣いているところを抱き上げられてなだめられたこともあるのだった。 今でもなにも変わらないことに貴鬼は呆れてしまうのだ。
「それより、昭王様はおいでになれませぬが、カミュ様にこれをお渡しするようにと、ことづかって参りました。」
つい忘れていたことにどぎまぎしながら手のひらの上で紫の袱紗を開いてみせると、不思議そうにしたカミュが小箱を手に取った。
「なんであろう?」
そう言いながらカミュがためらいもせず小箱の蓋を開けたので、貴鬼の驚くまいことか!
他国からの勅使に馬一匹や絹五十反を贈るのとはわけが違うのである。 その場合は周囲にあまねく知られるのが望ましいのだが、いかにも私的としか思われない燕王の贈答が余人の眼に触れるのは避けるべきものなのに、異国のカミュにはその観念はなかったらしい。
困ってしまった貴鬼が中を見まいとうつむいていると、
「………ほぅ! これは見事な櫛を………」
カミュの声が小さくなった。

   ………え? ……櫛って?

思いがけない言葉に貴鬼はつい顔を上げた。
カミュの手にあるそれは見事な細工の銀の櫛で、片側には向かい合った鴛鴦 ( えんおう = おしどり ) が、そしてもう片側には蓮の花が浮き彫りになっており、背の部分には波の模様の素晴らしい緑の翡翠が嵌め込まれているという逸品なのだ。
雪の降る暗い林の中で貴鬼にそこまでわかったのにはわけがある。

   これは………芳春殿様のお櫛と同じ………
   すると……昭王様はこの日のために同じお品をお誂えになられていた??
   たった一夏だけ一緒にいられた異国のカミュ様のために………
   いつまた会えるかわからない人のために、ずっと大事にお持ちになられていたのだろうか………

見てはいけないものを見た気がして、胸がどきどきしてくる。 まだ少年期を抜けかかったばかりの貴鬼といえども、櫛は女人に贈るものという感覚はある。 それもかなり親しい女人に限るのではなかろうか。 それにまた、鴛鴦といえばつがいの鳥の中でも夫婦仲がよく、一生連れ添うことで知られており、蓮の花は泥中からまっすぐに茎を伸ばして清浄な花を咲かせ麗しい女人にもたとえられる花である。

   ………でも、カミュ様の御髪はこんなにおきれいなのだから、きっと特別なのだ、そうに違いない!
   そうだ、ただそれだけのことなのだ!

自分にそう言い聞かせているとカミュが声をあらためた。
「美しいお品をいただいた。 昭王に礼を言いたくても直接お目にかかることのできぬ身が口惜しい。 この身に代わり篤くお礼を申しあげてもらえようか。」
「はい、慎んで承ります。」
それからしばらく、太后やアイオリアやアルデバラン、叔父のムウの近況などの話に花が咲き、あのころに戻ったような懐かしい時を過ごしたのだ。
「魔鈴も歳は取りましたが まだまだ元気でおります。 アイオリア様が波斯 ( ペルシア ) の商人から仔獅子を買われたので、最初こそ喧嘩をしましたが今はもう仲良しで二頭が昭王様の野駆けについてゆきます。」
「それは愉快!」
野駆けのことや狩りのことも思い出すときりがない。 やがて十分すぎるほど時が経った。
「昭王から美しいものをいただいたが、この身には返すものが何も無い。 そこで…」
カミュがわずかにためらった。
「………そこで思ったのだが、この櫛で髪を梳こうと思う。」
「え? 髪を?」
「私の国では、もらったものをすぐに使うのが喜びの心を伝える一番の方法だ。 お返しすべきものをなにも持たぬゆえ、それがよかろう。」
そう言ったカミュが、もう一度小箱を開けて櫛を手に取ると長い髪を梳き始めた。
ゆっくりと、いとおしむように、丹念に、昭王の銀の櫛がカミュの艶やかな黒髪を梳いてゆく。 一心に髪を梳く姿を貴鬼は必死に心に焼き付けるのだ。 昭王に見てもらえぬことが惜しまれてならず、またもや涙が滲んでくるのはどうしようもない。
やがて最後の一梳きも終わり、カミュが櫛を箱にしまおうとしたときだ。 貴鬼は勇気を奮い起こした。
「カミュ様………あの………」
「…え?」
「もしも………櫛に御髪がついておりましたら、いただけませぬか?」
「髪を……?」
思わぬことを言われたカミュがすぐに にこと笑う。
「それは良い。 ………ああ、あった!」
櫛をすかして見たカミュが微笑んだ。 櫛の歯に絡んだ幾本かの髪を揃えると、くるくると白い指に巻き付け 、輪の形にして袱紗に包む。
「昭王に絡め取られた我が髪ぞ。 しかと届けてもらおうか。」
異国のカミュはなにげなく言ったのだろうが、貴鬼の頬は真っ赤に染まる。 幸いなことに暗い夜がその赤さを隠してくれた。
「カミュ様も、希臘にお戻りになられましても、どうぞいつまでもお元気で。」
「そなたも。 昭王の無事をいつまでも祈っている。」
別れるに際してまたしても涙があふれてくる。 今度こそ、もう二度と会えない人の姿が涙で曇る。

   カミュ様………カミュ様………なんとしても、もう一度昭王様にお会わせ申し上げたかったのに!

貴鬼が最後に見たのは、櫛の小箱を胸に抱く美しい姿だった。

雪の紅綾殿に戻った貴鬼は昭王の前に平伏して全てを話し、小箱の中を見てしまったことの許しを乞うた。 燈芯はすでに消えていて貴鬼は泣き顔を見られずに済み、その闇はおそらく昭王にも望ましいことであったろう。
紫の袱紗は開かれることなく昭王の手に渡り、翌日には黒漆の厨子の中に大切にしまわれたということだ。





               この歌は Lala−by の深月 爛さまから示唆していただきました。
               万葉集らしく素直で、いかにもミロカミュ的な歌です。
               招涼伝に合ったよい歌を教えてくださいましてどうもありがとうございました。

               光明皇后 ( 701〜760 ) は聖武天皇の皇后。 万葉集には四首採られています。
               仏教に篤く帰依し、悲田院、施薬院などを作って慈善を行なったことで有名です。


                    ※ この話の関連  番外編・「 如月七日 」    古典読本・「 駒とめて 」




  我が背子と ふたり見ませば いくばくか この降る雪の うれしくあらまし