その27  森 の 中


午前中いっぱいギャロップの練習をしたあとで、ミロがすぐそばの森に馬を乗り入れた。
「ミロ、どこに?」
「少し森の中を歩かせよう。 馬場だけでは飽きるからな。」
「えっ、私にできるだろうか?」
「大丈夫さ、ヌーベル・ネージュは賢いし、馬の方でも森の中が好きだ。 方向を指示してやれば上手に歩いてくれる。」
暑い日ざしがさえぎられた森はひんやりとしていて、さきほどまでの汗がすうっと引いてゆく。 見上げると高い木立の上に青空がちらりと見えた。
「森の中の地面は苔が生えていたり落葉が重なっていて馬の足にはあたりがやわらかくて良いと思うが、落ち葉のすぐ下に木の根が這っていて俺たちが歩くとすべることもある。 いずれにせよ馬は四つ足だから安定しているが。」
馬場を走らせるのも初めてなら、森の中の湿った小道を行くのもカミュには初めての経験だ。
「馬は賢いから、乗っている俺たちの頭が木の枝に触らないようなところを歩いてくれるが、いつもそうとは限らない。」
ミロが張り出した横枝をひょいっと頭を下げてよけた。
「なんだか爽やかな匂いがする。 湿っているが、すがすがしい。」
「そうさ! 街中とは全然違う。 森の生命の息吹きっていうのかな、いかにも元気が出る気がするものだ。」
今でいう森林浴といえようか。
樹木の発散するフィトンチッド、風に揺れる枝葉のファジィなざわめきがパリの街中しか知らないカミュを寛がせる。 ふと見るとすぐそこの木を目にもとまらぬ速さで駆け上がった褐色の小さい動物が太い横枝の上でぴたりと止まるとくりっとした目でこっちを見た。
「ミロっ、あれはなに?!」
「…え? ああ、あれはリスだ。 このあたりにはたくさんいる。」
「リス? でも絵で見たのとずいぶん違うっ!」
「う〜ん、絵と実物はかなり違うからな。 ここにいる間は何度もお目にかかるだろうから、じっくり見て覚えればいい。」
2人でそんなことを話しているうちに、リスはあっという間に姿を消してしまった。
「さっきは馬場で雉を見た。」
「雉も狩りの獲物だ。 雉肉入りパイとか食べたことある?」
「いや、まだない。」
「では、厨房に注文を出しておこう。 兄達が来たら厨房も忙しくなる。 今のうちなら細かい希望もすぐに通る。」
そんなことを話しているとミロが馬を寄せてきた。
「そこで止まって。」
「え?」
一、二歩進んだところで馬を止めるとミロが身を乗り出してきた。

   あ………ミロ…

ミロが唇を離したときになって一気に森の匂いが押し寄せてくる。
「一度やってみたかったんだよ。」
「私は………あの………」
ミロはにこにこしているがカミュの頭には血が上る。 初めて昼の野外でキスされた驚きに胸が高鳴り目がくらむ心地さえしてしまう。
「悪くないだろう? 森の空気がすぐに熱を冷ましてくれるさ。 」
「ん………そうだといいけれど…」
「大丈夫、これ以上のことはしない。 森番に見られたらいけないからな。」
「え……森番って?」
もしや誰かに見られたりするのかと思い、首をすくめたカミュが恐々あたりを見回した。 深い緑の森の中には人の気配はないようだ。 小鳥のさえずりだけが高い木の上から降ってくる。
「森番っていうのはこの森の管理を任されている男のことだ。 家族で厩舎の近くに住んでいる。 よそ者が入り込んだり朽木が道を塞いだりしていないか見回るのが仕事だ。 さっき俺たちが森に入るときに食事のために家に戻っていったのを見かけたから、今はこのあたりにはいない。」
「あ……それならいいけれど。」
「ん? もしかして、この先があるかと期待してる?」
「そっ、そんなことっ……!」
真っ赤になって否定するカミュがミロにはどうにも可愛いのだ。
そうやって馬場近くの森を30分ほどどきどきしながら馬で散策し、午前中は終った。

城に戻って簡単な昼食を摂ってから今度は魚釣りに出発だ。
「ミロ様、お供いたしましょうか。」
「いや、二人でのんびりと行って来る。 さして遠いわけでもないからな。 マスをたくさん釣って帰ってくると厨房に言っておいてくれ。」
かしこまったバザンに見送られて城を出ると森番の家に寄り、釣り道具一式を借り出した。 赤ら顔の森番は子だくさんで、気の良さそうなおかみさんのエプロンの回りには何人もの子供達がまとわりついて、びっくりした目で二人を見上げている。
「ニジマスでしたら二番瀬の辺りにたくさん群れておりましたですよ、ミロ様。 はい、 あそこならすぐに釣れますです。」
「そいつはいいな!」
森番夫婦と子供たちに手を振って別れるとミロは厩舎の横の道を北に向って歩き出した。
「北の森を斜めに横切って川が流れてるが、ニジマスは流れの速い渓流に住む。 生きているニジマスを見たことはないだろう? とてもきれいな魚だ。」
「料理されて皿に乗ってくるのしか見たことがない。 ニジマスっていうことは虹色をしてるから?」
「truite arc-en-ciel トリュイット・アルカンシエルという名前は、繁殖期のオスがきれいな虹色になることからついたんだろうな。 ムニエルなんかにするとさすがにわからないが、釣ったばかりのはニジマスはそれはきれいだ! 早く見せたいね!」
厩舎では馬たちにブラシを掛けるのに余念がない。 ポムがいなないたのに気付いたミロがちょっと戻って鼻づらを撫でてやると嬉しそうにして前足で地面をかいている。 ヌーベル・ネージュも早くも乗り手を覚えたようで、カミュがなでると顔をすり寄せてきた。
「あと一週間もすれば自由に駆け回れるようになるだろう。 遠乗りもいいものだ。」
手を振って馬から離れると、乗ってほしいとばかりにいなないた。

徒歩で森に入るとさっきとは違ったものが目に入る。
「ああ、ここにある!」
しばらく歩いているとミロが歓声を上げた。
「ほら、ジロールだ、こんなにたくさんあるぜ!」
それはアルベール邸でもしばしば食卓にのぼるキノコで、夏を代表する森の味覚なのだ。 明るいオレンジ色が森の中ではよく目立つ。
「ふうん、こんなふうに生えるものなのか!」
「今から取ると鮮度が落ちる。 場所を覚えておいて帰りに取っていこう。」
すぐそばの枝を折り取ったミロが小道の真ん中に横向きに置いた。 枝先がジロールのある場所を指し示すようになっている。
「なるほど! これならすぐわかる! 森の中はどこも同じように見えるから、どうやって覚えておくのかと思った。 なんていい考えだ!」
カミュがいかにも感心したような目で見るのがミロにはどうにも面映い。

   こんなことは子供でも思いつくんだが、そう誉められても………

手放しで誉められたミロが苦笑しながらカミュを引き寄せた。
「それじゃ、いい考えを思いついたご褒美をもらってもいいかな♪」
「……え」
小道から少し脇に入った木の陰で唇が重ねられる。 丹念な甘い感触がカミュを酔わせ、今夜の予感に震えてしまう。
「ミロ………」
抱き締められた肩越しに森の緑が美しく見えた。


                                        



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