「 暖かい雪 」
◆◆◆第一回
融雪に忙しい日を送っているカミュに会うため、新潟の山間の小さな湯治場に俺が着いたのは3月6日のことだ。
カミュが俺と別れてこの作業にかかってからは会うことも少なくて、いささか業を煮やした俺は、今日はここの宿を取って一緒に泊まることになっている。
ひなびた温泉宿というのに一度は泊まりたかった俺は、宿の主人に頼んでとびきり
「 鄙びた 」 ところを探してもらったのだった。
「新潟県北部の山奥のほうでとびきり鄙びた宿に泊まりたいんだが、いいところを探して欲しい。
いまカミュがそっちにいるんでね。」
俺の注文を聞いてパソコンに向った主人は、やがてほっとした声を上げた。
「ああ、一軒、ありました。 ほんとうにとびきり鄙びておりますが、よろしいですか、ミロ様?」
「ああ、かまわない。 せっかく日本にいるんだから、滅多にできない経験をしたい。」
「滅多にない経験でございますか。 それは間違いございませんな、私も話には聞いておりますが、まだ泊まったことはございません。
なにしろこの宿の特徴は…」
「ああ、それは聞かなくていい。 現地に行ってからわかったほうがサプライズで面白いからな♪」
「さようでございますか。 では予約を入れておきます、3月6日に2名様。 チェックインは3時になっております。
カードは効きませんので、おそれいりますが現金でのお支払いになります。」
「ふうん……それはまた珍しいな。 で、幾ら?」
「お一人様8800円でございます。」
「8800円?」
ここの離れは、確か、一人一泊5万円だから五分の一以下ということになる。
それはまあ、この宿はグラード財団が所有する 「 都会人の隠れ里 」 と称されるくらいの高級な場所なので、比べるのがこれは無理というものだろう。
「それからタオル・石鹸・浴衣は用意してありませんので、どうぞ当方のをお持ちくださいませ。」
「え?」
訊いてみると、そのほかにもドライヤー・シャンプー・リンス・櫛など、俺が思いついたものはすべて用意していないという。
面白いっっ♪♪
こんな宿は初めてだ!
食事とフトンはさすがにあるというから、べつに問題ないだろう
日本の伝統や文化に興味のあるカミュも、きっと喜ぶに違いない♪
俺はワクワクする胸を抑えながらその日を迎えたのだ。
◆◆◆第二回
その宿は、湯治場というくらいだからかなり古い宿で、場所も便利とは言いがたい。
最寄の駅からバスに1時間乗り、その終点から山道を2時間歩くというのが主人がダウンロードしてくれた地図に書いてある行き方なのだ。
むろん車でも行けるはずなのだが、この季節は道が雪に埋もれて車はまったく使えないという。
「え? それでは食料とか日用品の配達はどうするんだろう?」
「こういった雪深い土地では昔から雪への備えは万全でして、保存食料や生活必需品の備蓄をする習慣がありますから2、3ヶ月くらいは外部との連絡を断たれても大丈夫なようになっております。
普通は冬期には湯治場を閉ざすところが多いのですが、この宿だけは3月から営業しておりますね。
宿の周辺の積雪は現在3メートル40センチです。」
「ほぅ、そいつは秘湯といってもいいのじゃないか! ますます楽しみだ♪」
俺の理解するところでは、古くからの湯治場というのは湯質がいいから病気療養などに効くというので評判になり、今に続いているところが多いのだ。
きっとこの宿の湯もいいに違いない。
JRの駅前から数人しか乗っていないバスに乗る。 終点まで行ったのは俺だけで、バスから降りたそこには数軒の温泉宿があるばかりだ。
ふっ、ここに泊まるのは素人だな!
この先まで足を伸ばさなきゃ、ほんとの温泉通とは言えん♪
もとよりたびたびのシベリア行で雪と氷には慣れている。 湯治場の在り処を示す看板の先を目指して地図を片手に歩き出せば、郵便配達でも通ったのか、ちゃんと歩けるだけの道筋はついている。 吹雪だったら多少は考えたろうが、幸い、今日明日はうす曇という予報なのだ。
背にしたリュックの二人分の荷物も、あの聖衣櫃に比べれば何のこともありはしない。
それにしてもあの聖衣櫃はかさばりすぎる!
かついで行くくらいなら、聖衣を身につけたほうがよっぽど楽なんだがな……
噂に聞くアテナの聖衣のように、ミニチュアサイズになってくれればどれほど便利なことか!
必要なときにはすぐに身につけられて、普段は書斎のデスクとか寝室の暖炉の上において置けばいいのだからな
水瓶座の聖衣と蠍座の聖衣のミニチュアを並べて鑑賞したらどんなに楽しいだろう♪
そんなことを考えながら歩く山道は何の苦でもない。
これで隣にカミュがいれば最高なんだが………
まあいい、それは帰りだ、帰り♪
こうして、普通の日本人なら躊躇する雪道を歩き通した俺が目当ての宿に着いたのは夕方4時過ぎのことだ。
「ふうん……たしかに鄙びてるな!」
渓流沿いのわずかな土地に張り付くようにして細長く伸びている平屋の建物はかなりの年代物で、あちこちから湯煙が上がっているのはなかなか風情があるものだ。
入り口や窓の建て付けは、今の日本では当たり前のアルミサッシではなくて、すっかりこげ茶色になった木製のものである。
京都や奈良の寺社仏閣ではそれが当然だし、格式を誇る京都の老舗旅館あたりでもよく見かけるのだが、ここのはともかく古い。
ガタピシ言わせながら玄関の戸を開けるとフロントらしきところにいた老人が目を丸くした。名前を告げてなんとか意思を通じさせると荷物を預けてカミュを待つこと1時間。
こんな山深いところでもさすがに玄関の前はきちんと雪かきがしてあるので、そこに置いてあるベンチに座っているといかにも深山幽谷に迷い込んだ気にもなろうというものだ。 俺が着いてからというもの、ほかに泊り客も現われず、宿の老人もフロントの奥に引っ込んだまま出てこない。ときおり木々の枝からばさっと雪が落ちる音がする以外は全くの静寂な白い世界が心よい。
やがて日が暮れかかったころ、道の方からカミュがやってきた。 久しぶりに見るカミュは雪道の寒さに頬を幾分赤らめて、それがかえって生来の色の白さを引き立てて見える。
2時間の山道はずっと上り坂なのに、いささかも息を切らしていないところはさすがに聖闘士だ。
まあ、それは俺も同じことなのだが。
「ああ、お疲れさん!」
「待たせたか? 少し予定外の融雪があり、少々手間取った。」
「1時間くらい待ったかな、のんびりしてよかったぜ、じゃあ、部屋に案内してもらうとするか。」
宿の老人が荷物を持とうとするのを、なんだか気の毒になり、断って自分で持つことにする。
通る廊下は渓流沿いにガラス窓が続き、雪景色がなかなか美しい。 温泉が湧いているらしく、岸辺のところどころで湯気が上がっているのも面白い。
「あれ?この窓ガラス、ちょっとゆがんで見えるぜ。」
「これは珍しい! まだガラス製造技術が確立していなかったころに作られた板ガラスには、このようなものが多い。
」
ふと見上げると廊下の天井に幾つもランプが吊り下げられている。
「ふうん、ランプだぜ、今どき珍しいな!」
「ほぅ! シベリアでは今も使っているが、日本では初めてお目にかかる。」
「骨董品のインテリアにしては手入れが行き届いてぴかぴかだな。 ここのオーナーがよほどきれい好きなんだろう。」
そんなことを話しながら俺たちは部屋に通された。
◆◆◆第三回
「………あれ?」
この部屋は………一、二、三……これは六畳間だろう。
俺たちが滞在している離れは十畳間と八畳間の続き部屋、それに三畳の控えの間と茶室等で構成されている。
今までに泊まった京都や箱根の宿でも、小さくても、三畳くらいの次の間付きの八畳間に泊まっていたので六畳間というのはとても狭く見えるのだ。
そもそも一部屋だけの構成というのが初めてだ。
「渓流と山に挟まれた狭隘な立地条件であることを考えると、六畳間と廊下通路を作るだけで精一杯だったのだろう。
山側にできるだけ広く土地を残しておかぬと、万が一、雪崩が起きたとき建物にまで被害が及ぶ。」
「なるほどね、しかし、俺たちが入ると妙に狭く思えるな。」
「道後温泉で通された三階の部屋も六畳だったが。」
「あれは寝なかったから別にかまわんが、ここにフトンを敷いたら……」
ふふふ、それならそれでいいじゃないか♪
こんなに狭くてはフトンの間を空けてる場合じゃないからな、最初からくっつけて敷くしかあるまい
宿の者に知れぬようにあとからくっつける手間が省けて、結構なことだ♪
俺がそんなことを考えてにんまりとしていると、宿の老人と話していたカミュが振り向いた。
「ミロ、この宿は昔からの湯治場の雰囲気を色濃く残していて、布団の上げ下げは客が行なうのだそうだ。 私たちが慣れぬ外人客と見て、親切にも説明してくれた。」
「ふうん、そんなことは一向にかまわんさ。 フトンの上げ下ろしなんかは離れでも臨時にやっているから慣れたものだ♪」
なにげなく言ったのだが、カミュが顔を赤らめる。 ちょっとまずかっただろうか?
なにしろあの離れのサービスは完璧で、俺たちが食事処に行っている間に寝具を整えて清掃をし、花を生け替え、季節にふさわしいインテリアにそっくり変わっていたりもするのだ。
リネン類は毎日交換され、それも洗いざらしのものなどあったためしがなく、浴衣も毎月の季節の柄に交換される。
嵐の晩の翌朝でも朝食から帰ると窓ガラスまでぴかぴかに磨きたてられているのは実に気持ちがいい。
床の間の掛け軸も半月ごとに書と絵画が交代で掛かり、今までに同じものなど見たことがない。 それに触発されたカミュはこのごろでは書道にも興味を持ったようで、宿に頼んで道具を取り寄せ、きちんと正座をして俺にはよくわからん字を書いていたりする。
それをまた美穂が褒めちぎるものだから、あのカミュが嬉しいと思ったのか、なんと頬を染めたのにはじつに驚いた。
社交辞令なのか本当に上手いのか、俺にはさっぱりわからない。
色艶系の話以外で赤面したのなんて、今までに見たことがないぜ!
それこそ小さいときに、サガあたりから 「 君は小宇宙が上手に燃やせるね!」 とかいって誉められて以来じゃないのか?
「もちろんこの部屋には水回りはない。 浴室は廊下の突き当たりに露天風呂があり、別棟に普通の浴室もある。
午前十時から一時間の清掃がある以外は24時間入浴可能だ。」
それは湯治場なんだから当然だろう、なんといっても温泉だ、温泉!
部屋の狭さなど、温泉の泉質に比べればたいした問題ではないからな♪
「食事はここまで運んできてくれるが配膳は自分たちでする。 それから、これが重大だが…」
そのとき宿の老人が、ひょいっと手を伸ばして天井に吊るしてあったランプを手に取った。
……あれ? ここにもランプが……
老人はポケットからマッチを取り出し、まるでシベリアでカミュがやるときみたいに慣れた様子で灯をつけると、お辞儀をして出て行った。
「おいっ!」
「この宿は 『 ランプの宿 』 として広く知られているそうだ。 日本全国にランプの宿を標榜する施設は数多いが、その多くは電気も併用しているのが現実だ。 しかし、この宿は母屋こそ冷蔵庫や電話に電気を使ってはいるが、我々のいる宿泊棟には電気は一切引いてない。 すべての照明はこのランプでまかなわれる。 この戸棚に予備のランプがあるので、入浴するときには自分で灯をつけて携行すればよいのだ。」
「ふううう〜〜ん!」
「知らずに予約したのか?」
「初めて知ったぜ。 宿の主人がここの特徴を教えてくれようとしたが、聞かない方が面白いと思って断った。」
「お前らしいな。」
「まあいいさ、ランプならシベリアで使い慣れてる。 ちょっと懐かしくていいじゃないか♪」
外はすっかり日が暮れたが、雪の白さがあたりを明るく見せている。
「食事までは時間がある。 先に露天風呂にでも行くのが良いかもしれぬ。」
「え…? 露天風呂って……だってお前は…」
俺がいぶかしげに見ると、カミュがちょっと照れたように横を向いた。
「シーズンが始まったばかりなので、今夜の泊り客は我々だけだそうだ。 だから…」
最高の宿じゃないか!
ランプに頭をぶつけそうにしながら俺はカミュにキスをした。
◆◆◆第四回
露天風呂へ行くべく美穂が用意してくれた包みを開けると、二人分の浴衣のほかに半纏
( はんてん ) や暖かそうな靴下も入っている。縮緬の風呂敷にそれぞれの着替えを包み、ランプに灯をともして廊下に出ると、
「ほぅ〜、これはきれいじゃないか!」
廊下の上に吊り下げられたランプにはすでに灯が入り、そのあかりにやわらかく照らされた廊下がずっと奥に伸びている。
「シベリアでは廊下の天井にランプを吊るすという発想がなかったが、これは美しい!」
カミュの言うとおりで、シベリアでは俺たちはランプを手に持って移動していたから、誰もいないときの廊下は真の闇だった。
間取りはわかっているのだから灯りがなくても困らなかったし、カミュも無駄な燃料の消費を好まなかったのだ。
しかし、ここではさすがに客相手の施設だけあり終夜の照明をしているようだ。
「ちょっといいじゃないか♪ シベリアではあまりの寒さに、ランプを愛でるまでにはいかなかったからな。 どっちかというと俺はお前を愛でてたし♪」
「え…」
ランプの下のカミュを絶句させておいて、肩を抱き寄せ素早く唇を重ねる。
大丈夫だよ………誰も来ない……そんなことはお前にもわかっているだろう…
ランプの真下の暗がりでカミュが頬を染めた。
廊下の突き当たりの脱衣室で互いに背を向けながら服を脱ぐ。 此の頃ではやっとカミュも納得して一緒に着替えたりもするが、双方ともに相手を見ないのは不文律だ。
雪明りがあるのはわかっているので、ランプは棚に置いたまま外へ向う。
「あっ……」
先に戸を開けた俺は息を飲んだ。 俺の背中の後ろでカミュが驚く気配がわかる。
「おい……これは…川だ!」
目の前を流れているのは確かに川で、しかし温泉である証拠に湯気が盛んに立ち昇っている。
川幅は4メートルほどで、目の前の箇所は淵のようになり湯の流れはそんなに速くない。
「ミロ、ともかく早く入らぬと冷え切ってしまう!」
「あ……ああ、そうだな!」
後ろの声に押されるようにして足早に進むとかたわらに屋根囲いをつけた小さな湯桶置き場があったので、急いで何杯か湯をかぶり
( ほんとに湯なのか、実は半信半疑だった ) 急いで川に入る。
川といってもゆっくり浸かれるようにそのあたりの川底には平たい石を並べてあって、川岸には寄りかかれるような手頃な大きさの石もあるのだった。
「信じられん! これは明らかに川だろう?!」
あとから入ってきたカミュに声をかけると、
「よほどに湯量が多いのだろう。 湯の流れに浸かるというのは不思議なものだ。」
そう言いながらほっと溜め息をついて俺の隣の岩に背をもたせ掛ける。
あたりはたしかに4メートル近い積雪で対岸は緩やかな斜面になり、葉を落とした木々の幹が美しい。
雪明りのためランプも要らず、俺たちはほんとうに自然の中にいるのだった。
「信じられるか?銀世界の中に裸でいるんだぜ♪」
「ほんとに誰もいなくて……」
遠くでリズミカルな瀬音がするほかは、静かなばかりの温泉なのだ。 感心してあたりを眺めていた俺は目の前の淵の方が深いような気がしてちょっと先に進んでみた。
「あ……!」
「…え?」
いきなり深くなって、なんと立位で肩まで湯に浸かるではないか!
「すごい! ここだと立てるんだぜ、来てみろよ♪」
「ほんとに?」
慎重に川底を探りながら淵の中央まで来たカミュが目を見開いて足元を見る。
「こんな感覚は初めてで……とても愉快だ♪」
淵の中央はいくぶん流れが速く、寄りかかるものがないので少々こころもとない。
同じことをカミュも感じたようで、湯の中で浮力のついた身体を揺らめかせながらどうにも落ちつかなげだ。
「こうすればいいんだよ……」
「あ……」
湯の中でカミュを抱いた。
立っているのに身体は湯に包まれていて、快い暖かさが周りをゆき過ぎてゆく。
「でも……ミロ…私は…」
言葉の終わりは小さくなり、カミュはうつむいてしまった。
髪をひとまとめにしてタオルでくるんであるので、真っ赤に染まった耳がよく見える。
「最初のときは指一本触れないって言ったけど、そろそろ解禁にしてもらえるかな?」
その耳に口寄せてささやくと、
「ん……」
小さい返事が聞こえ暖かい手が俺の背に回される。
「どう? 俺の選んだ温泉は?」
花の唇を楽しんだあとで聞いてみた。
「似合っている……」
「…え?」
「ミロの日にふさわしい趣向だと思う……この日を忘れない。」
俺は嬉しくて、湯を楽しみ、カミュを楽しみ、雪景色を楽しんでいた。
このときがいつまでも続くようにと心に願っていた。
◆◆◆第五回
湯から上がって部屋に戻ると、ちょうど食事の時間になったようだ。 酢の物や煮物が盛り付けられた小鉢や丸皿を詰め合わせた長方形の大きな平箱一つと使い込んだ丸い飯櫃が届けられ、ランプの下での食事となる。
「面白いな! 自分で並べるんだぜ♪」
「雪が融けて車が通れるようになればもっといろいろな献立ができるのだろうが、さすがにこの時期はシンプルなものだ。」
カミュの言う通り夕食はかなり簡素なもので、むろん刺身などは出てこない。
だいたい山奥でもどこでも刺身が出なくてはならない、というのは無理な要求で、その土地なりの食材で献立を作るべきだと思うが、俺の考えは間違っているだろうか?
「いや、正しい。 私もシベリアで手作りのイカ墨パスタや、ふきのとうの天麩羅を作ろうと思ったことはない。」
「論旨は正しいが、そのたとえはちょっと極端すぎないか?」
「そうか? しかし、事実だ。」
熱燗を頼んでおいたので、カミュにちょっと注いでやり、俺にも注いでもらって乾杯をする。
「せっかくのランプの宿なんだから、もう少し飲まない?」
「ん……ではもう少しだけ。」
早くも赤くなった頬を押さえながらそっと差し出す杯に半分ほど注いでやると、困ったようにしながら唇を形ばかりつけた。
「俺と離れていた間は、まったく飲まなかった?」
「むろんだ。 私には飲む理由がない。」
「ふうん……つまり、今は飲む理由があるんだ!」
「それは……お前が酒を注文したし…」
「そして、飲ませようと思って俺が注いでやるし、それにさ…」
「……え?」
「わずかしか飲めないお前でも、アルコールが入ればさすがに心の箍 ( たが
) が少しはゆるむ。 このあとで俺に抱かれるにはそのほうがいいと自己判断してるんじゃない?」
「そんな……」
ほんの思いつきであてずっぽうに言ってみたら、みるみるうちにカミュが頬を染めてうつむいてしまったのには、言ったこちらが驚いた。
……え? ほんとなのか?
ふうん……そんなに期待されちゃ、俺としても考えないわけにはいかんな♪
なんとなく妙な雰囲気になり、言葉少なに食事を終える。木箱に皿などを片付けて廊下に出しておくと片付けに来てくれるそうなので、あとは自分たちでフトンを敷くだけだ。
「…ええっと。 この座卓は、どうしたら……?」
離れはいうに及ばず、今まで泊まった宿は、狭いところでもせいぜい座卓を端に寄せればフトンが敷けた。 しかし六畳間では……?
「こうするとコンパクトになる。」
すいっと座卓の端を持上げて裏を覗き込んだカミュが、手で倒れないように支えながら4本の足をパタンと内側に倒してしまった。
「あれっ、そうなってるのか!」
「日本家屋の畳敷きの部屋は、西洋の概念とは違って居間・食事室・寝室等の機能を兼ねることができる。そのため、足を折り畳む形状の机が考案されたのだろう。」
「すると、これもモバイルってわけだな♪」
十二宮の誰が、机や食卓を動かしてその場所に寝ようとするだろう?
居間と寝室と食堂が別の部屋なのは当たり前で、誰も疑問には思わない。
感心しながら畳んだ座卓を壁に寄せ掛け、自分たちでフトンを敷いて、することもほかにないので早々に横になる。
廊下に人が来て器の入った箱を持上げると去ってゆく気配がした。
それにしても、ほんとに小さい部屋だな……
十二宮にはこんなに小さい部屋はない、文化の違いっていうのはたいへんなものだ!
この部屋には床の間もなく、襖二枚分の押入れがついていて寝具はその中におさまっていた。
古い造りのようで隣の部屋との境は襖になっており、開け放せば十二畳の細長い部屋になるのも西洋の概念からは大きくかけ離れているのだった。
「ふふふ♪」
「なにを笑っている?」
「だって、隣との境は襖一枚なんだぜ、まるで黄門様ご一行が泊まる宿みたいじゃないか♪」
「なるほど、それは確かに!」
「廊下との境も障子だし、少々風が入ってくるようで寒いが、昔の日本の風情を体感するにはもってこいの宿だ♪だが欠点もある。」
「欠点とは?」
「だって、考えても見ろよ、隣とは襖一枚隔てただけなんだぜ? 若い夫婦ものの隣に独り者でも入ってきた日には、ちょっとまずいんじゃないのか?」
「あ…」
そこまで考え及ばなかったカミュが真っ赤になるのも可愛いものだ。 ちょっと面白くなって、もう少し言ってみる。
「それでも久しぶりの逢瀬だとしたら、隣に気を使ってなにもしないというわけにもいかないだろう。
初めは遠慮して気配を抑えていたのについ夢中になって隣りの客に気づかれてしまい、聞き耳を立てられるというのもよくあることだ。」
「ええっ!」
「というのは時代小説によくある話だ。 俺とお前のことじゃないから安心して♪
だいいち、今日の泊り客はほかにはいない。」
くすくす笑うと、カミュの方はだいぶ鼓動が高まったらしく赤い顔をしているのが面白い。
この部屋の暖房は四角い灯油ストーブで、それを部屋の隅に寄せて一晩中つけておくのだそうだが、シベリアで暮していたカミュはすぐに火を消してしまった。
「こうした開放型のストーブは室内の空気を汚し健康によくない。 つけておくなら戸外の空気を取り入れる必要があるが、いささか寒すぎよう。」
「暖房がなくても俺は別にかまわないぜ、お前を抱いて寝れば、暖かいことこの上ないからな♪」
「え…」
ぽっと頬を染めたカミュを引き寄せ軽い口付けを与えてゆくと、たちまち洩れる甘い吐息はすでに先を予感しているかのようで、俺の想いを刺激する。
「カミュ………もっとこっちへ…」
「あ…」
浴衣の襟をすっとゆるめて唇を落としてゆくと、先ほどの湯の温かさの残る肌はすでにほんのりと桜色に染まっていて美しい。
感嘆しながら唇を進めていくと、やわらかな灯りに照らされたカミュは恥じらって顔をそむけてしまう。
天井のランプは真下には光を落とさないのでカミュの身体は半ば影に隠れているのだが、夕方からこの明るさの中で過ごしていれば見えないものなどありはしない。
幸い部屋にはまだ暖かさが残り、布団を脇に押しやっても寒くなどはないのだ。
「久しぶりの逢瀬だ………ゆっくり楽しませてもらおうか…」
相変わらず顔をそむけている耳元をくすぐるようにささやいてから、俺を待ち焦がれていたに違いないカミュを思いのままに扱ってゆくことのなんと嬉しく心躍ることだろう。
浅くあえぐカミュのそのしなやかな手が俺の首にからみつき、切なそうに目を閉じて甘い仕打ちに歓びを抑えかねているさまは、俺が毎晩夢見ていた通りのいとしいカミュそのものだ。
「………どう? 俺にこんなふうにされたかったって、告白してくれていいんだぜ♪」
もっと恥じらわせようと思って言ってみた。 言葉もなくうつむくものと思いきや、
「その通りだ………どれほどこの日を待っていたことか……」
………え?
カミュの予想外の反応に、俺は思わず手を休めて耳をそばだてる。
「ああ……ミロ…………もっと………もっと私を愛して…」
途切れ途切れに返される言葉に微笑まないではいられない。
「望み通りにしてやろう……たった一人で銀世界にいたお前へのご褒美だ………あらん限りの愛で包んでやろう…」
熱い唇を重ね、流れる髪を梳きながら抱きしめていけば、歓びに震える肌が俺を桃源郷に誘い込む。
「愛してる……こんなにこんなに愛してる…」
「私も…」
外は風が出てきたようで、窓をかたかた言わせながらすこし隙間風が吹き込んできた。
風と雪とランプと……シベリアの夜もこんな感じだったか……
愛する土地は違っても、俺とお前は変わらない
せがむカミュを暖かくくるんでから、俺はもう一度口付けていった。
◆◆◆第六回
明け方近くに目が覚めたのは覆うもののない肩がフトンから出ていたせいらしい。
ちょっと身震いして隣に眠るカミュの様子を確かめる。 やわらかい寝息が嬉しくてそっと額に口付けてゆくと、なにか声にならない溜め息をついて俺に身を寄せてきた。
俺がカミュを抱いたのは2月14日以来のことで、あれから二十日以上も経っている。
ゆうべはちょっと度が過ぎただろうか……?
なにしろ久しぶりだったので、お互いにかなりテンションが高かったからな…
カミュに与えた仕草の数々とそれに応えてきたカミュの素直すぎる反応が我知らず俺の頬を染めさせ、もう一度…、という気を起こさせた。
暖かいフトンの中でそっと確かめていくと 「 あっ… 」 と小さな声を上げ身をよじって逃れようとするが、あいにくこちらにはそんなことを許す気はないのだ。
「逃がさないから…」
含み笑いをしながらやさしく抱きこんでゆき甘い口付けを与えれば、俺の愛に狎れた身体に震えが走り歓びの色に頬を染めるのがいとおしい。
「ミロ……もう朝が来るのに…」
「……だからお前を愛したいんだよ♪」
恥ずかしそうに訴えるカミュを軽くいなしながら、弱いところをさぐってこちらのペースに引き込んでゆくのはわけもない。
ほんの少しのつもりが、気がついたら双方とも夢中になって愛し合っている。
「ミロ……ミロ………そんなに私が……好きか…?」
「好きだとも! ここも、ここも、それからここも♪」
「……あっ」
次々と弱いところに唇を押し当ててゆくと、たまらずに洩れる喘ぎが耳にこころよい。
「ミロ……もう…だめだから……ほんとうに私は………ああ…」
そんなことを言っても許さない……♪
心の底ではなにを思っている?
もっと……もっと…俺にほんとうのことを聞かせて………
さらにやさしく、しかし的確にカミュをいつくしめばいつくしむほど、俺の想いは深くなりカミュの惑乱の度も増してくる。
とうに知り尽くしているつもりがまた新たな一面を知らされて惹かれずにはいられない俺がいた。
こちらがリードしているつもりだったが、これではまるでカミュにリードされてるようだ……
いいとも! 好きなだけ俺を誘ってもらおうか……想いのままに愛してやろう………
文字通り嘗めるように愛されたカミュの肌が桜色に染まり、それはさながらきたるべき春を思わせて美しい。
つややかな髪を惜しげもなく乱したカミュを俺は今一度抱きしめていった。
空が白みかけたころ、もう一度露天風呂に行く気になりカミュに声をかけると、枕に顔を伏せたまま小さく首を振る。
「行かなくてもいいのか? あんな珍しい川の温泉には滅多にお目にかかれないんだぜ。」
「私は……あの………明るいのは……外の温泉は困るので…普通の浴室でよいから…」
先ほどまで乱れていた余韻が残っているらしく、俺の顔も見られないらしいカミュがそう言うのではしかたない。
「わかったよ、朝食時間までには戻ってくるから、お前もゆっくり入ってきてくれ。」
長い髪の一房を取って口付けてから先に部屋を出た。 きっと今ごろはそろそろと起き出して、頬を赤らめながら身仕舞いを直しているのに違いない。
カミュのやつ、ほんとに可愛いんだから♪
俺はくすくす笑いながら廊下の端に行き、浴衣を脱ぐと川湯に飛び込んだ。 外は震え上がるほど寒かったし、深い淵のところにそうやって飛び込んでみたら面白いだろうなと思ったのだ。
盛大にしぶきが上がり、あたりの雪にしるしを残す。
首まで湯に浸かって流されぬ程度に姿勢を保っているのはなんとも言えず不思議な気分で、なんだかおかしくて仕方がない。一人で面白がっていると向かいの斜面の途中で真っ白なウサギがこっちを見ているのに気がついた。
よく見るとそのあたり一面に縦横無尽についているのはウサギが走った痕なのだろう。
明るくなって人目を気にするのもわかるが、夜の間にも見物人がいたのかもしれないな♪
ウサギとお前とどっちが白いか比べてみたいものだ
今ごろカミュもヒノキの浴槽に浸かりながら、昨夜のことやこれからのことを考えているのに違いない。
たまには一人の湯もいいかな……なにしろ心拍数が上がらない♪
湯から上がって振り返り川の湯に名残りを惜しんでいると、俺を見ていたウサギがぴょんと跳ねて姿を消した。
チェックアウトして宿を後にしたのは10時を少し回ったころだ。 来る時とは違ってカミュと二人なので2時間の下り道も楽しいことこの上ない。
「それにしても川の湯には驚いたな!」
「川で泳いだことすらないのに、川の温泉に入るなどとは想像もしなかった。」
「あれ?お前、川に入ったことあるじゃないか!」
「え?」
「ほら、こないだ鉄砲水にやられて俺に助けられたとき♪」
「しかし、あれは…」
「あの時も、結局、俺が温泉に入れてやったんだったな♪♪」
「ミロ……」
うなじまで真っ赤に染めるカミュが困ったように目をそらす。 なに、かまうことはない、誰が聞いているわけでもない山中なのだ。
「今回のこの温泉で一緒の入浴も解禁になったし、俺は満足だね。いい宿だったよ。」
「あ……」
カミュが足を止めた。
「あれ……雪だ。 そういえば冷えてきた。」
曇り空からひらひらと落ちてきた雪片がカミュの手のひらの上であっという間に融ける。
「雪が…暖かい。」
「え……?」
「冬の雪とは違う。 春がすぐそこまで来ている。」
木々の枝をすかして空を見あげたカミュの髪に触れた雪がすっと融け、なるほど真冬の雪よりやわらかく思えるのだ。
「暖かい雪か……」
舞い落ちてくる春の知らせを見あげていたら、俺のまつげに雪がついて慌てて目をしばたたいた。
「すると、まもなくお前が帰ってくるということだ!」
「そうだ、もうすぐ私は…」
言いよどんだカミュが寒気の中でかすかに頬を染めた。
ん? なに……?
「………もうすぐ私はお前のもとへ帰る。」
「歓迎するぜ♪」
口早に言って歩き出そうとしたカミュをつかまえて一つキスをする。
「ミロ……こんなところで………誰かが見てるかも…」
「大丈夫だ、ウサギしか見ていない。」
「……ウサギって?」
「ウサギは俺を見るのが好きなんだよ♪ だから、もっと見せ付けてやろうじゃないか」
とまどうカミュにかまわず、俺はもう一度口付けていった。
冬の雪とは違って、春が近くなると空気がゆるんで暖かい雪が落ちてくる。
読者様から教えていただいたこんな素敵な言葉を見逃す手はありませんでした。
さっそく、融雪を終えようとしているカミュ様帰還の兆しに使わせていただいたのがこの話です。
でも、 「 暖かい雪 」 というタイトルにするということは、
古典読本でも東方見聞録でもないということです。
すると、残るは黄表紙!
そしてあれよあれよという間にミロの日記念のロング連載に出世したのでした。
それにしても温泉の川なんて不思議です。
お二人に珍しい経験をさせてあげられて満足です♪
⇒ (黄表紙風味) ⇒ (同じく)