風の強い夜で、流れる雲に見え隠れする月がときおりミロの行く手を照らし出す。寝静まった十二宮に動くものはミロの影だけだ。
目指す宮のドアの前に立ったときにはすでに夜中を過ぎており、さすがに逡巡したミロがノッカーに手を伸ばすのをためらっていると、宮の奥から人の気配が近付いてくる。

   え………?

中からドアが開き、アフロディーテが不審そうにミロを見た。
「こんな時間に何があった?」
「あの……」
おそらく眠っていたアフロディーテを目覚めさせるほどに自分の小宇宙が動揺していることを思い知らされる。
ミロは唇を湿した。
勇気を出さねばならない。 喉がひりつき、頬が火照る。 月の光が背中から当たっていることを神に感謝した。
「今すぐ宝瓶宮に来てくれないか、カミュを助けて欲しい。 どうしても意識が戻らない。」
一気呵成にそれだけ言った。 アフロディーテの眉が上がった。

「カミュが今日の午後に聖衣修復のための血を提供したことは聞いている。 それでどんな様子だ?」
夜着を羽織ったアフロディーテが戸棚から幾つかの小瓶を取り出した。 いずれもアフロの手書きのラベルが貼ってある。
「体温が低い。 血の気がなくて顔色は紙のように真っ白だ。 呼んでもなにも反応がない。」
「呼吸は?」
「浅くて早い。 」
「脈はどうだ?」
「かなり早くて弱い。」
「宝瓶宮にアルコールはあるか?」
「ない。 カミュは酒を飲まない。」
「ではこれを持って。」
ミロにブランデーの瓶を手渡したアフロディーテが外への扉を開けると冴え冴えとした月が眼下の丸屋根をくっきりと見せている。
その下に独り横たわるカミュの姿が脳裏に浮かびミロが唇を噛んだときだ、石段を降り始めたアフロディーテが訊いてきた。
「倒れてからどれだけ経っている?」
「一時間ちょっとだ。」
「遅すぎる! 次からはもっと早く来たまえ! もっとも、次があっては困るが。」
眉を寄せて言われて、ミロには返す言葉もない。
「で、倒れたときの状況は?」
ミロにはいちばん訊かれたくない質問だが、これは必ず通り抜けなければならない関門だった。
「少し話をしていて…カミュは興奮したかもしれない……で、意識をなくした。」
こんな言い方ではなにも説明してないのも同然だが、これ以上どうして詳しくいえるだろう。
その口調の歯切れの悪さにアフロディーテはなにかを感じたろうか。
「わかっているだろうが、ミロ、体内の血を半分失うというのは一般人には致命的だ。 成人でも1リットルの血液を失うと出血性ショック症状が出現し、1.5リットルの失血では生命が危険にさらされるというのに、我々は聖衣の修復の際に約3リットルもの血液を提供するのだから一般人なら確実に死に至る。 いかに黄金聖闘士といえどもそのダメージは大きいが、我々の場合はムウが可能な限り迅速に治癒を施し、組織にはなんの損傷も残らない。 一般人では内出血も起こるが、我々が手首を切ったときにはムウがその場で内出血を抑えてくれている。 ムウが処置を終えたあとは痛みも残らず、その失血の理由を知っている我々は大量出血にありがちな心的パニックも起こさない。極めて論理的にその事実を受け入れて、体内の小宇宙が自律神経の働きを支援する。」
アフロディーテとデスマスクとシュラがすでに血を提供したことがあるのはミロも知っている。 年中組の三人が義務を果したので、今回は年若いカミュに順番が回ってきたのに違いないのだった。
「しかし、圧倒的な血液の流量不足の影響は全身に及び、体温低下、倦怠感、頻呼吸、頻脈等が見られ、症状が進めば意識障害、呼吸障害、臓器の循環障害が著明になるのだ。 それゆえに血液を提供したあとは長期間の安静を必要とし、ムウに説明を受けたカミュも当然そうしていたはずだ。 今回は……」
アフロディーテが一瞬黙った。 どうやらふさわしい言葉を探していたようにも見受けられる。
「今回は、ミロの訪問による興奮で低血圧症状が亢進し意識障害を招いたと思われる。」
医学的な説明がミロの胸を締め付ける。 血を提供して半日も経っていなかったカミュ。 絶対安静を必用としていたその危機的状況に気付かなかったミロは情熱のおもむくままにカミュを抱いて、その身体の冷たさ白さにになんら注意を払うことなく賛美を繰り返しながら数時間も興奮を強いたのだ。
そこのところに深入りせずにさらりと流してくれたことを感謝せずにはいられない。

心急いたミロの手が馴れた扉を押し開ける。
白く冷涼な空気が二人を包み、その主の陥っている状況を知らしめた。 かすかな小宇宙の気配が奥の方から伝わってきてその弱々しさがミロを畏怖させる。
ものも言わずに寝室へ直行したアフロディーテは横たわるカミュを見るなり唇を噛んだ。
「暖炉に火を!」
それだけ言うと、呼吸、脈拍を確かめてからあっという間もなく寝衣の前をはだけて、持ってきた小瓶の中のオイルを胸に塗り広げた。
「経皮吸収で呼吸を助ける。 それからこちらは…」
次の小瓶を手に取ったアフロディーテが今度は手足や背中に手際よくあらたなオイルを塗った。
「血流を促進し、末梢神経の機能を向上させる効果がある。 ミロ、暖炉はそれでいいからこちらへ!」
ハラハラしながら火を焚き付けていたミロがベッドの側に寄る。
「君には真央点を突いてもらう。」
「真央点を…?」
「以前、双魚宮で私とピンポイント攻撃の検討をしたことがあっただろう。 あの時に気付いたのだが、血止めの急所、真央点はうまく使えば滞留した血流を改善できる筈だ。 ただし、強すぎてはならない。 弱い刺激で皮膚や内臓に損傷を与えることなく撃つことが出来るか?」
「やってみる!」
ためらっている場合ではなかった。 目の前のカミュはミロがこの場を離れたときよりも生気がなく、まるで見えないフリージングコフィンに覆われているようにも思えるのだ。
ミロが真央点に直接指を当てた。
「最初は弱くてよい。 効果が出るまで徐々に強めてゆけばよいのだ。」
ミロの指先に小宇宙が集中し、カミュの体内に吸い込まれてゆく。 唇を噛み眉を寄せたミロの額に冷や汗が浮かぶ。
理論的には可能だが、必殺の技であるスカーレットニードルを威力を弱めて撃ったことなど、今までに一度もないのだった。
五回目を数えたところでストップがかかった。 アフロディーテがカミュの小宇宙が反応したのを認めたのだ。
「よい兆候だ。  暖炉の火は…」
アフロディーテが肩越しに振り返る。
「よし、よく燃えている。 身体を冷やさぬように、毛布をかけたままで全身マッサージをする。 ミロはそちら側へ!小宇宙で身体を温めることは出来るか?」
「さっき試したが、俺にはうまくできなかった。」
「では、それは私が引き受けよう。」
たちまち淡い薔薇色の小宇宙が立ち昇り、カミュを覆って輝いた。 攻撃的でないアフロディーテの静的な小宇宙を見るのは初めてで、ミロは瞠目する。
「これは覚えておいたほうがいい。 いつか役立つこともあるだろう。」
「ブランデーは?」
「意識のない人間は経口摂取は出来ない。 嚥下障害を起こしてしまう。 この状態で誤嚥を起こせば命取りになる。」

アフロディーテの適切な指示により真央点にさらに数回刺激を与え、マッサージを続けること一時間あまり。 高雅な薔薇の香りが立ち昇り、緊張した空気を和らげた。
「アフロ!あれを!!」
ミロが目を見開いた。
微動だにしなかったカミュのまぶたがわずかに痙攣し、気がつくと指先にも色が戻ってきているのだ。
「手を緩めるな、もう少しで目覚める筈だ。 それから完全に覚醒する時には、私はこの場にいないほうが良いだろう。 目を覚ましたらブランデーを温めてゆっくり飲ませるといい。 水分と、栄養のある消化の良いものを与えることを忘れるな。 部屋を常に暖めて、身体を冷やさぬように。」
カミュが深い溜め息をついて頭を振った。枕元に広がっていた髪がひそやかなうねりを見せ、ミロの心を和ませる。
「ではあとのことは任せる。 それからこれは鎮静効果のあるバラのエッセンスだ。 必要に応じて嗅がせると良いだろう。」
立ち上がったアフロディーテが手渡した小瓶は薄緑色で、カリグラフィーのきれいな書体のラベルがつけられているのだった。
ほっとして礼を言おうとしたときに、かがみ込んだアフロディーテがミロの肩に手を置きささやいた。
「それから、ミロ………若さゆえの過ちにも限度がある。 あと一ヶ月は興奮させるな。 カミュは君一人だけのものではない。大事に思っているものがほかにもいることを忘れないで欲しい。」
「あの……」
真っ赤になってなにか言おうとしたミロを手を振って押しとどめたアフロディーテが部屋を出て行った。
あとを追おうとしたとき、、後ろからなつかしい声が呼び止める。
「ミロ………」
低くかすれた声がなんと嬉しく甘く響いたことだろう。
「あの………私はどうしたのだろう……?」
命の恩人のことを頭から追いやったミロが満面に笑みをたたえてベッドの傍らにひざまずく。
「カミュ……聖衣の修復のことを知らなくて、お前に無理をさせてすまなかった………もう大丈夫?」
「ん………よく覚えていない…………いつの間にかミロが来ていて…」
それからなにか思い出したものか、まだ白かった頬にぱっと血の色が散り、見つめているミロをとても安心させた。
「さあ、少しでいいからこのブランデーを飲んで。それから暖かいものを食べようじゃないか、俺が作ってやるよ。」
毛布のふちをつかんでいたカミュの指先を取り、軽く、しかし想いを込めて唇を押し当てたミロが部屋を出て行った。
まだすこしぼんやりとしていたカミュの目がベッドサイドの灯りが照らしている白い紙片に惹きつけられた。
皺くちゃになったそれは、明らかに自分が書いたものなのだった。
「ミロ………」

   もっと大きな字で書いたほうがよかったかも知れぬ…

くすりと笑ったカミュが、また一つ溜め息をつく。

   ………それに、この薔薇の香りは…

暖かいスープを運んできたミロは、毛布から真っ赤な顔をのぞかせているカミュをとても可愛いと思ったのだった。





   
かくて 「 初花 」 と並ぶ、二大・花シリーズの誕生です。
   ごく普通の短篇になるはずが、あれよあれよという間に立派な中篇へと変貌を遂げました。
   これもみな、ミロ様の熱意の賜物!
   カミュ様の介抱シリーズも増えてきました。。
   これで 「 バレンタイン異聞 」 ・「 金糸雀」 ・ 「 雪花 」 と揃い踏み、 極めて満足!
   東方見聞録の 「玉子酒 」 も介抱ものではありますね。

   医学用語が少々多いですけれど、カミュ様が論理性を要求したので。
   それにしては捏造部分が多いのが心苦しいですけれど、
   血液の半分という初期設定がそうさせるのだとご理解ください。
   ミロ様はムウのところには駆け込みません、遠すぎるし、そこまで親しくはないし。
   それよりも、子供の頃から親切にしてくれて、カミュのことを大事に思ってくれているらしい双魚宮に頼ります。
   知られちゃったけど、見られちゃったけど、カミュ様を救うためにはしかたないですし。
   秘密にしているつもりなのに、賢いカミュ様が真相を悟ってしまったことにはきっといつまでも気付かないのでしょう。
   
キスマークとか、残ってたりして………きゃっ


            
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