いのち短し恋せよ少女(おとめ)  朱き唇 褪せぬ間に

                             作詞 : 吉井 勇   作曲 : 中山晋平  「ゴンドラの唄」 より

夢は現実にリンクするものではない。

そんなことはわかっている。 夢を見たからといって実現するわけではないし、実現する可能性が高まるわけでもない。 夢と現実は無関係なのだ。
しかし、今のミロには昨夜の夢は強烈だった。
場所がどこかはわからなかったが、ミロはカミュと二人きりで歩いていた。 なにか話をしたようだが内容を覚えてもいない。 ただ一つ大事なことは手をつないで歩いていて、それを思い出すだけでもどきどきするのに、なんと驚いたことには夢の中の自分はカミュを引き寄せてキスをしたのだ!
夢の中では当たり前だったようで、カミュも平気な顔をしていたし、ミロのほうもずいぶん手馴れていたように思われた。
あいにくなことに、カミュの唇の感触などはさっぱり記憶にないのだが、ともかくミロは夢の中でカミュとキスをしていたのだ。

目覚めたときはまだ夜も明けておらず、暗い寝室で心臓の音だけが大きく響いているようだった。

   ………え?………夢…?
   今のって………夢…だよな………

あまりのリアルさに茫然とし、それからそっと自分の唇にさわってもみた。

   ここにカミュの……

どきどきしてきて、ベッドの上で毛布を抱えてくるっと丸まった。
今までに数え切れないほど頭の中でシミュレーションをくり返し、きっといつかはその日が来ると信じていたミロだが、そう思い始めてから何年経ったことだろう。
聖域に戻って来たカミュとはそれ以来親しく付き合ってきて、ミロとしては慎重に慎重を重ねて互いの気持ちを醸成してきた、と言いたいところだが、カミュがどう考えているのかいま一つわからない。 時々それらしいことを匂わせてはいるものの、このままでは埒があかないと考えたミロが思い切って直接訊いてみたのはつい先週のことだ。 宝瓶宮でくつろいでいて、雰囲気もよかったのだ。

「カミュ……お前、俺のことどう思ってる?」
「私か?」
カミュは読んでいた本を膝に置いた。
「天蠍宮を守護するスコーピオンのミロは、優れた技量を持つ黄金聖闘士だ。」
「それだけ?」
「他に何がいる?聖闘士として文句のつけようのない評価だと思うが。」
「だから聖闘士としてじゃなく、お前にとって俺はどんな存在かってことだよ!」
「それなら簡単なことだ。 聖域での最初の友人にして良きライバル、私の親友といえる。 これでよいか?」
ミロは、ため息をついた。
「もうちょっと他の言い方はないか? もっとこう……心理的な表現でなんとかならないか?」
カミュが首をかしげた。
「心理的? たとえばどのような?」
ミロは身を乗り出した。
「俺はお前が好きだぜ、ああ、かなり好きといっていい。 お前はどうなんだ?」
「そんなことか。 それなら、私もお前が好きだ。」
カミュが再び本を取り上げ、ミロは盛大にため息をついた。

ともかくこのままではどうしようもないのである。 もっと積極的に出なければ、いつまでたってもこの関係は変わらないだろう。

夢の記憶がまざまざと脳裏に残っているミロは大きく伸びをするとベッドから抜け出した。
物事には踏ん切りが必要だ。 さっきの夢は神の啓示に違いない。

   今日こそカミュに告白して、その勢いでキスをする!
   言葉だけではカミュには通用しない、実力行使だ、それに限る!

決意もあらたに宝瓶宮を訪れたミロは海岸へとカミュを誘うことにした。
「昨日、海岸近くの森でちょっと珍しい植物を見つけたが、見に行かないか?」
「ほぅ、それはよい♪」
わりと単純な口実だが、こういった学術的な理由での遠出はカミュには有効なのである。

もう幾度通ったか知れないこの道は二人には馴染みのもので、通り過ぎる木々の種類や小道の曲り方も周知のものだ。
「覚えてるか? この木。」
かなり海に近付いたあたりでミロが立ち止まった。 かたわらの太い幹をぽんぽんと叩き上を見上げると、鬱蒼とした森の遥か頭上にわずかに碧い空の色がパズルのかけらのように見えている。
「ああ、よく覚えている。 森で一番高い木だ。 黄金になって初めて森に来たときに、お前が登ろうと云った。」
「で、初めて挑戦してみて、あの枝に頭をぶつけた。」
笑いながらミロが指差した枝は下から数えて三本目のとくになんということもない枝振りなのだ。
「いくら黄金になったからといって、木登りなんてすぐにうまくできるものじゃない。 次の枝との距離を正確に目測して跳ばなくてはならないのに、ともかく早く登らなくちゃ黄金の沽券にかかわるとでも思ったんだろうな。 やたら早く動きすぎて失敗をした。」
「そして、下にいた私にぶつかり、二人して転がり落ちた。」
カミュが笑い、ミロもそれと一緒に苦笑いする。
「リベンジしようぜ、ついて来いよ♪」
「…え?」
カミュの返事も待たず3メートルほど上の枝に跳び上がったミロが早くも葉ずれの音をさせながら姿を消し、それに続いてカミュも軽い跳躍でたちまちあとを追う。 身軽い動きで登るにつれ、二人を包んでいた木々の重なりは空間を多く含むようになり、やがて日の光が眩しく目を射るようになってきた。 追っていたミロの姿がいきなり止まり、あやういタイミングでそれを避けたカミュは一つ下の枝に身を置いた。
「これ以上はだめだ。 枝が細すぎて俺たち二人を支えきれないだろう。 だが、この枝までなら大丈夫だ。」
そう言ってさりげなく手を差し出すと、
「でも、一人ずつなら、もう少し行ける。」

   え……?

早くも枝を蹴ったカミュがすぐ横を通り過ぎ、数本上の枝上で降り注ぐ日の光を浴びている。
「ミロ、よい眺めだ! 早くここまで登ってくるといい。」

   やれやれ……同じ枝じゃないとキスはできないんだよ……

苦笑しながらカミュのいる枝とは反対側に立ち、バランスを取る。 森で一番高いこの木は眼下に海を見下ろし、まるで身体の中のものを空っぽにしてしまうほどに吹き抜ける風がなんとも心地よい。 遠くまで広がる海は、紺青や藍緑や紺碧や様々な色を混ぜ込みながら数え切れぬほどの島々を浮かべている。 西の空には暗い雲が湧き上がり、空にゆっくりと広がろうとしているのだった。
「気持ちがいいな!」
風に負けずに叫ぶように云うと、
「この潮風が好きだ。 十二宮では感じられない世界の息吹を全身で感じることができる。」
そう答えるカミュの表情が夢見るようでミロをはっとさせる。 それは十二宮にいては見ることのないもので、静かに本のページをめくるカミュとは違う一面なのだった。思わず見とれていると、
「ミロ、海まで行ってもよいか? 」
カミュが碧い海を指差した。
「ああ、お前の行くところならどこへでも付き合うぜ!」
カミュが自分から希望を口にするのは珍しい。 森での告白は無理だと見てとったミロは、舞台を海に切り替えることにした。

   潮騒を聞きながら海岸を散歩して、カミュの心がもっとほぐれてきたところで……

率先して暗い森の中に身を躍らせて枝を伝い降りてゆくと湿った苔と土の匂いが押し寄せてきた。 あわよくば森の中で、とも思ったミロだが、続いて地面に降り立ったカミュが足早に森を抜けて行くのであきらめた。 早足で歩きながら愛の告白というのはどうにも風情にかけるというものではないか。
「海が好きか?」
並んで歩きながらきいてみた。
「海は生命に満ち溢れている。 極寒のシベリアの海さえもその水底には多くの生命を内包しているのだ。 そのいのちの輝きが私には好ましい。」
「それに比べて十二宮には緑が少ないしな。 麓の白羊宮でさえ岩肌が露出しているというのに、おまえの宝瓶宮ほど高い位置にあると、ごく普通の樹木さえ数えるほどだ。」

   う〜ん、こんな固い話をしたいんじゃないんだがな……なんとかならないもんかな?

ミロの思いとはうらはらにカミュはギリシャの地中海性気候について話し始め、とても口をはさめるものではないのだ。 実力行使も辞さない気で聖域を出てきたものの、できればそれを避けたいミロにとってはこの展開はあまり望ましくはない。

   そうだ! こんなときには、思い出話に限る!
   微笑ましい話題を出して、懐かしい気持ちになってもらおうじゃないか♪

そうと決まれば難しいことは何も無い。 都合のいいことに、おあつらえ向きの材料が目の前にある。
「ほら、ここだ。 ここでお前が転んで膝に怪我をしたんだよ。」
ミロは笑いながら波に洗われている岩場のふちにに立ってみた。
「今なら、あのような真似はしないのだが、あの時は聖域に来てわずか一ヶ月。 普通の子供と同じだったのだから避けようもなかった。」
「それで俺がお前を支えて森の端までやっとの思いで辿り着いて、そこで力尽きたってわけだ。」
「たしかサガとアイオロスが探しに来てくれて、眠り込んでいる私たちを聖域に連れ帰ってくれたのだったな。」
小さかったころを思い出しているらしいカミュが風に乱れた髪を抑える仕草がしなやかで、ミロの鼓動は高鳴るのだ。 ここが告白するチャンスかもしれなかった。
「知ってるか? 夜中に発見されたとき、俺は怪我したお前を護るように抱きかかえていたんだそうだ。」
「……え?」
「あの時お前を守ろうと思った気持ちは、今も変わってはいない。 俺にとって、カミュ、お前は唯一無二の存在なんだよ。」
ずっと心の中で暖めていた台詞を言い終って胸がどきどきするミロなのだが、はたしてこの言葉がどのくらいカミュの胸に響いたものか。
「え………そんな大袈裟なことを……」
返事に困ったらしいカミュがちょっとうつむいた拍子に赤くなった耳がちらっと見えて、ミロの思いに拍車をかける。
「大袈裟なんかじゃない。 お前がシベリアに行く前も、行っている間も、そして今このときも俺の思いは変わらない。 そろそろ分かってくれないかな…?」

   さあ、俺は清水の舞台から飛び降りたぜ!
   お前のためならナイヤガラの滝からでさえ飛び込んでみせる!
   ……どうする? カミュ…

「え………あの…………私は…」
白かった頬が見る間に朱の色に染まり、くるっと向きを変えたカミュは波打ち際に沿って歩き始めた。いつもよりこころもち広い歩幅は心の動揺を表しているのかもしれなかった。
「俺の気持ちはとうにわかっているはずだ。 今日はお前の返事を聞きたい。」
波の音と鳥の声が高まる一方の鼓動を消してくれるように願いながらあとを追っていたときだ。 遠雷の音がして、はっと西の空を見るとたいしたことはないと思っていた雲が驚くほどの質量で迫っており、その下には驟雨の白い筋も見えているではないか。
「あ…!」
いけない、と思ったとたんポツリポツリと落ちてきた雨はまたたくまに大粒の白い筋を引き、海も砂浜も分けへだてなく音を立てて降り注いできた。 白い波頭を立てる海からの風が強まり、髪が吹き乱される。
雷の轟く中を言葉もなく二人して森へと走り込み、ほっとしたのも束も間、振り向きもしないカミュはいささかも足を緩めることなく来た道をとってかえすのだ。

   冗談じゃない! なんて間の悪い!
   この機を逃したら、しばらくは口もきいてもらえないかもしれん!

ここでこのまま帰るわけにはいかないと追いすがり、ようやくカミュの手を捉えることができたのはさっきの木の下まで来たときだった。 真っ赤になってその手を振りほどこうとするのを、きつくない程度に加減しながら押さえ込む。
「カミュ……」
「そ…そんなことを言われても私は困るっ!」
「でも、お前だって俺の気持ちはとっくにわかってる筈だぜ? もう、自分をごまかすのはよせよ。」
「……だから、私は……ミロ……本当に困るから………」
数歩下がったカミュの背が木の幹にぶつかった。
逃げ場をなくして途方に暮れ、顔をそむけて身を硬くしているカミュの、その形の良いあごにそっと手を添えてこちらを向かせたミロが蒼い瞳をひたと見る。
「俺も一緒に困ってやるよ……カミュ……」

   あ……ミロ…

降りしきる雨が湿気を帯びた空気を運び、湿った森の匂いと甘い髪の香りがミロの鼻腔を刺激する。 初めていだく手の中のカミュの温かさがミロには嬉しくてならないのだ。

   夢のとおりだ!
   カミュ……カミュ…………なんて素敵なんだ!

初めて知った唇のあまりにも柔らかい感触に夢中になっているミロの腕の中でこわばっていたカミュの身体が急に力を失い、頭をのけぞらせた拍子に長い髪が揺れた。
「あっ……カミュっ!」
そのまま崩れそうになるのを慌てて抱きなおしたミロが蒼白になった。
「おい、カミュっ!!どうして……?大丈夫か?!」

   まさか………キスされたショックで気絶したんじゃあるまいな?
   ……そんなことってあるのか?

どきどきしながら力を失ったやわらかい身体を揺すぶると、頬を染めたカミュが荒い息をつきながら顔をそむけた。 乱れた髪の間からのぞいている耳朶の紅さが目を奪う。
「あの……息が……できなくて………」
消え入るような小さな声がして、今度は、ミロの身体からどっと力が抜ける。
「カミュ……ごめん…驚かせた……」
やさしく抱きしめられたカミュがうろたえてミロを押し返す。
「あの……放してほしいから……頼む…」
「え……あの…」
「頼むから……ミロ!」
頬を紅潮させ顔をそむけたカミュに小声だがしっかりと言われたミロが名残惜しそうに手を離す。
「もっと……もっと雨がひどくなるかも知れぬから聖域に帰る。」
早口に言って歩き出すカミュはミロを振り返りもしない。

   あの……その、赤くなってるのは、怒ってるのか? それとも照れてる…?
   カミュ、カミュ……俺のこと、どう思ってる……?

瞬時に判断のつかなかったミロも急いであとに続く。
雷の音が後ろから追いかけてきた。




                        
初めてのキスは慣れ親しんだ森の中。
                        この続きは古典読本の74と75になります。
                        ファーストキス三部作ですね、ミロ様、いよいよ恋の船出です。
                                                      古典読本・74 ⇒ こちら

                        標題の歌を作詞した吉井勇は古典読本の48にも採り上げられています。
                                                      古典読本・48 ⇒ こちら

                        また、不思議な偶然で、
                        この 「ファーストキス三部作」  はいずれも古い歌を標題にしています。

                          「君恋し」              昭和36年  フランク永井
                          「月がとっても青いから」      昭和30年  菅原都々子
                          「ゴンドラの唄 」           大正4年   松井須磨子

                        思いっきりうちらしくて満足、満足 (笑)、クラシカルだわ♪

           
 「 ゴンドラの唄 」   1. いのち短し 恋せよ少女  朱き唇 褪せぬ間に
                            熱き血潮の冷えぬ間に  明日の月日はないものを

            黄金のいのちが二十歳で終わったことを思うと涙が滲みます。