第二十回


玲霄殿から紅綾殿までの道筋を脇に折れれば、カミュの住まう翠宝殿である。
アルデバランやアイオリアと違い燕にはなんの係累も持たないカミュを一人で翠宝殿に帰すに忍びなく、昭王はともに歩むことに決めていた。
月の朧ろな夜といえども、回廊沿いのところどころに焚かれている篝火の辺りはかなりの明るさがある。
自らを励まして極力普通に振る舞っているつもりのカミュであったが、数日間にわたって東奔西走した疲れはさすがに隠しおおせるものではなく、常にも増してカミュの一挙手一投足を注視していた昭王には、それがはっきりと見てとれた。
その腕に受けている傷のことも気にかかり、一刻も早く休ませてやりたい気持と、人の身と分かった喜びに少しでも長く語らいたい気持とが綯い交ぜになり、昭王の心は千々に乱れてならぬ。
それでも、あれこれと尽きぬ話をしながら回廊を辿り、翠宝殿への分かれ道まで来ると、昭王は貴鬼に細々とカミュの世話をいいつけたのち、後ろ髪を引かれる思いで、紅綾殿へと向かった。
いったん更衣をしたうえで、太后の待つ斉綾殿へと行かねばならぬのである。
内心では、今暫くカミュと共に過ごしたかったのであるが、こればかりはそうもいかず、せめても、貴鬼のみにカミュの身の回りの世話をさせることで、自らを納得させたものである。

カミュの脇に控え、多くの侍僕を従えてゆく昭王の後姿を見送っていた貴鬼は、昭王が回廊の先を曲がるときに肩越しに一瞬こちらを振り返ったのに気付き、珍しいことに思っていた。
およそ、一国の王ともなれば、振り返ることなどせぬものである。
よほどに驚天動地のことでも出来(しゅったい)すれば別だが、その挙措は悠揚として迫らぬのが通例であり、いったい何が昭王を振り返らせたのかは、いくら考えても分からぬことであった。
貴鬼には、昭王にそのようなことをさせる何事もないように思えたのは無理もない、一人静かに立っている異国の人の姿を一瞥(いちべつ)せずにはおられなかった昭王の秘めたる想いなど誰一人知る由もなかったのである。

いぶかしく思った貴鬼がカミュを見上げると、いつに変わらぬ様子で見送っていたが、昭王が振り返ったのを認めると静かに会釈を返し、その姿が見えなくなってもじっとそちらを見たまま動かない。
しかし、三日の間、昭王とともにじりじりしながら結果を待ち続け、さらにその後の二日間はその昭王もカミュとともに行ってしまったため手持ち無沙汰になってしまった貴鬼としては、一刻も早く、帰宮してきたカミュの世話をしたくてうずうずしていたところである。
少しでも早く翠宝殿にお連れして、熱いお湯を心ゆくまで使っていただき、縫い上がってきたばかりの新しい衣(きぬ)をお召しいただいてから長い御髪(おぐし)を梳(くしけず)り、温かいものを差し上げたあとでゆっくりお休みいただこう、と何日もの間、いろいろと計画を練っていたのだから、これ以上は待てるものではない。
夕刻に昭王の帰還を知らせる早馬が来て天勝宮が沸き立つと、かねてからの予定通りに翠宝殿でカミュを迎える用意を手早く整え、あとは今か今かと宮門でその帰りを待っていた貴鬼なのだ。
まして、カミュの姿を一目見たときから、大人たちの噂通りの黄金の鎧にも驚いたが、すぐに左腕の怪我に気付き、その小さな心を痛めていたのである。
昭王の差し向けた侍医も間もなくやって来る筈であった。

「カミュ様、さ、参りましょう。」

思わずカミュの手を引き、そっと呼びかけると、はっと気付いたカミュの優しい声が返ってくる。

「貴鬼にも心配をかけた。長い間留守をしてすまぬ。」

日頃の姿とは違う黄金の鎧に身を包んだカミュに、少し近づき難い思いをいだいていた貴鬼だが、そのいつに変わらぬ返事に安堵せずにはいられない。
この辺りに篝火の灯りは届かぬが、貴鬼の捧げ持つささやかな灯りが柔らかく足元を照らし、カミュの黄金聖衣を闇の中に淡く浮かび上がらせている。
アルデバランの鎧もアイオリアの鎧も、貴鬼の目には勇壮で頑丈な重々しい造りに思えたが、カミュの聖衣はどちらかといえば優美とか典雅といった範疇に属するようである。
見慣れぬ形の頭冠も、貴鬼には夢のように美しく見え、それがまた異国のカミュにはふさわしいように思われた。
カミュ達の出発はとりたてて秘密裏に行なわれたわけではなかったが、豪雨の中で極めて迅速に宮を出て行ったため、カミュが聖衣を身に付けているのを見たものは数少なく、その噂を聞いても貴鬼には俄(にわ)かには信じられなかったのだ。
なんといっても『白髪三千丈』の国である。
此の世に黄金の鎧などあるはずもないではないか、大人はいつも物事を大袈裟に云い立てるものなのだ、貴鬼がそう考えていたのも無理からぬことではあった。
けれどもそれが現実のことであり、しかも、自分が仕えていたその人が燕を救ったのだという誇らしさが貴鬼の心を躍らせていた。
昭王に仕え、さらにその御声掛かりでカミュにも仕えることになった我が身の幸運をつくづく思いやる貴鬼である。
こうして、そばから離れようとせぬ貴鬼を供にしてカミュは翠宝殿の奥へと入り、半刻ほどしてその柔らかな灯も消えた。
危ういところで難を逃れた天勝宮は、終日、さんざめく喜びの声に包まれた。

 
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