第二十一回


勿論、氷壁を創っただけではこの水難を逃れたに過ぎず、まだ後始末が残っている。
数日して濁流の勢いが弱まっていったのちは、再び上流から徐々に氷壁を融かして下流に流していかねばならず、なかなかに手の掛かることだったが、あれだけ大量の氷を一気に蒸発させたのでは上空で再度雨雲を形成し、また豪雨となりかねなかったのだからやむをえぬ。
それがすむまでは、真夏とはいえカミュの造った氷が自然に融ける筈もなく、燕の人々をまことに不思議がらせたものだった。
アイオリアの話では、すでに人々の間では、昭王の徳に感じ入った天帝が冷竜を遣わされてお助けになったのだ、との噂が広まっているという。
それのみならず、黄金の鱗の竜が霊気を吐いて川を凍らせるのを見た、とまことしやかに触れ回る者もいるというのには、カミュも苦笑せざるを得なかった。

今回の遠征は、すでに路も乾き、十分な用意もできたので比較的楽な旅程であった。
やはり同行を望んだアイオリアとアルデバランとともに前回と同じ路を辿れば、そのときの苦労も懐かしい思い出となってよみがえり、話は尽きることがない。
鉄砲水に襲われてカミュが受傷したその場所も、昼の光の中で見てみれば、なにほどもない流れに過ぎないのだった。
逆巻く奔流を扱うよりは氷壁をとかす方が容易なのは自明の理で、軽く馬を走らせながら相当の長さの氷をとかすのはカミュにとってはたやすいことである。
河の流れが元に戻ると、噂を伝え聞いて対岸との行き来を今か今かと待っていた農民達が、引き上げておいた小舟を川面に下ろし、一斉に漕ぎ出してゆくのが見える。
川幅の広い箇所に架橋する技術はまだないので、カミュが凍らせたようなある程度の幅をもつ河川では舟が唯一の交通手段なのであった。

やはり最後に残された薊から渤海までの行程には、貴鬼も同行を許された。
前回、昭王が誰にも言い置くことなく天勝宮から独騎行したおりには、偶々御前に伺候していなかったために何も知らず、あとから人に聞かされて唖然としたものだ。
それでも気を取り直して、主のいない紅綾殿と翠宝殿とを往復しながら片付け物などするのだが、元気など到底出るものではない。
とうとうすることもなくなり、無人の翠宝殿で独りぽつねんとしていると、心配やら悲しいやらでいつしか涙など出てくるのを慌ててぬぐったりしている。
太后が、側仕えの春麗とともに貴鬼を側近く召し寄せて、昭王の帰還後の計画をあれこれと練ったのも、何も知らされぬままに取り残された貴鬼の、あまりに悄然とした様子を哀れまれたためのようであった。
渤海から帰還したその夜のうちに、太后からその様子をそれとなく伝えられた昭王は、しばらく考えた末、翌夕になって伺候してきたアイオリアとも相談し、貴鬼が馬に乗れるならば、という条件のもとに同行を許可したものである。
むろん独りで馬に乗ることなどまだできぬので、誰かの鞍の前輪に乗せてもらうことになる。
馬の負担をなるべく軽くするために、小柄でしかも達者な乗り手ということを考慮した結果、白羽の矢が立ったのは、副将軍のシャイナであった。
これを聞いたシャイナが内心どう思ったかはわからぬが、昭王の直々の頼みとあれば否やのあろうはずもなく、眉一つ動かさずに拝命したものである。
一方、同行できることを知り欣喜雀躍した貴鬼であったが、そのためにはシャイナと一緒に馬に乗らねばならぬと聞かされて、こちらはいささか考え込んでしまったものだ。
将軍のアルデバランは細かいことにはこだわらぬ性格で、昭王の前でなければよく冗談を言い、アイオリアとも話が合うようである。
貴鬼がムウの屋敷に宿下がりしているときなど、アイオリアと連れ立ってやってきて、気心の知れた同士で楽しげな酒宴になったりもする。貴鬼もその大きな手で頭を撫でられたことが幾度もあった。
しかし、副将軍のシャイナは極めて実務的な性格で、天勝宮のどこで出会っても厳しい表情を崩さず、笑顔など見たこともないのだった。
智謀軍略に長けていることでは右に出る者はなく、誰より軍規に厳しいことは言をまたない。要するに、骨の髄からの典型的な武人なのである。
宮中の宴席では、赤い顔をして呵呵大笑しているアルデバランの隣にありながら、顔色一つ変えずに、それでも盃だけは黙々と口に運んでいる。むろん、貴鬼とは言葉を交わしたことなどあるはずもなく、遠くからその姿を見かけただけでもどきっとしてしまうほどである。
そのシャイナと同じ馬に乗り、渤海までを往復すると聞いて貴鬼が色を失ったのも無理はなかった。
しかし、この機を逃しては、黄金聖衣のカミュが金色の光に包まれるという、天勝宮の誰もが噂している類稀なる姿を見ることは二度とできないのである。
カミュが天勝宮に滞在し始めたときから側近く仕えていた貴鬼としては、見ないで済ませられることではなかった。おそらく、その懇望の度は、昭王に勝るとも劣らなかったであろう。
もっとも、意を決した貴鬼が、この昭王のありがたい仰せに頷くより早く、不言実行を旨とするシャイナに手首をつかまれて、乗馬の訓練のために馬場に引っ張って行かれたのだが。
「心して励むように。」
昭王の明るい声が後ろから追いかけて来た。


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