第二十二回


渤海までの旅は極めて順調であった。
駒を進める路も程よく湿り気が残り、砂塵を巻き上げるほどでもない。
「こたびは、なにも行幸なされずとも。」
との宰相の上奏も、
「事の終わりを見届けることこそ、王としての責務である。」
と、昭王の一声で退けられた。
真紅の竜旗が翩翻とひるがえる行幸の隊列が、秋の実りが約束された緑の田園を駆け抜けていくのは美しい眺めであった。道の各所で村人が遥拝しているのが見える。

事の起こりからひたすら天勝宮で待機していた貴鬼は、ついに氷壁を見、そしてそれを溶かすカミュの技を見た。
繰り返し繰り返し人の噂に聞き、幾度となく昭王にせがんでその類稀なる有様を語ってもらい、心の中でこうもあろうかと思い描いてきた貴鬼である。
その金の焔が、カミュの神々しさ美しさが貴鬼の胸を打ち、これほどの人に仕えてきた畏れと喜びとが五体を震えさせたものだ。
口をついて出る賛美と感嘆の言葉はとどまることを知らず、それは自然と、同乗するシャイナに同意を求める結果となり、ついには燕の名立たる副将軍にも相槌を打たせ苦笑させるまでに至った。
シャイナにしても、賞賛する気持ちは貴鬼となんら変わることはなかったのだが、これがアルデバランに話し掛けられたのなら、にこりともせず「いかにも。」と返答するのみであったろう。大人ならそれで話は終わる。
それが、最初は頷く程度でしかなかったシャイナの反応をものともせず、カミュの技を見る度に感動して純心無垢に話し掛けてくる貴鬼に根負けしたというのだろうか、回数を重ねるごとにシャイナの返答も長くなり、帰途には鞍上で談笑する二人の様子が人々を驚かせることになる。
貴鬼が慣れぬ馬の旅を最後まで大人に伍してこなすことができたのは、シャイナの馬術もさることながら、本人の努力も大きかったようである。
シャイナに言わせれば、呑み込みのよい弟子だったということであった。


最後の氷壁を溶かすため、昭王とカミュは再び大沽の丘に立った。
渤海からの潮風が心地良く吹き抜けてゆき、耳元で音を立てる。

「山遊して遥賞するを悦び  滄(うみ)を観て白沙(はくしゃ)を眺む
 洪波(こうは) 仙鵠(せんこく)を汎(うか)べ  霊童玉車(ぎょくしゃ)を飛ばす

 宰相の気に入りの詩だ。天勝宮でいくら詠されても、さほどよいとも思わなかったが、
 実際に海を見下ろせば、その心持ちがよくわかる。気宇壮大にもなろうというものだ。」

さすがに燕の詩はカミュには分かりにくかろうと、昭王はおおよその意味を伝えた。
「この地に離宮をつくる。」
「離宮を?」
カミュは昭王を見た。
「前々から土地の選定について上奏を受けていたのだ。我が離宮は、この大沽に定めよう。」
この海は、これからカミュが向かう西比利亜に、そしていつかは帰る希臘にもつながっているに違いなかった。
今はまだ豪雨の名残を留め、褐色に濁っているが、いずれは元の青さを取り戻す渤海である。
その青さを二人で見ることは叶わぬ望みであったが、せめて、離宮をつくり、海の青さにカミュの瞳の色を重ねてみようと昭王は考えたのであった。
「希臘の海も青く美しい。この渤海も、勝るとも劣らぬであろう。」
昭王の想いを知ってか知らずか、カミュの言葉が耳に届いてきた。
これから薊に戻れば、あとは別れが待つのみである。いいようもない寂寥感が心の奥底に忍び込んでくるのをとどめえぬ昭王であった。
先の旅から戻ってのちも、やはりカミュと二人きりになることはなく日が過ぎていた。
人を交えた当りさわりのない会話をしながら、心の中では避けられぬ別れを嘆じつつ、本心を打ち明けられぬままにその身を焦がしていたのだった。
「西比利亜は雪と氷に覆われていると聞くが、希臘も雪が積もる土地なのであろうか。」
「いや、一冬に幾度かは降るが、積もることはない。おそらく薊の冬のほうが寒いのではないか。」
「それが、このごろは暖かい冬が続き、積もるどころか降りもせぬ。貴鬼は、まだ一度も雪を見たことがない筈だ。」
少し離れたところで、貴鬼が、アイオリアの足元に伏せている魔鈴の耳の後ろを撫でている。
恐れ気もなく獅子の体に半ば寄りかかっているのだが、魔鈴が喉を鳴らし、眼を細めているところをみると、案ずることもないようであった。
最後の氷壁が眼下に見えている。
カミュが数歩前に出て、何も云わぬままそれに向かって腕をかざすのを、昭王は名残惜しげに見つめていた。
もう二度と見ることはない光の焔がカミュの身を包み輝いたとき、昭王はそれが今までの色とはどこかしら異なっているのに気付き、はっとした。
思わず氷壁を見下ろせば、今までなら一瞬のうちに水と化し、川面に落ちて大音響とともに飛沫を上げたものを、見よ、長く延びた氷の帯は濃厚な白い霧となって空の高みへと立ち昇っていくではないか。
予期せぬ眺めに目を奪われたとき、おりから吹き付けてきた風がその霧で丘を包み、視界は一瞬のうちに白く閉ざされた。
昭王は乳白色の冷涼な霧の中に思わず一歩踏み出し、低く問うた。
「カミュ、これは?」
「最後の氷は燕の大地に返そう。貴鬼にも見せてやりたいものがある。」
知らぬ間に相寄っていたのだろう、意外なほどの近さからカミュの囁きが聞こえると同時に、風に吹かれたその髪が頬を撫で、昭王は大きく眼を見開いた。
今までにない近さにカミュがいる、しかし、目に映るのは白色の霧。
今ぞ、と勇を鼓して震える指を伸ばしたとき、激しく逆巻く風が霧を舞い上がらせ、昭王は思わず眼を閉じた。
再び四方が見晴らせるようになったのと時を同じゅうして空から舞い落ちてきたものは、いったいなんであったか。
「この季節に雪とは!」
昭王が嘆声をあげた。しかし驚きはそれだけではなかった。
動きを止めた手の上で、精微を極めた六角の形が清らの美を見せている。
薊の緯度では金輪際見るはずのない、透明の微細な枝を持つ雪の結晶であった。
生まれて初めて見るその美しさに昭王は心奪われ、言葉を継ぐこともできぬ。
あとからあとから降る雪は、優しく木々を包み、丘を覆い、髪に肩に降り積んでゆく。
「昭王様、カミュ様!これが、あの、雪?」
茫然と立ちすくむ貴鬼の驚きの声が、白い世界に響く。
心打たれて空を見上げれば、雪が降っているのではなく、まるで我が身が空の高みへ登っていくような気さえしてくるのであった。
丘の裾からは、残してきた兵たちの「瑞雪だ!」と驚き騒ぐ声が微かに聞こえてくる。
霏々として降る雪が静かに昭王の身を包んでいった。



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