第二十三回


水難を逃れたことを嘉する賀宴が玲霄殿で開かれたのは、薊に戻った三日後である。
華やかな場を好まぬかにみえたカミュであったが、太后と昭王のたっての誘いということもあり、その心尽くしの正装を身に纏って昭王の隣りに座を占めることとなったのである。。

その日カミュが身につけた薄青の二綾に極細の銀糸で鳳凰と鴛鴦を織り出した装束は、昭王の留守中に貴鬼からカミュの好みを聞き出した太后が、自ら縫殿寮に足を運んで、数え切れぬほどの織地の中から選び出したものであった。
幸い、カミュの背丈は昭王と変わらぬので仕立てに困ることもなく、急ぎ誂えたものである。
前日に春麗が翠宝殿に運ばせてきたそれを見て、あまりの贅沢さに困惑し、一度は婉曲に辞退したカミュであったが、朝から妙に嬉しげな様子をしていた貴鬼が一転して恨めしそうな顔をするのを見て、やむなく拝受することにしたのであった。

紅綾殿を出た昭王は、一足早く玲霄殿東側の回廊脇の控えの間に到着していた。
昭王のこの日の衣裳は白と紫を基調としたもので、輝くばかりに艶を出した白い綾織の地に梅の折枝、胡蝶、鳥などが縫いとってあり、襟元には濃紫、桔梗、藤納戸、薄菫、桜色など匂いやかに色を重ねてたいそうあでやかである。
葡萄染(えびぞめ)に銀糸で唐草を織り出した帯には象牙の佩玉がさげられて爽やかな音を立てる。
先にやって来た昭王がわずかばかりの衣裳の乱れを直していると、回廊からかすかな衣擦れの音に混じって、佩玉の軽やかに触れ合う音が響き、現れたのは貴鬼を供にしたカミュであった。
いまや、燕王の賓客であり貴顕に準ずるカミュを直視するものなど誰もいないが、その場に居合わせた者が、みな一様に、その身から発する高雅さ、優雅さに驚き、賛嘆のまなざしを送ったものである。
まるでカミュの瞳の色に合わせたかのような薄青の艶やかな表着の袖口は、雪白、若葉、青竹、緑青、群青、と色目も鮮やかに衣が重ねられ、地に五色の彩雲を織り出した雲錦の帯には青い縞瑪瑙に銀の細工を施した佩玉がさげられている。これはどうやら、若い日の太后の愛用の品の一つらしく、太后が手ずから螺鈿の小筥に収めて、衣裳とともに春麗に届けさせたものであった。
着慣れない衣裳のせいか、緊張した様子の中にも頬を薄紅く染めたカミュが控えの間に入ってくると、昭王附きの諸官女官が一斉に腰を深くかがめ拝礼をし、カミュのために場所を空けた。
燕に来てから一月余になろうとしていたが、今までに内々の宴に幾度か出席したことはあっても、今宵のような天勝宮、というより燕をあげての賀宴に顔を見せることはなかったカミュである。
ましてや燕の礼服をまとった姿を想像し得た者などいようはずもなく、生まれついての王侯貴顕でも容易には持ち得ぬような品格の高さがあたりを払うことはまことに驚くほどであった。
その立ち居振舞いの鮮やかなことは昭王をも驚かせたが、考えてみれば聖域ではアテナに仕え、教皇にしばしば拝謁を許されていたカミュがこの場の雰囲気に気おされるはずもない。
当日のカミュの衣裳については事前に太后から 「御案じなさるまじく」 と伝言があったのみで、そのことについて何も聞かされていなかった昭王には、並んで立つカミュの匂うが如き高雅なゆかしさが心に迫ってきて言葉をかけることさえためらわれるほどである。
今宵の昭王とカミュは、その美しさ、気品においてまことに絵に描いたような好一対の正賓であった。


やがて時満ちて、侍従に先導されて玲霄殿に入ろうとするときに、慣れぬ衣裳の襟元に手をやったカミュの袖先から匂ってきたそれは、梅花香である。
日頃は香を身につけることを好んでいないカミュであるが、正式な賀宴では貴人は皆、香を焚き込めるものだと貴鬼に涙を流さんばかりに懇願されたものらしい、とはあとで聞いたことである。
それならばと、カミュがようやく納得すると、貴鬼はすぐさま春麗の元へ駆けつけて数十種類の香の中からなるべく控え目な香りのもの五、六種類を選り抜いてもらい、さらにその中からカミュが選び出したのがこの梅花香であった。
なるほど、清楚な中にも凛とした気品を感じさせるこの香はいかにもカミュにふさわしく、その後ひそかに昭王の愛香となったものである。

夕刻から始まった賀宴には広く内外から諸侯諸王が参列し、その華やかなことは筆舌に尽くしがたいものであった。
燕を遠く離れた異国から訪れたカミュが神通力を駆使して水難を斥けたことを知らぬ者はなく、東の燕王と西のカミュとの間に結ばれた交誼のめでたさを称える声は宴席に溢れ、乾杯の響きは殿中に満ちた。
周辺の国々からの慶賀の使者が次々と賀詞と祝賀の品を奉献し昭王の徳を称え燕の盛栄を寿ぐと、昭王からも答礼の品が下賜される。
諸卿のうち年経た者の中には、先王が十八歳で后を得たことを思い合わせ、昭王がいまだ独り身であることを物足りなく思う向きもあったようであるが、口に出す者などありもせぬ。
それにしても、遠目に見るカミュのあでやかともいえる美しさは、満座のものに、もしもこの人が燕王の后であれば、という気持ちを起こさせ、さらには一刻も早く后を、と思わせるのに十分だったのであるが、むろんそれは、この日のカミュと昭王の全くあずかり知らぬことであった。

玲霄殿での重々しい賀宴に引き続き、紅綾殿に座を移しての内宴は、打って変わってくだけたものになった。
内輪だけの親しさもあって、各々が剣舞、詩の朗誦、奏楽など得意を披露したのであるが、昭王に請われたムウが、その養父祥紫苑が先々王から譲られたという秘蔵の琵琶で「想夫恋(そうふれん)」を弾じたときは、その余韻嫋々として尽きず、心ある者の涙を誘わずにはおかなかった。
樂興を覚えた昭王もついには筝の琴を取り寄せると、ゆえある古曲をゆかしくも今めいて奏し宴に華やかな興趣を添え、酔いのせいで所々乱れたその調子が面白いというので、さらに一同の喝采を浴びたのだった。
践祚してこのかた、昭王が人前で奏楽することは絶えてなく、人々はたいそう珍しいことに思った。

座が華やげば酒量も進む。
献酬進むなか、運ばれてきた蒸篭の中の餃子にアイオリアが眼を止めた。
「もしや、これは楊柳青の?」
「いかにも。あの夜の馳走は忘られぬ。宮でも食膳にのぼせたいと思ったゆえ、作った者を召し寄せてさっそく大膳寮に伝えさせた。今ごろは太后も御賞味なさっておられよう。」
天勝宮の厨師も負けじと工夫を凝らしたのか、楊柳青で見たそれよりさらに洗練された見事な色、形の餃子が並んでいる。
その中の一つに箸をのばしながらアルデバランがふと気付いたように言った。
「そういえば、カミュ殿にも何か御披露ねがいたいものですな、カミュ殿、いかがですかな?」
同席している者に一斉に注目されたカミュが当惑したように昭王を見ると、助け舟を出すどころか、酔いの回った口調で、
「おお、そうだ、それがよい。といって楽器や詩は難しかろう、なに、唄でよいのだ。カミュの故国の唄を所望ぞ。」
昭王からそう言われて、むげに断るのも、とやむなく考えてはみるものの、希臘の歌など覚える暇も理由もない聖域の日々であった。
とすれば、生まれ故郷の仏蘭西だが、まさか子守唄や子供の遊び唄というのも、あまりにも場にそぐわぬではないか。
困り果てて今少し考えているうちに、カミュはやっと一つだけ仏蘭西の唄を思い出した。
生国が仏蘭西語圏らしい訓練生が時々口ずさんでいたその唄を、聞くともなしにいつしか覚えていたものとみえる。
ようやく立ち上がったカミュの口から震えるような美しい響きの旋律が洩れると、一同は初めて聴くその不思議な言葉に聞き惚れた。それは、燕の開闢以来、初めて流れる仏蘭西の言葉、仏蘭西の調べであった。
燕の言葉とは全く違う珍しい響きに魅せられていたアイオリアは、途中からカミュが落ち着かなげに眼を伏せ、ついには唄の終わりを端折るようにして着席したのに気が付いた。どうにも歌い急いだとしか思えない。
素面であれば、なにか都合の悪いことでもあるのだろうと気遣い、さりげなく他の話題を持ち出した筈のアイオリアだが、酔っている時は仕方のないものだ、
「カミュ殿、今の唄の意味はどういうものです?ぜひお伺いしたい。」
卓子の向こう側から大きな声で尋ねると、はっと顔を上げたカミュが、
「意味といっても………」
と珍しく口ごもって、困ったように視線をはずす。
きまり悪げなその様子を見てよせばよかろうものを、今度は、ムウが「おやめなさい」と止めるのも聞かずアルデバランも催促を始めると、ついに観念したカミュが、消え入るような声でこういった。
「唄の意味は………、
   手に手を取り合い 逃げていかないか
   私の胸こそ そなたのふるさと
   私の胸こそ そなたのふるさと」   
聞いた一同は狐につままれたような顔になり、やがて爆笑の波が広がる。
「駆け落ちだ!なんと、駆け落ちの唄ではないか、御一同、聞かれたか!」
あまりの意外さに耐えかねたアルデバランの大声が響き渡り、皆は腹を抱えて笑い転げ、涙を流す者まで出る始末であった。
その哄笑の中で、身を固くしたカミュが頬を酔いとは違う色に染め、ちらと昭王を見た。
昭王は、初めは笑い、それから妙に真面目くさった顔になると立て続けに盃をあおってから苦笑していた。
その夜、昭王はしたたかに飲み、これまでにないほど酔った。
珍しいことであった。


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