「昭王迎二十歳賀」  〜昭王、二十歳の賀を迎える〜


             

薊の秋は色鮮やかである。
鮮黄の公孫樹(いちょう)、真紅の楓が秋天の色を映し、大気は高く澄んでいる。
早や冷涼の感のある早朝、アイオリアと野駆けに出かけた昭王は野外の気を一身に浴びて馬を走らせていた。

「そのように馬を責められては危のうございます、今少し控えられては如何かと!」
「案ずるには及ばぬ。これでも控えているつもりゆえ大事ない!」

伴走するアイオリアの心配をよそに、昭王はなお鞭を入れた。
天勝宮での型にはまった公務とは異なり、秋色に染め上げられた野を駆け抜けるのは清々しい心地良さで、まことに昭王の好むところである。
あとの予定があるので狩りは行なわぬが、身軽な分だけ早駆けしたくなるのは道理というものであろう、二人が厩舎へ帰りつく頃には、人馬ともに汗に濡れ尽くしていた。

こうした朝駆けのあとはアイオリアが陪食の席に着くのが通例である。
朝餐を終えるころ伺候してきたのはムウであった。

「従前より内奏いたしておりました者を引き具して参りましたゆえ、御引見賜りたく参じました。」

深々と拝礼をするムウに、昭王は呆れ顔になる。

「朝議の場ならいざしらず、それほど堅苦しく物言うことはあるまいに。もう少しなんとかならぬのか?こちらの肩が凝ろうというものだ。」
「そう仰せられましても、今夕の賀宴を済まされれば燕王に一層の重みが加わりますことは間違いありませぬ。」

笑いながら云うと、ムウは扉の向こうの小さい人影を指し招いた。

「貴鬼にございます。先年亡くなりました姉の遺子にて、私の手元におりますが、お側仕えに出仕させるお許しを賜りましたゆえ、本日、連れ参りました。」

緊張のあまり真っ赤な顔をして入ってきた童子が、ムウから言い含められているのだろう、それでも作法通りに拝礼をする。

「ほう、これはこれは!いかにも小さいが幾つになるのだ?」
「当年とって八歳にあいなります。厳しくしつけましたゆえ、必ずやお役に立ちましょう。よろしくお引き立てのほどお願い申し上げまする。」
「このくらいの童子が身近にいるというのも面白かろう。」

昭王は椅子から立ち上がるとアイオリアを見て笑う。

「真面目なように見えるが、アイオリアには時々からかわれて閉口することがある。貴鬼が盾になって防いでくれるかも知れぬぞ。」
「これは心外な!いつ私がそのようなことを申しました?」
「まあそれはよい。これ、貴鬼と申したな?これからしばらく余のそばにいるがよい、そのうちに様子も分かって動けるようになるであろうよ。」

昭王に優しく言葉をかけられてますます緊張したのか、貴鬼はさらに顔を赤くして、

「仰せのままに。」

と答えるとムウを見る。
ムウは、それでよい、というように頷いた。

「今日は初日ゆえ、午後の加冠の儀がとどこおりなく終わったらお暇をいただくとよい。夕刻からの賀宴は終わるのが遅くなり、そなたにはとても無理であろう。儀式の間は、私よりアイオリア殿のお側においていただくのがよさそうだが、アイオリア殿、お願いできようか?わたしの位置はいささか目立ち過ぎ、子供が立っているにはふさわしくない。」
「お引き受けしましょう。」

アイオリアは貴鬼を招くと、頭を撫ぜて

「ムウ殿から話は聞いている。昭王様はお優しいお方ゆえ、なにも心配することはない。とはいっても覚えなくてはならぬことは多かろう、昭王様の侍僕は皆大人で、聞きにくいこともあろうから、分からぬことはなんでもこのアイオリアに訊くがよい。」

貴鬼はほっとしたようにアイオリアを見上げた。

ムウの屋敷に暮らし始めて一年ほどになるが、その間、度々訪れるアイオリアとはすでに顔見知りなのである。
初めは人見知りをしていた貴鬼だが、子供好きなアイオリアが持ってくる甘菓子やら玩具やらをもらってすぐに仲良くなったのだ。
兄弟のいないアイオリアは、貴鬼を小さな弟のように思っているようで、肩車をしてくれたり、天勝宮の様々な話や燕の歴史など分かり易く教えてくれる。
ムウの屋敷には他には小さな子供はいないので、貴鬼はアイオリアの訪問をいつも楽しみに待っているのだった。

そんな時に、ムウとアイオリアの間で、貴鬼を昭王の侍童として出仕させる話が出たのである。
貴鬼の利発さはそれにふさわしいものであったし、ムウが天勝宮に伺候している間、ずっと屋敷で留守番というのもかえってよろしくない、との判断であった。
しかし、最初にこの話を聞いたときの貴鬼の驚きは相当なものであった。
なにしろ昭王といえば、この燕の国で一番貴い存在であり、街に出かければ誰もが昭王の噂を恭しい口調で話している。
ムウの屋敷に来て間もなく、ムウとともに出かける機会があったのだが、行く先々で出会う人々が皆、貴鬼の若い叔父に深い敬意を払うのに貴鬼は感心したものだ。

「ムウ様はとてもお偉いのですね。」

と云うと、ムウはちょっと驚いたように首を振った。

「そうではないのです、貴鬼。皆が崇敬している昭王様のお側に私がお仕えしているので、私にも敬意を払ってくれるのですよ。全ての礼は昭王様に対しておこなわれているのです、よく覚えておきなさい。」

貴鬼は昭王を見たことがなかったのだが、ムウとともに暮らすうちにまだ見ぬ昭王への憧れと崇拝の念はふくらんでいった。
そのうちに、屋敷によく来る優しいアイオリアが実は昭王の乳兄弟で、天勝宮では常にお側にいることがわかったときは、貴鬼は仰天したものである。
なにしろ、雲の上の人のような昭王と、食事をしたり、一緒に馬で出かけたりするというのだから貴鬼には夢のような話であった。

そして今日ムウに連れられて初めて天勝宮に来て、見上げるような大きな門をくぐり、立派な建物が立ち並ぶ中を通り抜けてきたのだが、ムウが行くところすべての人々が道を開け深く礼をしてくるのにはどぎまぎしたものだ。
その様子では、明らかに貴鬼の叔父は重要なお役目に就いているようで、自分のただ一人の親しい叔父としてしか見ていなかった貴鬼には新しい不思議な発見であった。
そのままムウと一緒に、貴鬼には果てしなく思われた回廊を進んで行くと、やがて一つの建物にたどりついた。

「ここが昭王様のおられる翠宝殿です。もっとも、ここをお住まいになされるのは今日が最後なのですが。」

最後って、昭王様は引越しをなされるのだろうか? と訝っているうちにムウがどんどん進んで行くので、遅れないように急いでついてきた貴鬼であった。
天勝宮の建物はどれも皆そうなのだが、ここ翠宝殿も天井が高く、太い柱がそれを支えている。
淡い緑に塗られた柱の上方には金茶色の竜が巻きついているようだが、背の低い貴鬼からは遥かな高みに竜が棲みついているようにも見えた。
ムウの屋敷も確かに立派なのだが、なにしろ天勝宮ともなればその規模が違う。
すべてが大きく、丈高く、訪れる者の耳目を驚かすのに十分なのだった。

いざ昭王のもとに来てみれば、なるほどアイオリアがいるのにどれほど安心したかわからない。
昭王も思っていたよりも優しそうで、アイオリアとも楽しそうに話をしているのはまるで友達同士のようにもみえるではないか。
とはいえ、アイオリアはやはり最大の敬意を払って話をしているのだが、そのあたりの微妙なところが貴鬼にわかるのにはまだまだ時間がかかるのだった。

「では、引き合わせも済みましたので私はこれでさがらせていただきましょう。貴鬼、しっかりお仕えするのですよ。」

そういってムウが退出していったところへ、侍僕頭が御衣(おんぞ)係とともにやってきた。

「もう衣裳合わせの刻限か。いつもながらこれが面倒だな。」
「そう仰せられますな、特に今日は加冠の儀ではありませぬか、一際の出で立ちでありましょうに。」
「ああ、わかっている、太后にも、お手ずからあれこれと衣(きぬ)選びをなされたと聞いているゆえ、さぞかしであろうよ。」

昭王は貴鬼に、ここで待っておれ、と言い残すと侍僕頭に鷹揚に頷き、部屋を出て行った。
その間にアイオリアは、加冠の儀が二十歳の成年を迎える式であり、燕にとっても昭王にとっても極めて大事なもので、太后を始め天勝宮、いや、燕の者すべてが寿ぐ盛儀であることを貴鬼に語ってくれた。
お側仕えの初日からそのような立派な様子を見られることに貴鬼の胸はますます高鳴るのである。

やがて半刻ほどして昭王が戻ってきた姿をみて貴鬼は驚いた。
先ほどまでのどちらかといえば気軽な衣裳とはうってかわり、なんとも重々しい衣の重なりが豪奢ではないか。
襟元は幾重にも衣の色目を重ね、内側の白から中黄(ちゅうき)、瑠璃(るり)色、萌黄(もえぎ)、青磁色と色を変えてまことに華やかである。
紗綾形(さやがた)を織り出した艶やかな鬱金(うこん)色の表着(おもてぎ)には昇竜、鳳凰、牡丹、日月、瑞雲などの吉祥の縫取りが施され、龍の掴んでいる宝珠は目にも鮮やかな色濃い翡翠が使われていた。
瑠璃色は昭王が生まれて以来禁色(きんじき)となっているが、この鬱金の色も、昭王が成年を迎えるこの日より禁色(きんじき)に加えられ、、他のものは誰一人身に纏うことができぬものとなっているのは燕では周知のことであった。
金糸銀糸で七宝模様に織り上げた帯には碧玉、紅玉、水晶、翡翠などが縫い付けられ、日の光が当たればさぞや美しく輝くものと思われる。
光沢のある白繻子(しろしゅす)で縁取られた袖は今にも床に届かんばかりに長く、手首から肘のあたりにかけて豊かにひだを取り、手には象牙の笏(しゃく)を持っていた。
腰の佩剣の柄の部分は色鮮やかな翡翠を龍の頭部の形に彫り出したもので、目には濃朱の珊瑚が嵌め込まれている。白銀の鞘には鳳凰が浮き彫りになり、それを腰の帯から五色の飾り紐で下げていた。
もう一方の腰には佩玉(はいぎょく)といって、飾り玉を銀糸銀線で組み合わせたものを垂らしている。これは歩くと涼やかな音を立てるのである。
そして、加冠の儀ともなれば、宰相の手により金鈴珠玉を飾った礼冠(らいかん)が冠せられ、翡翠の笄(こうがい)で留められる。そして、太后により、牡丹をかたどった紫金の挿頭(かざし)がつけられるのであった。
燕の生まれとしてはひときわすぐれて背の高い昭王が、贅を尽くしたこれらの衣裳を身につけたさまは、まことに匂い立つあでやかさであった。

目を丸くしてただひたすらに見上げている貴鬼に気付いた昭王は、

「いつもこのような大仰な格好をしているわけではない、儀式のときだけぞ。」と笑いかける。
「これはまたお見事でございますな!」
「やれやれ、見事はよいが、まことに重くて難儀なことだ。始まる前から早くも脱ぎ捨てたくなってきたが、そういうわけにもいかぬな。」
「おわかりでしょうが、賀宴が終われば、どうあっても脱がねばなりませぬ。それまでは我慢なさることですな。」
「それが余計なことというのだ。」

二人がなおも冗談を言いつつ笑いあっているところへ、侍僕が宰相を案内してきた。
宰相は向き直った正装の昭王に、恭しく一礼をする。

「定刻になりましたゆえ、御出御なされまするよう。」
そのとたん昭王は威儀を正し、いとも厳粛な面持ちになると、声音をあらため、
「然り。これより参る。」
と張りのある声で云うとアイオリアに頷いてみせ、衣擦れの音高く、宰相を従え部屋を出て行った。
それに合わせて、次の間に控えていた二人の侍女が白銀の細鎖にさげられた薫球を提げ持ち昭王の前を進むと、大勢の諸官も一斉に後に続いてゆく。

衣裳を替えた後もそれまでの親しげな様子は変わりなかった昭王がいきなり別人のようになったことに、貴鬼は唖然とするばかりである。
横で見ていたアイオリアには貴鬼の驚きが察しられたのだろう。
「内々の者に対するときと、公のときとでは、自然と御様子がお変わりになるが、どちらのお顔も昭王様であることには変わりない。これから、心してお仕えするように。」
そう言って優しく頭を撫ぜてくれた。
「さあ、我等も玲霄殿に行かねばならぬ、燕の一大盛儀に立ち会わねばな。」
歩き出すアイオリアの後を貴鬼も慌てて追って行った。


翠宝殿を出た昭王は回廊を曲がりかけた時に後ろを振り返ってみた。
ここに住んでいたのは践祚以来のことだからそれほど長いことではなかったが、それなりに幾つもの思い出があるのだった。
成年を迎える今宵からは紅綾殿に住みなす身となり、この翠宝殿に戻ることは二度とない。

  翠宝殿が次に迎える主はいったい誰なのだろう・・・・・・?

歩みの遅くなった昭王を宰相が気にかけているようだ。
昭王は再び燕王の顔に戻ると、先へ進んでいった。


      
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