※ プロローグは  ⇒ こちら

その1

今回の旅行の大筋も細目もデスとアフロが決めたもので、ミロとカミュは悩まずそれにしたがって旅程をこなすことになっている。
「ふうん! ずいぶん広い座席なんだな!」
「ほぅ! 背もたれが倒れて居住性もよい!」
エコノミークラスの存在を知らない二人にはファーストクラスのシートがごく普通のものだとしか思えない。 供される食事も素晴らしければアルコールも飲み放題で、酒に強いミロはワクワクするのだが、そこはさすがに今回の旅の目的を心得ていて限度を越えた飲み方はしない。
やがて就寝時刻になり灯りが暗くなると、ほんのわずかのワインに頬を染めていたカミュは早くも寝息を立て始めた。 たまたまミロの方を向いて寝ているので、ほんのりと染まった頬にきれいな髪がさらりとかかる有様や、わずかに開いた花の唇の艶やかな珊瑚の色がミロには嬉しくてたまらない。

   ああ………なんてきれいなんだ!
   十二宮ではカミュの寝顔なんて一度も見られなかったというのに、
   飛行機に乗っただけでこんなにすぐ近くで思う存分眺められるとは思わなかった!
   デスとアフロには思いっきり感謝しなければ!

自重したとはいえさっきまで飲んでいたアルコールが作用して、ミロの頭の中にはどうしてもあらぬ画像が浮んでくる。

   やさしくベッドに寝かせてそっとキスしていくと、
   たぶんカミュは恥ずかしそうに溜め息をついたりするんだろうな………
   それでもって、俺がパジャマのボタンを一つ一つはずしたりなんかしてっっ………うわぁっ!!

まだ見ぬ白い肌を想像するだけでミロの胸は高鳴り、眩暈がするようだ。 いろいろと考えているうちに今度はデスマスクに聞かされたサガのことが思い出されて、違う意味で頭に血が上ってくる。

   も、もしもサガがシベリアでカミュに手を出したりしたら………!
   い、嫌だっっ、俺はカミュのことをずっと前から好きだったんだから、サガなんかに渡せない!
   ああ………でも俺がこの旅行の間にカミュと好き同士になれなかったら、シベリアでカミュは………

今度はサガに抱きすくめられて恥ずかしいことをされているカミュが目に浮び、あわててその画像を打ち消そうとしても容易に消えてはくれないのだ。 悩ましい仕草や怪しげな振る舞いがミロの脳裏を占領して明らかに血圧の上がるのがわかる。
こうして悶々とした思いを抱えたミロが眠りについたのはかなりあとのことだった。 どうにも先が思いやられる旅行になりそうだ。


その2

「このスケジュール表を見ると、訪問する地域がかなり偏っているな。」
「え?」
もうじき成田に着くという飛行機の中で日本全図を広げてこれからの訪問地のことを調べていたカミュが指摘した。
「日本の西部、これを関西と呼ぶのだが、私たちが訪問するのは京都・大阪の二都市、ひるがえって関東では東京のみだ。 ちなみに古来からの箱根の関の東側を関東、西側を関西と呼び習わすのは周知のことで、その法則に従うと標高3776メートル、日本最高峰の富士山は関西にあるということになる。 京都と大阪は近接しているので、実質的に私たちの訪問はごくわずかの地域に限られる。」
「ええと、そう言われても俺たちが決めた旅程じゃなくて………うんっ、アテネ中央商店街のサマーフェスティバル企画委員会あたりが決めたコースじゃないのかな? デスマスクたちの好意のおかげで俺たちが来られたんだからそれはしかたないだろう。」
「うむ、それはそうだが、いかにも惜しい!」
「え? 惜しいってなにが?」
「どうせならスーパーカミオカンデや種子島の宇宙航空研究開発機構種子島宇宙センターなどの見学をしたかった。」
「ええと………そうだ! そういうことなら、今度また日を改めて日本行きの計画を立てて二人で来ようじゃないか! 自分達で行きたい場所を選んで旅行するのが最高だからな!」
「ああ、それは良い!で、ミロはどこへ行きたいのだ?」
新しい発想に目を輝かせたカミュに聞かれたミロは一瞬たじろいだ。
この計画が持ち上がってからはデスマスクに引き立てられてアテネに連れて行かれ、旅行鞄だの洒落た服だのを選ばされ、はては時計から靴、財布に至るまで新品を買えと強要されたのだ。 買い物に忙しくその日は過ぎて、やっとベッドに這いこむと今度は頭の中にカミュとのあらぬ画像が華々しく展開する始末で、転々と寝返りを繰り返して眠れぬ夜を過ごしたのだ。 
そんなミロに日本のことを調べる暇などまったくなかったのはいうまでもない。
それでもやっとのことで、イタリア・シチリア島付近の海中から奇跡的に引き上げられた彫刻  「踊るサテュロス」 がはるばる日本に運ばれて展示されて評判を博したことを思い出し、
「俺は上野ってとこにある美術館を見たいね♪」
と言ってみた。 他にはなにも浮かばなかったので選択の余地はないのだが、美術館と言っておけばカミュの好みに合うだろうと計算した結果なのは言うまでもない。
「ほぅ、上野に! それは良い!」
ほっとしたことに、美術館という選択はカミュの好みに合った。 かろうじて覚えていた上野という地名も、美術好きには東京の美術館の代名詞となっているらしい。
思えば聖域にいるときは美術館巡りをしようと思ったことなど一度もない。 住んでいるところが第一級の歴史的建造物だし、彫刻やレリーフも最高の美術品がいたるところにあってとくに感慨を催さないのだ。 
こうして、カミュとの次の旅行の見通しが立ったので、ミロは至極機嫌がいいのだった。


その3

成田に着いた二人の最初の目的地は京都である。
成田空港からJRの特急・成田エクスプレスに一時間ほど乗り、東京駅で新幹線に乗り換える。
「あれ?………どうして地下のホームに?」
ミロが疑問に思うのも当然だ。地上を走っていた電車はいつのまにか地下に入り込み、東京駅のホームに降りるとまるで地下鉄のようではないか。
「ここは地下三階だ。」
「なにっ! どうしてそんなところにホームがあるんだ?」
「驚いたことに、成田エクスプレスの東京発のホームは地下五階にあるらしい。」
「えっ!!」
地上へと向う気の遠くなるほど長いエスカレーターを幾つか乗り換えながらミロは唖然とするほかはない。
「まだ遠いのか? 」
東京駅の雑踏の中を、案内表示に従って的確に進んでゆくカミュのあとをついていくのは骨が折れる。 ギリシャ国内にこんなに人口密度の高い空間があるはずはない。 空恐ろしいほどの数の人間がてんでに自分の行きたい方向に早足で歩いていくのに、誰一人ぶつかることがないのは魔法のようだ。
「これから新幹線という高速鉄道に乗り、2時間10分で京都に着く。 1000年以上もの昔から都のあったところで歴史と文化の集積地だ。」
「古い町ならきっと落ち着いた文化的な雰囲気だろう。 この駅はどうも神秘の国とはほど遠い。」
「現代日本は経済発展が著しいが、京都には私も期待している。 きっと古き良き街並みが残っているだろう。」

そして新幹線のスピードにあきれつつようやく着いた京都駅は東京駅を上回る建築物で二人を唖然とさせた。
「………おい、ここは何だ?」
「なにと言われても………ここが京都駅らしい。」
「ちょっとすごすぎやしないか? ある意味、十二宮の階段よりも強力だし、この天井の高さはいったい……!」
ミロがあきれるのももっともで、改札口を出たところは広い空間が広がっていて、左手には今までに見たこともないような幅広かつ複雑な造りの階段がずっと上まで続いている。 上を見上げればはるかに高い吹き抜けで天井の鉄骨のデザインがポイントらしい。
「それに、なぜあんなところに通路がある?」
巨大な空間のはるか上の方に空中通路のようなものが見え、どうやら人が渡って行けるようだし、改札口の上辺りにもどこから繋がっているのか、やはり空中の通路が見える。
「俺にはこの駅は難しすぎる。 駅というより建築アートみたいな気がするが。」
エスカレーターや空中に突き出たデッキ、小階段が絡み合い、そこをたくさんの日本人がすいすいと横切ってゆく。
「私にも理解しがたい。 これなら人馬宮の迷路の方が秩序立っていると思う。」
「あ〜、それは言える!」

こんな風に二人の日本の印象はおよそ東洋の神秘の国というものからはかけ離れていたが、いやいや、京都の真髄に触れるのはこれからだ。
千年の都の実力が二人を待っていた。


                        京都駅 ⇒ こちら


その4

「これはすごい!」
「ずいぶんと巨大な門だな、それも木でできている! ヨーロッパじゃ、こういうものは石造りだぜ!」
二人がやってきたのは東山にある知恩院、日本人には十数人の僧侶が力いっぱいに除夜の鐘を衝く光景でお馴染みの寺院である。
「パリの凱旋門はナポレオンが建設を命じた戦勝記念碑だろうが、この門はなんの為かな?」
「ええと………この掲示板によると、徳川幕府の二代将軍徳川秀忠が1621年に建てたものだ。 寺に寄進したのだから仏教の隆盛を願ったものだろう。」
「ふうん!もう400年もここに建ってるのか! なんともいえん大きさだな!」
車の頻繁に通る道からもすぐに見上げることができる山門がこの地を400年も見下ろしているのは不思議なものだ。 この貴重な木造建築が火事や地震、数々の戦災をくぐり抜けてきたことに二人は感慨を覚えないわけにはいかない。
「おい、この鐘もすごくないか! なんて大きさだ!」
「ほぅ! 直径 2.8メートル、高さ 3.3メートル、重さはなんと 70トンだ。」
ガイドブックをめくっていたカミュが歎声を上げる。
「こんな重いものを作るのも大変だが、持ってきて吊るすのも一苦労だな! 俺たちの十二宮を建てたときもたいへんだったろうが、これもたいていじゃないぜ!」
二人が感心していると、若い女性観光客達が立ち止まってチラチラと二人を見てはいかにも嬉しそうにしている。
「あれ? 俺たちになにか用事があるのかな?」
「外人が珍しいのだろう。 日本人はみな黒髪、黒い目で、髪の色や眼の色が違うことに違和感を覚えるということだ。」
「なるほどね。 俺たちからすれば、国中が黒髪で黒い眼というほうが不思議だが。 もっとも髪を染めているケースも多そうだな。」
何の気なしにミロが髪をかきあげると女性達が一斉に溜め息をついたが、気付いたのはカミュだけだ。
二人が歩き出すと、熱い視線が追いかけてきた。

「ここが比叡山延暦寺だ。」
「ずいぶんな山の中だな。 というよりも山の上か! 知恩院とは立地条件が違う。」
「うむ、ここは平安時代初期788年に僧侶最澄が草庵を建てたのが始まりで、日本仏教の代表的な聖地としてユネスコの世界文化遺産にも登録されている。」
「すると1200年も前からここにあるのか!」
「とくに、」
カミュが目の前の大きな建物を指差した。
「この根本中堂 (こんぽんちゅうどう) は創建以来1200年間灯し続けてきた不滅の法灯があることで知られている。」
「えっ? 1200年!」
あたりの静謐な雰囲気に押されて声をひそめながら堂の中に入ると仄暗い内陣の一段と低まった場所で数人の僧侶が朗々と読経しているのが見えた。 他の日本人の参拝客にならって手すり近くの畳の上に慣れない正座というものをしてそっと様子をうかがった。 なるほど、ガイドブックにあったとおりの不滅の法灯が淡い光を投げかけている。

   ………すごいな!
   京都駅がどう変わろうと、日本人が黒髪を他の色に染めようと、
   ここには1200年前となんら変わらない時間が流れているのか!

奉ずるものが違っても、ここには揺るぎない信念が脈々と流れているのが肌で感じられるのだ。
ミロもカミュも息を詰めて荘厳な空間に身を置いていた。 ピンと張り詰めた手の切れるような緊張がこころよかった。


                         ※ 知恩院   三門 ⇒ こちら
                                   除夜の鐘 ⇒ こちら                                     


その5

日本の初日の宿は柊家 (ひいらぎや) である。
「ふやちょうあねやこうじあがるひいらぎや」
カミュがメモを呪文のように読み上げるとタクシーがすっと走り出した。
「ん? 今なんて言ったんだ?」
「わからぬ。 旅程書にこのメモがはさまっていて、タクシーに乗ったらこう言うようにと書いてあるから従ったまでだ。」
「ずいぶん長い名前の宿だな。」
「地名や創立者の名前をつけるとそういうこともあるのだろう。」
ほどなくタクシーが止まり、二人はきちんとした塀に囲まれたいかにも和風な建物の前に降り立った。 秋の夕暮れ時に暖かい灯の色が好ましい。
「ふうん! ずいぶんいい感じだと思わないか?」
「うむ、しっとりとして気取ったところがない。 どちらかというと可愛い印象があるが。」
「お前の口から可愛いなんて言葉を聞く日が来るとは思わなかったが、まったくその通りだ。」
日本的なものには寺社以外に触れていない二人だが、この柊家の醸し出す雰囲気はよくわかる。 水打ちした石畳や、さりげなく、しかし凝った造りの玄関がいかにも心地よい。
「いらっしゃいませ。」
着物を着た女性が深々と頭を下げる。
「恐れ入りますが、お履物をお脱ぎ願います。」
「…え?」
日本家屋では靴を脱いで過ごすことを説明されて、なにやら神秘的な気分になってくる。
そういえば延暦寺でも靴を脱いで根本中堂の内陣に入ったが、神仏に対して敬意を払うために土足で踏み込まぬようにしているのだろうと考えていたのは間違いなのかもしれなかった。 寝るのでもないのに靴を脱ぐというのははじめての経験で妙にドキドキするものだ。
背の高い二人にとっては全てが小作りに思える造作も好ましい。 木と土壁と白熱灯の暖かい光の廊下を導かれてついたところは二階の角部屋で窓の外には深い緑が見えた。
二間続きの奥の部屋の中央に低くて大きなテーブルがあり、二人分の席が用意されている。
ちょっと当惑しながらそこに座ると、きれいな薄手の茶碗に緑色の茶が注がれて紅葉の形の菓子をすすめられた。
宿の説明を終えた仲居が去ったあとでほっと溜め息をつく。
「ああ、きれいだな! 気に入ったよ!」
「なんともいえず落ち着ける。 古い建物なのによく手入れされていて美しいし、それに、」
立ち上がったカミュが窓に近づいた。
「こんなに狭い庭なのにとても気持ちが良い!」
京の街中はたっぷりした庭を取ることができないので坪庭や中庭が発達しており、ここ柊家もその例外ではない。 きれいに磨かれた窓から見下ろすと、苔むした庭石や石灯籠が何百年も前からそこにあったように静かに夕闇に沈んでいくところだ。
玄関と同じく打ち水を欠かしていない庭は瑞々しい緑で旅に疲れた客の目を休めてくれる。
「ここって、きっとずいぶんいい宿なんだろうな!」
「旅行券に 『 美食と贅沢三昧の豪華旅行 』 と書いてあったからおそらく京都でも上のランクだろう。 ほんとにアフロディーテとデスマスクには感謝しなければならぬ。」
そう言われて、ミロはこの旅行の目的を再認識せずにはいられない。
たしかに恋の告白にはいい環境が望ましい。 最高のものに囲まれてこそ最高の告白ができようというものだ。
畳の部屋が珍しくてあちこちのしつらえを見ているカミュは新しい知識を吸収するのに忙しく、手持ちの日本紹介パンフレットや備え付けの外人向け説明書を興味深そうに見ているが、ミロの関心は今夜のことに向けられた。

   ええと………あれ? どこで寝るんだ?
   ベッドルームは?
   あの向こう側にあるのかな?

案内されたときのことを思い出して横引きの仕切りをそっと引いてみると、案に相違してそこには寝具が収められている。
「ここに寝具があるってことは、どこで寝るんだろう?」
「え?………食事を運んできたら訊いてみよう。」
二人で首をかしげるところは、ごく普通の外人客となんら変わることがない。

                                 ※ 柊家 ⇒ こちら


その6

「お食事は一時間半ほどかけて順番にお出しいたします。 お飲み物はいかがなさいますか?」
「そうねぇ……なにがおすすめかな?」
こういうことは地元の人間に訊くのが最善である。 もとよりカミュは飲まないので、ここはミロの好みで決まる。
「大吟醸がよろしいかと。さらっとした口当たりでよい香りがあります。」
「じゃあ、それね♪」
それぞれの前には円の下側を少し切り取ったような形の朱塗りの盆が置かれていて、変わった形の器に信じられないほど少量の肴が数種類きれいに盛り付けられている。 添えられた小さい紅葉の葉が愛らしく、こういうのがジャパネスクかと眼を見張る。
「こちらは山葡萄酒でございます。」
ごく小さい濃黄の脚付きの杯に注がれているのは食前酒らしかった。 唇の染まりそうな濃い紫がいかにも美しい。
「ああ、きれいだ! このくらいならカミュも飲めるだろう? ええと………ずいぶんと全体量が少ないみたいだが? それにどうやって食べるんだ?」
「食べ方は………ああ、これが箸だ。 ガイドブックに載っていた。 これを…」
柊家では箸袋は使わない。 白木の箸の中央が濃い緑の紙で小さく巻かれているのを手にしたのはいいが、手で割ることを知らないカミュの様子を見た仲居が親切に教えてくれる。
「ふ〜ん………ああ、なるほど! 一箇所だけくっついてるのか!面白いじゃないか♪」
見よう見まねでパキッと二本に割ったミロが今度はその持ち方に首を傾げる。
「ええと………」
すると、日本が初めての外国人とみて、こんなこともあろうかと思っていたのだろうか、仲居が予備の箸を取り出して持ち方や使い方のアドバイスを始めたものだ。 真似しようとしながら首をかしげているミロに対して、カミュの方はいちいち頷きながら納得しているようなのがミロにはなんとも恨めしい。
「ご不自由なようでしたらフォークをお持ちいたしましょうか?」
親切な言葉にほっとしたミロが、お願いします、と言おうとしたとたん、
「いえ、郷にいっては郷に従えと言います。 箸で食べてこそ日本料理の真髄に触れることができると思います。」
あっさりとカミュに結論付けられ、思わず、お前は真髄が好きだろうが俺はこんな木の棒では食べられない!、と言いそうになったミロだが、
「ミロもそう思うだろう?」
と念を押されて思わず頷く破目になる。
「さほど難しいものではない。 支点・力点・作用点の典型だ。 むろん、木製の箸は極めて軽いのでほとんど力が要らず、動かすのも人差し指と中指だけなので見た目よりも容易に操作できる。 お前のスカーレットニードルの精度を考えれば箸の扱いなど容易いだろう。」
「ええと……そうだな、うん、それは確かだ。」
カミュにここまで言われてフォークを要求できる筈もない。 内心で危惧しながら危なっかしい手つきで箸を持ち小さな木の葉の形の小鉢に入っている和え物をつまんでみると案外楽に食べることができた。 もっとも箸に絡みついただけなので、とても自慢はできないが。
ほっとしたところでカミュを見ると、真紅の紅葉の葉を箸でつまんで向きを直している。

   俺がダイヤモンドダストを覚えるよりも
   お前がスカーレットニードルを会得するほうが可能性があると思うぜ

悔しい気持ちを抑えて飲んだ山葡萄酒の甘さがミロの心をなだめてくれた。


その7

「この木は磨かれていないので摩擦係数が高く、比較的容易に食べ物を掴むことができる。」
解説しながら箸を使っていたカミュが盆の模様に眼を留めた。
「この模様はなんですか? 他の調度品にも同じ模様が付いていますが?」
そういえば湯飲み茶碗、座布団、タオル類、部屋のキーホルダーに至るまで木の葉の模様がついている。
カミュの問いに
「これは柊 ( ひいらぎ ) という木の葉の模様で、 宿の名前と同じデザインで統一してあります。」
そう言った仲居が献立表の柊の文字を指差して、
「こちら側の細い字が木 (tree ) の意味で、右側の字は冬 (winter)  という意味です。 二つの漢字を組み合わせて新しい漢字になっていまして、冬の木、ということで冬に花が咲くヒイラギの意味になったそうです。」
と丁寧に教えてくれたのでたまらない。 ここでカミュの知的好奇心に火がついた。
「ほぅ! すると、夏では?」
「榎 (えのき) です。 」
「なるほど! では秋は?」
「楸 (ひさぎ ) です。」
「春は?」
「椿です。」
「なんと面白い♪」
「ほかに魚の名前も面白いですし、漢字の成り立ちに感心なさいます外国のお客様は多くていらっしゃいます。 なんでしたら外国のかた向けの本がフロントにありますので、のちほどお持ちいたしましょうか?」
「ぜひお願いします!」

   ぜひお願いしたくないっっ!
   大事な六日間の初日にそれはないだろう?
   寝物語でムードを盛り上げたいのに、カミュが究極の学究モードになるだろうが!

先が読めるミロは はらはらしながら聞いていたのだが、どうすることもできはしない。
「漢字にこんな秘密があるとは思わなかった! なんと面白いのだろう! ミロもそう思わぬか?」
眼を輝かせて同意を求められると、むろん余計なお世話だなどととても言えはしないのだ。
「ええと………そうだな、おおいに驚いたよ。 もしかして愛とか恋とか悩みとかいう言葉にも共通項があったりして。」
悔し紛れにそう言うと、驚いたことに部屋を出ようとした仲居が、
「その種類の漢字には心という字が入っております。」
というではないか。 これにはミロも驚いた。
「日本語って、すごく気が効いてないか?」
「気が効くかどうかはともかく、実に独創的で素晴らしい!」
「心って大事だよ。 恋も愛も悩みも人の感情を豊かにするし、支えあい求め合う心がさらに豊かな実りを約束してくれる。 そうは思わないか?」
「………え? ああ、それはたしかに。」
アフロディーテとの話を思い出したカミュが幾分頬を染め、ミロは漢字の効用におおいに満足したのだった。


                   ※ 楸 (ひさぎ )     あかめがしわ ともいいます。 ⇒ こちら


その8

「お造りでございます。」
「……え?」
盆の上に置かれた六角形の白磁の皿には彩り豊かな何種類もの食材がそれはそれはきれいに盛りつけられていて観賞価値が高いのだが、二人にはなにが出てきたのか皆目わからない。
「お造りは日本料理には欠かせないもので、新鮮な魚介類を火を通さずにお召し上がりいただいております。 こちらのお醤油につけて、このわさびと一緒にどうぞ。 本日は本マグロトロ、平目、甘海老、シマアジになっております。」

   新鮮な魚介はわかるが、火を通さないってことは生ってことか?
   ……え? ほんとに??たしかに生みたいに見えるけど………

ミロがちょっとたじろいでいると、しげしげと眺めていたカミュが箸をつけた。
「話には聞いていたが生の魚を食べるというのは本当らしい。 どんなものかと心配していたが、これほど新鮮とは思わなかった。 切り口の鋭角さがそれを証明している。」
教えられたとおりに箸の先でトロにわさびをちょっとつけて醤油にひたし口に運ぶ。
「………」
「……どう?」
恐る恐るミロが訊いてみる。 こんな食べ方があるなんて想像もできないのだ。
「素晴らしい………ほんとに美味しい!」
「そうなのか?」
「ミロも食べてみるがいい、信じられないほど甘くてとろけるようだ!」

   おい、なにを言っている?
   魚が甘いはずはないだろう?!
   といって、生の魚がどんな味かなんてまったくわからんが

実のところ、生魚を食べたいとはまったく思わないのだが、カミュに勧められて嫌と言えるわけがない。 
それに、鮭を捕まえた熊がそのままかぶりつくのとはわけが違うのだ。 見たところ実にきれいで、洗練された調理がなされているのは明白だ。
幸いなことに箸がうまくいうことをきいてくれて、カミュが食べたのと同じトロに柔らかい緑色をしているわさびというのをちょんとつけ、なんとか醤油に浸してからおっかなびっくり食べてみた。
「………」
「どうだ?」
「美味しい!それにほんとに甘いっ!」
「であろう♪」
「信じられん! どうして魚が甘いんだ?」
眼を丸くしたミロが思い出したように大吟醸を口に含む。
「う〜〜ん…」
「どうした?」
「こっちも素晴らしい! 最高だよ! 日本に来てよかったとつくづく思うね、俺は!」
「私もそう思う♪」
嬉しそうに微笑んだカミュが山葡萄酒を舐めるようにして飲んで、白かった頬が さぁっと赤くなってゆくのもミロには楽しい眺めなのだ。
「次は、このシマアジというのを試してみよう!」
「うむ。」
穂ジソ、紅タデ、菊の花。 色とりどりの付け合せも眼を楽しませてくれる。
「これってなんだろう? 食べられるのかな?」
ミロが螺旋状のオレンジ色の何かをつまみ上げた。 同じもので白いのもある。
「ん〜と………わからぬ。 あとで訊いてみよう。」
「なんだか面白いな!で、わさびってなんだろう? ちょっとツンと来るぜ。」
「さぁ?」
いい気分のミロが盃を空けた。 すかさずカミュが清水焼の銚子に手を伸ばしたのは、先ほどの仲居の動作をよく見ていたためだろう。

   ほんとにいい旅行だ!
   これでカミュと恋人同士になれたら最高なんだが………

細首の銚子の大吟醸を注ぐカミュの手つきがとても綺麗だった。




その9

食事はたいそう二人の気に入り、このあとの献立も素晴らしかった。
松茸の土瓶蒸し、海老のしんじょ、ふかひれと湯葉豆腐の蒸し物など説明を聞かされてもいまいちよくわからないのだが、極めて丁寧な味付けや繊細な盛り付けは理解できる。 食事の終わりごろにはミロの箸さばきもカミュ並みに達者になって小さいものをつまむのにも困りはしない。
「松茸ご飯でございます。 このあとフルーツをお持ちいたします。」
蓋付きの薄手の器が盆の上に置かれた時には、それぞれの料理のあまりの少量にこれで満腹になるのだろうかと危ぶんでいた当初の心配はどこへやら、満足感でいっぱいの気分になっていた。
「松茸って、さっきの、ええと………」
「土瓶蒸しだ。」
「そう、その土瓶蒸しに入っていたキノコだろ? ふうん………ご飯?」
「日本人の主食は米だ。 充分に吸水させてから適切に加熱するとデンプンがα化され、このように適度な粘り気を持った  『 ご飯 』 に変わる。」
「うわっ、すごく箸ですくいやすい! ああ、なかなかいい香りだ♪」

こんなふうに幸せな夕食が終わると仲居が茶を入れ換えに来た。
「日本が初めてでいらっしゃいますと、ご入浴の仕方はご存知ではありませんか?」
「……え?」
「風呂の入り方って……?」
そこで家族風呂の時間予約だけはしてあった二人のために仲居が詳しく説明をしてくれた。

   するとなにか?
   日本人は見知らぬ他人と一緒に裸になって入浴することがあるのか?
   そして、浴槽の湯は取り替えないで何人もがその湯に浸かる? ………ホントか?

ここ柊家には大浴場はないので他人と一緒に湯に入ることはないが、部屋の風呂はともかく、階下の家族風呂の方は家族や友人と一緒に入ることが多いのだというではないか!
「家族風呂にご夫婦でお入りになられることも多いです。」

   そ、それは家族だからな、たしかに夫婦は家族だ、うん!
   で、俺とカミュは夫婦でも家族でもないが、友人だから一緒に家族風呂に入るってことも可能なわけか?
   カミュと俺がっっっ………??!!

今世紀最大の発見に気絶しそうなミロが心臓をバクバクさせていると、
「ほう! そうなのですか。 けれども私たちは日本の習慣に慣れていないので、別々に入浴しようと思います。」
ミロには一言の相談もなくカミュの決定が下されて、
「それでは次の時間帯も空いておりますので、お一人ずつごゆっくりお入りくださいませ。」
そう言った仲居が浴衣と帯の使い方を説明してから下がっていった。
「日本にそんな習慣があるとは知らなかったが、いくらなんでも一緒に入るのは恥ずかしい。 ミロもそう思うだろう?」
「ええと………いや、俺も驚いたよ、充分に! しかし、初めての国で初めての経験も面白くていいんじゃないのか?」
やんわりと言ってから、さりげなく付け加えてみる。
「俺はお前と一緒でもべつにかまわないけどさ。………お前、いやなの?」
「………え? あの、私は……」
耳朶まで真っ赤になってうつむいたカミュにミロの方までドキドキしてしまう。

   おいおい、まるで新婚の花嫁みたいだな………
   ふうん………恥じらうっていうのはこういうことか、聖域ではまず見られない光景だ!
   俺を見るのが恥ずかしいのか、俺に見られるのが恥ずかしいのか、それともその両方かもな………
   なんにせよ、平気で裸になって一緒に入られるのも、ちょっと哀しくはある
   いいさ、そのうちにきっと………!

垣間見たカミュの初々しさにミロの胸は弾む。


その10

相談の結果、風呂にはカミュが先に入ることになった。 一階の家族風呂の入り口まで二人で一緒に行って仲居から風呂の入り方の説明をうけたあと、ミロの方はいったん部屋に戻る。
写真雑誌を見たり仄かな灯りに照らされている庭を見たりするのだが、どうにも落ちつかないのはどうしても脳裏にカミュの入浴姿が浮んでしまうせいなのだ。

   もしも………もしもカミュが日本の習慣に果敢に挑戦するタイプだったら今ごろは………
   カミュは平気で服を脱いで明るく笑って 「さあ、ミロも脱ぐがよい!」 なぁんて言うタイプじゃないからな
   恥ずかしそうにゆっくりと服を脱いでいって、最後になってちょっと迷って頬を赤らめているのを
   「気になるなら見ないから大丈夫だよ。」 なんてやさしく声をかけてやると
   「うむ………すまない…」 って小さい声で言って、それでもまだためらっているんだな、これが♪
   仕方がないから 「先に入ってるぜ」 って軽く言って俺が身体を洗っていると、やがて戸が開く音がする
   眼を合わせないようにしていると隣の蛇口の前にヒノキの椅子が置かれて身を縮めるようにしたカミュの白い
   身体が見える
   ドキッとして俺の心臓の高鳴りが聞こえるんじゃないかとはらはらするが、むろんそんなことがある筈はない
   さっき聞いた日本人の習慣のことを思い出して、できるだけさりげなく、
   「背中を流してやろう!」 かなんか言って、すっと後ろに回り石鹸を………
   ええと、なにで洗うんだっけ? スポンジか? それともナイロンタオル? 聞いてなかったな?
   まあいい、
   わからないんだからここは思い切って手で洗ってやるのがカミュのなめらかな肌にはマイルドでいいだろう
   ハンドケアだ、ハンドケア♪
   さて、手に石鹸を泡立てて背中を洗い始めるとカミュがはっと息を飲む
   「どうだ? いい気持ちか?」
   「ん………」
   「はっきりしないな、どうなの?」
   「あの………とてもいい気持ちで…」
   それではと、背筋に沿ってすいっと指を滑らせてゆくとわずかに腰をよじって甘い吐息が洩れる
   うつむいてしまったカミュは真っ赤な顔をしてそれ以上はなにも言えない
   背中だけでは飽き足らなくなった俺が首筋や腕にも泡を広げていっても緊張したカミュはびくっとするだけで
   それに力を得て、胸の方にも手を伸ばしていってマッサージをするようにやさしく泡を塗り広げていくだろ♪
   困ってしまったカミュが恥ずかしそうに身をよじり、
   その拍子に指先に当たっちゃったりして、何がって胸の……ふふっ♪
   「あ……」
   「どうした?」
   「あの………ミロ……そこは…」
   「ん? ここがどうかした?」
   再確認でもう一度やさしく触ってやるとカミュはもう耐えられないようで俺に身体をあずけてきて………
   魚心あれば水心とはこのことだ、そっちがそうならと後ろから抱き締めると
   「ああ、そんな………だめだから……」
   「この想いをわかって欲しい………俺はお前を…」
   「ミロ………ミ…………ロ………」

「ミロ」

   もっとやさしく呼んでくれてもいいんだぜ、ふふふ、次はどこに触って欲しいのかな?

「ミロ、今度はお前の番だ。」

   「う〜ん、嬉しいね、お前が俺に? いいぜ、望むところだ♪」

「ミロ、何を考えている? とてもいい湯だった。 早く入ってみるとよい。」
「……えっっ?!」
肩を叩かれてはっと気がつくと、ほんのり上気したカミュがきりりと浴衣を着こなして立っている。 初めて見るキモノを着たカミュがすらりとして美しく、空想に耽っていたミロは危うく手を引いて抱き締めたくなるのを我慢した。
「ああ、そいつはよかったな! それじゃぁ、俺も行ってくる。」
なぜか真っ赤になって立ち上がったミロをカミュが不思議そうに見送った。


                                                       続く





           落語に 「 湯屋番」 というのがありまして、
           放蕩三昧の若旦那が銭湯の番台であれこれと夢想をする話です。

           ミロ様の夢想もキリがなく、はやく現実化することを願ってやみません。


            
※  この話は、メルヘン、ファンタジーです。
               日本の風俗習慣をほとんど知らないのに、日本語は上手というのがそもそも変ですが、
               そのあたりはしっかりとご都合主義を採用しています。

               (本編は一応ドキュメンタリー、ノンフィクションだったりします。)



「 焦 慮 紀 行 」  〜 日 本 篇  その1〜