※ 始まりの話は     ⇒ こちら        
                                              日本篇 その1 は  ⇒ こちら

その1

日本の習慣を初めて聞いたミロにとっては、頭では理解できていても実際にその場にたってみるといろいろと勝手が違う。
家族風呂の浴槽にはきれいな湯がたたえられ、そこにさっきまでカミュが浸かっていたかと思うとどうしても胸がドキドキしてしまうのだ。 落ち着け、と自分を叱咤しつつ、四つあるヒノキの低い椅子が斜めに立てかけてあるのを見ると、一つだけ濡れているのはどう考えてもカミュが使ったとしか思えない。
ドキッとしてその椅子を選んで、そっと腰掛けてみる。

    さっきまでカミュがこの椅子に…!
    それも、うう〜む、 ( こんなことを言っていいのだろうか ) ………は、裸でっっ!!
    ああ、俺、もう死にそう!

全身の血が逆流する想いでなんとか身体を洗い終え、今度は高鳴る胸を抑えながら大き目の浴槽にそっと身体を沈めてみた。

   ここについさっきまでカミュがいて手足をのばしていて
   お湯の中で白い身体がゆらゆらとゆらめいて……
   ああっ、なんて素敵なんだ!

自分がその同じ湯に浸かっているかと思うとカミュの残り香が甘くほのかに漂っているような気がしてますます動悸が高まってくる。 どちらが先に入浴するかを決めるときには、カミュのあとに自分が入ることの利点を心の中で数え上げながら先の入浴を勧めたのだ。 そのかいあって、椅子も湯もカミュの残り香を楽しめる。
このうえなく幸せな気分になったミロがしみじみと浴室を見てみると、壁には大原女をデザインしたステンドグラスがあって、今までに見慣れてきたものとは違う東洋的な味わいがミロの目には珍しい。
浴槽の湯を汲み出したりするときに使うと教わった木製の手桶は恐ろしく薄手の造りで、ミロにはいったいどうやって作ったものか想像もできないものだ。 実はこの桶は人間国宝になっている桶職人の手になる超一流の品なのだが、そんなことはミロには知るよしもない。

あれこれと夢のような空想に耽ったミロがようやく部屋に戻ると室内の様子が一変していた。
「あれっ? これはどうしたんだ?」
「お前が風呂に行っている間に 『 お床をのべに参りました 』 と宿の者が来て、あっという間にこのように寝具を整えていった。 」
答えるカミュは窓際の美しいデザインの籐椅子に掛けている。
「だって………ええと、ここで寝るのか? ベッドではなくて?」
ミロは唖然とした。 さっきまで部屋の中央に置いてあった低いテーブルは次の間に寄せられてあり、柔らかそうな寝具が少し間隔をあけて部屋の床に敷かれているのはどうしたことだ?
「日本ではベッドは使わない。 このようにして一つの部屋を居間にも食事室にも寝室にも使うのだそうだ。 この寝具をフトンといい、朝になったらまた片付けにきてくれる。」
「ふうん!床に寝るなんて考えられん!」
「お前が来るまでは寝心地をためさずに待っていた。 どれ、どんなものだろう?」
立ち上がったカミュが窓に近いほうのフトンを選び、浴衣の裾がめくれないように注意を払いながらそっと中に滑り込む。
「どう?」
「床に寝ているというのは不思議だが、寝心地はよい。」
「じゃぁ、俺も。」
部屋の灯りを消して枕元に置かれている小ぶりの灯りだけにしてみると、木と紙でできた照明器具の暖かみのある光が室内を照らしなんともこころよい。
「ちょっといいかも♪」
「うむ、私もそう思う。」
顔を見合わせて笑い、旅の第一夜が始まった。


その2

いつものベッドのスプリングとは違って、フトンのふくらみというのもいいものだ。 フトンの中で足をもじもじさせて感触を確かめていたミロがふと天井に目をやった。
「ここの天井って、漆喰とか壁紙じゃないんだな。」
「うむ、私もそれを思っていた。」
柔らかい灯りに照らされているのはまるで鶉の羽のようにきれいな木目を見せている天井板で、実はこれは屋久杉の最高級の品である。 日本家屋の天井板は木目を見せるのが当たり前だが、総体大理石造りの十二宮に暮らしている二人には実に珍しい。
天井の中央に下がっている照明器具も木と紙でできているようでふっくらとした形が東洋的だ。
「ほんとに面白いな。 十二宮で木でできているものといえば家具とドアと窓枠くらいだが、ここでは建物自体が木でできていて、しかもそれが表面に出ているのではっきりとわかる。」
「日本家屋は木と紙でできている、ということを以前老師からお聞きしたことがあり、そのときはどういうことかあまりよくわからなかったのだが自分の目で見るとはっきりとわかる。 現代日本ではビルが多くなっているが本来はこのような建物が日本人の住む家なのだ。」
話がちょっと固いな、と思ったミロが柔らかい方向にもって行く方法を模索し始めたときカミュがいきなり起き上がった。
「どうした?」
「忘れていた! あの本を読まねばならぬ。」
それはもちろん、食事の終わりごろに仲居が持ってきてくれた日本語に関する本のことで、床の間横の違い棚に置いてある。 気付かれたか、とミロががっかりしていると本を持ってきたカミュがちょっと考えてから自分のフトンに腹這いになり本を開いた。
そんな姿勢のカミュを見るのは初めてのミロが思わぬ光景にドキドキしているとカミュが 「ほぅ!」 と声を上げた。
「日本の漢字には部首というものがあり、それによって全ての漢字はグループ分けされる。 字の左にあるものを偏、上にあるものを冠、下にあるものを足、右にあるものを…」
「ちょっと待ってくれ。 そう説明されてもなにがなんだかわからないが。」
「それもそうか、ミロも見るとよい。」

   ということは、カミュの近くに寄るということだ♪

この展開に気をよくしたミロがさっそくフトンから身を乗り出して間の畳に肘をつき、開いてある本を覗き込んだ。 なるほど、幾つかの漢字を例に取り、わかりやすい解説が書かれている。
「これがくさかんむりだ。 これがついている漢字はほとんどが植物に関係しているのだそうだ。 これはさんずいといって水に関係している。 これが海でこれが波で…」
「へぇ〜、たしかに面白いな! するとお前はさんずいの聖闘士か?」
「えっ?」
そんな風に楽しくページをめくっているとミロの肘が痛くなってきた。
「だめだ、もう我慢できない。」
「え?」
見るとミロの肘にはくっきりと畳の目の痕がついている。
「ああ、それは痛かろう。 お前のフトンをこっちに寄せたらどうだろう?」
「…え? ああ、それは名案だ♪」
躍り上がる想いでミロが自分のフトンをすいっと押して二つの布団を隙間なく並べた。
「それなら肘が痛くなる筈がない。」
「まったくだ。 フトンって便利だな。」
今度はぐっと身体を寄せて本を覗きこむ。

    最高だ!
    ベッドでは逆立してもこんなことはありえない!
    カミュのフトンとピッタリくっつけることができるなんて信じられんっ、日本万歳だ!

肩を寄せ合って見る本は面白く、ときどきさらりと落ちかかるカミュの髪の甘い匂いも麗しく、ミロはおおいに満足したのだった。

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その3

小鳥の声がする。
ふと目覚めたミロが時計を見るとまだ五時だ。 見慣れぬ天井に京都に泊まっていることを思い出して隣りのカミュを見ると、掛けていたフトンが少しずれ、これはなんとしたことか、浴衣の合わせ目が少しはだけて胸が露わになっている。枕元の柔らかい灯りに照らされてほのかに桃色に見えるあの影はもしかして………

   わっっ!!
   お、俺、今なにを見ているっ??
   見えていいのか? って見えているものは仕方がないが、で、でもっっ………!!

眼をそらそうと思ってもドキドキするばかりでとても眼が離せない。 ややこちらを向いて眠っているカミュの花の唇がほんの少しひらいて白磁のような頬がほんのりと染まっているのも美しい。 十二宮ではけっして拝めないに違いないしどけなさすぎる寝姿にミロの鼓動は高まるばかりなのだ。
そういえばフトンの中の自分の浴衣もずいぶんはだけているようで帯も緩みきっている。

   ということは、もしかしてあの几帳面なカミュといえども裾が少しくらいは乱れてたりして………!
   浴衣ってすごすぎないか?

あらぬことを想像したミロはもう眠れない。 なにしろ二人で本を見るためにフトンをくっつけていたので、手を伸ばせば触れるくらいの距離にカミュが寝ているのだ。

   寝相が悪いってことにすれば、寝返りを打った拍子にさわれるんじゃないのか?
   どこにって………そ、そんなことが俺に言えるかっ!
   で、でも、たぶん可能だ、できない筈はない
   ………さわったら起きるかな?
   起きるかもしれないな………

      「あ………ミロ……なにを…」
      とか言って頬を染めて恥じらうところをやさしくつかまえて
      「寝返りを打ったら偶然さわっちゃって………いやだった?」
      「あの………いやとかそういうのではなくて……ちょっと驚いて……」
      「驚かせたらごめん………俺にさわられるのって………………どうかな?」
      「どうって………あのぅ…」
      ええと、このあとはどうしたらいいんだ?
      まさか、いきなりキスはないだろうから
      抱き寄せてかねてからの想いを告白するとか、明け方で肌寒いから二人で暖めあう、とか………
      でも、そんなことをして嫌われたら元も子もないし………

一人で悩んでいるとカミュが向こう側に寝返りを打って世界遺産にも比すべき白い胸が見えなくなった。 落胆したミロがこっそり溜め息をついているといきなり庭に面した窓のカーテンがするすると開き始めたではないか!
予想もしない東洋の神秘に茫然としてただ見つめていると、
「なるほど、上手くできている。」
冷静なカミュの声がした。
「……え?なにが?」
「ここに手元スイッチがあって、カーテンや照明を操作できる。」
向こうを向いたままのカミュが持ち上げたものはなにやら古めかしい円形の器具でずいぶんとレトロに見える。 神秘からレトロへの変換にあきれていると、カミュがスイッチを畳に置いてなにやらごそごそとし始めた。
「どうした?」
「いや、あの………」
「……浴衣?」
「うむ………これはちょっと……」
くすっと笑ったミロが、
「俺も同じだ。 どうやら誰が寝てもそうなるんじゃないのかな。浴衣の宿命だろう。」
そう言って立ち上がると打ち合わせを直して帯を締めなおし、
「ちょっとお湯を入れてくる。」
と部屋についている浴室に向った。
この浴室の壁はちょっと変わっていて暗い赤の半透明の塗料に塗られて例の柊の葉の模様が描いてあるし、浴槽は珍しいことに何も塗られていない木で作られている。
「ここの風呂も変わってるな。 壁が珍しいし、バスタブも木だ。」
「それならここのパンフレットに説明がある。 壁は日本独特の漆という塗料で仕上げられている。 ウルシノキの樹皮から採取したもので大変に手がかかり、高価なので一般家庭で壁の塗料に使うことはないらしいが湿気には強いのだそうだ。 磁器をチャイナウェア (China ware ) というように、漆器は Japan wear と称されるほど日本を代表するものといえよう。」
きりりと帯を結びなおしたカミュが鏡台の前に座って髪を丁寧に梳かしているのがなまめかしくてミロは思わずうろたえる。

   ほんとにこの旅行に来てよかったぜ!
   希望を言えば、カミュにも俺にときめいて欲しいものだが、それにはいったいどうすれば?

「ええと、たしかボーンチャイナっていうのがなかったか? あれは中国で生まれた (born ) からボーンチャイナ?」
「そうではなくて、ボーン (bone) は骨の意だ。 原材料に骨灰が含まれている磁器なのでその名がついた。 そして、ここの浴槽は高野槙 ( こうやまき ) という木でできている。 これは高価とされるヒノキよりもさらに保温性にすぐれているという。」
「ふうん、ともかく東洋らしいのはわかったよ。 で、今度は俺が先に入っていい?」
「むろん、よい。」

   ふふふ………今度は俺の浸かった湯に入ってもらおうじゃないか!
   これで愛の浴室体験は完了だ
   きっといつかは二人で一緒に入れることを祈らせてもらう♪

「それにしてもきれいな髪だな、ちょっと梳かしてみてもいいか?」
「………え? ああ、かまわぬ。」
思い切って言ってみると思いのほか簡単にOKが出た。カミュの後ろに膝をついて丁寧に櫛を入れているとなんだか新妻の髪をかいがいしく梳かしているような気分になってくる。

   ここで押し倒したら絶対にまずいよな………自重だ、自重っ!

浴室の湯の音が耳に快かった。


その4

ミロが髪を乾かし終わったころにカミュが湯から上がってきた。 白いタオルでゆるやかに髪を包んでいるのは頭を洗ったからだろう。
「乾かしてやるから、ここに座って。」
さっき髪を梳かした経緯があるので自信をもったミロが誘うと、素直に頷いて鏡台の前に座ってくれるのがなんとも言えずいい感じなのだ。
「量が多いからいつも大変だろう?」
「そうでもないが。 もう慣れているのでとくに考えたことはない。」
「なにかの時には乾かしてやるから一声掛けてくれ。 なんてこともない。」
それから、わざとらしすぎるかな、と思ったミロが付け加える。
「人の髪を乾かすのってけっこう面白いんだな。 聖闘士になってなかったらカリスマ美容師とかになってたかも。」
「お前が美容師に?」
「そう、美容師。 似合うと思うがどうだろう?」
カミュが黙った。 眉を寄せて何か考えている。
「………似合わないかな。」
話だけだし賛同してくれてもいいのに、と思ったミロの声には落胆の色が混じっていたかもしれない。
「いや、そうではなくて。 ただ………」
「……ただ、なに?」
「あの………美容師といえば客はほとんど女性ばかりだから、さぞかしお前に客が集中するのではないかと思って……。」
「……え? そうかな?」
「きっとそうだ、そうに決まっている。 お前の金髪は素晴らしいし、背も高くて声もよくて………」
「背ならお前だって高いぜ。」
「でもお前の方が明るい性格で、きっと人に好かれるから………。 たくさんの女性客がお前に髪をさわって欲しがるだろうと私は思う。」
鏡の中のカミュがうつむいた。 耳朶が真っ赤に染まっているのが風呂上りのせいなのか、それとも自分の発言がまるで嫉妬のようだと感じたためなのか、ミロには判断がつかない。

   ………もしかして、これは嫉妬か?
   自分よりも俺の方がもてそうなことに対する嫉妬だろうか?
   それとも、ひょっとして………俺の心がどこかの女性に向くのを恐れているとか?

なんと答えたものか逡巡したミロだが、ここは素直さが一番だろうと考えた。
「でも俺は聖闘士だから美容師ミロというのは有り得ない。 こうやってお前の髪を乾かしているのが一番向いている。 これからはお前専属の美容師になってやるよ。」
「ん………そうだな。」
まだまだ髪は乾かない。 熱を与えすぎないように気をつけながら梳く髪は真っ直ぐで素性がよくて、ミロは一房手にとって口付けてみたいのをじっと我慢していた。


その5

あらかじめ説明されていたとおり、朝食を頼んでおいた時刻の30分前にはフトンを片付けに係りの者がやってきて、その間、二人は窓際に置かれた椅子に向かい合わせに腰掛けて、手際よくにフトンがたたまれていくのを感心して眺めていた。
「ふうん! これならたしかに一部屋で済むな。 自分の眼で見なければとても理解はできないと思う。 極めて合理的だ。」
「まったくだ。 デスマスクとアフロディーテの好意のおかげでこのような旅行に来ることができたが、ぜひあの二人にも日本に来て経験してもらいたいものだ。」
カミュのなにげない言葉がミロに再び旅行の目的を思い出させる。

   あの二人が日本に来るってことは、俺がカミュとうまくいかなくて二人を招待するってことで………
   費用を持つなんてことはどうでもいい!
   今までの俸給はろくに使う当てのないままに貯まっていく一方だからかまわんが、
   成果の得られないままギリシャに帰ったら………!
   その数日後にはカミュはサガとシベリアに行き、俺の知らないところでサガがカミュを………っ!!

さすがに焦ってくるが、髪にさわらせてくれて 「専属美容師 」 という冗談めかした申し出も受けてくれたことを思えばそう悲観したものでもないのだ。

   やはり、二人きりでの旅行というのは全然違う!
   聖域では10分くらいしか会えない日もあったというのに、密着旅行だと会話も食事も全てが一緒だからな
   何日か経てばきっと何とかなる、そうに決まってる!

ミロが決意を新たにしているうちに朝食の用意が整った。
夕食と違ってかなりの献立が最初から並んでいるがそれでも幾つかの品はあとから届けられてくる。 さすがは京料理だけあって、日本料理にはまだ慣れていない二人にもその美しさ繊細さはよくわかる。
「この器がきれいだな、ほら、赤い葉と黄色い葉が重なったデザインだ。 ご丁寧に虫喰いの穴まで開いている♪」
「椀の蓋の裏側には金色の波の模様が! 表には何も描いていないだけに、この工夫が意表をついている。」
感心しながら箸を取り若狭ガレイをつついていると卓上に木製の大き目の器が置かれた。 三本の足がついていて、造りは浴室にあった手桶と似ているものだ。
「湯豆腐でございます。 桶のこちら側にお豆腐が温まっておりますので、お湯の中からこちらの器にすくい取りまして、この薬味とこちらのつゆでお召し上がりくださいませ。」
仲居が蓋の片側を取るとお湯の中に白い豆腐が揺らめいている。
「この容器がなんとなく風呂を連想させて面白いじゃないか!」
浴槽の中で揺らめいていた筈の白い身体を思い浮かべながら覗き込んだミロが、ふと桶の中から少し顔をのぞかせている銅製の円い容器の口の中が気になってすいっと指を入れた。
「……っっ!!」
慌てて手を引いたミロが蒼白になって唇を噛み、はっとしたカミュが眼を見開く。
脇を向いてご飯をよそっていた仲居が二人の盆の上に丁寧に茶碗を置くと、
「桶のこの部分には炭火が入っておりまして、それで湯豆腐を温めております。 お熱いのでお気をつけくださいませ。 のちほどフルーツをお持ちいたします。」
と御辞儀をして下がっていった。
「ミロ!」
すっと立ち上がったカミュがミロの横に来て茶を一口飲むと、ミロの手を取りあっという間もなく指先を口に含んだではないか。
「あ……」
思わぬ痛みに血の気が引いていたミロが首筋まで朱に染めてうろたえるのも当然だ。 初めて知るカミュの口中はきりりと冷えた茶で満たされて、火傷を負った人差し指の痛みをみるみるうちに癒してゆく。
「あ…あの………ありがとう……」
それ以上なんと言っていいのかわからなくて右手を預けたまま黙っていると、数分経ってからカミュが茶をごくりと飲み込んだ。 それから柔らかい舌がゆっくりと指を包み幾度も確かめるように指の周りをめぐったあとで、きっと歯に当たらぬようにと注意したのだろうか、唇で包み込むようにしてやさしく指が引き出され、目を離すことができずに凝視していたミロは唾液の糸が銀色の筋を引いた瞬間まで目撃したのだった。 思わぬ光景に目がくらむ。
「これでよい……あらかたの熱は除去できたと思う。 箸が持てようか?」
「あ………ほんとにありがとう、迷惑をかけてすまない……」
この世で一番の篤い手当てを受けた人差し指はまだ濡れ濡れとして、自分の指なのに見つめているのが恥ずかしくなる。

   火傷はたしかに治ったと思うが、心臓が持たないかと思った!!
   この宿に AED ( 除細動器 ) って置いてあるんだろうか?

甘い唇と濡れた舌の感触がミロを酔わせ、動悸は一向におさまってはくれぬ。 自分の席に戻っていったカミュはと見ると、やはり真っ赤な顔をしてうつむいていてミロと顔を合わせようとしない。

   ………これはもしかして脈があったりして?
   まったく気にしてないんなら 、
   「さあ、はやく食べぬとせっかくの心尽くしの食事が冷める。」 とか言うんじゃないのか?

こわごわ箸を持ってみると少し指先がじんじんするようだが、ミロにはそれが火傷のせいなのか、それともカミュの手厚い処置に敏感になっているせいなのかどうにも判然とせぬ。
残念だったのは、素晴らしい朝食の味がほとんどわからなかったことだった。


                湯豆腐の桶 ⇒ こちら
                たる源の桶   ⇒ こちら                               


その6

京都から大阪までは新幹線で15分である。
日本人ならわざわざ新幹線には乗るまいが、そこはデスマスクが企画した豪華旅行なので新幹線グリーン車を利用することになっている。
「ちょっと待て。 この売店で赤福を買わねばならぬ。」
「え? 赤福って?」
目当ての新幹線の到着ホームを見つけたミロをカミュが引きとめた。
「デスマスクのくれた書類によると、近畿圏、すなわち関西の中心地区のことだが、ここに立ち寄った場合は赤福という菓子を買うのが定番だということだ。」
「ふうん、まあ、その土地によって決まりごとは色々だからな。」
ホームのキヨスクに近付いたカミュが店員に声をかける。
「赤福を一箱ください。」
「まことに申し訳ありませんが、そこの張り紙に書いてありますとおり、ただ今赤福は販売しておりませんので。」
「……え?」
「そのかわりに売れ筋だった御福餅も扱いを中止しております。」
「ええと……」
「どうしたんだ?」
キヨスクの扱い品目の多さに目を奪われていたミロがカミュの当惑に気がついた。
「赤福は現在販売されていないのだそうだ。」
「ふうん………まあいいじゃないか、世の中には予定変更ということも数多い。 そのかわりに何かちょっとしたものを買えばいいんだよ。」
「でもなにを?」
「俺にもここの名物はわからん。 だが、こういうときには店員に聞けばいい。」
そしてにっこり笑ったミロが店員とやり取りした結果、二人は京名物の 『 おたべ 』 を手に入れた。
「それほど量がないので、二人でも充分に食べきれるそうだぜ。」
グリーン車は空いていて二人のほかには五、六人ほどが座っているだけだ。
「ところで、おたべ、ってどういう意味だろう?」
「………どうぞお食べになってください、という意味ではないだろうか。 京言葉は独特で断言はできないが。」
「ああ、なるほどね♪ ………あれ? それが正しいんなら、どの食べ物にも 『 おたべ 』 っていう名がつくんじゃないのか?」
「そういえばそんな気も……」
そんなことを話しながら箱を開けると三角に折り畳んだ柔らかい餅菓子がきれいに並んでいる。
「ふうん、なんだか可愛いじゃないか! ええと、この緑っぽいのは………抹茶………って?」
「抹茶とは茶の粉末だ。 とくに丁寧に栽培された茶の葉を厳選し、石臼で引いて作られる。 美しい緑色だ。」
「なるほど、日本人は緑の茶が好きだからな。 どこに行っても茶が出てくる。 それで、中には例のあんこが入っているというので、日本茶のペットボトルも勧められて買ってきた。」
「ではいただこう。」
こうして新大阪までの15分間はおたべを食べることに費やされた。
「これは老師にもよいかも知れぬ。」
「年寄り向きかな?」
「たぶん。」
「たしかにデスだったら喜ばないかもな。大吟醸でも買っていったほうがいいかな。」
大吟醸も悪くはないが、デスマスクの期待している土産は、いかにしてミロがカミュをものにして愛を成就させたかの一連の赤裸々な報告記なのだ。
そんなこととは露知らぬミロである。


その7

「ええと、ここが道頓堀だ。 なんだか変わった名前だな。」
大阪の地名としては極めて知名度の高い道頓堀は今日もたくさんの人で大賑わいである。
「江戸初期に安井道頓という人物がいて、」
「え?」
「1612年から私財を投じて運河の開削を始め、道頓本人は大阪夏の陣で戦死したが従弟の道卜 (どうぼく ) が事業を受け継ぎ1615年に開通した。 のちに開削者の名を採って道頓堀と呼ばれるようになったとのことだ。」
「ふ〜ん、人の名前なんだ!」
「そして道頓堀の両岸に芝居小屋や水茶屋が多く集まり、それが今の賑わいに続いているということらしい。」
「とすると400年の歴史がある文化地区だな!」
「そういうことだ。」

なるほどなるほど、と感心しながら歩いていると、京都と違ってどうにも町の様子が派手である。
「おい………どうして蟹が動いてる?」
「どうしてって………私にもわからぬ。 デスマスクなら詳しいかも知れぬ。」
「うわっ、こんどは大タコだ! なぜっ?!」
「タコって………ああ、ここだ!」
「え? なに?」
「大阪食い倒れツアーというのが今日のテーマだが、その第一号がこの店だ。 ここでタコヤキというものを食べねばならぬ。」
「ここねぇ………柊家とはずいぶん違うな。」
「京は着倒れ、大阪は食い倒れと称されて、それぞれの都市の特性をあらわしているようだ。 京都の人々はキモノに私財をつぎ込み、大阪の人々は食べ物に私財をつぎ込むということらしい。 ゆえに都市のイメージも異なるのだろう。」
「では俺たちもここで私財を蕩尽するってわけね。」
「蕩尽かどうかはわからぬが。」
「まあいい、入ろうぜ!」
話している二人の横をどんどんと客が入ってゆき、店は大繁盛のようだ。
奥のテーブルにやっと席を見つけたミロがメニューを手に取った。
「ええと………なにがあるんだ?」
「まて。 ここで頼むものはロシアンルーレットたこ焼きと指定されている。」
「え?そうなのか?」
「このあと何軒も行く予定ゆえ、それと飲み物を一つ頼んでここをクリアーすることが求められている。」

   ふうん………そのロシアンなんとやらは分け合って食べるとして、飲み物は……♪
   ふふふ、デスマスクのやつ、よく考えてあるじゃないか♪

飲み物が一つなら、当然同じグラスに口をつけねばならぬのは周知のことだ。 親密度がアップすることは間違いない。
「ロシアンルーレットたこ焼きと、ええと、オレンジジュースを。」
あとがあるのでアルコールは頼まない。 甘いオレンジジュースを頼んだのは偶然だが、ロシアンルーレットたこ焼きの特性を考えるとこの選択はおおいに評価されるべきだろう。


その8

まわりの席を見ると、どの日本人もおいしそうな匂いのする丸いボール状のものを食べており、とろりとした焦げ茶色のソースがかかっている。 その中の一皿がミロの目を惹いた。
「おい………あの丸いのから出ているのはなんだと思う?」
「……あ!」
テーブルの上の四角い皿に乗っているのは例の丸い食べ物だが、そこからにょっきりと突き出しているものがある。
「タコ………の足に見えるが。」
「そうだよな、俺にもそう見える。」
これはこの店名物のびっくりたこ焼きというもので、食べるときにはタコの足を手で持ってマイクのようにして食べるのだ。
「まさか、あれがロシアンルーレットたこ焼きではあるまいな?」
「え………俺に訊かれても………」
そこに二人の注文が運ばれてきた。 どう見ても普通そうなタコヤキで二人はほっとする。
「ロシアンとオレンジジュースです。」
それから一枚の紙が置かれた。
「ロシアンの中はこのようになっております。」

   ………え?

そこには8個の丸いタコヤキのイラストが書かれており、
  海老
  チーズ
  コーン
  大タコ
  ツナ
  ぶた
  桃
  山葵
と注釈がついている。 ついでに言えば 「順不同」 とも添え書きがしてあった。
「つまり味が全部違うということか?」
「味というより………」
カミュが左奥の席の様子をちらと見た。 同じ模様の皿に載ったタコヤキを4人が騒ぎながら食べていて、
「やった〜! これ、タコやねん♪」
「桃や………あかんわ…」
「桃でもあれよりはええやろ!」
などと言っている。
「確信は持てぬが、中の具が様々なのではなかろうか。」
「ふうん………ロシアンルーレットだったよな、たしか。」
タコヤキにタコが入っているのが通常ならば、大タコは大当たり、海老とツナとぶたはまあまあ、チーズとコーンはそれなりに、桃は意外性。 あと一つは………
「おい、山葵って何のことだ? 読みかたがわからないが。」
カミュが店員を手招いた。
「これはなんと読みますか?」
「ワサビです、特別に辛くなっておりますのでお気をつけください。」

   ワサビって、あの刺身についていたあれのことか?!
   だからロシアンルーレットっっ??!!

恐るべし、大阪人!
二人は暗澹とした思いでタコヤキを見つめた。

                                           びっくりたこ焼き ⇒ こちら


その9

「私の解するところでは、」
カミュが言った。
「ロシアンルーレットの主旨を考慮すると、このたこ焼きを相互に一つずつ選択し、食べきってゆくことが求められていると思う。」
「うむ、俺もそう思う。 で、どっちが先に取る?」
「たこ焼きが冷めてしまうので詳細な説明は省くが、何番目であろうともワサビを選択する確率は変わらない。」
「ではじゃんけんで勝ったほうが先に取ることにしよう。」
「うむ。」
ギリシャにもじゃんけんはある。 ペトロ (グー)、プリサーディ (チョキ)、ハルティ (パー)、そしてモリビ (えんぴつ) の4種類で、モリビは紙にも石にも書けるので勝ちとなるのが日本と違っているがあとは変わらない。
勝負はミロの勝ちとなり、一つ目をさっそく口に入れてみた。 聖闘士の勝負は即断即決、迷いは即、自らの死に繋がるという日頃からの理論を実践しただけのことである。
「……どうだ?」
「コーン……だと思う。」
続いてカミュがチーズを食べた。 初めて食べたたこ焼きがタコそのものでなかったことは残念だが、ワサビでなかったことは欣快であろう。
「美味しいじゃないか!」
「たしかに!」
タコでなくても美味しいものは美味しいので、とろりとしてふわっとした熱々の味わいはなんともいえぬ。 ワサビに当たるのは恐ろしいがそれを考えても始まらない。
「これはツナだ。」
「こちらは海老のようだ。」
半分だけ噛んだカミュが検品を始めた。 中の火の通り具合に興味を持ったらしい。 ミロのほうも残りにワサビが隠れている可能性は努めて考えないようにして口の中のトロトロ感を楽しんでみた。
「俺、そろそろワサビが当たってもいいぜ。」

   ワサビに当たりたくはない、しかしカミュがワサビを食べるというのも看過しがたい!
   世界の至宝、アクエリアスのカミュがワサビのどっさり入ったたこ焼きを食べて苦痛に喘ぐなど許しがたい!

「いや、試練は私が引き受けよう。」
二人同時に手を伸ばす。
ミロはぶた、カミュはなんと大タコだった!
「これがたこ焼き………」
タコのプリプリ感がなんともいえぬ。ソースと青海苔が香ばしく、上にかかったかつおぶしがそれとは知らぬカミュをいたく満足させた。
「しまった! こんなに美味しいのについ一口で食べてしまって………。タコはこれしかないのだから、ミロにも半分食べさせたかった!」
「えっ、いや、あの、俺は……うん、その気持ちだけで充分だよ!」

   カミュが食べたその残り半分って……!

酒も飲んでいないのに顔が真っ赤になった。 これはもう親密度100%、飽和状態ではないのか?
ワクワクドキドキで皿を見る。 残るは桃とワサビ。 鎮座している二個のうち一つがワサビなのだ。
「私がワサビを選ぶ。 ミロに食べさせるわけにはいかぬ。」
「とんでもない! ワサビは俺のものだ!」
二人の目が光り、人知れず小宇宙が燃え上がる。 同時に手が伸びた。


その10

ミロの口の中で甘さがはじけた。 桃だ!
はっとしてカミュを見る。
眉をひそめ目を閉じたカミュがうつむいた。 息もできずにじっとこらえているのがありありとわかりミロをドキドキさせる。 そのときカミュの手が動いた。

   まだ残ってる!
   半分しか食べてなかったのか?!

考える余地はなかった。 食べきらなくてはならないという責務にかられたカミュが涙を滲ませながら残りのそれを口に入れようとした刹那、ミロの手がそれを奪い取りあっという間に自分の口に入れていた。

   あっ………ミロ、なにを……っ!

カミュが目を見開いた。
想像を絶する辛さが鼻腔を突きぬけツーンとした衝撃がミロを襲った。 とても声など出せるものではなくて固く息を止めてひたすら時の過ぎるのを待つ。
目を潤ませながらやっとの思いでカミュを見ると、唇をわななかせて真っ赤な顔をしながらオレンジジュースを差し出してきた。 先に食べたカミュの方がつらかろうと押し戻したが涙目で首を振りながら言うことを聞こうとしない。 やむを得ず先に一口飲んで辛さを少しやわらげて今度こそはとカミュにグラスを返すとほっとしたように唇をつけた。
「これは凄すぎるぜ……」
「ああ、東洋の衝撃といえよう。」
「真紅の衝撃といい勝負だな。」
顔を見合わせて苦笑いできたのは数分経ったころで、まだ鼻の奥に刺激の余韻が残っていた。
三分の一ほど残っていたオレンジジュースを半分ずつ飲んで店を出る。
「やはり、ミロにたこ焼きを食べさせたい。 私だけ本物を食べて終わるわけにはいかぬ。」
そう言ったカミュが店先で焼いていたたこ焼きの売り場で立ち止まり、普通のたこ焼きを一舟買った。
「でもここで?」
「かまわぬ。 日本人は歩きながらでも食べているではないか。 郷に入っては郷に従えという。」
それでもやはり歩きながらというのは性に合わなかったものか、その場で立ち止まって添えられた楊枝で慎重に湯気の立っているたこ焼きをつまむことにした。
「……熱っ! これは……ふむ………なかなか……♪」
「であろう♪」
この頃にはワサビの余韻も消えていて中に入っている大きなタコのプリプリ感ととろりとした熱々の美味しさを十分に楽しむことができたのである。
「美味かった!……あれ?」
「どうした?」
「唇になにか付いてるぜ。」
「え?」
むろんそれはたこ焼きには定番の青海苔で、カミュの唇の端に幾つか張り付いている。 頬を赤らめたカミュがそっと舌で舐めてみるがどうしても取れないものが一つあるのだ。
「取ってやるよ。」
すっと手を伸ばしたミロが幾度かつまんでいるうちに青海苔はミロの指に移ったようだ。 緊張したカミュが目を伏せて、少しひらいた唇の濡れた感触がミロの心を波立たせる。
「俺には付いてないかな?」
「ええと………いや、付いてない。」
「それは残念。」
「……え?」
「あ、冗談だから! うん、ほんの冗談だ、気にしないでくれ!」
「ん……」
なぜか真っ赤になったカミュがうつむいて、くるりと背を向けた。
「次の予定はお好み焼きというものを食べることになっている。 急ごう。」
「今度はロシアンルーレットはごめんだぜ。」

   でも結局は悪くなかったな………
   いつか心が通じたらカミュの唇に俺の唇を………ああ、それってキスじゃないか!

来るべきその日を思いながらミロはカミュとの距離を近いものに感じていた。


                                   続く





           
はい、たこ焼き篇は終わりです、次はお好み焼き。
           大阪・粉ものの旅はまだ続きます。



         ※  この話は、メルヘン、ファンタジーです。
               日本の風俗習慣をほとんど知らないのに、日本語は上手というのがそもそも変ですが、
               そのあたりはしっかりとご都合主義を採用しています。

               (本編は一応ドキュメンタリー、ノンフィクションだったりします。)



「 焦 慮 紀 行 」  〜 日 本 篇  その2 〜