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コラム
 vol.25 すべてをつ なぐ場〜肉体の持つ知性論・第2層〜(続き)


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5.目的を遠くへやる

このような空間把握が囲碁に於いても重要である。それが数十センチの空間内での止まっている石の配置という非常に空間把握しづらい対象であるためにこの能 力は発揮しづらい。先ほど言ったように、停止している人間は空間把握がしづらくなるように思う。

以前に囲碁について、ジレクト・インファレンスのことを書いたコラムで取り上げた。

ジレクトインファレンスとはまず直感的に答えがやってきて、それを後から裏付ける。こう言う手順のことなわけだが、ここにおいてはなるべく先入観をなく し、空間認識能力だけで捉える状態に自分の状態をもっていかねばならない。

それには囲碁の諸ルールよりもまず、ただ置きたい所に置くということが大事になる。

囲碁の本というのはこの世に山ほどあるが、人生論を書いて読んでもらえる棋士はそんなにはいない。
数々のタイトルを取り、本も豊富に書いている武宮正樹は呉清源と並びその手の本を出しても読んでもらえるプロ棋士である。
その本「一生懸命ふまじめ」のなかで、彼が説くのが目的を遠くへやるということである。
目的を遠くへやるとはどういうことか。武宮は指導するときに生徒にこう問う。

今打っている碁に勝ちたいのか、それとも強くなりたいのか。

強くなりたいなら、置きたいところに置けという。目の前の石を取ろうとすると先入観が入り、目的がすぐ近くのものになることで、全体が見えなくなる。それ よりも今の碁に負けてもいいから、打ちたいように打ち、どこが良くてどこがだめか反省し、また打つ。それしかない。

大事なのは感じることだという。先入観が入っては感じられなくなる。囲碁とは本質的にはそういうゲームなのだと。

また別の本「攻めの力が劇的に強くなる4つの法則」では、理想的な攻めについてこう説明する。

「石はそう簡単には取れません。石を取ることが囲碁の目的でもありません。基本的に相手の眼をつぶして取りにいく手は、100%取れるときだけです。」

囲碁とは地(自分の所有地)が多いほうが勝ちというゲームだと思われているが、実際には最後に地が多いほうが勝ちなのだと武宮は言う。その「最後に」が大 事なので、途中で無理に石を取りにいってもバランスが崩れたら終わりなのである。

囲碁とはこのように目の前にある手が出そうなものを押さえ、より大きなバランスの中で戦うゲームであり、であるから、その姿勢も目的を遠くに置くことにな る。
ただ、ここまでくると一つの問題が生まれる。なぜ目的がないのにサッカーで得点を取り、囲碁の勝負に勝てるのか。
それには後で触れる。

目的を遠くに置くということはこれもやはり以前書いた、聖者の論理と通ずる(コラム「アウトローと聖者」)。
神の御心のままに動き、目的(天国)があまりにも遠いので、現実的に目の前の行為に余計な欲が働かなくなる。結果、思ったまま(それが神の意思である)行 動する。ということである。
行動原理、聖者の場合それは愛であり、棋士の場合それはルールである。それを閾下に置き、自分の思ったままに行動する。

さてここまで説明したことで、さっきまで見てきた空間把握とつながってくることになる。
「目的を遠くへ」とは、つまるところ目的を今すぐにはかなわないところにおいやるということに他ならない。
今すぐにはかなわないということはつまり時間性を帯びるということである。
空間的な姿勢に入った人間はさっきまで見てきたように、無時間になる。
つまり時間性を帯びた目的は無力化されてしまうことになる。その結果、目の前には目的がなくなるのである。
目的を遠くへおいやることができれば、余計な先入観の抜けた意識には身体からの情報がすんなりと入りやすくなる。

目的を意識から追いやるというのは結構難しい。執着を解く問題はジレクト・インファレンスやサブリミナル・ソーツの問題を書いた南方熊楠が仏教の阿頼耶識 を比較に取り上げたように、仏教と絡む。だから聖者とも絡むのだと思う。

目的を遠くにやれれば、空間的になり、空間的になれば目的を遠くへ追いやれる。
問題はどちらが先かということだ。
空間的姿勢は停止していても意識的にできなくはない。どちらかといえばそちらが先だとは思う。
目的は心の問題であり 、空間的になれば自動的に遠くに追いやった目的が消える。ただ全体としては、

目の前にある目的(現在的)

目的をより遠くのものに置き換える(時間性の付与)

空間的姿勢(自己の無時間化)

目的の無力化

という手順となると思う。

難しいことをしているからこそプロ棋士は他の人より強いのである。


6.もっとも遠いところにある目的

目的のない状態になると、棋士にはルールと空間と操作が残る。

碁のルール(ルール)と碁盤(空間)と石を置く(操作)である。

目的と時間が解除されたものはただ作用と効果に集中できる。アウトローがみな拳銃の使い手として強いのは、まさにその作用(発射)と効果(敵の死)に集中 できるからである。銃を撃つという行為は精度を保った速さとして、効果を持つ。だからメッシはピッチ上ではアウトローとして機能している。ただしサッカー のルールの中でだが。

ここまでくると先ほどの問題に答えられる。なぜ目的がないのにサッカーで得点を取り、囲碁の勝負に勝ち、相手が倒せるのか。それは生き残るためである。生 きるということは人間に唯一、生得的に与えられた権利なのである。


7.ルールとしての社会

サッカーも囲碁も社会もルールがある。

サッカーや囲碁は社会よりはルール的には制限が少ない。社会においてはそれは法である。アウトローは法の外側にいるからアウトローである。でも本質的には 人間は生きていくことさえできれば後は相対的にルールを守るのである。

アウトローにはアウトローのルールがあるというのは、一つの考慮の必要なことである。

唯一生きる権利がありルールが構成されるというのはマーロウの思想で私立探偵的社会性として書いた。

求めない
媚を売らない
与える
もらう
の4つである。

そこでも述べたように「求める」とは期待するということである。
それを期待的想像と呼ぶ。

期待することと想像することは違う。想像は悪いことも含むが、期待は良いことのみである。
もし肉体の持つ知性において受け入れられうる「想像する」という事があるとしたらそれは、”あらゆることを想像する”ということである。
そしてそれは結局のところ行動するときの指標としては、何も想像しないのとあまり変わらない。
むしろ目の前にある可能性をすべて提示させるという意味では、余計な想像による先入観のほうが邪魔になるのである。

そして、問題は「その時になってみないとわからない」という時間を軸にした考え方である。
いわゆるポジティブシンキングはマイナス方向の思考を打ち消すのには役に立つが、その後大事なのは勇敢さだけであり、それはすべてを受け入れる覚悟以外に ない。

「求める」は互いにとって利益になる(お互いにとって仕事として価値を持つ=仕事に対する等価値の報酬がある)
場合は機能するがそれは個人的関係としてのコミュニケーションと捉えなくてはならない(そのつど今も価値があるか確かめなくてはならない)。それは「求め る」というより「受け入れあう」という感じである。それは想像ではなく交渉である。

そのようなコミュニケーションのないそれ以外の「求める」は社会的モラルによって勝手に相手におしつけるものであり、そのこと自体が主体に社会的信仰をも たらしてしまう。身体の持つ本質的な情報から離れてしまうのである。エコロジーがいい例である。エコロジーは社会的モラルに訴えるかぎりうさんくさいので ある。

チャンドラーによるフィリップ・マーロウのシリーズは一人称で書かれているが受ける印象は独我論的ではない(フッサールもデカルト的省察のなかで超越論的 現象学が独我論ではないことを主張している)。

なぜならそれはマーロウの姿勢があくまでもフィールドワーク的であり、実際に見たものを受け入れる姿勢ができているからである。「想像していた」という発 言がないわけではないが、一人称であり、話の途中に「あれは6月の雨の日だった・・・」とかいうようなシーンがない(もちろんすべてが回想であるとは言え るかもしれないが、それを言えばすべてのフィールドワークは日記としての回想である)ので、常に今なのである。

それはとても主観的だが、言ってみれば「角を曲がったら車が走ってきて轢かれそうになった」というようなたぐいの主観であり、すべては現在で突発的なので ある。

想像力が有効なのは「自分がそれをされたらどう感じるか」であり、それはつきるところ自分の身体と心がつながっている場合にしか感じ取れない感情としてで ある。つまり「自分が自分にそれをする」という実体験として自分でその体験をし、感じた結果であり、もはや想像ではないのである。
それはつまり主体性を通して自分が感じているのを外から捉えるのであり、空間的把握をすることに他ならない。

そのようにして想像力は解除される。

囲碁に話を戻せば、囲碁においても想像力とはあらゆる可能性を想定するということになる。

でも、将棋と違い囲碁におけるあらゆる可能性は天文学的である。19×19=361の選択肢から一手打つごとに一手ずつ減る。例えば互い先で黒番の1手目 からでいくと単純には361(黒)×360(白)×359(黒)=46655640通りと、最初から自分の二手先ですらこのような数字になってしまう。将 棋は試してないが今ある駒が移動するというゲームなのでそれよりは圧倒的に少ないはずである。

だから囲碁において読みとは期待と常識に他ならない。
でもそれではアマチュアである。

プロの解説者が進行役の女流に「なぜこの手を打ったのか?」ときかれても「うん、なぜですかねえ」とか、「わかりません」 と言ったりするのを見る。つまり実際には読みではなく(明らかに打ったらまずい手以外は)直感である。先ほど書いた目的の解除と想像の解除はおなじなので ある。

これだけルール(制限)が少なくなると、ほとんど無法と変わらない。
それでも「求めない」が有効である。「求めない」とはそれほどフレキシブルな考えではないのである。ルールの量によってどのくらい「求めない」かなどとは いかない。ゼロである。だから求めないをすれば、無防備になる。だからアウトローのように強くならなくてはならない。空間的にならねばならない。よって即 座に「想像しない」になってしまうのである。

アウトローは我がまま(思うままに求める)に見えるが、結局のところアウトローと「求めない」は矛盾しない。

求めないとは想像しないということであり、撃ち殺せば済むとはっきりわかる場合、彼はためらわない。逆に言えば生き残れないと思う場合にはやらない(さき ほどの武宮の攻めの説明と同じである)。彼らは死んだら終わりだということを知っており、ゆえに彼らはルールを守らない代わりにすべてを背負うのである。


8.すべてを剥ぎ取った世界

このようにしてルールをすべてなくしても唯一機能するのが「生きる」ということである。

ここまでくれば、社会的時間が主体的時間と混同されることはない。空間的把握をし無時間的になったそこは、社会ではなく世界である(ハイデガーの場合は僕 の言う社会が「世界」と呼ばれ、世界が「大地」と呼ばれているようである。とはいえ僕とハイデガーにはかなり食い違いがある。ぼくはやはりフッサール的な のであろう)。

そこに残るのは個人の生きる権利と主体性の権利である。

期待的想像や目的や執着がなくなれば、そこには自然と個人としてのコミュニケートが残る。
それは相手に対し主体性と生きる権利を認めてあげるということである。
あたりまえのようだがこれをやらなくてはいけないのである。

お互いにそうすれば、それに沿った自然な行為として主体性と生きる権利を脅かされないかぎり戦うことはしなくなることになる。それはいわゆる道徳とはまっ たく違う。それが本当の意味の弱肉強食であろう。腹が減っていなければトラも獰猛ではない。食べる分だけ採るのである。

空間的な場がすべてをつなぐ場であり、そこに集まり、そこから始まる。いろいろな人が別の言い方でこのことを指し示しているのである。肉体の持つ知性もそ こから始まるのである。

今回はこの先には触れないで置こう。


ここからは個人間のコミュニケーションの具体的な話、つまり空間的姿勢における人間同士の親和性と「受け入れ」の問題を扱うことになり、込み入ってくる。 たぶんマルセル・モースやマリノフスキの調査したクラや料理の「手順」についてを取り扱うことになるだろう。また相互扶助としての原始儒教から梅原猛の森 の思想が関係してくると思われる。

それと共に「痛み」の問題も必要である。生きるということは何かを食べることであり、想像の解除の結果として、実感としての痛みの問題が現れる。このこと はフッサールとハイデガーの問題と絡んでくる。

また肉体の持つ知性を鍛えることが可能かどうかという問題もある。
今回たどり着いた空間において現れるのは、身体のもつ強力な能力を制御するには自我ではなく、それ相応のやり方が必要になるということである(もちろんほ とんどは身体に「勝手にやってもらう」しかないのだが)。
そういった制御能力が生み出す統合性としての私、それが肉体の持つ知性としての私であるが、そこにおいては閾下考慮やジレクト・インファレンスと共に行動 思考の問題をまた考えねばならない。つまり同じ空間的な状態であっても、どういった作業や速度がその知性をもたらしやすいかということである。そうすれば 鍛えることも可能になるであろう。


また、最も重要にして難しい問題として勇敢さの問題も考えなくてはならない。勇敢さとは「生きるための死」の問題でもあるからである。サッカー以外では闘 牛もこの問題に関係してくると思う。(hayasi keiji,12/1/17)


参照:ユクスキュル/クリサート著 日高敏隆・羽田節子訳「生物から見た世界」(岩波文庫・青943−1)
   武宮正樹著「攻めの力が劇的に強くなる4つの法則」(毎日コミュニケーション・マイコミ囲碁ブックス)

   
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