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コラム
 vol.25 すべてをつ なぐ場〜肉体の持つ知性論・第2層〜

コラムにいい加減な副題を付けすぎたせいで、最近ではタイトルを見ても、いったい何の話だかわか らなくなってきた。
でも確かにその時点の実感としては、そのようなものが適切だと感じる。一つ下の層に降りたような感じだ。

今までいろいろなものを相手に肉体の持つ知性を見てきたのだが、それもだいぶ集約され、一つのまとまりのようなものができてきた。
リオ・メッシ、フッサール、荘子、木村尚三郎、南方熊楠、囲碁、二つの映画の中、そしてレイモンド・チャンドラーのフィリップ・マーロウ。

その間に出てきたキーワード、同期、親和性、無時間、コミュニケートの精度、想像力、旅、超越論現象学的還元、阿頼耶識、ジレクト・インファレンス、非社 会性、二つの信仰、無時間空間、求めないこと、不可知の雲、斉物同論。

そのうちにポイントは空間と時間にあると思うようになった。
空間と時間。あたりまえである。すべては空間と時間で規定される。存在はある時間とある空間のどこかに位置している。人は連続する時間の中を連続する空間 の中を、移動する。

すべてを取り払うとそうなる。


1.バルセロナ

再び、メッシから見ていこう。

メッシがパスを受ける。ドリブルをし、敵を一人かわし、ビジャにパスを出す。
その時にはメッシがいて、ボールがあり、敵がいて、ビジャがいる。

バルセロナというチームは数々の特徴を持っている。他のチームではなかなかない特徴を。
その一つに、ボール支配率の高さがある。最低60パーセント、普通で70前後、高いと80。ちょっと異常である。
90分で単純に割ると、70パーセントと言うのは63分にあたる。自分たちがボールを持っているということは、持っていようと、持たされていようと、その 間気が狂ったりしない限り、点を失うことはない。少なくとも攻めるチャンスを持つ。

なぜバルセロナはボール支配率が高いのか。

僕が考えるに、それは危険性の高いパスを出さないからだと思う。試合を見ていてわかるのが、はっきりと明確にそのパスが出されているということだ。それは メッシだろうが、アビダルだろうが、ブスケツだろうが変わらない。

なぜそれができるのか。簡単だ。そこにいるからだ。つまりパスを出す相手がいて、そこまでもコースが確保されている(ある速度以上のパスならボールがそこ を転がる間に相手選手がそのコースに入ってこない)からである。

つまりボールがへんなバウンドをしない限り、パスを受ける相手がそこから移動しない限り、そのパスはつながる。

それを普通よりもかなり速い速度でやっているだけである(そこが重要なのだが)。

普通はパスはあるポイントに向けて、そのコースに出され、受け手がそこに入る。
だからもしそのポイントまで、敵と受け手が同じ距離で、足も同じくらいの速さなら、受け手がボールを手に入れる可能性は50パーセントになる。
そのようにある理想的ポイントに受け手が早く入ることを期待するのである。

バルサ(FCバルセロナの略称)はそのような危険を冒さない。勇敢でないのではない。バルサにとってそれ(パス)に勇敢さ(あるいは期待的行動)はいらな い。というよりそんな行為は勇敢とは言わない。
バルセロナの選手はそのようにして確実にボールを受け、そこにボールの後からやってきた敵と対峙する。
そこからバルサの勇敢は始まる。

とにかく、バルセロナはパスの受け方から見てもわかるように、実に現実的なのである。ほとんどの場合、期待的行動ではなく、合理的で実際的なのだ(もちろ んサッカーは人がやるので、調子、気分、気まぐれ、いろいろなものでそこには不確実さはある。それもサッカーの楽しみである)。

バルサが期待的行動をとるのは、ほとんどの場合、ラストパスだけである。そこにおいて勇敢さが示される。ここにおける期待はもはや、あるポイントに早くで はなく、「何とかしてくれ」という全面的に投げ出した期待でありこの場合にのみ勇敢さは意味を持ち始める。

それを分析するとこうなる。
パスにおいて出し手は予想しなくていい。想像はいらない。現実に視界で確認した相手にパスを出す。

そして受け手が要求されるのは時間的処理ではなく(相手より早くボールのある位置に入る、あるいは追いつく) 空間的処理である(出し手が出しやすいところに移動する。自分のところにやってくるボールと敵をどうやって処理するか)。もちろん点を取らなくてはならな い。だからバルサはディフェンスラインが高く、より相手陣内に選手を送り込む。そうすれば必然的に相手のゴールの近くでボールを回せる。


2.時間と空間とは何か?

時間的処理でなく空間的処理をすると言った。では時間的、そして空間的とはどういうことなのかを考えなければならない。

以前にも書いたように、社会とは信仰と時間でできているとする。
そして木村尚三郎の言うようにそこから離れたものは無時間空間的である。

それをシンプルにあらわすと、

社会的私=時間・信仰的

非社会的(個人的)私=無時間空間的

ところが「私」には2つの面がある。つまり身体としての私と、自我としての私である。
生理的諸現象(本を読んでいるのに眠くなる、大事な打ち合わせの最中にトイレに行きたくなる)を見ればわかるように、身体と自我は別の層をなしている。

そして無時間空間的なのは身体である。それに対し自我は正反対の無空間時間的であると思う。

ここは詳しく説明しなくてはならない。自我としての私は空間に存在しているわけではない。心がどこにあるか?というのはやはり目に見えないと言わざるを得 ない。それが脳に在り、集積回路のように電気信号によって機能しているとしても、その空間性は自我とは関係がない。

やはりAIには身体がないのである。つまり無空間である。思考の場や記憶の集積としての自我は、身体を通して記憶されている時間以外はただ思考の前後関係 としてだけの時間を有している。 「甲だから…、乙である。」と考えるときに甲→乙の順として捕らえる。前後関係として。でもそこに明確な1分1秒はない。

ここまでを並べると、

社会的私=時間・信仰的

| 身体(非社会的私)=無時間空間的

| 自我=無空間時間的
となる。

身体は時間を有しているのかといったら、世界の前後関係(絶えざる時間の流れ)として有していると言わざるを得ない。でもそれは明確に規定できるものでは ない。

フッサールの弟子にして、20世紀最大の哲学者となったハイデガーは自分の言説の論拠にエストニア生まれの動物比較生理学者、ヤーコプ・フォン・ユクス キュルの研究を引用しているそうだ。僕も引用しよう。

ユクスキュルの「生物から見た世界」は読み物としても非常に面白く新鮮で、鮮烈だが、その中にこういう記述がある。

「ロストックの動物学研究所では、それまですでに十八年間絶食しているダニが生きたまま保存されていた。ダニは我々人間には不可能な十八年という歳月を待 つことができる。われわれ人間の時間は、瞬間、つまり、その間に世界がなんの変化も示さないような最短の時間の断片がつらなったものである。一瞬が過ぎゆ く間、世界は静止している。人間の一瞬は十八分の一秒である。後に述べるように、瞬間の長さは動物の種類によって異なるが、ダニにどんな数値を当てよう と、まったく変化のない環世界に十八年間耐えるという能力は、とうていありうるものとは思われない。このことから、ダニはその待機期間中は一種の睡眠に似 た状態にあるものと仮定しよう。そのような状態ではわれわれ人間でも何時間かの間、時間が中断される。ダニの環世界の時間は待機期間中、何時間どころか何 年にわたっても停止しており、酪酸の信号がダニを新たな活動によびさますにおよんで、ようやくふたたび動きはじめるのである。

 この認識からなにが得られたであろうか。それはたいへん重要なことである。時間はあらゆる出来事を枠内に入れてしまうので、出来事の内容がさまざまに変 わるのに対して、時間こそは客観的に固定したものであるかのように見える。だがいまやわれわれは、主体がその環世界の時間を支配していることを見るのであ る。これまでは、時間なしに生きている主体はありえないと言われてきたが、いまや生きた主体なしに時間はありえないと言わねばならないだろう。」

ダニは動物の皮脂腺から出る酪酸という物質を嗅覚で感じ、木の上から飛び降り、血をすう。
ダニは生まれてからすることが、そのただ一度の晩餐と、産卵と、死だけである。行為に迷いはない。

さて、仮定としてではあるが、今の引用からわかるように、人間もダニと変わらず自分の環世界を持ち、それを認識するのは十八分の一秒という瞬間の連続とし てである。そしてそのように認識される時間は「私」の時間である。


ユクスキュルが言うには瞬間の長さは動物の種類によって異なる。他の動物が今我々の見ている速度感で動いているのは我々の身体が感知する時間のあり方で捉 えているということに過ぎず、もっと細かく瞬間を捕らえられる生き物からそれを見れば、もっと遅く感じられていることになる。

つまり時間が客観的に存在しているのでなく、時間は我々の身体の認識能力と対象の主体的速度の関係の中で生まれている。

また生き物は見たところ移動していなくとも変化する。たとえば僕が100年どこかの丘の上の木の下に立っていたとすれば、何もしないが死ぬのである。
地球が自転し公転するのもただの移動に過ぎない。そして移動してまた同じ座標に戻ってきたとしてもそれはある変化を伴っている。

そのようにして世界とは空間の中で、ある座標の主体が速度と変化のなかで存在している総体である。
さっきも述べたように、自我にとっての時間とは前後関係に過ぎない。その規定しようのない時間は身体を通して空間によって違う形での時間感覚をあたえられ る。

そのように身体が感知するとき、そこにはまず空間があり身体があり、その結果生まれる時間であり、本来は無時間空間的なわけである。まわりに移動するもの がなく、変化するものがなければ時間は身体の変化を通してしか感知できない。
つまり主体的な時間認識は身体の変化以外ないのである。

ところが無空間時間的な自我は空間と身体としての無時間を超え、時間的である社会と直接結びつく。

自我が前後関係として空間より時間に確かなものをおくが故なのかはわからないが、社会的時間が主体的時間(身体の変化)と混同されるのである。ところが社 会な時間とは上から画一的なものとして押し当てられるものである。つまりそれに合わせるということは、主体性を失うということにつながる。


そのようにして私と社会の間の問題が発生する。

3.空間的態度

ではそうした問題を解消するにはどうしたらいいのか。
まず主体的時間を社会的時間と混同しない必要がある。それには身体を通した空間的把握に自我をおくということしかない。その際にえられる無時間的状態と は、自我を身体(それが変化し続けることを通して得られる本質的な時間)としっかり結びつけているときには時間は意識されず、無時間的になるということで はないかと思う。

空間的に捉える感覚とは、ある空間内の一座標として自分を捉える感じである。
身体を通して空間を把握することに自我は専念するために、意識は知覚できる空間全体を一つの場として捉えていて、その中での移動は直線的なものではなく、 あくまでも速度と座標の変化として捉えられるだけである。

たとえば我々は何かをしている人(自分の座っている場所の向かいで友人がコーヒーを飲んでいる)を見て、時間の経過を感じたりはしない、ただ空間内での作 用を感じるだけである(時間は時計を見たときに感知する)。その同じ空間に自分も含め、全体で捉えるという形で処理すると、空間的に把握される。時計さえ 気にしなければ、無時間的になる。

自分が知覚している範囲内の空間は今に属している。そして移動すれば知覚する範囲も移動する。そのようにして今であり続ける。


4.コミュニケート=精度としての行動

だからといって主体が主体として意識されなくなる(空間のどの範囲までが身体かが分からなくなるということ)という訳ではない。
停止している身体は空間からの知覚情報が把握しづらくなるためか、自我は空間の把握から離れ、顕在的な思考をする態度に戻ってしまいがちではある。

その意味においては空間的であるという状態にあることを一番感じやすいのは移動中においてである。

身体を動かしているときは、空間内で一定の範囲を占めている主体の移動によって身体という範囲は明確に感知される。
そして変化する周囲を知覚する作業に自我は取り組み始める。

だから止まっているときも空間の把握から離れなければ、身体としての主体を意識できるはずである。

そのように主体性を維持しながら空間的把握をするとき、コミュニケーションは自我の中での想像の相手ではなく確かに目の前にいる相手(変化する今送られて くる情報)を把握するということが明確になるはずである。

そのようにして今現在の相手を知覚し続けるということが可能になる。それができているか、できていないかは、身体を通しての把握の精度ということを基準に してみることができる。
空間に作用するときはそのようにして把握された現在に対応する形で、主体的に動くということになる。

以前メッシは速度ではなく精度で動いているといったことはこのことで説明できる。

「だが良い時というのは他の選手の良いときと違う。その理由のひとつに僕はメッシが時間を基準にしていないところにあると思うのである。ボールを持った メッシは主体でありスピードの変化は自由であるが普通はボールと同期し時間を合わせるためある程度の制限がある。ボールとのギブアンドテイクというわけ だ。しかしメッシは基準が速度ではなく精度のほうにあるようなのだ。」(コラムvol.19 リオネル・メッシの時間論)

以前はメッシとボールは(速度ではなく精度的にではあるが)同期しているような状態と捉えていたが、今の考えでは、そこには同期はない。通常の選手の場合 は、ボールや流れに同期してしまいがちであるが、メッシを含むバルサにおいては事情が変わる。
受動的でありながら主体的な姿勢という相反するようなことが可能になる。同期している風に見えるがボールに速度を与えているのはドリブルしているメッシ本 人である。この状態ではほとんど同期的な姿勢は見られない。同期ではなく高い「精度の維持」である。僕はこの状態を「親和性の高い状態」と考える。

このようにより高いコミュニケートを可能にするのは空間的な把握の場での精度である。それには時間的態度から開放しなくてはならない。速度というのは精度 が維持されてのみ有効なのである(しかも精度がキープされている場合においては速度のアップは制御する行動思考の先鋭化につながるかもしれない)。

サッカーには90分という制度的時間があり、それは画一的に与えられる。だが、その時間的態度(はやく同点に追いつかなくては)を自我に与えては、うまく いかないのである。


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