vol.36 交渉の根源〜肉体の持つ知性・分岐3−1〜(続き)
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4.「こと」と「もの」
「現代思想」の1980年9月号で、木村敏と武満徹の対談があり、そこで木村さんは「あいだ」のことの話を論じている。ハイデガーの時間論をとりあげ、時
間は「こと」としての自己と「もの」としての自己の間で発生すると言っている。
「例えば、ハイデガーなんかはもっと根本的なところで時間を考えている。ハイデガーの『現存在』を『自己』と言い直してもいいと思いますけど、簡単に言え
ば、自己が自己である根本のところ、自己という”もの”と自己であるという”こと”とのあいだのズレ、つまり自己が『もの』として自覚されていながら、し
かも自己ではないものとの区別を含んで『自己である』という『こと』として開けている、その根本のところで時間が発生すると考える。だから”もの”として
の自己と”こと”としての自己との存在論的差異、つまり先ほど私が言ったズレ、自己自身の内部の差異、自己と自己の内的な間(あいだ)みたいなところに時
間がある。そこからすべての時間が生まれる。」(””内は原文では傍点)
ここにはハイデガーの存在論の問題が再浮上しており、差異から時間が発生するということは、再び考えなくてはならないとは思う。
が、ここでもやはりハイデガーの存在論は僕の思うところとは違う。自己であるという”こと”の「こと」は木村さんの言う、1=1によって成り立つ意識のこ
とであり(自己ではないものとの区別を含んで「自己である」という「こと」)、自己という”もの”の「もの」が身体であるということならば、それは逆では
ないだろうかと僕は思う。
つまり実は、意識は「もの」で身体が「こと」であると。
その同じ号で哲学者の木田元がメルロ=ポンティの間主観性について論じており、その中で赤ん坊の発達についての記述を取り上げ、
「だがわれわれにとって当面必要なのは、幼児がそのように自己を意識するに先立って、すでに深く他人との関係を生きているということの確認である。自己の
身体の意識の成立にさえ、深く他人が介入しているのであり、そうした自他の癒合系から出発し、その後にようやく自他を区別するようになるのである」と言
い、
「われわれはその存在のもっとも根源的な層において間主観的なのであり、社会的なのである」と述べる。
ここでの「社会的」というのは、先ほどの「一」に対する「総体的全」としての社会ではない。
「自己を意識するに先立って」や「自己の身体の意識の成立にさえ」とあるようにそれはつまり身体を介在として自己が他者とつながっているということであ
る。感覚的な未分化状態の赤ん坊が3才くらいまでのあいだに、知覚の発達と共に自己を確立していくということだ。未分化な意識が自己と他者に分化すること
で他者との身体の関係性ができるのではなくて、身体性の関係がまずあって、意識の関係性ができる。
さて、先ほどの「根源的全」と「総体的全」と「一」の関係は言い換えれば次のように言えはしないだろうか?
心がデジタルであるということは、ある状態がプログラムされて立ち上がり、そのプログラム全体のソース(source)とその心はイコールである。それは
一つも変えられない、その点で「もの的」である。それに対し身体がアナログであるということはある行為に向けて身体全体が集合的に動き、その構造も一部が
かけても「生存」という行為が機能しつづけるかぎり、変わりないという点で「こと的」である。
それならばこう考えることもできる。自分の身体は意識のように、(社会=全)に対する(自己=一)ではなく、一つの完結した行為としての「全」である。む
しろ機能しつづけるかぎり、変わりないという点では全とか一とかはなくなる。一というのはあくまでも意識が自己の存在のあり方に基づき、世界を分割すると
いう「もの的思考」によって生み出したものでしかない。
だから、人は生まれた時は「こと的」に世界につながっており(もちろんその後も身体的にはつながり続けている)、それが意識主体として自己認識をすること
で「もの的」になっていく(その過程は意識の側が身体を「もの」として捉え、同一性にいたるのか、身体の生存的単一性から意識が単一的に捉えなおされてい
くのか)。身体に帰れば「こと」として全になり、世界とつながり、アプローチできる。そもそも自己の発生に身体を介して他者が関係しているのだとすれば、
そのように帰ることが親和性になる。「こと」という見方であればもはや、身体という単位を超え、それは拡張していく。
この「こと」としての自己は他者との協調によって別の「こと」になる。その意味では1+1は1であり、それは別の「1」なのではないか。
それはある意味では自分を失うことにもなりかねない。やはりそこでは意識の主体性はある程度役目を持っている。だからそれは「こと」と「もの」のバランス
が崩れた時に起こる。
さて、この「デジタル(心)⇔アナログ(身体)」のことは追々また考えるとして、少なくとも心は体とは方法論的にも構造的にも違う成り立ちをしているため
に、心が大きくなり一つの形を成したときに、その二つは分離してしまうのではないだろうかと思う。
だが心というのは体が機能的に作った一部である。デジタルであること自体が問題であるということはさらさらない。
問題はその一部である機能が肥大化しバランスを失うこと、「もの的」な心が捉えることが世界のすべてであると、捉えてしまうことにある。つまり身体を「も
の」であると考え同一視してしまうこと。だが、実際には身体と意識は相互的につながっている円環的な状態ではないだろうか。
⇔
ではなく
→
←
として(とはいえそれは発生の質の違いとしてでありそこに断絶はない。だから二元論ということではなく、やはり身体に一元的に帰せられるのではないかと思
う)。
肥大化というとちょっとニュアンスが違うかもしれない。あるいは、硬化・固定化というべきかもしれない。先ほど言ったように、「もの」というのは本質的に
は一つの欠けも許されないということであり、その見方を世界に当てはめた時に固定化されるのは当然だろう。
例えて言うなら、立ち上げられたプログラムがそのまま使われ続け、変化し続けている物理的な身体と一致しなくなるということである。
身体の機能である以上、随時更新されたり、アップデートされて対応的に変化していかないと問題が発生する。
そのような状態が”形骸化”というものであると思う(この場合、外と中が逆転しているが)。
5.随時更新
ここまで考えてきてやはり問題として残るのは、意識がそもそも”成立時点で方法論的”に1と0の差異でできた「もの的」ならばそれは、未分化の状態におい
ても「もの的」であることになるので、最初の根源的全の状態から1と0の発生を通し、「一」になるということは関係ないことになるということだ。
この点についてはどうもなかなか答えは得られそうもない。ここが分からないと結局のところ何も分からないのと同じともいえる。
どうしてもここが合理的思考の限界領域であるように思える。
肉体も遺伝子という一種の設計図を持ったプログラムともいえないわけではない。だからその点では体も「もの的」ではあるのだ。だが意識も体も生存という行
為と結ばれていることは確かである。生体は各細胞が細胞ごとに生きているという集合的なものを目的的にまとめ上げている「こと的」なものでもある。プログ
ラムという見方はどうしても設計者を必要とし、それを肉体のレベルに持ち込めば、ニワトリと卵の問題に至ってしまう。
ならば、やはり「一」としての意識は、肉体的なものから1とか0ではない何らかの方法で発生している「根源的な全」のなかで、さらに発生したデジタル的・
合理的な領域であるということになるのだろうか。いや、すこし違う気もする。そもそも根源的全と身体というのは不可分であり、身体という集合そのものが行
われた時点ですでに根源的全はそこにある。身体を通してその向こうからあらわれる渾然とした何かから身体の単一性としての生の必要によって分化され、立ち
上げられるものということだろうか。
すくなくとも「一」としての心の発生地点は、他者との関係の中での身体の単一性を通してであるように僕には思える。
これ以上の深さまで考えることは今の時点では難しい。ここはあの沖のブイのようなものであるかもしれない。進めるのはここまでだ。僕らの合理的な思考法で
はここから先に進むことはできないのかもしれない。もうここからは引き返そうと思う。
このように心がその都度立ち上げられる、作られたものであるかぎり、我々はそれを身体に戻し、随時更新しなくてはならない。あるいは体と繋がれて常に対応
的に変化し続けなくてはならない。心というのは最初から世界を社会としか捉え得ない。そもそもの発生の地点で意識自体が他者との関係性の中で生み出されて
いる。そして木村さんの言う近代合理主義に見るような心の肥大化により、「世界は社会ではない」ということを失う。だが、身体は世界は世界であり、自分も
その世界そのものであることを知っている。
意識は生存のために目的判断として何かを目指すならば、それは身体を介して行われなくては十全にはならない。
このように戻った、あるいは繋がれた体から出される最優先課題も10中8,9間違いなく「生きる=食べる」ということである。「子供を作る=やる」もある
だろうけれど、その点はまた大事なので追って考えたい。
つまりコミュニケートや親和性にいたる自然と対話する能力としての身体起因の力と、交渉にいたる社会的関係性を作る能力としての自己の力は、やはりそれぞ
れ不可分であり、木村さんの言うように「私たちの生存欲求それ自体の基本公式」であるならば、それらは「生きる=食べる」という根源的な要求に基づいて動
いていたということではないだろうか。
6.新たな関係性
本来の交渉がこのような要求に基づいて行われていると考えれば、交換は生きるために必要なものを手に入れる、それが固定化され、共同体を作るということに
なり、社会にいたるということであると思う。
そのもっとも典型的で小さな形が家族であると思う(先ほどの赤ん坊の発達のことからみても、その影響は重大であろう)。その点では家族内で交渉能力を学ん
だり教え育てたりしていなければ、つまりそこがすでに没交渉であれば、人が”社会的に”生きていくかぎりには問題が起こりうるということではないだろう
か?
もちろんそれは血縁よりも環境ということであり、学べれば家族でなくてもよいということではある。
また、こう考えることもできる。
つまり私たちが自分で関係性を作る時には先ほどの「生きる=食べる」としての個人的要求をもって他の個人と交渉する力はある。そこで作った関係性が社会を
形成することもありうる。ここではもはや、生まれた時の環境(家族から社会まで)の外的なすでにある社会的関係性要因ではなく、身体として「全」である私
が世界に関係を作ると言えはしないだろうか。なにせ他者の意識も発生的にその身体を介し、私の身体から影響を受けているということなのだから。
だけれど、私たちの住む、すでにある社会には十分なほどに関係性が築かれており、それは機能している部分もあれば、形骸化し没交渉になっている部分もあ
る。やはりすでにある社会的な部分に働きかけるには、そこにあるみんなにとってのルールに従わなくてはならず、そのような社会的交渉と個人的交渉は必ずし
も一致しない。
だが没交渉になっている部分にはもしかしたら個人的な交渉能力が機能するかもしれない。なぜならそれは本来、人間的に肉体的に見れば十分に関係性の生まれ
る距離なのに、社会の構造上関係を作らないようにしているということであると思う。つまりここで行うのは、個人的要求というよりもそこに起こりうる関係性
の掘り起こしとでもいうべきものだろう。
例えば遊歩道や公園ですれ違ったり、電車の中で隣り合ったりしても私たちは声をかけたりしない。
しかし、本来的に見れば十分にかけることのできる距離である。だからここには「距離の関係性」として見れば十分な関係性の生まれる余地があるということで
ある。旧来の環境的な共同体ではこのように出会うものは大抵「知り合い」である。もしそうでなければ注意しなくてはならない。
つまりその状況では社会的な自己の観点からすれば、共同体の一員として関係性があるのか、それとも安全性から見てテリトリーから追い払うべきかの判断は、
身体にとって「生きる」うえではしなくてはならない。それを放棄しているとは言える。
これは現代の遠距離通勤型の、言い換えれば地域の密着性の低い社会構造に由来している。本来共同体的であるはずの地域社会が関係性としての機能を失い、没
交渉になっているのである。そのことで体の生存に基づいて共同的に構築された社会性からは変異し機能しなくなっている(だが情報的なレベルで見れば国際社
会の中での生存としては確かに近代的な共同体を維持する必要性があり、このような社会に身体があわせていくことが「生存」につながるとも考えられる。だ
が、そのような時間的(非知覚的)な眺望は身体からは見えない)。
そこでの関係性を作る能力が先ほどの、家族・環境のなかで「人間としての交渉」を教えるということによって養われるのではないだろうか?
これはいわゆる男尊女卑的で封建的な形の父権の強い家族では難しいかもしれない。そのような家族の中では父権社会で生き残る上での力は身につけ得るが、本
来的な人間としての交渉能力には程遠い。なにせそれは肉体的な「生きる=食べる」という能力であるのだから。
「とうちゃん(あるいは、かあちゃん)、最近熊鍋食べてないよ」「たしかにそうだな、よし、今日は山に行って熊を捕ってこよう。行くぞ息子よ!」
とまでは言わないが(これもある意味父権的か)、やはりその親自身にある程度生き延びるための野生のようなものが必要であるかもしれない。
この「生き延びるための野生」というのは、意識から見ると何もないところに関係性を作る力であるが、体にとっては常にある関係性を捉えなおす力である。つ
まり食べ物を取ってくる、生きる力だと思う。環境の中の対象(色、におい、形、音、質感)との関係(これは食べられる、食べられない、あるいは戦って倒
す、逃げ延びる)を通して栄養を取り込み、生き延びる。その中で知覚的な能力が磨かれ、そして食料が足りれば、他の誰かと交換するというときにも、言語を
介さない交渉から始まる。自然へのアプローチ法が人間の関係にもつながる。
そのような地点からスタートしているならば、少なくとも、もう少し親が子を子が親を人間として捉え、教えるのではなく、共同で生き延びるためにお互いを必
要しあう関係でないと難しい気がする。
父権的なものも父権的な社会では機能するし、その社会がふさわしい環境の中でならちゃんと機能するのだろう。だがそのような環境適応性が失われることで形
骸化する。
つまり文化的に形骸化してしまっている関係だけで作られているかぎり、そこにははまさに当の原初的な交渉力を持って「新たな関係性」を築くしかないのだと
思う。
7.遺伝子
心は肉体の一部であり、あくまでも「生きる=食べる」に従うというなら、そこには肉体の連綿と続く遺伝子的な要求としての種の保存はあるのか。という疑問
が少なからず残る。不勉強なために僕は遺伝子についてはあまりよく知らない。前にも書いたが自己考察不可能なレベルの問題には関心が薄い。
ではその自己はどこから来るのか、私というのは身体のことなのか意識のことなのか、と考えていくとだんだん分からなくなっていく。1=1が証明不可能だと
いうこととそれに由来している自己。それは、関係性というものが何かを起こす時、その関係性自体がなぜ起きるのか説明できないからではないだろうか。た
だ、我々が今までずっとそのような存在論的な意味での自己の根源が説明できないがゆえに、神のような大いなる何かが必ず付いて回るのだといえる。それは遺
伝子というところにまで付いてくる。
もし、我々の種全体に集合的無意識のようなものがあって、それが全体論的に人類を動かしている、つまり総体的全としての意識より高次の、遺伝子由来の種と
しての根源的全があり、それが本来的であって、個(一)としての意識が、いくら個としての「全」に由来していたとしても、重要ではない。だから種全体が生
き延びられれば個の命は重要ではない。
というようなことが僕の知らない理由でもしあったとしても、やはり私たちの心は個々の身体一つ一つと発生的・相互補完的に繋がれており、そこで行われる実
際の行為に対してそのような集合的な意識の影響は不確定にすぎている。
身体は「こと」であり、その意味での機能を、行為をもつかぎりにおいて「全」である。その「こと」こそが生き延びることであり、そこに全的に向き合ってい
るものにとって、そこで向き合う関係性の外側にあるような、どのような外力も意味を持たない。そして、子供を作ることも、種の中で「競われる」と捉えうる
が、個体同士の問題にすぎない。
つまり「どうでもいいこと」なのである。それは「アウトローと聖者」で述べたようなことであり、想像力の外側のものである。影響していることを確かめられ
ない。
多分こういうことについて考えること、それ自体が意識的なものであり身体的なことではない。だが一応、意識のためにはここまで考えてやらねばならない。こ
こまで考えることで、考えるべきではないものは、考えるべきではないことを理解できるようになる。意識は生まれながらに「考えるもの」だ。そして理解する
ことで「身体という行為」としっかりとつながる準備ができるのだ。
私たちはそれぞれの心と体を通し、目の前の一つ一つのことと向き合っていくことだけが求められる。そしてそこでは全力で生き延びることが求められているよ
うに思える。
8.関係性としての交換経済
話は最初に戻る。一本松の沈黙経済はそう考えると、必要なものを手に入れるための仕組みではある。
ではなぜ直接交渉しないのだろうか?
ここにはもしかしたら「距離の関係性」の問題において、自らを脅かさないように交易するという要求があるのかもしれない。というのも「沈黙経済」と言われ
る由縁は言葉が通じないからであり、言葉が通じないもの同士というのは普通に考えれば社会的関係性は薄いと思われる。
互いの言葉を学び交流することを目指さず、肉体的な要求に基づき物理的な交渉が行われているということではないだろうか。つまり、自分たちにとって余分な
ものを一本松の下に置き、相手にとって余分なものをもらう。余分と言うか多分「それしかないようなもの」(鶴見さんのいうように米⇔塩の交換に見るよう
に)それを交換し合うシステムである。別にしゃべって交流してもやることは変わらないのである。どうせ他のものはない。下手にけんかなどしたくもない。だ
からこのようにシンプルなシステムとして、むしろ相手が誰でもとにかく塩と米が交換できればいいようなシステムを作っているのではないだろうか?
もう一つのほうは鶴見さん自身が一つの答えを提示してくれている。
「私はこの交換をお土産経済だと考えている。手土産をインドネシア語では、オレオレ(oleh-oleh)というから、oleh-oleh
ekonomi である。お土産経済は、自給自足を基盤とした物々交換の発展形態だろう、と私は想像している。
もともと移動集散の激しい土地柄だったから、あちこちに縁者、友人ができた。かれらとの親愛をつなぎとめるために、たがいに往来する。お土産は集団の団結
を強めた。この精神の交流に、物々交換が結びついた。お土産は、無用の経済のように見えるが、誰かの口に入るのだから、無駄にされているわけではない。結
構、暮しの役に立っているのである。」
つまり関係性を維持するということが目的なのである。
やはりここでも土地に根ざした民族というような固定的な考え方ではなく、「関係性」というものによって人々が動いていく。これが行動的なありかたであり、
関係性としての交渉力につながるのではないだろうか。
たとえばマリノフスキの調査した「クラ」なども経済的な意味のなさではこの「お土産経済」とよく似ている。「クラ」の”気前のよさ”はそのような関係性を
作り続けるために機能している。
つまり、人間性、心情のあり方が身体の関係性を開き、生きた社会を保っている。
身体は「こと」である。それが関係性につながり(存在そのものが行為なのだから)それが一つの大きな行為として親和性になる。その中で意識は「もの」とな
り社会ができる。親和性の中でも社会のあり方としても、全体は部分の主体性、つまり「全」としての身体の生き延びる行為によって支えられている。社会は関
係性としての行為から離れては存続し得ない。
だから「もの」としての意識と「こと」としての身体のバランス、もしかしたらその関係性の成熟が、デジタルとアナログの境界に複雑なる多様性が育まれるよ
うに、肉体の持つ知性が生む。5章で述べた、「身体を通してその向こうからあらわれる渾然とした何かから身体の単一性としての生の必要によって分化され、
立ち上げられるもの」の「何か」とは自然そのもの、あるいは我々には未だうかがい知れない自然を育んでいる何らかの関係性であり、そのなかで意識は「も
の」としての自己をつくる。つまり、自己と自然のバランスは身体の中にもある。むしろそこに人間が現れる。それが「こと」としての人間であるはずだ。
そう考えてみれば海の上には何も作れないわけではない。人間性のような目に見えないが何かが作られている。それが関係性としての「海道」なのであると思
う。そこには肥大化し固定化された自己を抱え苦しむ陸の人々にはない軽やかな生き方、しっかりと身体につながれバランスの取れた自己のあり方がみえるので
はないだろうか?(hayasi keiji,12/8/6)
参考文献:鶴見良行「海道の社会史」(朝日選書)、木村敏「異常の構造」(講談社現代新書)、現代思想1980年9月号「特集=分裂病の人間学」(青土
社)
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