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ずばり言って“凄い本”である。生活の術を求めて、両親が天草から水俣月浦地区に移住し、そこで生まれ、育ったばかりに両親も自身も水俣病という人災・公害の犠牲となり、劇症で死んだ父を水俣病と認めさせる活動に端を発し、生涯の大半をいわゆる自主交渉を中心にチッソや行政や国と闘い、補償協定を勝ち取った後は社会的差別ゆえに名乗り出られなかった水俣病患者の発掘に全精力を傾注し、被害実態の解明と行政責任の追及に費やした生涯の間に残した(残された)膨大な筆跡や資料を、6年半の歳月をかけて地道な作業を続け、まとめ上げた4人の編者にまず敬意を表したい。
『病誌』はドキュメント自主交渉を「序」に始まる。映像で何度か見たあの迫力には及ばないものの、こうして速記録に近い文字だけで読むと、あのシーンが蘇る。そんな一種の臨場感を読む側に与え、773ページという膨大な記述へ導かれ、以後、「第T部 通史・わが水俣病」、「第U部 水俣病とは何か」、そして「資料編」へと連なる。
率直なところ、この『病誌』を完読するには相当のエネルギーと時間が必要だ。読破率100%でないところで、この種のものをまとめるのは不謹慎かもしれない。しかし、この重厚長大な著の出版を少しでも早く、より多くの人々に知らしめたいという思いに免じていただきたい。
さて、川本輝夫の人となりを余すことなく(というより、これまで知らなかったことを含めて)伝えているのが第T部で、裁判供述書は詳細を極めている。そして、川本輝夫がなぜあのような人生を送ったのか? いわば“川本輝夫像”が等身大で浮かんでくる。
第U部「水俣病とは何か」は編者によって「社会論」、「医学論」、「随想」、「日記」、「証言」、「議論」に分類・整理されているが、この章だけでも立派な「水俣病文化論」と言っても過言ではあるまい。
とりわけ「日記」は、死後、遺品の中から家族によって見つけられた未公開の記録で1971〜73年の自主交渉期間中のものだが、長短はあるものの日々の出来事を簡潔・明瞭に記してあり、几帳面な川本の面目躍如である。そして、はからずもそれらの記述は当時、どういう人たちが彼らの運動を励ましたかの記録にもなっている。
好みで言わせてもらえば、随想類に持ち味が存分に発揮されていると思う。物事や人を川本流の温かい目と心で見、描写するあたりは一流の随筆だ。ついでに言わせてもらえば、川本といい、いま、その心を継いでいる緒方正人といい、なぜこんなに筆が立つのだろうか。驚きを超え、羨望の念すら抱くのは私だけだろうか?
前後するが、もう一つの日記「闘病日記」は命取りとなった前立腺がんを医師から宣告された1999年1月20日から絶筆となった2月4日までの2週間のうち2日間を除いて記された文字通り最後の日記だが、短文のなかに自らの生命の終焉を冷静に見つめ、乾燥した写実に胸を打たれる。
資料編には(資料的価値も有した書物としては)すでに宮澤信雄の『水俣病事件四十年』があるが、東京・水俣病を告発する会による年表や個人史は地味だがすぐれた仕事である。
そして、大ラスの土本典昭の「解説 映画で出会った川本輝夫との三十年」は筆者しか知りえない数々の事例がふんだんに散りばめられ、“物凄い本”の掉尾を飾るにふさわしい一章となっている。立派なレクイエムだ。
繰り返すが質・量とも時代離れした重厚な著である。それゆえに、とくに若い人たちからは敬遠されそうな雰囲気を持っていることは否めない。しかし、より多くの若い人たちにぜひとも目を通して(50歩譲って斜め読みでもよい)ほしい本である。「水俣病公式確認50年」という節目を迎えて、川本輝夫の咆哮が上質な響きで聞こえてきそうな、これまでの数多い水俣病事件関連書の中でも間違いなくトップ級にランクされる著と言ってよいであろう。 |
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【寄稿】
『川本輝夫 水俣病誌』の編者の一人、東京・水俣病を告発する会の久保田好生さんが川本輝夫さんの七周忌に川本家を訪ね、懸案だった『川本輝夫 水俣病誌』の完成を報告してきた様子を寄稿してくれた。
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早春の水俣・川本家を訪ねて
久保田 好生
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川本輝夫さん葬儀の1999年以来、毎年、2月18日の命日近くに水俣・川本家を訪ねている。ちょうど甘夏みかんの出荷時期で、新幹線ができる前は鹿児島本線の車窓からたわわに実る山吹色のみかんが眼を楽しませてくれた。いま、水俣の町並みを新たに彩っているのは「産廃処分場建設反対」ののぼりである。
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川本家で行われた川本輝夫さんの七周忌。前列中央が
ミヤ子夫人 |
=東京・水俣病を告発する会提供 |
車で水俣駅から10分ぐらいの旧国道三号線沿いに川本さんのお宅はある。輝夫さんのお連れ合いのミヤ子さんは水俣病資料館の語り部をし、自身の認定を勝ち取った後も患者発掘に生涯を捧げた輝夫さんのことを伝え続けておられる。長男の愛一郎さんは作業療法士。看護師のお連れ合いとともに出水市内にリハビリ施設を作り、医療の面で輝夫さんの志を継いでおられる。集いには長女上野真実子さん夫妻も参加された。真実子さんは地元の小学校の教職にあり、その面から水俣病を伝えておられる。また、亡母の死亡未認定を問う行政訴訟原告の溝口秋生さんは輝夫さんと小学校の同級。ご自身の未認定を行政不服審査請求で問うている緒方正実さんはご近所。ガイアみなまたの高倉史朗さん(編者)もふくめ、故人ゆかりの人々が毎年集うこの集いは「咆哮忌」と名づけられている。集まる顔ぶれといい話題といい、やはり川本さんならではだ。
書籍『水俣病誌』の完成が遅れ続けていたので、ここ2−3年は参加するのに少し気が重かったのだが、やっと七周忌(八回忌)前に刊行できたので、今年は肩の荷を降ろした気分で参加した。書籍刊行に加え、これも直前の水俣市長選で処分場反対の市民が推す宮本勝彬前教育長が当選したこともあって、酒宴は二重の喜びに沸いた。そして、8月上旬に東京で、『水俣病誌』出版記念を軸に、溝口さんや緒方さんの未認定の闘いをも伝える集いを、水俣の皆さんの上京を得て行うことを決めた。
公式確認50年の水俣は、未認定問題も処分場問題も闘いのさなかで、しめやかに振り返る50年とはなりそうにない。「そぎゃんたい。まだまだ、水俣病のことは問い続けんばいかんと」・・そんな川本さんの声が、どこかから聞こえてきた。 |
(東京・水俣病を告発する会/『水俣病誌』編者) |
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