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小池百合子環境大臣(当時)の呼びかけで設置された「水俣病問題に係る懇談会」(水俣病懇談会=座長:有馬朗人・日本科学技術振興財団会長)が13回の議論と、4人の世話人・オブザーバーと事務局が7回の会議を経て2006(平成18)年919日にまとめた「水俣病問題に係る懇談会」提言書の全文を、季刊・水俣支援」編集部スキャンデータ提供により紹介する。

なお、同編集部では、環境省ウェブサイトの標記提言書から読み取り、入念な照合校正の後、再構成し、文字は原文のまま、原文ゴシック部分も踏襲している。但し、誤記と思われる個所には「編注」をつけたとしている。

写真:「水俣病問題に係る懇談会」提言書(「季刊・水俣支援」編集部のスキャンデータ)

はじめに──懇談会が目指すもの

 

 「水俣病問題に係る懇談会」 ( 以下「懇談会」) は、水俣病公式確認から50年を迎えるにあたって、水俣病問題の社会的・歴史的意味を包括的に検証し、その教訓をもとに、今後取り組むべき行政や関係方面の課題を提言するために、環境大臣の私的懇談会として設けられた。

 「懇談会」の10名の委員は、行政から離れた立場に立つ第三者であるとの認識の下に、水俣病問題について、現行の法規の枠組みや行政の実務やそれらの歴史的背景を考慮しつつも、50年という歴史の重みの認識とその想像を絶する長きにおよぶ被害者の苦難 (死せる者も生きる者も含めて) に対する厳粛な心情の下に、今何を発言すべきかをめぐって、根本的・本質的な次元におよぶ検証と議論を行った。各委員とも、現代国家としての品格にかかわるこの公害事件について、50年という節目に、「懇談会」が行政の枠組みに縛られて、根本的・本質的な議論をしないならば、公的な場でこの議論が行われる機会は二度とないだろうという危機感を抱いて議論を重ねた。

 

 また、49年目にあたる平成16年10月に、水俣病関西訴訟に対して下された最高裁判所の判決が水俣病被害の拡大を防がなかった国と熊本県の責任を断じたことについて、「懇談会」としては国の政策のあり方にきわめて重い意味をもつものととらえ、今後への提言をめぐる議論の重要な出発点にした。

 水俣病問題を根本的・本質的な次元で検証すると、この公害事件の責任と今後の取り組みへの責任を持つべき国の組織は、環境省だけでなく、厚生労働省、経済産業省、財務省など政府全体におよぶことが明らかになってくる。「懇談会」は環境大臣の私的懇談会とはいえ、50年の節目に水俣病問題の抜本的な解決とこのような失敗を繰り返さないための行政変革の方向を打ち出すことを意図するので、提言の内容に政府全体の意志決定を求めるものをも含めないわけにはいかなかった。

 さらに、提言の中には、日本の行政が暗黙のうちに踏襲してきた行政のパラダイム(思想、意志決定、行動の枠組み) の転換を迫り、新しいパラダイムの導入を求めるものもある。

 「懇談会」の全委員が水俣病問題の議論を通して根本的な解決を目指したのは、公害の原点である水俣病問題の解決の仕方は、日本という国を、100人の中の97〜98人が2〜3人の被害者や社会的弱者を犠牲にしてでも、繁栄を貪ろうとする国から、2〜3人の被害者や社会的弱者が安心して生きられるように、97〜98人が配慮し支援の手を差しのべる国に変えられるのか、すなわち真の福祉国家に変え得るか、という国の形の未来像につながる問題だと考えたからである。

  さらに水俣病事件の教訓を国家レベルで、未来に向かつて真に生かそうとするなら、国家の安全にかかわる既存の危機管理体制と並んで、国民1人1人の日常における「いのちの安全」を守るためのもう一つの危機警理体制を確立することを、21世紀型政治政策の最重要課題として掲げるべきであろう。

 かくして、「懇談会」は、提言の主要な柱として、次の12項目を掲げることとした。ただし、提言はこれだけでなく、各章ごとに、取り組むべき課題に対する多くの提言とその具体的実践のための試案を挙げている。

(1) 国民のいのちを守る視点を行政施策の中で優 先事項とすることを行政官に義務づける新しい「行政倫理」を作り、その遵守を、各種関係法規の中で明らかにすること。とくに苦しむ被害者や社会的弱者のいる事案に関しては、行政官は「行政倫理」の実践として、「乾いた3人称の視点」 ではなく、「潤いのある2.5人称の視点」をもって対処すべきことを、研修等において身につけさせること。

(2) 各省庁に「被害者・家族支援担当部局」を設けること。

(3) 時代の潮流は、政府全体として公害、薬害、食品被害、産業災害、事故等の被害者を支えるための「被害者支援総合基本計画」(仮称) の策定をすべき時期に来ている。

 (4) 公害、薬害、食品被害、産業災害、事件等の原因究明と安全勧告の権限を持つ常設の「いのちの安全調査委員会」(仮称) を設置すること。

(5) すべての水俣病被害者に対して公正・公平な対 応を目指し、いまだ救済・補償の対象になっていなかった新たな認定申請者や潜在する被害者に対する新たな救済・補償の恒久的な枠組みを早急に打ち出すこと。

(6) 熊本・鹿児島両県の認定審査会が長期にわたって機能を停止しているのは異常事態であり、国は 両県と連携し待たされている被害者の身になって、責任を持って早急に認定審査再開の方策を立てるべきである。

(7) 国は関係地方自治体等と連携して、水俣地域を 「福祉先進モデル地域」(仮称)に指定し、水俣病被害者が高齢化しても安心して暮らすことのできるような総合的な福祉対策を積極的に推進すること。その中で胎児性水俣病患者の福祉対策には格別の配慮が必要である。新潟水俣病の被害者に対しても、同質の福祉対策を取ること。

(8) 水俣地域の人々の「もやい直し」の活動を積極的に支援すること。

(9) 国は水俣地域を「環境モデル都市」(仮称) に指定し、関係地方自治体等と連携して、地域の環境、経済、社会、文化にわたる再生計画を積極的に支援すること。

(10) これら「福祉先進モデル地域」(仮称) と「環境モデル都市」 (仮称) の取り組みを総合的で持続性のあるものとするには、二つを一本化して「環境・福祉先進モデル地域」とし、立法化の措置も視野に入れた制度化が必要であろう。

(11) 水俣病の被害の全貌を明らかにするための総合的な調査研究を推進すること。

(12) 「水俣病・環境科学センター」(仮称) を設立するなど、首都圏にも水俣病の研究と学びと情報発信の拠点を設けること。

 

. なぜ、今、水俣病か

 〜その歴史的意味からの出発〜

 水俣病の被害者の苦しみは今なお続いているにもかかわらず、水俣病の全貌は、いまだ明らかになっていない。

 水俣病は、50年経った今も終わってはいないのである。

 にもかかわらず、日本人の多くは水俣病はすで、に過ぎ去った昭和史の中の事件と考えている。

 水俣病は戦後間もない昭和20年代半ばごろから、熊本県の水俣湾沿岸で発生し始めた。昭和30年代には、不知火海一帯の沿岸など広い地域で患者が発生するようになった。急性の劇症型の患者の症状と苦しみは筆舌に尽くし難いものであった。

 劇症型患者の惨状は、水俣病問題を考える者が絶えず思考の原点に据えるべき厳粛な事実なので、ほんの一端だが、ここに家族の証言を引用 (抜粋) させて頂く。

 <親父の症状が急に悪化して病院の中で狂い出したんです。手も足も宙に突き上げて震えて、あの形相、とても言葉ではいい表せません。(私は) 長期休暇をとって、つきっきりで親父の看病をしました。120日もつきっきりで看ましたが、昭和54年の3月4日、親父は亡くなったんです。 あの苦しみ、口から泡をふきながら死んでいった あの姿を見て、私はまた女島に戻りました。> (佐々木清登さん。栗原彬編『証言水俣病』 岩波新書より)

(隔離病棟に入れられた) 母はまだ軽いほうでしたが、本当にひどい人はベッドに縛られて、苦しさのあまり家族を呼んで叫んでいる人がいっぱいおりました。力がないはずの手や足が病院の壁を掻きむしって、言葉にならない声でわめきながら次々に死んでいく、もう母も死ぬものだと思い、父がいうことには、「うつって3人いっしょに死なれればよかがね」ち、そのような毎日の介護の中にいました。あるとき一緒に風呂に入れてあげたおばさんの痙攣を止めるに止められず、風呂から引き上げても、まっ裸のまま走りつづけて壁にぶち当たり、また走って返って来て壁にぶち当たる。猫たちが死んでいったのとまったく同じ痙攣の仕方でした。> (杉本栄子さん。同前掲書より)

 環境省等の統計によれば、水俣病による認定患者数(熊本、鹿児島、新潟の合計)は、平成18年8月現在で2,955人、認定患者を含む被害者総数はいまだ把握されていないが、 平成7年の「政治解決」において医療手帳の対象になった人が   11, 152人、その対象にならず保健手帳のみを認められた人が1,222 人、最高裁判決後の新たな認定申請者 ( 未処分者) が4,332 人 (平成 18年8月末現在) 、最高裁判決後の保健手帳の申請者が5,819人 (平成18年8月末現在) になっていることなどから推測するなら、被害者総数は少なくとも2万人を超えるものとみられる。このところ新たに水俣病の認定申請をする人々が急増したことは、潜在的な被害者がなお相当数いることを予想させるので、被害者総数はさらに大きく膨らんでいくものとみられる。

 水俣病は、なぜかくも多くの犠牲者を出したのか。被害者たちは、なぜ長期にわたって放置されたのか。歳月を経てからようやく原因企業であるチッソや国や県によって、被害者に対して一応の救済・補償の対応がなされはしたものの、50年を経た今なお、被害者と被害地域にとって「完全解決」に至らないのは、なぜなのか。そもそも水俣病公害の被害者の全貌さえ、今なお明らかにされていないのは、なぜなのか。国、自治体、企業、専門家などは、水俣病事件からいかなる教訓を読み取り、その教訓をもとに、今後いかなる対応をするべきなのか。

 

 水俣病はしばしば公害の原点と言われる。数々の議論を総括すると、水俣病を公害の原点と呼ぶべき理由は、次のように多岐にわたる。

@戦後の日本経済が再生し、高度成長をしはじめた 時期に、成長の犠牲を強いられる形で起きた最初の大規模な公害であったこと。

A工業生産に伴い排出された有害物質が広範な環境汚染を引き起こし、食物連鎖を介して人体に深刻な危害をもたらした最初の公害事件であったこと。

B人間が食物を介して摂取した汚染物質である有機水銀化合物が脳のバリアーをすり抜けて中枢神経に障害をもたらした最初の公害事件であっ たこと。

Cしかも、摂取された有機水銀化合物は、妊婦の場合、従来の医学の通念を破って、本人だけでなく、へその緒を通って、胎児の中枢神経をも侵し、胎児性水俣病を引き起こすことを示した最初の公害事件であったこと。

D国や自治体が国民のいのちを守ることを最優先課題として、公権力を行使すれば、被害の拡大を防ぎ得たにもかかわらず、その対策を取らなかったばかりか、被害者を悲惨な状態のまま長期にわたって放置したという、戦後最悪の政治・行政の失敗による公害事件であったこと。

E水俣病発生の初期において、行政が速やかに原因解明に取り組まず、住民への適切な情報提供を行わなかったため、地域住民は恐るべき伝染病であるという誤った情報を信じて、水俣病の患者・家族に対して、深刻な偏見・差別をあからさまに示して、患者の出た一家を極貧に追い込んだ特異な公害事件であったこと。

F被害を受けた患者・家族や漁民と原因企業チッソに依存する従業員、市民、政治・行政が厳しく対立し、地域社会が分裂して、ギスギスした空気が流れ、地域経済も衰退するという、地域社会全体の崩壊までもたらした公害事件であったこと。

 

 ところで、空港、鉄道、工場、発電所などにおいて事故が発生した場合に、その原因の調査・分析と安全対策のための教訓の読み取り方については、欧米諸国では、FTA (欠陥樹木分析法) 、SHEL 分析法 (エラー当事者と周辺諸条件との相関関係分析法) 、4M−4E 分析法 (事故原因に関係する諸要因を4つのM、すなわち 人間系、機械系、情報・環境系、企業・行政のマネジメント系に分類・分析してそれぞれに対策法を考え出す方法) など、さまざまな方法が 1970 年代ごろまでに確立していた。また、1980 年代以後になると、事故の問題をエラーをした個人よりも、エラーの発生やその事故への発展を止められなかった組織の問題の分析に重点を置く、「組織事故」という視点と方法が共有されるようになった。

 しかし、我が国の産業界においては、そのような発想と方法が導入されるようになったのは、1980 年代以降になってからだった。事故や公害の原因と構造を科学的に調査・分析する方法もその組織も、我が国は極めて遅れていたのである。そのことがまた、徹底的な再発防止策の立ち遅れにつながっていた。ちなみに、昭和 37 年に死者160 人の惨事となった旧国鉄常磐線の三河島二重衝突事故の原因については、社内の監査委員会がおざなりな調査をしただけで、客観的な立場に立った事故調査機関は存在しなかった。  また、昭和 38年に 458人の死者と 839 人の一酸化炭素中毒患者を出した三井三池炭坑炭じん爆発事故については、当時の通産省の主導で学者などを集めての政府技術調査団を編成したものの、三井鉱山による坑内爆発跡の証拠隠滅などによって、原因不明とされてしまった。後に原因を突き止めた研究者が警察の依頼で鑑定書を書いたところ、恩師の調査団長が自ら手を入れて改ざんするというスキャンダルもあった。

  水俣病事件は、このような産業界と行政が癒着した時代状況を先取りするような形で発生したのである。司法の場で追及される責任問題は、個人あるいは組織の行為がその時点における何らかの法律に抵触しているかどうかという限定的なものとならざるを得ない。しかし、人命を尊重する企業活動や技術のあり方、行政のあり方などについては、失敗事例から幅広く教訓を学び取るには、刑事捜査や司法の判断だけでは十分でない。やはり、失敗分析の方法によって、事件の全体的な失敗の構造を分析する必要がある。

  「懇談会」 は、独自に調査する権限を持たず、持ち時間も限られていたが、水俣病事件を司法や行政の視点でなく、できるだけ全体的な失敗の構造を解明する意識で、関係資料や様々な研究者たちが行ってきた調査研究の報告、水俣の現地でのヒアリングなどをもとに議論を重ねた。

  以下においては、そのような方法で分析した水俣病拡大に対する国の責任問題を論述し、その償いとして、国 (および自治体) は何をなすべきかという課題についての提言をまとめることにする。

 

 なお、「水俣病患者」「水俣病被害者」という用語について述べておく。

  一般的に公害や薬害や治療ミスによってもたらされた疾患や障害 ( 後遺症 ) の場合、医師が病態や症状によって診断を行い、重度、中程度、軽度などの判断を下すが、その場合、特定の症候などの条件を満たすかどうかで線引きをし、条件を満たす人だけを「患者」と呼び、それ以外の人は「患者」とは言わないなどという機械的な仕分け方はしない。

 水俣病の場合は、公健法 (公害健康被害の補償等に関する法律) による「判断条件」、いわゆる「認定基準」(手足末梢の感覚障害に加えて、運動失調、視野狭窄、平衡機能障害などのどれかがあること) を満たす者を「水俣病患者」と認定するシステムとなっている。

 薬物・毒物による人体への影響の出方を考える際に、その健康影響が当該物質に起因する程度は、零パーセントから百パーセントまで連続的に分布していると考えられる。公健法の認定基準は医学的知見に照らして、水俣病に罹患している可能性がそうでない可能性と同等 (50 パーセント) 以上であるとの判断を行う基準となっている。

 しかしながら、一定の感覚障害しかない人についても、メチル水銀の健康影響を全く否定できるものではないとして、行政的には、医療手帳等の救済策がとられている。一方、裁判所はどう対処しているかを見ると、水俣病関西訴訟の大阪高裁判決は、健康被害がチッソの不法行為によるメチル水銀中毒によるものであると認識しつつも、「水俣病患者」という用語が公健法、救済法などでチッソによる補償金支払いの対象者にしか使えなくなっている現実に縛られて、やむなく「メチル水銀中毒症」の患者という呼び方を選んでいる (最高裁判決で是認された)。行政はこれら全てを含めて「水俣病被害者」と呼ぶことにしている。

 この提言書では、認定された「水俣病患者」を含めたすべての被害者をとりあえず「水俣病被害者」と呼ぶことにする。

 

2. 被害を拡大させた 行政の「不作為」責任

( 1 ) 水俣病発生初期   ――チッソの秘密主義と行政の怠慢

 水俣病発生の公式確認は、昭和31年5月1日、チッソの附属病院から水俣保健所に、実に奇妙な病気が出て、すでに4人入院しているという報告があった日とされている。しかし、その後の調査で、劇症型患者第1号は、すでに昭和28年に発症していたことが確認された。また、昭和20年代の半ばを過ぎた頃から、水俣湾で大量の魚が死んで浮いたり、魚介類が激減し漁をしても獲れなくなったりしたことや、ネコの狂い死が相次いでいたという異常事態が広がり始め、環境に異変が生じていることを示していた。

 これに対し、水俣湾の漁民ははやくから直観的に、異変の原因はチッソの工場排水にあると感じていた。水俣市ではこの事態に対し、昭和31年5月28日水俣市奇病対策委員会が設置され、その要請を受けた熊本大学医学部の医師たちは、水俣奇病研究班を組織して、奇病の解明に取り組んだ。チッソは、企業秘密を理由に、研究班の医師たちを工場内に入れず、調査に協力しなかった。それでも研究班は、調査活動をした結果、同年11月には、水俣病は伝染性疾患ではなく、ある種の重金属中毒であり、その重金属は魚介類によって人体に侵入した可能性が高いという結論を出した。しかし、いかなる重金属が関わったのかについては、その時点では、突き止めることができなかった。

 また、厚生省厚生科学研究班は、昭和32年3月、厚生省に提出した報告書で魚介類を介して摂取した何らかの化学物質か金属類による中毒であろうとの推測を示した。

 こうした動きに対し、チッソは公的には水俣病と重金属との結びつきをひたすら否定した。チッソがこの時期に水俣病と自らの工場排水との関係について、内部でどのような調査研究を行っていたかは明らかにされていない。ただ、当時の化学工業においてビニールなどの製造に不可欠の中間製品であったアセトアルデヒドを生産していたアセトアルデヒド工場の精留塔で触媒の無機水銀が有害な有機水銀 (メチル水銀) に変わり、それが廃液に混じって放水され、水俣病の原因だと気付いていた可能性がある。なぜなら、アセトアルデヒド製造の過程で無機水銀を触媒に使うと有機水銀化合物が生じることは、その分野の専門的な科学の教科書に記載されていることだったからだ。 ( 西村肇・岡本達明両氏の共同研究『水俣病の科学』〔日本評論社〕の第一章「水俣のチッソのアルデヒド工場」参照 ) 。少なくとも、後述するように熊本大学研究班が有機水銀説を発表した昭和33年半ばには、チッソの工場の技術者は、有機水銀説に刺激されなかったはずはないし、刺激されれば、文献調査をして、大よその見当はつけていたはずだからだ。それゆえにこそ、チッソ附属病院長の細川一医師は、工場廃液をネコに与える実験を実施し、昭和34年10月7日にネコ400号に水俣病と同様の症状が確認されたのである。水俣病公式確認からすでに3年半経ち、患者はどんどん増えていた。にもかかわらず、ネコの実験結果は秘密にされ、チッソは相変わらず有機水銀説を否定し続けた。その「不作為」は、後に刑事責任を問われることになる。

 

 水俣病は初期の頃は、原因がわからなかったうえに、症状があまりに激烈で奇異だったため、人々から前例のない伝染病ではないかと受けとめられて恐れられたその結果、往年のコレラ、ハンセン病、結核などの患者が排斥されたのと同じように、患者や家族は残酷なまでの偏見と差別にさらされ、病気そのものの苦痛に加えて、周囲からは村八分に等しい仕打ちを受けた。その状況を語る証言を引用 (抜粋)させて頂く。

 

  <( 昭和31年に相次いで発病した妹二人が) 伝染病棟に入院している間に、市役所の方たちが来て、うちと隣の家だけ、家中に消毒剤を撒いていきました。私たちは村八分にされて、買い物に行ってもお金を手渡しでは受け取ってもらえずに箸やザルで受け取られたり、家の前を鼻つまんで通られたりして、誰からも声をかけられなくなりました。

   (学校に) 行ったときにはみんなからいじめられました。掃除当番のときには、「奇病がうつっで (うつるから) 、机や椅子にさわんな」と友だちにいわれて。私はもう毎日、母ちゃんがおったらと涙が止まらなかったです。> (下田綾子さん。当時小学生。前掲『証言水俣病』より)

  <( 昭和33年に母が発病して入院したころ) 水俣病は「マンガン病」ちいわれとって、「うつる」ともいわれていたんです。それで部落中の人が一変しましたもんで、父も母の介護に行くときは、薮になった裏の小道を、鎌を持って草をはらいながら通う毎日になりました。私も父と交替で行きました。

  母がどうしても孫に会いたいと病院から帰って来まして、帰り着いたその日の夕方だったと思います。 母が家から海のほうへ下りていったと思った瞬間、もう本当にけたたましい声でキイキイキイキイおめく (叫ぶ) もんで、主人も私もころがって (急いで) 行ってみましたら、母が隣のおじさんに崖から突き落とされていたんです。> ( 杉本栄子さん。前掲書より )

 

 では、行政はこの時期どう対応したのか。水俣病公式確認から1年を経た昭和32年5月21日付けの「水俣奇病会議」と題する厚生省技官メモ ( 水俣病研究会編『水俣病事件資料集』葦書房) によれば、熊本大学の意向としては漁獲の禁止を求めていたのに対し、行政側は、今の段階では何とも言えない。まだまだ手を打てない。大学が行政のことまで口だししてもらいたくない。との趣旨の発言をしたと汲み取れる。

 この行政側の姿勢は、一見科学的な根拠の有無をにらみ、法規の公正な適用を考慮しているように見えるが、この時期における厚生省の対応の実際を見ると、本格的な魚介類の汚染度調査をしたわけでもなければ、有機水銀中毒の可能性について積極的に患者の臨床データの分析や世界の学術文献の調査をしたわけでもなかった。事態の重大性に対する緊迫感さえ抱いていた様子もなかった。先走って漁獲禁止をしたら、漁民から補償要求が出されるだろうから、できるだけコトを荒だてずに様子をみていこうという事なかれ主義の姿勢があまりにもはっきりと見えるのである。

 異常な事態の原因がはっきりしない段階で、行政がしばしば示す「疑わしきは規制せず」という姿勢は、後年になって、キノホルム薬害によるスモンや薬害エイズ事件でも告発されたように、防ぎ得た被害の拡大を放置することになる行政の「不作為責任」の定型的パターンとさえ言える。そうした事例の繰り返しを検証すると、行政官が被害の悲惨さに対し、《これが自分や家族に降りかかった問題であったら》という、後述する「2.5人称の視点」を身につけることの重要性を痛感する。

 

 しかし、当時の行政には、そのような視点は欠落していた。劇症型の患者が続々と発生し、昭和32年5月の前記の会議の2か月前の時点で確認された患者数は54人に上り、そのうち17人は死亡しているという事態の深刻さの中でなお、行政は原因解明の態勢作りをしようともしなかったし、被害の拡大を防ぐ積極的な対策も立てなかった。

 厚生省は同年9月11日、熊本県知事に対し、水俣湾内の魚介類の全てが有毒化しているという明らかな根拠が認められないので、食品衛生法を適用して、漁獲魚介類のすべてを販売禁止にすることはできないという見解を示した。これは論理のトリックであって、「魚介類の全て」が有毒化していることが証明されない限り規制できないということになれば、大変な規模と時間を要する調査をしない限り、いくら苦悶して死んでいく患者が出ようとも、規制はできないということになる。被害者不在の行政の姿勢の典型と言える。

 一方、熊本大学の研究班は、昭和33年秋、イギリスのハンターとラッセルが報告している有機水銀中毒の臨床症状や病理学的所見が水俣病患者のそれらと一致していることに注目して、有機水銀に的を絞った研究を開始した。そして翌昭和34年7月、水俣病の原因は、水俣湾産魚介類に蓄積された有機水銀化合物である可能性が強いと正式に発表した。しかし、政府がこの事実を認めて、政府統一見解として発表したのは、熊本大学の研究結果発表から8年余、水俣病発生公式確認からは実に12年4ヶ月も経った昭和43年9月になってからだった。その間、患者は増え、苦しみの中で放置されたのである。

(2) 昭和34年  ――経済成長政策下の致命的な「不作為」

 水俣病の公式確認から3年経った昭和34年は、被害地域と被害者の一層の拡大を防ぐために、チッソに操業停止を命じるか、さらに漁獲の禁止を命じるか、行政はいよいよ決断を迫られた時期だった。

 昭和34年7月、熊本大学の研究班が「有機水銀説」を発表すると、厚生省の食品衛生調査会水俣食中毒特別部会も、11月12日に、発生源には触れずに (つまりチッソの責任を問うのを避ける形で) 、水俣病の主因をなすものはある種の有機水銀化合物であると答申した。ところが特別部会は翌日解散させられた。答申が出ても、厚生省は積極的な手を打たず、報告書は葬られたに等しい扱いを受けた。特別部会代表だった鰐淵健之・熊本大学前学長 (当時) の証言によると、前日の各省連絡会議では、通産省の軽工業局長が委員として出ていて、チッソの工場排水から有機水銀が出ているとは証明されてない、日本化学工業協会では爆薬説を主張するなどいろいろな見解があるのだから、有機水銀説は認め難いと発言して、有機水銀説で結論を出すのを妨害した。

 この特別部会の混乱と並行して、通産省は以下に示すような厚生省や水産庁との文書のやり取りで、「有機水銀説」否定とチッソ擁護の立場を貫き、国 (政府) をしてチッソを温存させるための「不作為」の状態にくぎ付けにすることに成功したのである。

 厚生省公衆衛生局長が、10月31日に通産省軽工業局に対して、「有機水銀説」の可能性を説くとともに、チッソが工場の排水口を前年9月に水俣川河口付近に変更したところ、その方面に新たに水俣病患者が発生するようになったことから、工場排水に適切な措置を講じるように要請したのに対し、通産省軽工業局長は11月10日の回答で、「有機水銀説」には多くの疑問点があり、水俣病の原因をチッソの工場排水に帰せしめることはできないと主張した。

 水産庁長官が 11月11日に、通産省軽工業局長に対し、工場排水に対する適切な処置を要請したことに対し、通産省軽工業局長は11月20日になって、水俣病の原因をチッソの排水に結びつけることはできないが、チッソに対し、廃水処理施設の完備と原因調査への協力を文書で要請したと回答した。

 国の「不作為」の姿勢を決定づけたのは、後に所得倍増政策を掲げて首相になる池田勇人通産大臣 (当時) が、厚生省の食品衛生調査会水俣食中毒特別部会の中間報告に基づいて同調査会が答申した翌日の11月13日の閣議で渡辺厚生大臣に対して、「水俣病の原因である有機水銀が水俣工場から流れ出していると結論するのは早計である」と慎重な調査を要望した ( 昭和34年11月14日『熊本日日新聞』)。その結果、有機水銀説も政府統一見解とならずチッソの工場排水規制も行われなかった。この池田通産大臣の発言は、国の「不作為」が行政レベルだけでなく、政治レベルでも選択されたことを意味するものであり、行政のその後の姿勢を決定づけた。

 

 国からの温存の処遇を受けたチッソは、この時期、何をしたのか。

 その1つは、昭和33年9月にアセトアルデヒド工場廃水の排水口を、それまでの水俣湾百間港から水俣川河口付近に移したこと。その意図は不明だが、メチル水銀を含む排水を水俣川から不知火海に放流すれば、水俣湾沿岸住民からの水俣病発生は少くなって責任を逃れ切れると考えたか、あるいは広い不知火海であればメチル水銀が拡散されて濃度が薄まり、被害の発生を抑えられると考えたのかもしれない。だが、結果は最悪だった。それまで水俣病の発生がほとんどなかった水俣川河口付近や北側沿岸など不知火海沿岸各地で新たに患者が発生しはじめたのである。

 もう1つは、サイクレーターと呼ばれる排水浄化装置を製作し、昭和34年12月24日に完成式を行ったこと。排水はサイクレーターを通すので、水俣川の水よりきれいになるというふれこみだった ( 昭和34年12月25日『熊本日日新聞』) ので住民に安心感を与えるうえで大きな効果をあげた。実際は、浄化装置といっても水銀の除去を目的として設置したものでもなく、また、除去を期待し得るものでもない ( 関西訴訟高裁判決) シロモノだった。この2か月前には、ネコ400号がアセトアルデヒド工場廃液で水俣病と同様の症状の発症が確認されていたにもかかわらずである。

 この時期、かねてチッソに対して排水の停止を求めてきた漁民たちは、8月から11月にかけて、工場に押しかけて、  警官隊と衝突を繰り返したが、12月17日に熊本県漁連がチッソと漁業補償契約書に調印し、抗議行動をおさめた。また、水俣病患者家族互助会は、12月30日に県知事らによる調停案を受け入れ、チッソから涙金程度のわずかな見舞金を受け取ることで、将来水俣病がチッソの工場排水に起因することが決定した場合においても新たな補償金の要求は一切行わないことを内容とする見舞金契約を結んだ。この見舞金契約は、後に熊本水俣病第一次訴訟判決で公序良俗に反するとの理由で無効にされる。

 チッソのサイクレーター設置と患者家族互助会の見舞金契約受諾が契機となって、水俣病問題は地域の人々に解決したかのように受け止められ、一見終息の時期に入った。現実は、公的な立場での水俣病の原因究明の調査研究は行われず、水質汚染の防止対策もとられなかったため、有機水銀中毒の恐ろしさについて、産業界の認識は低いままだった。もし国がチッソをはじめ産業界全体に対し、有機水銀汚染に対し徹底的な対策をとっていれば、昭和40年5月に明らかになる第2水俣病の「新潟水俣病」の発生は防ぎ得たであろう。また、水俣地域の被害者数が増えるのを最小限にくい止めることができたであろう。

 水俣病患者たちがチッソから補償とはとても言えない見舞金を受け取ったことは、地域の人々の偏見・差民観を、逆にゆがんだ形で深化させることにもなった。そのことは真相解明を棚上げにした補償まがいの決着をすると、かえって地域の人々の融和を妨げ、偏見・差別をゆがんだものにすることを示している。その現実を証言の引用で示しておく。

 

  < 昭和34年にはチッソと患者との間に「見舞金契約」が結ばれましたが、 (中略) 当時、父が認定されて3年たっていましたので、3年分で30万円出たんです。そのことを近所の人たちがとても妬むんですね。今まで貧乏しとったから、お金が出れば雨漏りする屋根ぐらい替えようかと思いますよね。それで炊事場の屋根を替えたんですよ。そしたら、「わあ、金もらったでよか屋根になったな。うちでも水俣病になろうかいち、 わざと私たちに聞こえるようにいいながら家の前を通るんです。 (中略) 親戚からも学校や近所の人たちからも、そんなふうにいわれるのが一番つらかったです。> (荒木洋子さん。前掲書より)

 

 こうして昭和34年末にいわば「蓋閉め」された水俣病問題は、その後昭和43年9月に、熊本水俣病の原因はチッソ工場排水中のメチル水銀化合物であり、新潟水俣病の原因も昭和電工鹿瀬工場の排水中のメチル水銀化合物であるという政府統一見解が発表されるまで、「空白の8年余」を過ごすことになった。この政府統一見解が発表される4か月前に、チッソのアセトアルデヒド生産は中止されていたという事実を見ると、政府はチッソに強硬手段をとらなくてもすむのを見極めてから、水俣病の原因物質をメチル水銀化合物と認めたと批判されてもやむを得ないほど長い「不作為」の期間をやり過ごしていたのである。しかも、水俣湾が () 水質保全法に基づく指定水域に指定され、排水規制が開始されたのは、さらに遅れて翌昭和44年2月になってからだった。

 このような経過の中で、熊本大学の入鹿山教授らは、地道に原因究明の研究を続けた。そして、チッソの工場内アセトアルデヒド工程の反応管から採取されて残されていた残滓から塩化メチル水銀を抽出することに成功、昭和37年8月にその論文を発表した。チッソはそれまで、有機水銀は絶対に排出していないと主張していたが、熊本大学の研究班はついに原因物質である有機水銀を工場内残滓から確認したのである。

 しかし、「空白の8年余」における政府の有機水銀汚染対策の無策は、第2の水俣病である「新潟水俣病」を生むことになった。水俣の苦い経験が同じ公害の発生を未然に防ぐことに生かされなかったのである。

 

 以上のように経過を見ると、昭和34年における行政の「不作為」がいかに重大な行政の失敗であり失態であったかが、浮き彫りになってくる。そこが水俣病関西訴訟の最高裁判決で厳しく問われたところである。

 

 水俣病の悲惨な被害が拡大しつつあったのに、政治・行政から放置されたことの背景要因の一つに、この事件が首都東京からはるか離れた交通の便の悪い地方で起きた事件であったという事情がある。後述するように、人間が「人の死」に対して示す反応は一様ではない。愛する家族の死であれば、残された者はショックと悲しみで食事も摂れなくなる。しかし、遠方の無縁の人の死に対しては、例えば災害死のニュースで知ると気の毒には感じても、食事がのどを通らなくなるというほどショックは受けない。水俣病事件がもし東京の隅田川沿いか東京湾で起きていたなら、メディアは連日センセーショナルなトーンで報道し、政治も行政も水俣の場合とは全く違って緊迫した対応を迫られたことであろう。水俣が放置された理由はいくつもあるが、その一つに、政治家や行政官の想像力の欠如という問題を指摘しなければならない。これが自分の家族に起きた被害だったら、どうなのかという想像力の欠如である。この問題については、3章における「2. 5人称の視点」の項で詳述する。

 

  では、「不作為」という作為を選択させた最大の動機、すなわち背景にあった決定的な要因は何だったのか。その答えは明解に示すことができる。

 チッソが生産に力を入れていたアセトアルデヒドは、当時の化学工業において需要の急増するビニールなどの製造原料として不可欠な中間製品であった。しかもチッソが国内におけるアセトアルデヒド生産の大半を担っていた。日本経済が高度成長の軌道を邁進しはじめた昭和30年代において、化学工業は新しく興りつつあった石油化学工業の先導役として高度経済成長の重要な一翼だった。チッソの生産活動を止めることは、高度経済成長にブレーキをかけるに等しいことだった。このことについては、当時の通産省の軽工業局長が裁判の証人として、次のように明確に証言している。(括弧内は懇談会による補足)

 

   「最悪手段である (工場の排) 水を止めろというところまで一挙に行くというところが、私にして納得がいかないと、厚生省にはそういう権限はないんじゃないかと。(中略) 通産省はやはり産業の振興とか生産の増強とか、 (中略) ([尋問者]本件に即して言えば、例えばアセトアルデヒドの生産ですね。そういうことをとにかく第一義的に考えると、そういうものの考え方という意味ですね。)そうですね。まさにそのとおりです。」

 「合成繊維 (合成樹脂か)の需要が増えるに伴ってアセトアルデヒドの増産をやっていたとすればそれが止まったということで、せっかく普及し始める合成繊維の発展というものにかなり影響が出るだろうということだと思いますけどね。」

 

 たとえ水俣病の被害者が多数出ていても、高度経済成長政策を貫くために、水俣病の原因企業であるチッソの生産活動を止めるわけにはいかないというわけである。つまり、水俣病の被害者は高度経済成長政策の犠牲者でもあったのである。このことは、被害者の救済・補償に対する国の責任問題を論じるに当たって根底に据えなければならない問題である。

 

 ここで、行政の「不作為」を促す役割を果たした一部学者と業界の責任についても論じておく必要があろう。

 熊本大学研究班が、昭和34年7月に有機水銀説を発表すると、患者・家族や市民のチッソへの抗議行動や行政に対する排水規制の要求はいよいよ激しくなった。厚生省は対応を迫られたのだが、前述のように通産省はチッソ保護の態度を変えない。11月になって、政府は水俣病に関する各省連絡会議 (局長クラス) を開いた。その会議で通産省は、東京工業大学の清浦教授の調査結果を報告した。すなわち、8月に水俣湾の海水を採取して分析したが、水銀汚染はひどくないから、有機水銀説は拙速だと反対したのである。後から振り返れば、海底のヘドロからの食物連鎖が問題なのに、海面の海水を分析しただけで有機水銀説を否定するとは、極めて非科学的な調査だったが、国立大学教授という肩書きや各省連絡会議という場で通産省の支持をバックにした見解なので、政府の統一見解を先送りするのに十分な効果をあげた。

 これより先の9月には、チッソの所属する日本化学工業協会が、何の根拠もない旧海軍によって湾内に投棄された爆薬が原因だという説を発表していた。こうした異説は非科学的なものであったにもかかわらず、メディアによって大きく報道されたため、厚生省が有機水銀説を貫くことを困難にした。

 さらに昭和35年に入ると、水俣病の原因解明をうたって政府の「水俣病総合調査研究連絡協議会 ( 経済企画庁主管、通産省、厚生省、水産庁) 」が設置されたが、同年4月の第2回会議で、清浦教授が論拠不明の「有毒アミン説」を発表するなど、まともな見解をまとめることもないまま、1年ほどで自然消滅してしまった。通産省の画策は成功したのである。

 また、日本化学工業協会は、昭和35年4月、日本医学会会長・田宮猛雄氏を委員長に学会の大御所を集めて、「水俣病研究懇談会」を設けたが、この会議も、清浦教授らの「有毒アミン説」の発表を聞くなど、有機水銀説を宙吊り状態にする役割を果たした。

 これらの経過を見ると、事件の現地で水俣病患者の臨床データの分析や工場からの廃棄物の化学分析などに取り組んでいる研究者の研究結果に対し、企業や業界や行政に迎合する学者の異説、珍説を同等に評価する日本の学界の指導層の知的貧困と倫理観の稀薄さは目を覆いたくなるほどであったと言わざるを得ない。被害の拡大という切迫した状況があったにもかかわらず、被害者の救済の先送りに手を貸した学者の倫理のあり方という点でも、水俣病事件は大きな教訓を残したのである。それはまた、政府の学識経験者を集めての審議会や専門家会議に対する国民の信頼を失わせる役割も果たすことになった。

.「いのちの安全」の危機管理体制を

 以上は、水俣病の発生初期から政府が水俣病の原因に関する統一見解を発表した昭和43年までの期間において、被害の拡大を放置した国の行政の「不作為」責任に焦点を合わせて問題点を明らかにしたものである。それらの問題点は、水俣病事件への対応に限らず、日本の行政の体質、すなわち行政官の意識と価値観および行政の構造的欠陥にかかわる事柄であると言える。そこで、水俣病50年という節目に、行政はこの事件から何を教訓として学び、教訓を生かすには意識と組織をどのように変えるべきかを、政府全体で真剣に考えるべきであろう。「懇談会」としては、行政のあり方の変革を中心に、関連する企業や科学者のあり方も含めて、次の提言をする。

 (1)「2..5人称の視点」による意識の変革を

 「2.5人称の視点」という、専門化社会に人間性を回復させるための新しい問題意識のキーワードについて説明する。

 人間の「いのち」や[死」は、そのことにかかわる者の立場 ( 人称 ) によって意味が違ってくる。「1人称の死 ( あるいはいのち ) 」は、私の死であり、私のいのちである。そこでは、自分は重い病気になった時、どのように生き抜くかとか、人生の最期にどのようにして尊厳死を迎えるかとか、自分が脳死になったら病気で苦しむ人のために臓器を提供したいとか、さまざまな選択を迫られることになる。誰しも、事故や公害や薬害の犠牲になるのは拒否するだろう。大事な一度限りの人生なのだから。

 これに対し、「2人称の死 (あるいはいのち)」は、大切な家族や恋人との関係における「あなたの死 (あるいはいのち)」であって、病気や死に直面する大切な人が充実した日々を送れるように、精神的・肉体的に支えてあげなければならない立場からの死やいのちである。例えば、末期がんの夫を支える妻の立場からの死やいのちである。「2人称の死」は、もう一つ、大事な人が亡くなった後、自分の心の中にぽっかりと空白域が生じてしまい、その喪失感をどう乗り越えて生きるかという課題が突きつけられる。いわゆる「グリーフワーク」(悲しみを癒す仕事) である。

 一方、「3人称の死 (あるいはいのち)」となると、友人・知人から全くの他人に至るまで、幅が広い。友人・知人の死には、心を痛めても「2人称の死」ほどではなかろう。まして、他人やはるか外国の人々の死となると、イラクで連日何十人何百人という死者が出ても、日本に住む人々は食べ物がのどを通らなくなるほど胸を痛めることはないだろう。現代のように、職業が専門化し、職業人がそれぞれの分野の専門家になる傾向が強いと、仕事に対する姿勢や判断基準が規則や基準やマニュアルに依拠することになる。行政官にしても法律家にしても医療者にしても、その点はみな同じだ。

 客観性や公平性という意味では、規則や基準やマニュアルは不可欠のものである。しかし、規則や慣行を杓子定規的にあてはめるだけだと、「冷たい乾いた3人称の視点」になってしまう。公害や薬害の被害者が役所に訴えても、まともに聞いてもらえず、門前払いに等しい扱いをされたとか、犯罪被害者が警察署や検察庁に事件の結末や加害者の処罰について問い合わせてもケンもほろろの対応で何の説明も受けられなかったといった事例は、枚挙にいとまがないほどある。それらは役所側が「冷たい乾いた3人称の視点」でしか事案を見ていないことの表れと言える。あるいは、医師が治療法のなくなった末期がんの患者に「もうこれ以上することがないので、どこか身近なところに病院を見つけてほしい」と冷たく見放す。患者にとってはそれからこそが、かけがえのない1日1日であるのに。あるいは、弁護士が性犯罪被害者の女性の相談に対し、「訴訟に持ちこんでも、時間はかかるし、10万円ぐらいにしかなりませんよ」などと、被害者の心理をズタズタにするような言い方をする。専門的職業人が「冷たい乾いた3人称の視点」で仕事をこなすと、こういうことになる。専門化社会の深刻な落とし穴と言える。

 どうすれば、この現代社会のゆがみを人間味ある社会に再生できるのか。その方法として、「2.5人称の視点」がある。公的な立場の専門的職業人が、事件の当事者である被害者 (1人称の視点) や家族 (2人称の視点) になり切ってしまったのでは、感情移入が過度になり、冷静で客観的な判断ができなくなる。外科医でもわが子の手術はできないと言われるように。そこで、あくまでも冷静な「3人称の視点」を失わないようにしつつ、 1 人称の被害者・社会的弱者と2人称の家族に寄り添い、《これが自分の親や連れ合いや子どもだったら、どんな気持でいるだろうか、今一番求められているのは何だろうか》という視点を合わせもつようにするなら、冷たく突き放すような態度はとらないだろう。《現行の規則や慣行の中でも、何とか対応することはできないか》《どうしても無理なら、規則を変えることはできないか》といった柔軟な発想と態度が生まれてくるはずである。これを、3人称の視点と1人称・2人称の視点を合わせもつ視点として「2.5人称の視点」と呼ぶのである。

 あえて言うなら、「冷たい乾いた3人称の視点」から「温もりと潤いのある2.5人称の視点」への転換である。

 

 水俣病発生の初期においても、あるいは昭和34年末の見舞金契約及び漁業補償契約から昭和43年の政府統一見解に至る「空白の8年余」の時期においても、行政の対応は《もしこれが自分や家族に降りかかった問題であったら》といった、1人称・2人称の立場の人々に寄り添う姿勢、すなわち「温もりと潤いのある2.5人称の視点」からはほど遠い、まさに「冷たい乾いた3人称の視点」だった。より厳しく言うなら、当時の法規の範囲内でも、チッソに対する規制の方法や被害者に対する支援の方法がないわけではなかったのだから、行政が実際に示した対応の仕方は、「冷たい乾いた3人称の視点」さえも超えた、違法な「不作為」と言うべきものであった。それゆえに最高裁判決で国と熊本県の責任が問われたのである。

 日本の行政は、客観性や公平性を重視する姿勢を金科玉条とするあまり、さまざまな事件の被害者、患者、社会的弱者に対して、冷たく対応する傾向があり、時には客観性や公平性を隠れ蓑にして、「不作為」の怠慢をほしいままにした例さえ少なくない。そうした行政の姿勢は、社会的に批判を受け続けてきたにもかかわらずその体質は本質的に変わらないで今日に至っている。最近の例をあげるなら、犯罪被害者が検察庁に重要な要請文を提出しようとしたところ、事務官が座って待っていた被害者にまともに話も聞かずに立ったまま無造作に書面を受け取って自室に戻ってしまい、何の対応もしなかったという事例があり、厳しく批判された。水俣病被害者に対する国の対応は、その最悪の例の一つと言える。

 このような実態を見る時、行政の中に「2.5人称の視点」を導入することは、日本の行政官の意識と行政の姿勢を大きく転換させる意味を持つことになるだろう。言い換えるなら日本の行政のパラダイムを「官中心主義」から「民中心主義」へと転換させる意味を持つことになる。そこで、行政官の意識を変えるために、次の対策に取り組むよう提案をする。

 行政官が公害、環境破壊、薬害、事故、災害、犯罪等の被害者や社会的弱者の訴えや相談に対し、 「2..5人称の視点」に立って十分に配慮のある対応をしなければならないことを、法律や条例の施行・運用の中で明らかにすること。 その場合、 「2..5人称の視点」という用語が法律用語としてなじまないならば、一般的な公務員の倫理とは別に、「2.5人称の視点」に相当する内容を持つとともに、行政課題に対処する時に国民の健康と生命の保護を最優先すべきことを示す新しいキーワードとして、「行政倫理」という用語による倫理規範を関係法規に明記することが望まれる。

 

《補論》

この「行政倫理」を実効性のあるものにするために、試案として、次の取り組みを示しておきたい。

 

@) とくに環境基本法やこれに基づき進められる環境行政においては、上記の趣旨を基本的理念とすることを謳うこと。

A) 国の行政機関や地方自治体は、上級幹部を含む全職員を対象とする業務研修において、「2.5 人称の視点」が被害者や社会的弱者の立場を配慮した「民中心主義」の行政姿勢や中核になることを、さまざまな事例検討や実地体験をとおして身につけるカリキュラムを組むこと。 ( これは大 学の専門課程のカリキュラムにおいても導入されるべき課題であろう。)

B) 行政に携わる者すべてに、「2.5人称の視点」 の意識を浸透させるためのハンドブックを作成して、全職場に配布すること。

(2)「被害者・家族支援担当部局」(仮称) の設置を

 ただし、意識の変革と言うだけでは、空念仏で終わるおそれが強い。意識の変革は組織や制度の変革を伴ってこそ、はじめて確実な実体のあるものとなり得る。

 幸いにして、この数年、日本の行政や司法において、「2.5人称の視点」というキーワードを使ってなくても、実質的にその視点に立った立法や実務での積極的な対応が相次いで見られるようになった。その主なものを挙げると――。

 犯罪被害者に対し、警察、検察、裁判所が相談の窓口を開設したり、情報提供をするようになった。さらにそれらの対策を政府全体の課題として取り組むために、犯罪被害者支援基本計画が立てられた。 ( 平成18 )

 キャッシュカード犯罪の被害者に対し、銀行は一切補償しないという方針を、行政が銀行側の要請によって長年にわたって容認してきたが、金融庁はキャッシュカード被害者急増の現実を踏まえて姿勢を180度転換して、銀行に全額補償させる預金者保護優先の制度を立法化によって確立した。 ( 平成 17 )

 厚生労働省脳死臓器提供検証会議は、単に脳死判定や臓器提供が正しく行われたかを 1 例ずつ医学的に検証するだけでなく、愛する家族を失ったドナー家族側が精神的に問題をかかえていないかなどを調べて、必要があれば専門家による支援をするための「ドナー家族の心情把握等作業班」を設置してその作業に入りつつある。  ( 平成 16 年以降 )

 アスベスト健康被害者、建築物耐震性偽装事件被害者それぞれに対する速やかな救済。 ( 平成 18 )

 

 これらのほか、医療界の中にも「2.5人称の視点」に注目する医師、看護師が、学部教育の中でこの視点の重要性を語る例が見られるようになった。

 さらに日本航空は高い安全を確立するための計画の中で、乗客・家族の身になって仕事と向き合う意識を浸透させるために、「2. 5人称の視点」の教育ビデオを制作・配布している。

 このような時代の潮流の中で、行政に「2.5人称の視点」を導入する意義はいよいよ大きくなっていると言うべきであろう。その具体的な方策として、「懇談会」として次の提案をする。

 

@国の行政機関および自治体に、公害・薬害・食品被害の被害者、産業事故・都市災害・不良工業製品 (商品) の事故・建築物災害の被害者、医療事故の被害者、経済事件の被害者、インターネット上の情報被害者 ( 中傷、名誉設損等) などの訴えと相談に対応し、必要に応じて被害者・家族に対する支援の態勢を組む組織として、「被害者・家族支援担当部局」を設置する。

A各種の被害者支援の法律や制度を政府全体として総合的に比較検討し、犯罪被害者支援基本計画を全被害者に拡大するような 『被害者支援総合基本計画』を策定し、全体的に内容の充実をはかるとともに、未だ制度化されていない分野については、早急に立法化・制度化の道をはかること。

 

《補論》 被害者・家族支援の組織のあり方について、試案として次の取り組みを示しておく。

@) 「被害者・家族支援担当部局」は、行政機関の長に直属するスタップ部門として、他のあらゆる業務部門から独立した組織とする。

A) 同部局は、被害が発生した事件の情報をキャッチしたら速やかに行動を起こせるだけの専門スタッフをかかえる。

B) 同部局は、必要な情報を関係業務部局に速やかに発信して、「2.5人称の視点」による対応を幹部・一般職員に徹底する。

iv) アメリカのNTSB(国家安全運輸委員会) は、1997 年、「渉外・広報及び家族支援局」を設置し、事故発生時に速やかにスタップが現地に急行し、被害者家族の支援にあたる体制を整えた。これはモデルとして参考になろう。

 

これらの取り組みは、日本の行政を真の福祉国家型行政に変革していく牽引車の役割を果たすに違いないと確信する。


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