5.「環境・福祉先進モデル地域」 の構築を
(1)
胎児性水俣病患者・家族のメッセージ
水俣病患者が多発した地域では、昭和30年代前半から脳性マヒに似た子どもの出生が多くなっていた。熊本大学の研究班は昭和36年から37年にかけて死亡した女児2人を解剖した結果、2人とも胎児のうちに水俣病になっていたと考えられるとの結論に達し、37年11月に発表した。すでに同年8月に認定されていた1名につづき、同11月29日に、16人の子どもたちが胎児性水俣病と公式に認定された。水俣病の公的確認から6年半経って、メチル水銀による人体への影響は、胎児にまでおよぶという深刻なものであることがわかったのである。
胎児性水俣病とは、妊婦が汚染された魚介類を食べているうちに、メチル水銀が胎内の赤ちゃんにへその緒を通じて侵入して、胎児の中枢神経を侵し、生まれた時にはすでに水俣病になっているというものである。従来の医学の通念では、妊婦の体内に入った有毒な重金属化合物が、胎盤を通過して胎児にまで影響をもたらすとは考えられていなかった。胎児性水俣病の発生は、そうした医学の通念を覆したのである。
それは、地球環境を汚染してでも経済的繁栄を求めようとする人間の倣慢さに対する警鐘であると同時に、人間の営みは適切な制御を受けないと種の保存さえ危うくするおそれがあることを知らせる警鐘でもあった。その警鐘に、早い時期に行政や専門家が気づいていたなら、水俣病の拡大を防ぐ対策への取り組みも変わっていただろうし、何千人もの被害者の発生を防ぐこともできたであろう。
新潟水俣病では、認定されている胎児性患者はたった1人となっている。表面化しなかったケースの可能性については否定しきれない。ともあれ、胎児性患者の存在は、同じ時期に生まれた同世代の人々の誰が同じような被害を受けてもおかしくないような危険な状況におかれていたことを象徴的に示すものである。言い換えるなら、胎児性患者は同世代が背負った危機を身をもって告発したととらえるべきものなのである。
胎児性水俣病の患者たちは、全身におよぶ重い障害を背負い、差別と偏見にさらされることの多い人生を歩んできたが、ただ、われわれが、いたずらに悲惨な側面にばかり目を向けるだけであったら、懸命に生きている胎児性患者に対して、否定的な目を向けることになると、介護や支援にあたっている人たちは語っている。水俣病被害地域では、胎児性患者のわが子を「宝子」として、愛情を注いで育んできたという事実がある。そして、胎児性患者の中には、多大な苦難を背負いながらも、「生きていてよかった」と呟きをもらす患者もいる。家族の愛と微かな支援のみで、半世紀を生き抜いてきたこの事実は、人間のいのちと生きることの意味について大切なメッセージを含んでおり、被害者への社会的支援を考えるうえで、根底に据えるべきものは何かを教えてくれる。
(2)胎児性患者の実態
胎児性水俣病患者・家族の実態は、これまで本格的に取り組んだ調査研究がなく、十分にとらえられていなかった。そこで胎児性患者のための小規模通所授産施設「ほっとはうす」の加藤たけ子氏らのグループは、2003年から05年にかけて、三菱財団の助成を受けて、胎児性水俣病患者と出生後子どもの頃に魚介類摂取で水俣病になった小児性水俣病患者合計81人(編注 21人)
(いずれも1950年以降生まれの「認定患者」で2001年現在生存が確認されていた人たち)
を対象に、聞き取り等による患者・家族の実態調査に取り組んだ。ねらいは、質の高い生活支援や介護・医療を可能にする地域福祉モデルを構築する条件を探ることであった。調査開始時に2人の死亡が確認されたが、19人から詳しい聞き取りに対する協力を得られた。この調査で明らかになった主な事実を以下に記す。
@年齢 :
――19 人のうち 41〜44
歳が3人、45〜49 歳が9人、50〜55 歳が7人。
A世帯 :
――本人以外に 1
人以下しかいない世帯の人が5人いる。内訳は本人と母のみ2人、一人暮らし3人。
B障害の実態:
――肢体不自由と知的障害の重複が13人、さらにそのうち言語障害も合わせ持っている人が9人。言語による意思疎通に困難のある人が14人。
C働く場 :
――一般企業に雇用1人、社会福祉施設 (仕事と創作活動)に通所7人、決まって行くところがない11人
(このうち1人は寝たきり、2人は引きこもり) 。
D収入 :
――公害補償給付が中心であるが、ほとんどが障害基礎年金を受けている。
E現在抱える問題:
―― i) 介助の支援、A)親の高齢化と疾病、B) 金銭
(ローン) 、C)友だちがいない、 v) 外に出たがらない、E) 人と交わらない、F) 外出が困難 (着替えが大変)
、G) 親が亡くなった後への不安。
F居場所の希望 :
――自宅7人、グループホーム4人、入所施設2人。
G新たに迫ってきた問題 :
――40代頃から通常の加齢では考えられない急速な身体機能の低下が目立ってきている。それが健康不安や生活自立の意思と行動の低下につながっていきつつある。現在の医学では、患者の日常的な痛みやしびれなどの頻発に対して対処療法しかない。水俣病診療に総合的・専門的に携わってきた信頼できる医師が不足している。また、水俣病への差別・偏見の根深さが患者側に周囲との信頼関係を築くことを躊躇させ、在宅サービスの利用が少ないという結果になっている。
このような状態にある胎児性患者 (小児性水俣病患者を含む。以下同じ)
の日常生活の過ごし方や社会とのかかわり合い方は、報告によると、次の5つの典型ケースに分類される。
@一般企業に雇われて働いている人とその家族。
A授産施設等に通所している人とその家族。
Bどこにも行き場がない人とその家族。 (もっ とも多い)
C施設入所している人とその家族。今回の調査では聞き取りできなかったが、水俣市内の入所施設には、1950年 (昭和25年)
以降 生まれの胎児性患者が14人いる。ほとんど が30年を超える長期入所である。当然、本人と家族の意向が前提であるが、地域にも日中活動の場が確保できるシステムや、入所施設の役割の見直しも課題となるだろう。
D実態が把握できない重篤な胎児性患者や家族。
(3) 胎児性患者支援の課題
以上の実態調査から明らかになったのは、幼少期から水俣病による重複障害を背負った患者たちが、いかに医療と福祉の両面で不十分な支援しか受けられていないか、いかに友達もなく孤立して暮らしているか、いかに生きがいに結びつく仕事や活動の機会に恵まれていないか、いかに少人数の家族が患者の介護に苦労を強いられているか、いかに将来の生活に不安を抱いているか――といった厳しい現実である。
これらの事実は、国や関係自治体の福祉対策がニーズの多様な患者の実態に見合った取り組みをしてこなかったことを示している。
最高裁判決は、狭義の法律の解釈に限定するなら、被害者に対する国の損害賠償の支払い責任を指示したものであるが、病気や障害を背負い、差別と偏見にさらされた被害者にとっては、補償金を受け取っただけでは真の幸せにはつながらない。
行政の社会的・倫理的な責任という広い視点から解釈するなら、国の責任は金銭的な補償だけで済むものではなく、水俣病の拡大によって壊された安定した家庭生活や生きがいを持てる仕事の場や平穏な地域社会などについて、再生のための支援に積極的に取り組んでこそ、課せられた責任を全うすることができると言わなければならない。国や熊本県の「不作為」という怠慢がなければ、心身の障害の発生も、家庭生活の崩壊も、就業の機会喪失も、地域社会の亀裂も、未然に防ぎ得た可能性が高かったからである。青年になった胎児性患者たちが周囲の人たちの支援の下に、自立を目指す様々な社会的活動や楽しいイベントなどに公的援助なしで取り組んできた姿に、行政は目を向け、人が生きるのを支えるのは何かについて真剣に考えるべきである。
実態調査が明らかにした胎児性患者がかかえている問題の一つ一つは、そのまま行政が対処すべき課題そのものである。その対策の基本的方向は、どんなに重い障害があっても、住み慣れた地域で人々とのつながりのなかで暮らしていくことができる社会的条件=地域福祉システムをつくることである。 (p30付図参照 )
具体的には、まず、働く場を地域に安定させ、在宅の重篤な胎児性患者の日中活動の場として通うことができる場としての機能を充実させることである。そこは、働くことを中心に創造的な活動に取り組める場、仲間や地域の人たちとの交流の輪を広げることができる場である。あわせて生活の場としてのケアホーム・グループホームの整備が必要である。自宅で過ごすことを選択する人にも、居宅介護サービス (ホームヘルプ) や移動支援
(ガイドヘルプ)
の提供が不可欠である。家族と生活している人たちや施設入所者には、地域生活のための宿泊訓練や生活訓練、家族をサポートする短期入所(ショートステイ)
やレスパイト (一時預かり等)
が必要である。重篤な症状にある胎児性患者においては、水俣病をしっかりと把握できるかかりつけの医師の存在や医療の充実が緊急である。
胎児性患者の詳細な実態をあきらかにし、胎児性患者の抱える問題に対処することは、全ての障害を持つ人 (あるいは、社会的なサービスを必要とする人)
を地域で支える方策につながることであり、水俣病の経験を生かした社会福祉の先進モデル地域づくりに貢献することでもある。
これまで、水俣病被害地域に対する地域振興はある程度進められてきたが、胎児性水俣病患者への国や関連地域自治体の福祉対策は乏しかった。それは、水俣病の甚大な被害を受けた地域にあった水俣病被害者の多様な福祉ニーズに積極的に対応してこなかったことでもある。 そのことは、50年たった今、胎児性患者を取り巻く状況の厳しさが如実に物語っている。そこで、国においては関係自治体等と連携して、胎児性患者のニーズを軸に、この地域の他の障害者をも視野に入れた、特別の福祉対策を充実していくことが急務である。
(4)患者の身体機能の低下と家族の高齢化
胎児性水俣病や小児性水俣病の患者・家族が抱えている以上のような問題の多くは、実は他の水俣病被害者に共通する問題なのである。すなわち、40代から50代になると、歩行機能の低下や手足の感覚マヒが生じたり、疲れやすくなったりといった身体機能の低下が目立つような傾向にある。介護にあたる親・兄弟の高齢化は、介護する側の体力の低下がそのまま介護力の低下になり、家族全体に生きにくさの感覚が重くのしかかっている。
こうした状況の変化の中で、水俣病被害者とその家族が安心して生きていけるようにするには、地域全体として医療と福祉が一体となった充実したシステムの構築が必要である。そのシステムは、被害者のライフステージによる身体的・精神的な変化に対応したものであること、多様なニーズに対応できるものであることなどが、必要条件になる。
また、留意しなければならないのは、水俣病被害者に対する社会福祉システムと同じ地域内の他の障害者のための社会福祉システムとが全く別個のものであったり、おおきな差のあるものだったりしたのでは、地域の人々の支え合いや「もやい直し」を阻害することになるということである。水俣病被害者・家族の生活問題は他の障害者とその家族にも共通する問題だからである。水俣病被害者と他の障害者とが共に安心して暮らしていけるための総合的な社会福祉システムの構築が必要なのである。
(5)「福祉先進モデル地域」(仮称) の提言
以上のような状況の変化に対応して、国は関係自治体と連携しつつ、水俣病被害者と他の障害者が安心して暮らせるための総合的な医療・福祉対策に取り組むために、水俣市とその周辺地域を特別の「福祉先進モデル地域」(仮称)
に指定する制度を設けることを提言する。とくに胎児性水俣病患者と小児性水俣病患者については、これらの対策の中で格別の配慮がなされるべきである。以下に、「福祉先進モデル地域」の内容について、試案を示す。
A.「福祉先進モデル地域」の基本的な概念として、次の3点(編注 4点)が重要である。
@)
水俣病被害者の生活支援を主眼としつつも、 他の障害者も共に同じサービスを受けられること。
A)
一人一人のニーズの多様性やライフステージによるニーズの変化に柔軟に対応すること。
B)
家族のニーズに対しても対応すること。
C)
重篤な障害を背負って生き抜いてきた胎児性患者の経験が、今後、この地域で生活していく重篤な他の障害者に対する地域生活支援を充実する施策に活かされること。
B.具体的施策の内容について
@水俣病に対する総括的な医療体制の整備
水俣病の様々な症状について、総合的に判断できる医師や症状に応じた専門的治療をすることのできる医師が不足している。患者の日常的な痛みやしびれなどの頻発に対しても対処療法しかない。脳の神経細胞を損傷され、長年にわたり差別や偏見にさらされた患者にとって、メンタル・ケアが必要である。
カウンセリングや心療内科・精神科の医療援助も必要である。
i )
そこで、水俣病の治療に専門的に携わってきた信頼できる医師が要所に配置される地域医療システムづくりが望まれる。国立水俣病総合研究センターと医療機関との連携を図るのも有効な一案であろう。
A) 身体機能の維持のために、リハビリテーションの施設整備、国立水俣病総合研究センターの機能の充実。
B)
訪問リハビリテーションの実施。
A「生活の場」づくり
@)
グループホーム、ケアホームの整備。
A)
在宅を選択する人に対する在宅介護サービス (ホームヘルプ)
、移動支援 (ガイドヘルプ)の提供。
・もっとも安心して介護を任せられる人が、水俣病の支援活動や介護に関わる身近な友人や家族の場合、「みなしヘルパー」として登録できる制度をつくる。
B)
施設入居中の人にも在宅の人にも、地域の人々と交流を密にするための宿泊訓練、生活訓練の場をつくる。いわゆる生活介護の場を整備する。
・常に介護を必要とする人に、昼間に、入浴・排泄・食事の介護等を行うとともに、創作的活動または生産活動の機会を提供。いわゆる在宅・施設入所を問わず日中活動を提供する。
・看護師を配置し、在宅の重症胎児性患者に積極的に利用してもらう。
iv)
家族を休養させるために、患者・障害者に短期入所してもらうショートステイの場をつくる。
・自宅で介護する人が病気の場合に短期間、夜間も含め施設で、入浴、排世、食事の介護をする。
・本人の希望により家族との程よい関係を保ち、自立訓練の場としても利用する。施設に入所している患者が利用することもできる。
・看護師を配置し、在宅の重症胎児性患者家族に積極的に利用してもらう。この場合は家族とともに利用することも可。
B「働く場」づくり
@)
働く場 (雇用と福祉就労)
の充実と整備。
A) 働くことの喜びを得られるとともに、創造的な活動に取り組んだり、地域の人たちと交流したりして、生きがいを感じられるような場であること。
C「相談窓口」づくり
@)
水俣病に関する相談窓口が広く開かれていること。
A)
医療、福祉、生活の相談ができ、手続きや支給などの窓口に積極的につなぐ役割を担う。被害者・障害者が何カ所も足を運ばなくてもすむようにする。
・医療と福祉行政の一体化は、やればできることである。例えば、広島県のみつぎ総合病院では、はやくから町役場の福祉の窓口を病院内に移し、脳卒中患者の退院後のヘルパ一派遣のような福祉サービスの決定を病院長の決裁でできるようにするなど、医療と福祉行政の一体化が進められ、寝たきり防止に大きな成果をあげてきた。
iii)
相談窓口は行政機関だけでなく、地域住民が立ち寄りやすい民間の施設にも設置する。
これらの総合的な社会福祉システムを格段の財政支援等によって永続性のあるものにするには、後述の「もやい直し」と地域の再生のための施策と合わせて、立法措置も視野に入れた取り組みが必要と考える。以上の「福祉先進モデル地域」を実現するための立法措置に取り組むにあたっては、国は被害地域の関係自治体に対し法案内容を検討するための協議会の設置を促すこと。関係自治体は積極的・主体的に取り組むこと。
(6)「もやい直し」、そして「環境・福祉先進モデル都市」へ
水俣病被害者にとっても地域の人々にとっても、非常に不幸だったのは、人的被害が生じはじめた初期の段階で、原因がわからなかったため、奇病とされた上に、伝染病ではないかという憶測が広まってしまったことだった。水俣病患者が出ると、市の衛生課の職員が白衣にマスクをかけてやってきて、その家に消毒薬を撒いていく。しかも初期のころは劇症型が多かったため、地域住民を恐怖に陥れ、患者が出た家は村八分にも等しい扱いを受けた。家族が外に出ると、石を投げつけられたりひどい言葉をあびせられたりした。患者は避病院 (伝染病患者隔離病院)
に収容された。患者・家族は近所からも親戚からも疎外され、家の中で逼塞していなければならなかった。そのような生活環境の村八分的な遮断は、当然その家に経済的な困窮をもたらした。
伝染病の患者に対する偏見と差別は、明治期のコレラ騒動をはじめ、ハンセン病や結核をめぐっても、数々の悲劇を生んできた。抗生物質などの特効薬のない時代には、それらの伝染病の死亡率が高かったから、人々が伝染病を恐れ、患者・家族を排除しようとしたことにはやむを得ない面もあったにせよ、水俣病の場合は、患者・家族を往年の伝染病の場合と同じようには追いこまないでもすんだ要素が多々あったのは明らかである。
水俣の漁師たちは、魚の大量死や漁獲量の減少などから、早い段階から、チッソの工場排水が原因ではないかという疑いを抱いていた。そして誰よりも、チッソ自身がアセトアルデヒド製造に使っていた水銀化合物が関係しているのではないかと感じていたはずである。熊本大学医学部の研究班は、水俣病の公式確認 (昭和31年5月)
から6か月後の昭和31年11月には、水俣病は伝染病疾患ではなく、魚介類を介してのある種の重金属中毒の可能性が高いという中間的結論を出していた。さらに厚生省の厚生科学研究班は、翌32年3月にやはり何らかの化学物質か金属類による中毒であろうとの報告書をまとめている。
科学的な証明としては不完全であっても、これだけの報告が出ていた以上、国や県は保健所その他の関係機関を動員して、恐ろしい伝染病だという流言や偏見の解消に努めるべきであったし、患者・家族を差別して“村八分
”にも等しいような排斥の行動を抑える努力をすべきであったのだが、そういう努力をほとんどしなかったばかりか、既述のように政府は水俣病の原因を明言するのを大幅に遅らせるという「不作為」の怠慢を貫いたのである。
水俣病の患者・家族に対する偏見と差別は、伝染病視することによる排斥だけではなかった。チッソに補償を要求した患者・家族や漁民たちに対して、地域の人々から、「カネが欲しくて水俣病を演じている」「カネをもらえるなら、わしらも水銀を呑もうか」などと、あからさまに中傷された。
チッソは水俣地域では唯一と言ってよいほどの大企業であり、チッソとその関連企業とに勤める人々が多かった。水俣地域は経済的にチッソに依存していた。水俣病の患者・家族が、チッソや行政に操業中止や補償を要求して、経営を危うくすることは、チッソに依存している人々には許せないことだった。地域の人々は、チッソを支持する人々と、チッソを告発する人々とに分裂したのである。
昭和34年の「見舞金契約」は、このような状況下で、患者側が涙を呑んで受け入れたものであったが、それでもわずかばかりの涙金を受け取った患者側が地域でどのようないやがらせを受けたかは、2章に引用した証言が生々しく物語っている。地域への人々の間に生じた亀裂は、その後、裁判闘争が進展するにつれて、深まっていった。
また、漁獲の自粛による漁業の衰退に加えて、水俣地域の農山村の大地までが広く汚染されているかのように周辺から誤解されたため、農産物も売れなくなって農業までが行き詰まる事態が生じた。さらにこのような混乱は、水俣市とその周辺の中小企業や商店などをも不況に陥らせ、地域全体の経済が大きく沈下した。
水俣地域にとっては、厳しい冬の時代が続いたのだが、これも根源は、水俣病発生の初期における行政の対応の失敗 (怠慢)
にあり、その後の地域住民の間の亀裂の深まりに対する行政の無策がそれに拍車をかけたものであったことを勘案するなら、国や自治体がなすべき償いは、個人に対する金銭的な補償だけでなく、地域の人々の「もやい直し」「もやいづくり」を積極的に支援するとともに、地域の経済の再生や社会的・文化的な振興への支援にまで手を広げることが求められていると言うべきであろう。
水俣病地域では、平成7年の「政治解決」以後、「もやい直し」「もやいづくり」の気運は高まり、さまざまな行事が行われてきた。また、水俣市が新しい“まちづくり”の一環として、ゴミを22種類に分別して収集するとか、水俣地域全体の環境整備のビジョンを打ち出すとか、安全性の高い農産物 ( 無農薬、減農薬、無添加物のミカン、お茶、タマネギ、米など)
や海産物を水俣産ブランドで生産・出荷するなど、多様な取り組みが展開されている。それらは、未曾有の悲惨な公害となった水俣病事件の「負の遺産」を、豊かな環境づくりに生かすことによって、プラスの志向性を持つ遺産に転換する活動ととらえることができるだろう。
また、安心して住むことのできる環境という点で、絶対に忘れてならないのは、ヘドロを埋め立てたとはいえ、その中にはメチル水銀が存在しているということである。30年、50年という歳月を経ても、メチル水銀の密閉度の安全は保証できるのか。そのアセスメントと万全の監視体制に隙間は許されない。
そこで、「懇談会」としては、次の提言をしたい。
@国は、水俣地域の自治体や民間の「もやい直し」「もやいづくり」を目指す多彩な活動に対し、積極的に支援する体制を組むとともに、時には自ら「もやし直し」に新紀元を開くようなプロジェクトを企画すること。
A国として、水俣地域を世界に誇るに足る「環境モデル都市」(仮称)
に指定して、地域の環境、経済、社会、文化にわたる再生と興隆の様々な計画を全面的に支援する制度を作ること。
B水俣市とその周辺は、国の経済成長政策の陰であまりにも大きな犠牲を払わされてきた地域であり、しかも住民はその苦しい経験をバネに、「環境モデル都市」の構築を目指して、安全で 安心して暮らせる美しい環境づくりに汗を流して励んでいる“特区”とも言うべき地域である。
国も県も、そのことを十分に認識して諸施策にあたるべきである。とりわけ現在問題になって いる産業廃棄物処理施設をあえて水俣市に建設しようとする計画については、懇談会としても無関心ではいられず、熊本県が地域住民の声に耳を傾け慎重に対処することを望むとともに、国もこの問題について、「環境モデル都市」構 築の視点から積極的にかかわるべきである。
C埋め立てたメチル水銀ヘドロが絶対に拡散しないような長期安全計画を確立し、30年、50年という時間経過の中でも絶えず見直し作業が継続されるようにすること。
なお、「福祉先進モデル地域」と「環境モデル都市」の二つを一本化して、「環境・福祉先進モデル地域」(仮称) とするのが、制度的に妥当かもしれない。
6. 未来へのメッセージ
〜
水俣病の総合的な調査研究と 「水俣病・環境科学センター」の設立を〜
水俣病事件は、世界史的に見ても未曾有の公害事件であった。この「提言書」では、被害の拡大を防がなかった行政 (国および熊本県)の問題に焦点を合わせて、被害者に対する救済・補償のあり方や病気・障害を抱えて生きていかなければならない被害者の福祉対策や被害地域の再生支援などについて検討し、行政への提言をまとめた。しかし、水俣病事件が提起した問題やそこから読み取るべき教訓は、行政の領域にとどまらず、さまざまな領域におよんでいる。それらはいずれも水俣病事件だけに限られた特殊なものではなく、その後に起きた公害事件、環境破壊、薬害、食品公害、災害などにおいて、くり返し問題点として指摘されるなど、普遍的な性格を持つものである。その主なものを挙げる。
@企業の経営者や技術者に求められる生命倫理が 欠落していた。
A人間の健康・生命に危害を与えたり、将来の子孫に影響をもたらすような事件を起こした企業の速やかな情報開示と公的機関による調査への全面的協力のルールが存在していなかった。
B企業が公害事件などを起こした場合の、関係経済団体が持つべき倫理規範があいまいだった。
C科学者、医学者、法律家などの専門家が持つべき倫理規範と「2.5人称の視点」に相当する意識が稀薄だった。
D地域住民のパニック、偏見、差別などを防ぎ、事態の正確な理解を促すためのメディアの活動が不十分だった。
E水俣病発生当初にメチル水銀が人体におよぼす影響のメカニズムや被害の全貌を明らかにするために、関連諸学術機関、学会、専門家が一体となって総合的に調査・研究を進める取り組みがなかった。
これらの問題点は、経済団体、企業界、学術団体、専門家、メディアなどへの提言の意味をこめたメッセージとして受けとめて頂ければ幸いである。
「水俣病事件の過ちはくり返しません」と、言葉で言うのは簡単である。水俣病事件の過ちをくり返さないと言うのは、全く同じ形態の公害事件を再発させないようにするといった限定的なものではない。事件が提起した問題点から普遍的な教訓を読み取り、それらの数々の教訓を未知のものを含むさまざまな公害、薬害、事故、災害などの未然防止に役立ててこそ、「過ちをくり返さない」という言葉が実体を伴うものとなるのである。
日本の戦後史においては、水俣病事件の後、四日市ぜん息、イタイイタイ病、サリドマイド薬害事件、クロロキン薬害事件、カネミ・オイル事件、薬害エイズ、炭鉱やトンネル工事によるじん肺労災問題、アスベスト (石綿)健康被害など、住民や労働者の健康と命に危害をもたらす事件が後を絶たなかった。もしも公害事件の原点である水俣病事件について、初期の段階でこの「提言書」で指摘したような行政の変革や各界の対応の変革がなされていたならば、その後に起こった上記のさまざまな事件は未然に発生を防ぐことができたか、少なくとも被害を最小限に食い止めることができたに違いない。事件の教訓をしっかり読み取って次の対策に生かすとは、それくらい重要なことなのである。
そこで、「懇談会」は、安心して暮らせることのできる安全な国づくりのために、水俣病事件から学ぶべき教訓を広く内外に伝えていくことの重要性を痛感し、次の提言をする。
@国は水俣病の全貌を明らかにするための総合的な調査研究を推進すること。
・調査研究を進めるにあたっては、水俣病の全貌を可能な限り明らかにするため、医学系のみならず、科学
系、社会学系、心理学系など関係分野の研究者により、
―メチル水銀の汚染の広がり方等の環境破壊の状況
―人体への影響のメカニズム、低量曝露の人体への影響、水俣病被害者の症候・病態・症状の加齢による変化等の健康に関する研究
―隠された被害者の実態把握、偏見・差別の解消方策、患者・家族の生活実態の全貌、被害者・家族の心のトラウマ等の社会学的研究
―環境修復、地域活性化その他の研究
等々の課題について取り組みを進めるべきである。
A国は、「水俣病・環境科学センター」 (仮称)
の設置など、首都圏でも水俣病の研究と教訓の学びと情報の発信などの拠点を設けること。
・「水俣病・環境科学センター」は、水俣病の現地にある各種研究機関や被害者支援施設とネッ トワークを組む必要がある。
・「水俣病・環境科学センター」は、水俣病に関する文献・資料・標本
(実物)・映像記録などを可能な限り収集するとともに、さまざまな公害、薬害、食品被害、環境破壊などに関する内外の文献・資料を備えて、生活・生命の安全、人類の安全についての学びと研究と情報発信の拠点にする。
・「水俣病・環境科学センター」は、研究者ばかりでなく、学生・生徒・児童が利用しやすい地域に設け、子どもたちにも学びやすい展示の工夫をするとともに、子どもたちのための「エコ・スクール」などの行事を行う。
・「水俣病・環境科学センター」は、内外の研究者や環境担当の行政官・企業人などを受け入れて、環境問題や公害防止対策などについての研修セミナーを行う。
・「水俣病・環境科学センター」は、日本の環境保護や公害防止の取り組みを世界に誇れるものにするための牽引車の役割を果たせるように、 世界の環境問題の情報収集をして、行政や民間にそれらの情報を提供する環境情報専門官を配置する。
7.おわりに
本懇談会は、計13回にわたり、議論を重ねてきた。その間の過程は決して平坦ではなかった。時に大議論にもなり、懇談会報告としてまとめられないのではないかとの危機感もあった。
しかしながら、先ず水俣病被害者に対し早急に救いの道を作ること、そして水俣病問題を巡る教訓を将来に生かすことが必要だとの共通の想いのもとに、本懇談会報告をまとめるため懇談会委員全員が努力を傾注した。
本懇談会は、水俣病を巡る行政の失敗に目を向け、そこから将来に向けての教訓を汲みだし、今後の行政の行動の方向を示すべく努力した。第3章から第6章にわたり、「いのちの安全」の危機管理体制、被害者の苦しみを償う制度づくり、「環境・福祉先進モデル地域」の構築など、その提言は多岐にわたる。
本懇談会の提言の実現は、決して容易ではなく、また、時間がかかるものも含まれている。しかしながら、行政が、常に「2.5人称の視点」をもち、粘り強く取り組むことを強く求めたい。
写真:提言につけられた付図
□「水俣病問題に係る懇談会」の開催経過□
HI7.05.11 第1回
・懇談会の進め方について
・水俣病問題の概要等について
H17.06.14 第2回
・吉井正澄委員からの報告等について ・現地開催について
HI7.07.21 07.26 第3回
・現地開催 (水俣市、出水市)
HI7.09.06 第4回
・懇談会の現地開催等を踏まえた議論
・今後の懇談会のスケジュール及び内容について
HI7.10.25 第5回
・昭和 34 年前後を中心とした責任問題について
H17.11.28 第6回
・新潟水俣病の経緯・現状・教訓について (熊本との比較を含め)
(関礼子立教大学助教授)
・水俣病の認定申請者の生活実態調査について (丸山定巳委員)
H18.01.17 第7回
・新潟水俣病被害者の会・新潟水俣病共闘会議 (高野秀男氏) 、
新潟水俣病安田患者の会 (旗野秀人氏) からのヒアリング
・胎児性水俣病患者等の生活実態と地域福祉の課題
(加藤タケ子委員)
・今後の懇談会について
H18.02.07 第8回
・今後の懇談会について
H18.03.02 第9回
・被害救済と地域再生について
HI8.03.20 第10回
・水俣病の発生拡大と責任について
HI8.04.21 第11回
・水俣病の発生拡大と責任について
・懇談会の取りまとめ方について
HI8.05.26 第12回
・水俣病問題に係るチッソ等による補償金等の額について
・懇談会の取りまとめ方について
HI8.09.01 第13回
・懇談会の取りまとめについて
※柳田委員、亀山委員、吉井委員 (以上3名、世話人) 、加藤委員
(オブザーバー) と事務局で、提言書草案検討のための会議を7回開催。
□「水俣病問題に係る懇談会」委員名簿□ (敬称略、五十音順)
(座長)
有馬 朗人
(財)日本科学技術振興財団会長、元文部大臣、元東大総長
加藤タケ子
社会福祉法人さかえの杜 小規模通所授産施設ほっとはうす施設長
金平
輝子 日本司法支援センタ一理事長
亀山
継夫 元最高裁判所判事、東海大学専門職大学院実務法学研究科長
鳥井
弘之 元日本経済新聞社論説委員、東京工業大学原子炉工学研究所教授
丸山 定巳
前熊本大学文学部教授、久留米工業大学工学部教授
柳田 邦男 ノンフィクション作家
屋山 太郎 政治評論家
吉井 正澄 前水俣市長
嘉田由紀子 元京都精華大学人文学部教授、前環境社会学会会長 (平成18年4月に辞任)
*編注 現・滋賀県知事
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