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2007年6月23日午後1時から、東京・本郷の東京大学・安田講堂で行われた<公開自主講座

宇井純を学ぶ>において収録された発言全文を日本環境会議(JEC)の好意により掲載する。同文は、JEC機関誌『環境と公害』(第37巻第2号/2007年10月発行)に掲載されているものを若干修正した。文中の敬称は略、所属・肩書きは当時のもの。

【文責:≪環っ波≫編集部/写真:広瀬美紀】

写真:東大・安田講堂を全国各地から参加した1000人超の人たちが埋めた

井上  それではただいまより公開講座「宇井純を学ぶ」をはじめさせていただきます。本日は、真夏のような陽気にもかかわらず、これだけ多くのみなさまにこの安田講堂に足を運んでいただきまして誠にありがとうございます。私、大学院農学生命科学研究科農学国際専攻の井上真と申します。本日の総合司会を務めさせていただきます。委員長の開会の挨拶の前に、簡単に経緯を説明させていただきます。

実は昨年の12 月に私の同僚の小林和彦さんから相談を受けました。宇井先生関連のシンポを東大でやろうという話が持ち上がっているが、どうしようかと。そのとき、私はとてもびっくりしたわけです。なぜかといいますと、私自身は本日の共催であります日本環境会議の理事のメンバーとして、宇井先生とともに岩波書店の『環境と公害』及び東洋経済新報社から出している『アジア環境白書』シリーズの企画・編集に携わってまいりました。まさか同僚の一番すぐ近くにいる教員が宇井先生となんらかの関わりをもっているということは思ってもいませんでした。それから我々の話が進みました。それである意味では、「小林さん、あなたもか!」というふうな雰囲気のびっくりでした。それで、若い人たちのためにむしろ積極的に我々東京大学の教員がやるべきではないか、やろうということで一致しまして、新領域創成科学研究科の鬼頭秀一さんに声をかけて、3人で1月に第1回目の打ち合わせを行いました。そして、私たちの趣旨に賛同してくれる東京大学の教員の有志を募って、小林委員長、そして鬼頭、井上副委員長とする12 名で実行委員を立ち上げたわけです。それが2月のことであります。同時に一橋大学の山下英俊さんに事務局として参加していただきました。

写真:総合司会を務めた井上真さん

私にとってはこの実行委員会での議論、そしてその後引き続いて行われる懇親会での議論というものが非常に有意義で勉強になりました。そういう意味で、宇井純を学ぶという重要な作業というのは、今年の1月あるいは2月の時点からすでに始まっていたということになります。そのような事情によって、私が進行役を務めることに致しました。もちろん、アナウンサーのようにスムーズにはいきません。むしろ言語障害を起こすこともありますけども、どうかご容赦ください。
なお、登壇いただく先生方の紹介には敬称を使用せず、また内と外との区別もせず、「さん」づけで統一させていただきますので、この点もご了解いただきたいと思います。それでは、まず開会の挨拶です。主催者であります公開自主講座実行委員長、東京大学大学院農学生命科学研究科農学国際専攻教授の小林和彦さん、お願いします。


■開会あいさつ         小林和彦(東京大学大学院 農業生命科学研究科 教授)
小林  公開自主講座<宇井純を学ぶ>をこれからはじめます。はじめるにあたって、私どもがどういうことを考えてこの公開自主講座をやろうと思ったかを少し説明したいと思います。先ほど、井上さんから紹介がありましたが、当初宇井純さんを偲ぶというような企画だったのですが、なにかそういうことはあまりやりたくないな、という感じがしたのです。やはり、よくよく考えてみますと、宇井さんは――私は30 年くらい前に、ここ東大の工学部で自主講座公害原論をやっていたときに実行委員をやっていたのですけども――宇井さんという人は、気になる言葉をすごく残しているのです。そのときは必ずしも実行委員として素直には受け止められなくて、むしろどちらかというと宇井さんみたいな人にはなりたくないなと、そんなふうに思っていたわけです(笑い)。

写真:実行委員長として開会あいさつをする小林和彦さん

ただ、いま30 年後にいろいろな事情で、宇井さんが非常に糾弾していたここ東京大学の教員になってみると、宇井さんが言っていた気持ちや言葉が心の中によみがえってくるというか、気になってくるのです。気になってくることの中には、「現場へ行け」とか、「足で歩いて」とか、そういうことがありました。実行委員のときは「また言っている」みたいな感じで、「耳にタコができちゃうよ」などと思っていたのです。けれども、いまになってみるとやはり、――私は農学部なのですが――実際に現場に行って何がそこで起こっているのか、そこの人は何を考えているのかということからはじめないと、本当のことはわからないなと常々思っています。そういう形では、自分の中に宇井さんの言っていたことが残っているという感じがします。ただ、宇井さんの残した言葉の中には、「公害に第三者はいない」、「住民が作る科学」など、いまの自分にとっては必ずしもそのまま受け止められないものがあります。自分がいまやっている農学の研究。あるいは私自身がやっているのは地球環境変化が食料や生態系にどういう影響があるのかということをやっているわけですが、そういう者からすると、率直なところまだかなり距離があると感じます。

ですが、宇井さんの、なんといいますか、迫力で書かれた言葉というのは非常に気になって気になってしょうがないものですから、ぜひそれを勉強したいと思いまして、私自身、非常にこの「宇井純を学ぶ」という機会に期待をしているわけです。とりわけ、ご覧いただくとおわかりになりますように、どの先生もみなさん書物でしか拝見したことのないような先生ばかりですので、ぜひお聞きしたいことがいろいろあります。それから、とりわけ今日の趣旨は、若い人と一緒に学ぶ、あるいは若い人に元気を出してもらうことにあると思っています。宇井純さんのやったこと、言ったことをもとに、とりわけ若い人たちがこれから環境とか開発とかの研究に元気を出していってもらいたいと、教員としては考えておりますので、皆さんも積極的に参加していただけるとありがたいと思います。最後になりますけれども、この公開自主講座を開催するために多くの方にお世話になりまして、ありがとうございました。特に、宇井さんのご夫人の宇井紀子さんには大変ご協力いただきましてありがとうございました。これをもって開会の挨拶に代えさせていただきます。


■講演 1 「宇井純と水俣病」

原田正純(熊本学園大学 社会福祉学部 教授/水俣学研究センター長)

井上  それでは講演会を始めたいと思います。本来ならばお一人1時間ずつくらい話をうかがいたいところですが、それをやってしまいますとこの安田講堂に籠城するということになってしまいますので、時間の都合上10 分ということでお願いしております。それでは、はじめに熊本学園大学教授、水俣学研究センター長の原田正純さんお願いします。演題は「宇井純と水俣病」です。

 原田  宇井さんの会に私がしゃべるなんて非常に不思議な気がします。宇井さんとの関係はもちろん水俣病を通じてですが、二人の関係はどういう関係だろうと一生懸命考えたのです。先輩後輩とは違うし、ちょっと古めかしい言葉で、若い人からは笑われるかもしれないですが、戦う戦友みたいな言葉が合うのかなと思っております。それはもちろん企業や行政と一緒に戦ったということだけではなくて、自分自身に対する戦いでもあったわけです。そういう意味で宇井さんとは本当に近い。大学も違うし分野も違うし、生まれも育ちも違う。けれども、水俣病を通じて戦う仲間として、非常に大きな存在として、今日まで、いやおそらく私が生きている限りは、私の中に残っていくのではないかと思います。水俣病は正式に発見されて今年で51 年になります。そのちょっと後くらいに、私が現場をウロウロしていたわけです。その頃、「いま東京大学の大学院生が資料を漁ってゴソゴソやっている。こいつは何をするかわからないので用心するように」とよく言われました。大学の中で、誰からか用心しろという伝令がきたのです。いま考えてみると、それが宇井さんだったのです。おそらくその頃、水俣を3人くらいの人がウロウロしていたのです。一人はカメラマンの桑原さんで、それからもう一人は作家の石牟礼さん、石牟礼さんと桑原さんと宇井さん、この三人が水俣を徘徊していたのです。三人に警戒しろと言われたことを覚えています(笑い)。

宇井さんと初めて、意識して付き合ったのは第一次訴訟が始まってからです。宇井さんが亡くなって一番悲しんだのは、第一次訴訟の水俣の原告たちだと思います。原告たちももう年をとりまして宇井さんと一緒に戦った連中がたくさん亡くなってしまったのですが、まだ濱元二徳さんをはじめ何人かは宇井さんのことを一番悲しんだと思っております。

写真:水俣病を通じての“戦士”だったと語る原田正純さん

水俣病が今日に至っても解決していないのは、これほどの社会的な大事件を、医学という非常に狭い枠に閉じ込めてしまって、その中でこれをなんとかしようとした。それが間違いだったと宇井さんがよく指摘していました。確かに、一つの狭い分野でこの水俣病事件というものを閉じ込めてしまったということが、解決を遅らせた理由だと私もいま思っております。
 これをなるべく広げて解放していこうとした人が、宇井さんだったと思います。ご承知のように、富田八郎と書いて「とんだやろう」と読むのですが、合化労連の機関紙『月刊合化』で宇井さんが水俣病の調査結果を連載していました。これがおそらく水俣病の歴史の中で、医学以外で総合的に水俣病のことを取り上げた最初の研究だと思います。それを私たちがずっと後になって利用させていただいて、裁判などに使ってきたという経過があります。そういう意味で、宇井さんは最も早くから総合的な研究を行っていたと思います。

 そして裁判が起こりましたときに、真っ先に駆けつけてきていろいろな資料を提供してくれた。それが裁判に勝った一つの原因になったと、患者たちは宇井さんに感謝しております。例えば猫400 号の問題だとかいろいろなことを――医学者というのは病気のことは知っているけれども、工場の中のことは知らないし、社会の流れのことも知らなかったわけですから――教えてくれたという点で、水俣病の歴史の中で宇井さんの名前は残っていくと思います。新潟水俣病が起こったときも、いち早く宇井さんは協力されたときいております。水俣では裁判を起こしたものの、どうしていいのかわからず、右往左往したことがあります。そのとき私たちは水俣病研究会というものをつくって、医学だけでなく法律だとか工学だとかいろいろな分野の人たちが集まって水俣病のことを研究ました。そのときも宇井さんのアドバイスあるいは宇井さんの資料提供が裁判の勝利に非常につながったと思います。

 そのあと、びっくりするようなことを宇井さんは提案するのです。私なんか田舎にいますからぜんぜん発想しないようなことです。例えば1972 年に患者さん連れてストックホルム行こうと。何しに行くのかと言ったら、国連環境会議があってそこで訴えると言うのです。このとき濱元二徳さんや坂本しのぶさんたち患者さんと一緒に、私は初めて国際学会議に出たのです。こういう発想というのは宇井さんからしか出てこなかった。私も国際会議で話をするのは初めてで、「僕は英語が下手だから駄目だ、行かん」と話していたのです。でも、「ちゃんと通訳つくよ」と言われたので安心して行ったら、当日になって「大学出には通訳は付けません」と言われて、がっくりきて一夜漬けで大騒ぎした記憶があります。ときどきそうやってすかされることもあるのです(笑い)。

 他にも、きょうここにたくさんお見えになっているのですが、公害研究委員会で1975 年に宮本憲一先生を団長として世界公害調査団を組織して行ったのです。そのときも宇井さんと一緒でした。国際的に調査に行こうなんて、田舎にいると思いつきもしないです。「おまえもついてこい」と言われてついていったのですが、それが一つのきっかけとなって、今日まで続いているカナダの水俣病事件だとか、アメリカで起こった有機水銀中毒事件を日本に紹介したりして、いろいろなインパクトになりました。非常にアイデアの人だったと思います。

 アイデアだけではありません。私はその頃、未認定患者をたくさん抱えて、これを一体どうしたらいいだろうと一人で悩んでおりました。そのときに宇井さんにその話をしました。認定されていないたくさんの患者がいるということを話しましたときに、宇井さんは本当に涙を流しました。この人はなんて優しい人だろうと私は思いました。そのことがいまも忘れられません。それから私は自信をもって、川本輝夫さんたちと患者の掘り起こしをやりました。そして、宇井さんの紹介で未認定患者、潜在患者のことを岩波の『科学』に書かせてもらったんです。これがきっかけになって岩波新書の『水俣病』を書くことになりました。これはいまも若い人が読んでくれています。これは私が書いたというよりも、宇井さんがあの涙で私たちに水俣病のことを知らせて広げてくれたと思っております。いま私は、「水俣学」を提唱しております。これは、いままで50 年の水俣の歴史の中から一つの教訓を学び、そして宇井さんの意志も引き継ぐ形で新しい学問のあり方を私なりに模索しているということです。今日はこういう機会を与えてくださった方に本当に感謝して、私の話は終わりたいと思います。どうもありがとうございました。


■講演 2   「専門家として、人としての宇井先生から学ぶ」

淡路剛久(早稲田大学 法務研究科 客員教授)



 井上  どうもありがとうございました。続きまして、早稲田大学教授の淡路剛久さんです。演題は「専門家として、人としての宇井先生から学ぶ」です。

 淡路  私どもは歴史上の人物を見たときに、しばしばよくぞあの時代にああいう人が出てきたものだと、そういう感慨をもって、「時代が人を求める」という表現を使うことがあります。宇井さんは1960 年代から70 年代また80 年代に至るまで、公害を告発し、公害を解決するために戦う闘士として、まさに時代が求めた人だったのではないかというふうに思うわけであります。私が宇井さんに最初にお目にかかったのは、実は1965年のことでした。それから40 年余り、ときに近いところで、いまは『環境と公害』むかしは『公害研究』という雑誌を出していてそこの編集同人としてずっと一緒に協力しながらやって参りましたし、ときには遠いところで、宇井さんが沖縄におられたときにはたまにしかお目にかかれないということもございました。しかし、その間40 数年ずっとお付き合いをいただきまして、公害・環境問題の研究者としてもまた人間としても、最も深いところで、本質的なところでご教授いただいてきたというふうに思っております。

 宇井さんと私は、実は年齢は10歳違うのですが、しかしどういうことか奇縁でありまして、宇井さんが先ほど上映されたビデオの中で日本ゼオンの話をされておりましたが、そこから東大の大学院に戻られたのが1960 年だったと思います。それは私が入学した年でございまして、それで64 年に私は大学の助手になりまして、宇井さんが65 年にちょうど工学部の助手になられました。しかし法律と工学ですから遠いところにあるわけですが、法律の方の世界で、先ほどお話が出ました加藤一郎先生が、文部省の科研費で研究会をつくりまして法学者が集まったことがあります。ここで数年研究活動を続けておりまして、そこに公衆衛生の専門家の方が加わり、宇井さんも助手をされておられましたので、そこにオブザーバーとして参加されました。そういう機会が65 年にありまして、その時に初めてお目にかかって、それ以来ずっとお付き合いいただいてきたわけです。

 ところが思い返すと、実はその2 年と少しほど前だったと思うのですが、私が駒場から本郷に移ったときに、工学部の方で水俣の写真展があったのです。キャンパスを歩いていたら写真展をやってまして、それが実は水俣病の状況を写したもので、非常に大きなショックを受けました。これは先ほど原田先生の話にありましたとおり、宇井さんが現地に入ってさまざまな資料を集め写真を撮ってこられたり、あるいは桑原史成さんだと思いますが、写真家として活躍された方の写真を持ってこられてアピールをした、最初のことだったのではないかと思います。さきほど話に出ましたが、富田八郎、「とんだやろう」という名前で活躍されていたわけです。私はそのときに、すでに宇井さんは被害者とともに、その被害の背後にある巨大な公害の原因というものを見据えておられたのだと思っております。

写真:40年来のつきあいを振り返る淡路剛久さん

宇井さんというのは、大変直観の鋭い方だと思うのです。直ちに物事の本質を見抜くところがある、そういう方ではないかと思っております。公害という現象を、細分化された専門の部分部分で切って、そこからものを言うということについては大変批判されておりました。全体を見なければならない、全体の中で本質を見なければならないということを言っておりました。やはり動物的本能とでもいうのでしょうか、全体の中で本質を見ることができた鋭い感覚の持ち主であったように思います。当時は部分部分の細分化された研究とさえいえないような研究者が、公害研究という名目で特殊利益に奉仕するようなことをやっていましたので、宇井さんは大変怒りをもってそのことを告発しておられたと思います。

 さきほども話がありましたけれども、宇井さんは造語能力があり、しばしば新しい言葉をつくられて本質をズバッと言われるところがありました。「公害の起承転結」論というのもそうだと思うのです。公害が発生しますと、対策のために直ちにいろいろな研究が始まって、比較的早い時期に真理に到達する。ところが、その後に原因者であるとか中立的第三者と名乗るところから、いろいろな反論がたくさん出てきて、数においては何十倍という反論が出てきて、結局正論と反論が中和して真実がわからなくさせられてしまう。これが「公害の起承転結」論である。そういうことを指摘されたわけですが、こうした現象がずっと繰り返し繰り返し現れてきた、これがこれまでの歴史ではないかと思います。

 宇井さんの本質を見抜くというその能力は、私のいる法律の世界にも向けられていました。60 年代、70 年代にはたいへんたくさんの公害にかかわる法律がつくられました。宇井さん一流の表現で、「日本には、積み上げると枕にするには高すぎるほどのたくさんの公害に関する法律がある。しかし一つ法律ができるごとに公害の解決は遠のいていく」といって、法律のことを批判されたりいたしました。

 さきほど、宇井さんは時代が求めた人だったと申し上げましたが、もちろんそれはその人本人がその時代の求めに応えるという決断をしてそういう行動しなければ、時代の人にはなれないわけです。私は、宇井さんが時代の求めに応じようと決断したのは、もしかしたら1970 年のことではなかったかと思います。当時、水俣病補償処理委員会から患者さんに大変不利な斡旋案が出され、それは昭和34年の見舞金契約の再現ではないかと危惧されました。そういう斡旋案が出るというときに、水俣の被害者、支援者の人たちと一緒に宇井さんは厚生省に座り込まれました。私も実は座り込んでいたのですけれども、斡旋案が出たときに宇井さんは厚生省の中へ抗議のために柵を乗り越えて入っていったわけです。それで逮捕されたということがありました。私はここに研究者としてだけではなくて、一人の人間として「これは行動せざるをえない」という宇井さんの決意を見たように思うわけであります。そのときから宇井さんは、時代に応えていく人になられたのではないかと思っております。それ以降宇井さんの活躍は目覚しく、専門の領域で、水の専門家としてたいへん活躍されるだけではなくて、反公害の運動のリーダーとして、日本のみならず国際的にも活躍をされました。さきほど原田先生から、世界公害探検隊という調査団が派遣されたという紹介がございましたが、そのとき留学中の私も現地で参加しました。宇井さんにイタリアでお目にかかったときには、イタリアのいろいろな優れた研究者と交流があっただけではなくて、イタリアでは当時、裁判官が最先端で反公害の運動をやっていまして、私はそこでアメンドラという裁判官に紹介されたりしたことがあります。

 人間というのは大変面白い存在で、宇井さんというと強面で強いイメージがありますけれども、宇井さんにもウィーク・ポイントがあったと思うのです。世界公害探検隊でローマでお目にかかったときのことですが、一日いろいろ調査をして、夜ホテルの一室でみんなで飲んでいたわけです。突然宇井さんが弱々しい声で、「ちょっとわがまま言っちゃおうかな、上の部屋なんだけど、この部屋に変えてくれないかな」と言われるのです。宇井さん実は高所恐怖症でして、ところが上の部屋というのはだいぶ上だったのでしょうけれど、酒を飲んでいた部屋もたぶん4 階か5 階ぐらいでして、我々だったらそれもやっぱり高所ではないかと思うわけですが、高所恐怖症の方は相対的で、少し下がればまたそれで安心するようです。その宇井さんが、いまは一番高いところの天国におられて、もうそろそろ半年以上経ちますから高所恐怖症にも慣れてきて、奥様や子供さんそして我々を優しい目で見ておられるのではないかと思っております。

 この40 数年、宇井さんからいろいろ学ばせていただきましたし、公害研究者としてどう生きるべきかということだけではなくて、人間としてのあり方ということに大変深い感銘を受けて宇井さんを見させていただいて参りました。以上を報告に代えさせていただきます。どうもありがとうございました。

■講演 3  「若い世代に伝える、宇井さんの言葉と仕事」

桜井国俊 (沖縄大学 学長)



 井上  どうもありがとうございました。それでは続きまして沖縄大学学長 桜井国俊さん、お願いします。演題は「若い世代に伝える、宇井さんの言葉と仕事」です。よろしくお願いします。

桜井  ただいまご紹介いただきました沖縄大学の桜井でございます。私はこの集まりが、宇井さんを直接知らない若い人たちに宇井さんの言葉あるいは仕事を伝えていこうと、そういう趣旨であると伺いまして、私なりに宇井さんの言葉と仕事を若い世代の人たちにつないでいきたいと思っております。きょうは、実は沖縄戦が終結してから62 年の「慰霊の日」で、本日、沖縄では熾烈な地上戦で亡くなられた二十数万の御霊を慰めて、不戦の誓いを新たにするさまざまな集いが厳しい夏の日差しの下で行われているはずです。沖縄に暮らしておりますと、日本がすさまじい勢いで戦前に戻りつつある、戦前化しつつあるということを日々強く感ずるわけですが、正直なところ本日は沖縄にいてさまざまな思いをめぐらすべきではないかと迷いながら、東京に参りました。

 私は、宇井さんが1965 年に東京大学の都市工学科の助手として水質実験を担当されたときに、最初に鍛えられた学生です。そういう意味で、水処理の同じ専門分野で働いてきました。そういう角度から見た宇井さんは、徹底的に現場での判断を重視する、それからそのこととつながりますが、誰かえらい人がこう言っているというようなことには媚びない、屈しないという現場主義と反権威主義を貫いてこられたように思います。私の専門の立場から、レジュメに三つほど事例を書いておきました。大学で勉強しておりましと、ほとんどの東大の先生方は横文字を縦にするとそれが学問だと、こう思っているところがあったわけです。しかし、歴史がヨーロッパとは違うわけですから、ヨーロッパでは家庭から出る汚水も工場廃水も、ともかく町の外に出すことが第一という形です。そういうことから歴史が始まったため、同じ排水路で町の外に出していたわけです。そのため、それを処理しなければならないということになったときに、すでに混ざっているものをどう処理するのかということが問題になったわけです。日本ではまったく何もされていないわけですから、混ぜるべきでないものは混ぜなければよい。にもかかわらず、日本のほとんどの大学の先生方は、ヨーロッパに倣っていかに混ぜたものを処理するのかということをやっていた。そんなものはあほらしい、そんなことはやる必要がないということを見事に議論の中で喝破された宇井さんを見て、私は目から鱗という感じがいたしました。

写真:“慰霊の日”にもかかわらず沖縄から馳せ参じてくれた桜井国俊さん

また、非常に有名な流域下水道論争という論争があります。流域下水道というのは大きな下水道をつくろうということですが、スケールメリットが働く、安くなるというのは正に神話です。下水処理場こそは大きくなると安くなりますが、パイプはどんどん深くなり太くなります。儲かるのはゼネコンだけです。そういうゼネコンに味方し、あるいは役所に味方し、多くの学者がその片棒を担ぐ中で、徹底的にこれを批判してこられたのが宇井先生であり、中西準子先生だったと思います。いま世の中はどんどん戦前化し、集団的自衛権についての有識者懇談会なるものがつくられて、東大の先生方が正に御用学者として活躍されておられます。こういう事態をいまの若い人たち、例えば東大で学んでいる若い人たちはどう見ているのか。いろいろな意見をもつことはよいわけですが、明らかに特定の意見しか持たない人たちを集めて首相が有識者の懇談会をもつ。こういうことにわれわれはあまりにも黙っていすぎるのではないのか。特に宇井先生が流域下水道の是非についてあれだけ激しく、強固なゼネコンと建設省の連合軍に対して戦いを挑んだということを、私は非常に貴重なものに思います。

 宇井さんはこうした形で論争を挑まれましたが、結局東大には容れられず、日本社会の矛盾がある意味集約する現場である沖縄に1986 年に移られました。私は東大闘争のあと、東大を出て途上国で暮らしていました。宇井先生に鍛えられた私の分野が、一番役に立つのは実は途上国です。途上国の現場で私は、人は実践することで学ぶということを実感しました。そういう私が、もう一度東大に戻ってくることになりました。1992 年に、東京大学でも途上国のあるいは世界の環境問題を学生たちに教えなければならないということで、東大に戻りました。しかし、実は非常にがっかりしました。「戻ってくるな。お前は東大を捨てたはずじゃないか」という形で、学生たちに追い出されるということを期待してもいたのですが、それもありませんでした。また、私や宇井先生の専門分野である衛生工学がもっとも役立つ現場は途上国です。飲み水が安全ではないために、子供たちがばたばた死んでいくという途上国の状況があります。この状況に一番直接的に役に立つ学問をやっているはずの東大の大学院生たちが、現場である途上国にはほとんど行こうとしない。それほど日本は快適であるということですが、私が若い皆さんに問いたいのは、皆さんのやっている学問は現実社会とどう関わっているのかということです。人は実践の中でこそ学びます。そして激しい現場で格闘してこそ人は育つわけです。それぞれの学問、それぞれの現場があると思います。現場から離れたところでは人は成長しないということを、宇井先生は言っておられたのではないかと思います。

 さきほど申しましたように、宇井先生は日本社会の矛盾が先鋭的に現れる現場中の現場としての沖縄に、1986 年に移られたわけです。いま沖縄では何が起きているのか、皆さんご存知と思います。多くの皆さんが、いまの日本の状況から、この戦後62 年、平和憲法が、あるいは9 条が日本を守ってきたといっておられますが、私はこれはとんでもない嘘だと思っています。この62 年間、沖縄は一貫して戦争と隣り合わせでした。背中合わせでした。まず朝鮮戦争があり、ベトナム戦争があり、湾岸戦争があり、アフガン戦争、イラク戦争があり、常に戦争と背中合わせです。そういう沖縄、国土面積の0.6%を占めるにすぎない沖縄に、米軍基地の75%が居座り続けている。そしていま限りなく日米両軍が一体化して、アメリカのする戦争に世界のどこまでも付き従っていく。

 そういう中で何が起きているのか。文科省がいわゆる集団自決には軍命があったという記述を教科書から削除しようとしております。アメリカに付き従って世界のどこまでも行くためには、沖縄の人々の間にある、軍隊は国民を守らないという沖縄の人たちが体験した記憶を拭い去る必要がどうしてもある。また、沖縄では新しい基地がつくられようとしています。辺野古につくられようとする新しい基地に反対している人たちに対して、自衛艦、掃海母艦の<ぶんご>が出動して威圧する。こういうことが日常的に起きています。あるいは私の大学ではありませんが、隣の大学に一昨年ヘリコプターが落ちました。ヘリコプターが落ちたのですが、1週間もの間、学長が大学の中に入れませんでした。そのあとすぐ私は、私の大学にヘリが落ちたならば、私の許可なしには絶対に入れないということを、アメリカの大統領とその当時の小泉首相にあらかじめ宣言をせざるを得ませんでした。そういう状況の中で沖縄はあります。

 そしていま、沖縄に本土が近づきつつある。本土の沖縄化が進んでいるのではないかと考えています。そういう意味で、私は沖縄というのは日本のいろいろな状況を考えるうえでの大きな現場だと思います。沖縄だけが現場だとは思いませんが、やはり現場で皆さんの学問と真剣に向き合っていただきたい。これが、宇井さんが残された言葉ではないのかと思います。そういう宇井さんの思いを引き継ぎながら、いま私は沖縄で暮らして若者を育てています。沖縄では、基地を受け入れることに対するものすごく手厚い保護があります。これは麻薬です。この麻薬を復帰後35年、打たれ続けています。この麻薬から脱して、自らの二本の足で立って沖縄の未来をつくっていくということが、宇井先生が沖縄大学に来られて、後進を育てようとされた仕事ではないのかと思っています。私は沖縄の地で、そういう仕事をぜひ引き継いでいきたい。若い皆さんにはぜひそれぞれの場所で現場と向き合っていただきたいと思います。どうもありがとうございました。





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