井上 どうもありがとうございました。続きまして和光大学名誉教授 最首悟さんお願いいたします。演題は「第三者はいない」です。よろしくお願いします。
最首 いたたまれなさ。うしろめたさ。やましさ。その思いが少しずつ増していくという状況がありました。1960年の6 月15 日とか、1962
年の大学から学生の自治を切り離すという大学管理法案の頃まではまだよかったです。そのときはこの安田講堂の上で茅さんを一晩缶詰にしたといって、大学に来るなと言われました。けれども、65
年くらいになると少し本格的になってくる。日韓会談、韓日条約。そこで日韓人民連帯ということをうたうのですが、いったいそんなことが可能なのか。そしてすでに61
年からベトナムで枯葉作戦が始まっているのです。四国全土を枯れつくすだけの枯葉剤が撒かれたのです。ベトナムの死者は300 万人で、負傷者は400
万人。米兵の死者は5 万8 千人。それが65 年ごろピークに達していきます。そのとき「ベ平連」ができまして、私たちは「ベ反戦」を大学の理工系を中心にしてつくったのです。山本義隆たちとつくった。もうその辺はやましさがだいぶ染み通ってきている。これが東大闘争の相当大きなバックグラウンドです。太平洋戦争の責任と、朝鮮戦争からベトナム戦争へ、そして沖縄を犠牲にして日本は繁栄をうたう。
そして70 年を過ぎますと、にっちもさっちもいかなくなってきます。これは70 年代半ばに書いたものですが、「もはや未来に向かって流れようのない時間を、もたされた人たちがいる。いくらお金を積まれても、未来は買えるわけではないでしょうという水俣病に罹らされた人たちがいる。私たちが持ったのは堂々巡りの時間、右往左往の時間というべきもの」。私の入り込んだ世界は、例えばその当時深くしみこんだ二人の言葉で言い表すと、一つは高橋和巳の言う抑圧体系の下にある世界。一つは宇井純の言う原理が貫徹する世界である。高橋和巳については省略しますけれども、大学と企業と資本の三本柱が抑圧体系を構成するのだ。大学にいるものとしてはどうにもまぬがれられない突きつけでした。
写真:東大時代、後輩助手でもあった最首悟さんの思い入れは深い 宇井純の世界とは、彼の公害への住民運動の第二原理を指す。ニュアンスを少し強めて言うと、公害には第三者はいない。いるのは加害者と被害者である。第三者を名乗る者は必ず加害者である。そして公害を差別と読みかえると、より根底的な原理になる。差別には第三者はいない。いるのは差別者と被差別者である。第三者を名乗るのは必ず差別者である。
私たちが突きつけられてすぐに言うのは、「私がいったい何をしたというんです。私はむしろあなたがたを同情して」。自分でもそういう気持ちはいくらだってもっているわけです。
この宇井純の言葉というのはどうしようもないです。私たちは加害的なものとして自己否定的に振舞う。少なくともまず自分の属する組織の内部告発、そしてそれはすぐに自分の内部の告発になりましょう。加害者、共犯者、差別者、そして自己否定というのはどう身を処すものであるか、というような中に投げ込まれた。加害的被害者、被害的加害者。これはついに宇井純が直接指した公害の拡張型としての放射能、電波、地球温暖化、そしてそもそもは多重化学物質相乗汚染症という、科学の現状はどのようにしても取り組めない生き物の不調があります。おそらくこの加害的被害者、被害的加害者というのは、一国を越えて、南北を越えて、地球的なものになっていく。アーシストと簡単に言いますけれど、大変な状況です。その意識、宇井純の言う第三者はいないという意識がほとんど罪意識のようにすべての人にいきわたる。それはいつだろうか。普通に暮らしていて、しかもあっちこっちいろいろと体の不調、心の不調を感じる。そこに罪意識がダブるだろうか。アダムとイブが知恵の実を食べて以来の罪意識の変容というのがここにある。そして私たちはすべて、そこから脱却しなければ未来はないだろうという時代に生きております。
しかし、そんなに簡単にものは言えない。最終的なメッセージは石牟礼道子からすでに発せられている。「祈るべき天と思えど、天の病む」。
四大宗教を超えた普遍的な宗教というのを一方で目指しながらも、この石牟礼道子の言葉の前に私たちはどうしたらよいのだろうか。やはり人を、そして生き物を日々の暮らしの中でいつくしむ。そこからしか何か始まらないのではないか。とは思うのですけれども、いつくしむとは何か、ということでまた堂々巡りがはじまる。そしてこの堂々巡りを避けてはならないというふうに思います。どうもありがとうございました。
■講演 5 「宇井さんの言葉と仕事は、何だったのか」
吉岡 斉(九州大学 比較社会文化研究院 教授)
井上 どうもありがとうございました。続きまして、九州大学教授 吉岡斉さんです。演題は「宇井さんの言葉と仕事は、何だったのか」。よろしくお願いいたします。
吉岡 一応レジュメがこのパンフレットにありますけれども、同じことをしゃべってもしょうがないと思うので、基本的に別の話をしたいと思います。私はなぜここに呼ばれたのか、いまだに分からない部分もあるのですけれども、自主講座運動との関わりというのはほとんどない。私は70
年代の半ばに、東大の学生でしたけれども、一度だけ宇井さんの顔を見に行ったんです。御用学者の役割とかいうずいぶん迫力のある話で感銘を受けて、内容は御用学者というのはこんなふうに言うものだという常識の範囲内ではありましたけれども、非常に迫力に圧倒されて帰ってきた。もう一回、実は自主講座に出た記憶がありまして、こちらもお客ですけれども、1979
年に「高木仁三郎来る」というでかい看板がはってあって、ついそれに引きずられて、院生の頃でしたけれども見に行った。高木さんは怖い人で寄らば切るぞという迫力を、当時四十くらいだったと思いますが、持っていました。その二回しかないわけです。それと、宇井さんとはだいたい一、二年に一回くらいずつしか会っておりませんで、特別に親しい関係でもないということで、ここに呼ばれたのは資格があるのかという自問自答もあるわけです。けれども逃げる理由もありませんので、いま壇上に立っているわけです。ちなみに自主講座に聴きに行った私の気持ちというのは、物理学科のころ上野にパンダが来まして、授業の時間の合間にパンダを見に行った、そういう経験があるのですが、それと似たような軽い気持ちでありました。
宇井さんはアジテーションをやるのは絶対苦手な人だと思います。とつとつとゆっくり話される。この会が始まる前にビデオが流れていましたが、まさに宇井さんだな、宇井さんらしいという話し方でした。私も会話はへたくそで、正直いってコミュニケーション障害が自分でもあるのではないかと思っているわけですが、宇井さんもそうだと直観的に思うところがあります。『公害原論』をつくるときも、講演録ですので自分で直さないといけないわけで、気が重かったと思うのです。「てにをは」がでたらめな部分とか語尾がないとか、いろいろあるので頭が痛かったと思います。ところが、有能な編集者がいてほとんど直すまでもなくできていたのにはびっくり仰天したということが、今日のパンフレットの回想文に書いてあります。そんな人だったな、話下手だったなということが印象に残っております。
写真:宇井さんの生き様に勇気づけられたと話す吉岡斉さん だからこそというわけではありませんが、今日のパンフレットで紹介されているいくつかの言葉は――「公害に第三者はいない」などですが――皮肉をこめた言い方をすれば、ワンフレーズという福田赳夫や小泉純一郎とかが得意としたやり方と呼べるわけです。けれども、だからこそ鋭いワンフレーズ、含蓄の深いワンフレーズがたくさん残ったのだろうと思います。これは裏返しみたいなもので、だから口下手が悪いわけではないということの証明でもあるわけです。こういうことを深い含蓄がある言葉として噛みしめて、皆さんにも噛みしめて欲しいし、私も日々噛みしめているところです。
私がここに呼ばれた理由を強いてあげれば、宇井さんがやってこられたような対抗的な、つまり政府や産業界に対して対抗的な調査、研究を進めてきたということです。私の場合はエネルギー、原子力政策が中心でして調査、研究をやってきました。活動の分野は、宇井さんは水問題ですので分野は違いますが、やっていることの共通性が非常に多いのではないかと思っております。もう一つのポイントとしては、「市民の科学」ということを宇井さんは古くから提唱しておりました。私はプロの研究者ですから市民ではないわけですが、市民科学をサポートするという活動に何年も携わっておりますので、そういう点でも共通点が多い。だからこの二つの理由で呼ばれたのでしょうから、この二つの話を後半部分でしてみたいと思います。
宇井さんの活動として非常に印象に残るのは、1972 年――私は東大に入学した年なので何も貢献していないのですが――ストックホルムの国際環境会議に患者を連れて行って大活躍されたということです。それを前にして『Polluted Japan』 という英文報告書を出して、日本の公害のひどさを世界に広く伝えようとした。それに環境省、当時環境庁も慌てて、政策を動かすような大きな影響を与えた。少なくとも政策を一定程度変えるのに貢献したのだと思います。私の場合もそれを思いながらいくつかの活動を行ってきました。最近の例で言えば、私――実は多くの方がご存知と思いますが――御用学者でありまして、1997 年から内閣府原子力委員会の専門委員をやっています。2005 年に最新の原子力政策大綱がまとめられるとき、私たちは圧倒的少数派で、32 名中反対が2 で、賛成が30 という構成でした。2 名の反対者として何ができるかということが問われました。
まず、核燃料サイクルで再処理の路線をどうするかという議論が、新計画策定会議の前半部分に行われました。半年くらいかけて2004 年の末くらいに中間とりまとめが行われ、そこで再処理政策推進を継続するという結論が出たのです。それに対してどうするかということで国際的な研究チームを組織しまして、対抗レポートを作り、審議が終わる会議の終盤に持ち込んで、再検討せよと言ったのです。しかし、結局数名の委員がその必要はないということで押し切られて、いまの政策大綱ができてしまったわけです。このように国際的な支援を頼んで活動を進めるのは割と大変です。中間とりまとめをまず英訳して外国人に見せて、それを批評してもらって、さらにこれを日本語に訳して出すとか、そういうことをやらなければならないので大変だったのです。
けれども、そういう活動を30 年余り前に宇井さんがやられたということに勇気付けられて活動をやりました。それを援助してくれたのが、高木仁三郎市民科学基金でした。私たちは通算6 名の外国人を招きましたが、渡航費、滞在費、通訳・翻訳費など全部で250 万円くらいで賄いました。原子力委員会がこれをやったら1
億円くらいかかることを、少ないお金でいかに最善のものを作るかということで、宇井さんの経験に非常に勇気付けられました。
宣伝ではありませんが、高木仁三郎市民科学基金は結成されてもう7 年目になります。今日も幹部の方たちがお見えですが、私は6 年選考委員長をやりまして、ようやく顧問に隠居させられました。非常に面白い組織で、市民から協力を募ってお金を募って、年間1
千万円くらいは市民の研究に出すのです。産業界や政府に対する対抗的研究にお金を出して、世の中を騒がしていくという仕組みを構築しているところです。財政状況も黒字に転ずる状況です。そういう市民研究は、大学の職業研究者は排除し――どうしようもない場合には選びますが――、職業研究者以外の人にお金を出すという原則でやってきたわけです。惜しむらくは、選考委員長をはじめ選考委員のほとんどすべてが職業研究者であるということで、これを克服すべく今年から市民の選考委員を入れて、将来的には大半を、過半数を市民の選考委員にしていくという方向に――私は理事ではないので責任をもっては言えませんが――、もっていきたいと思っております。どうもありがとうございました。
■講演 6 「フィールドワーク・歴史・適正技術」
宮内泰介(北海道大学 文学研究科 准教授)
※現在は教授
井上 どうもありがとうございました。講演の最後になります、北海道大学准教授およびさっぽろ自由学校「遊」の宮内泰介さんです。演題は、「フィールドワーク・歴史・適正技術」です。よろしくお願いします。
宮内 こんにちは。宮内と申します。北海道大学で環境社会学という分野を教えております。南太平洋のソロモン諸島の調査研究や、沖縄・北海道などいろいろなところでいわゆるフィールドワークを中心にした調査研究をしております。同時に札幌のさっぽろ自由学校「遊」というNPO
を根城にしていろいろな活動をしております。私は、学生ないし大学院生くらいの頃――1980 年代特に半ばくらいから後半にかけてですが――「反公害輸出通報センター」――改称しまして「反核パシフィックセンター東京」という名前になったのですが――の活動に参加していました。これは、ご存知の方も多いかもしれませんが、宇井さんが始めた自主講座から派生したグループの一つでした。その活動に私の20
代後半のかなりの部分を費やしたのです。それが青春の過ごし方としてよかったかどうかはわからないのですが、後悔はしておりません。ただ、宇井さん自身は、私が関わった頃、その活動には直接の関与がほとんどありませんでしたので、私自身は宇井さんと直接関わるということはあまりありませんでした。
ただ、やはり私もここの大学で学んだ者なのですが、宇井さんが駒場の自主講座をちょうど私が大学入学した頃にもやっておりまして、その頃からずっと宇井さんの話を聞いておりましたので、直接間接にかなり影響を受けていると思います。けれども、私にとって宇井さんは、よくわからない存在だったのです(笑い)。何かものすごいことをいう人なのだけれども、全体像がよくわからないし、何を考えてらっしゃるのかがもうひとつわからない。わからないけれどもしかし、同時にとてつもなくすごい存在という印象をずっと持っていました。
それで今回、この会に呼んでいただいたこともありまして、この何ヶ月か宇井さんが60 年代以降に書かれたものを改めて読み返すという作業をやりました。そこで改めて、宇井さんがすでに60
年代70 年代にすごいことを書いているということを再発見しました。そのあたりのことについて2、3 お話したいと思います。
写真:フィールドワークの意味を問い直したいと話す宮内泰介さん
一つ目はフィールドワークということです。宇井さんは、ご存知のように、終生自分は技術者であるということを自認した方でした。しかし同時に宇井さんは、水俣との関わり、公害問題との関わりの中で、近代日本の技術というものが、もうすでに技術そのものに政治性をもっているということを発見して、それを主張されていた。そうすると逃げ道がなくなってしまうわけです。そこで、突破口という意識は宇井さんには当時あったわけではないと思うのですが、水俣でのフィールドワーク――宇井さんは当時フィールドワークという言葉を使っていなかったと思いますが――を始めた。そのことの意味合いを、それから宇井さんが水俣で行ったフィールドワークの中身は――私にとっては謎に包まれているわけで――実際にどうだったのか、そして宇井さんにとっての意味は何だったのかということを、もう一回私たちは踏まえ直す必要があると思っております。2005 年に、かなり最近ですけれども、宇井さんはこんなことを書いております。「私が水俣病に直面したとき役に立った方法は、むしろジャーナリストが行う聞き込みであり、聞いたことを確かめる足であった。環境問題のような新しい分野における方法論はそうしたものであると聞いたのはかなり後のことになる」。宇井さんにとってのフィールドワークの意味、それからそのことの私たちにとっての意味を、もう一回考える必要があると思っております。
次に二点目です。宇井さんがフィールドワーク重視という姿勢をとりはじめてしばらくしてからだと思いますが、もう一つの方向性を宇井さんが見出したのではないかと私は思っています。それは何かというと、歴史を見るということ、歴史を重視するということだと思います。宇井さんが60
年代70 年代にかけて公害問題に関わる中で、常に参照した歴史的経験というものがありました。それは主に三つほどあって、一つは明治以降の足尾です。あと二つは、あまり知られていないのですが、茨城県の日立鉱山の煙害問題、それから岐阜県の荒田川の水質汚染の問題という二つの大正期の公害問題です。この三つの問題に宇井さんは常にいろいろなところで言及し、そこからいろいろと学んだようです。おそらく宇井さんにとって歴史を重視するということは、公害の苦い経験というものが歴史を軽視したことから生まれているというある種の直観があったのではないかと思うのです。つまり、解決のために歴史を無視してはいけないということだろうと思います。私たちがやっている環境社会学会という学会がありまして、そこの学会誌を1995 年に創刊したときに、その創刊誌に宇井さんに寄稿していただきました。宇井さんは、かなり強い調子でこう書いておりました。「ここで研究に対する出発点の合意として求めておきたいのは、研究対象の歴史性を重視することである」。自然科学出身の宇井さんが、社会科学の私たちに「歴史を重視しなさい」と説諭するのは何となく滑稽ですが、これはすごく本気に書いているなという感じを私は受けました。そのことの意味合いを、もう一回私たちは考える必要がある、吟味する必要があるのではないかと思っております。これが二点目です。
そして三点目です。こうして、フィールドワークという、技術者としての宇井さんとしてはおそらくある種の迂回路だったと思うのですが、そしてもう一つの迂回路である歴史重視という、この二つを潜り抜けることで、宇井さんはもう一回技術というものに立ち戻るというプロセスがあったのではないかと理解しています。それは何かというと、宇井さんの言葉で言えば、住民運動がつくる科学、あるいは適正技術という主張ではなかったかと思います。これにはさきほどの、足尾、荒田川、日立鉱山という三つの歴史的経験が、単に公害問題としての経験ではなくて、それをその地域の住民たちがどう克服しようとしたかというときに、科学を彼ら自身が作り出していったというプロセスを、宇井さんはかなり学んだのだと思うのです。その影響がかなり強かったとご本人も何度も書いています。また1964年の沼津・三島コンビナート反対運動の中で、高校の先生だとかそこの住民たちが、ものすごい学習運動あるいは調査活動をしたのを宇井さんは割と近くで見て、その影響もかなり強かったとご本人も何箇所かで書いています。
そういう中で、宇井さんは住民がつくり出す科学という主張をしはじめた。これには二つの側面があったと私は理解しています。一つは、住民運動には科学が必要だという側面。もう一つの側面は――こちらのほうが大事ではないかと思うのですが――住民運動から出てくるものこそが科学なのだという側面です。1973
年の段階で、宇井さんはこんな文章を書いています。「この荒田川における―これは先ほどの荒田川です―科学技術の使われ方は、今日の科学技術のあり方、あるいは専門家の立場について重大な示唆を与えてくれる。科学技術の役割は、被害者が納得する水準の公害防除をいかにして実現するかが目的であり、その主導権つまり科学の主導権は被害者になければならない。住民運動がつくり出した科学的調査の内容も、実はしばしばそこに科学の根源的な課題が現れている」。1980
年に日本物理学会がシンポジウムをしたときに宇井さんを呼んでいますが、そのときの宇井さんの言葉にもこんな言葉があります。「われわれが公害として問題を感知するのは、まずたいてい被害からです。発生源が何であるかということもたいていの場合に直観で容易にわかります。公害問題を見る限り、拡散の微分方程式などを使って住民を煙に巻く科学と、漁民や現地住民被害者の実感を取り入れていく科学と、どうも二通りの科学があるように思えてなりません」。こんなことを言っております。大事なことは、宇井さんがこの科学や適正技術を、単に技術の問題として議論するのではなく、社会の仕組みとして議論したということだと思うのです。だからこそ、住民運動、今風に言うと住民自治の中から科学がつくられるべきだという主張になったのだと思います。宇井さん自身はおそらく70
年代80 年代以降、ご自分のご専門である水処理技術の中でこの実践を模索したのだと私は理解しています。1981 年の段階で、宇井さんはこう書いています。「今になってみると適正技術の問題も、公害原論自主講座も、水銀の汚染のケーススタディも、みんな一つに収斂してきた感じがある」。一つに収斂という言葉を、私たちはもう一回吟味する必要があると思っています。
今日私たちが、たとえば環境保全の現場だとか、あるいはまちづくりの現場だとか、いろんな市民活動の現場で、市民自身、住民自身による調査研究というものを重視し、あるいはそれをエンカレッジする。あるいはそういうものを――さきほど吉岡さんが紹介された高木基金もその一つだと思うのですが――生み出す仕組みづくりをいろいろな形で模索しているところです。そういうときに、宇井さんが辿ってきた足跡、あるいは宇井さんが模索してきたことが、本当にストレートに参照軸になっていると思っています。現場重視の学問、住民主体の学問という、下手をするとちょっとレトリックに終わってしまうことを、もう少し本気で、宇井さん自身はかなり本気で考えていたと思いますし、それを私たちが大きな参照軸として見ながら、どうやって自分たち自身の学問、研究というものを作り直していけるかということを、これからも考えていきたいと思っております。
以上ですが、最後に一つだけ。ここにたぶん出版関係の方もいらっしゃるのではないかと思うのですが、宇井さんは本当に面白いものを書き残しているのです。膨大に残しています。全集が無理でも著作集、著作集が無理だったら選集でも、ぜひつくっていただけたらと、最後にお願いですけれども、思っております。以上です。ありがとうございました。
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