小林 それでは<宇井純を学ぶ集い>の後半部分のディスカッション、「若い世代が受取る宇井さんの言葉と仕事」、まずその第一部としてパネルディスカッションを行います。
私、司会を務めます実行委員長の小林です。それからこちらは副実行委員長の井上です。2人でモデレーター役を務めさせていただきます。では、まずパネリストをご紹介致します。こちらに近い方から順に、京都精華大学大学院生の三輪大介さんです。京都大学大学院生の友澤悠季さんです。一橋大学講師の山下英俊さんです。一番最後が東京大学教授の鬼頭秀一さんです(拍手)。
写真:パネルディスカッションでは進行役(左側2人)とパネリスト4人が活発に意見を出し合った
最初にそれぞれの方から、大体5 分程度、自己紹介も兼ねてお話をして頂いて、それからしばらくパネルディスカッションをしたいと思います。その後、フロアの方からもご意見をいただきたいと思っております。それでは、最初に三輪さん、お願いします。
■パネリスト 1 「白保・赤土・黒い水/宇井先生を学ぶこと」
三輪大介(京都精華大学大学院生)※現在は兵庫県立大学経済学部博士課程
三輪 こんにちは。三輪です。本当にここに座っていいのかと思いながら、お話を頂いた時に悩んだのですが、これもきっと宇井先生の天国からの愛の鞭だと思いましてお受けしました。ですが、宇井先生は愛がなくても鞭は打つ人だったと、あとあと気がついたしだいです(笑)。
写真:沖縄での宇井さんの仕事を見直すことで何かが見えると語る三輪大介さん
私が宇井先生と出会いましたのは、17 歳の時に、高校の講演会で宇井先生にお話をして頂いたときでした。「今、沖縄大学にいて、沖縄にはマッチ箱3
つの建物しかない、便所の横にマッチ箱が3 つあるような大学があって、学費が安くて・・・」などと、色々セールスをしていただきました。あぁ、それはいい大学があるなと思い、沖縄の大学に行くことにしました。宇井先生に学びたいと思ったわけです。加えて、高校生の頃、私は石垣島の白保に行っており、白保のこともずっと気になっていたものですから、沖縄に行くことを決めました。
実際に大学に入りまして、宇井先生のゼミに入ったわけです。ところが、入った瞬間から怒鳴られっぱなしで(笑)。本当に怒られたことだけは鮮明に覚えているのですが、他のことは記憶がとぶほど、よく怒られていたような気がします。ゼミに入りまして、先生に、「僕は本当に環境を勉強したいと思っていますが、先生、本は何を読んだらいいでしょうか。」と質問をしに行きました。すると、「お前は、イリイチも読んでいない。パウロ・フレイレも読んでいない。大学に来るまでにこれぐらい読んでおけ」と、また怒られるような感じで、何をやっても怒られるような学生生活でした(笑い)。
大学に行く傍ら、石垣島の白保がずっと気になっていましたので、その運動にかかわりながら学生生活を送っていました。その頃、やはり若いなりに色々葛藤がありました。宇井先生のスタンスは、あまりにも真っ直ぐなストレートな厳しいもので、本当にそれにちゃんとついていこうと思うには、よほどの覚悟がいるというか、度胸がいるわけです。僕にそれがあるのかないのか分からないまま、3
年くらい昼も夜も先生のゼミに通ってはいたのですが、それでもやはり僕の中では未解決のもやもやがずっと残っている状態でした。そして、大学の後半は、さすがに少し大学から離れてしまいました。宇井先生にちゃんと向き合えるような言葉を自分で持てるぐらいになってから、宇井先生に向き合いたいという気持ちもあったのだと思うのですが。
その後、ぶらぶらと海外などを旅しまして、実は、28、29歳 の時に、再び沖縄大学に今度は職員としてふとしたきっかけで戻ることになりました。またそこで、今度は事務職員の自分という形で、宇井先生と向き合う形になりました。ここでもまた怒られたり、ご指導を頂いたりしたわけです。沖縄大学では、大学でISO を取ることに関する仕事、環境の仕事をさせていただきました。その一方で、山下さんがずっとやってらっしゃるような、学生の運動のサポートを一生懸命やってきました。その中で、考えさせられ、気づいくことがいっぱいありました。それについてはまた後で話します。
きょう、お話しさせていただくことをお引き受けして、宇井先生が亡くなってから、本当に何を僕は学んだのだろうかということを、随分悩みました。ここにお集まりの皆さんは、宇井先生がやってきたことというと、やはり『公害原論
自主講座』の宇井先生をイメージされると思います。その後、宇井先生は86 年から沖縄に移ります。沖縄で宇井先生がやってこられたことは、僕はある程度は知っているつもりです。例えば白保の問題、赤土の問題、黒い水の問題。もう本当に、白、黒、赤の問題をやってこられたわけです。その中でも分からないことも幾つもあります。まず、宇井先生がなぜそもそも沖縄という地を選ばれたのか。白保などいろいろな問題とかかわりながら、次の時代の展望をどこに見ていたのだろうか、ということです。
さらに、東大の自主講座をはじめ、先生が残してこられたさまざまな業績の一方で、宇井先生がやろうとしてやれなかったことは何だろうということも、同時に考えなければならないのではないかと思います。それは何だろうと考えた時に、最初に浮かんだのは水俣で聞いた話でした。水俣が90 年代から「もやい直し」をやっていく中で、吉本哲郎さんが「学者がいっぱいこっちには調査に来た。いっぱい調査をしていったけれども、水俣には何も残していかなかった」というようなことをおっしゃいました。僕はこの言葉がずっとひっかかっています。宇井先生はたぶんちゃんとやろうとされていたのだと思います。でも、この言葉は重く受け止めなければいけないという気がしています。それを今にはね返してみると、宇井先生が沖縄でやった仕事が、ちゃんと沖縄に残っているのだろうかということが、問われなければならないと思います。こういう所に、次の僕の仕事がみえてくるのではないかという気がしています。
そういうわけで、沖縄で働いていましたけれども、昨年の4 月からもう一度勉強しようと思って、今は大学院生になっています。
■パネリスト 2 「現場」とはなんだろうか
友澤悠季(京都大学 大学院生)
小林 次に、これまた京都からきてくださいました友澤さんに、お願いします。
友澤 京都大学大学院生の友澤と申します。はじめまして。どうぞよろしくお願い致します。私も、今そこでずっと座っている間中、本当になぜ私がこんな所でしゃべり得るのだろうかということをずっと考えておりました。
私は何者なのかと申しますと、私自身は宇井先生には去年、はじめて病院でお会いし、それが最初で最後だったのですが、色々な巡り合わせと色々な方のご紹介があって、本当に偶然、埼玉大学に資料を見に行っていたこともありまして、著作目録、年譜をぼちぼちまとめていこうとしていたところで、宇井さんが亡くなられたという状況でした。お手元の冊子にも部分的には載せさせて頂いたのですが、宇井さんは本当に膨大な著作を残されています。特に、住民運動や市民運動に関わる、小さなミニコミだとかビラだとか、あるいは本の前書きだとか、そういったところにも、本当に宇井先生の足跡が沢山残っている。そういうものを全ては把握できないということがよく分かりました。今後、これらを、ぼちぼちと集めていく作業を続けていこうと思っておりまして、よろしければ、きょうからでもこれに関する情報をいただけたらと思いまして、お配りしたチラシを作りました。ご連絡をいただけたら大変うれしいなと思っております。
写真:新鮮な切り口で宇井論を展開した友澤悠季さん
前置きが長くなりましたが、私が今、宇井さんという方と出会って何を考えているか。今日、講演を聴きながらまた同じことをずっと考えていました。冊子の中で書きましたのは、現場とは何だろうかということでした。亡くなられてから本当に多くのメディアが宇井さんのことを取り上げて、「現場をずっと歩かれた方だ」、「現場の方」ということを書いていました。ですが、紙面の上ではすごく短い文字数しか残されないので、では宇井さんにとって現場とは何だったのだろうか、あるいは、私自身にとっての現場は何だろうかということを、そこから考えざるを得ませんでした。そこで、今日はそのことをお話ししようと思います。
これは個人的な経験なのですが、昨年の4 月29 日だったと思うのですが、水俣病「公式発見」50 周年ということで、東京の日比谷公会堂で水俣フォーラムの企画で、昔、座り込みがあった場所やチッソの本社があったビルを歩くという――叢想行列という名前だったと思うのですが――企画に参加させていただきました。その時に猛烈に感じたことは、歴史の欠如でした。
私、1980 年生まれなのです。1980 年生まれというのは、テレビも家にあって、毎日、ニュースなどを見ているわけですが、とにかく地球環境問題がどんどん盛り上がっていく時期だったのではないかと思います。酸性雨で被害を受けた森林だとか、砂漠化していく衛星画像とか、オゾンに穴が空いたオゾンホールとか、チェルノブイリも1986 年にありました。1989 年には湾岸戦争があって、そういうものをずっと見て育ったのです。
けれども、その私の中にどういう歴史観が養われたかというと、「何もない」と思ったのです。その日は東京・丸の内を歩きました。でも、見えたのは普通のビルだし、普通のコンクリートの道で、そこで「こういうことがありました」と教えていただかないかぎり、その場所を私はいつでも通り過ぎているし、今もそうだと思ったのです。その意味で、むしろ知らぬ顔をして、ずっと停止していつでも一緒のような顔をしている場所でこそ、現場を考えないといけないのではないかと思いました。
その日の歩いた後のフォーラムの講演の時に、鹿児島県の出水からいらっしゃった中原八重子さんという方が、「東京で講演ができるという話をもらって、私は、本当にこぶしを握った」と言っておられました。「出水で言ったって、何にも届かない」ということを本当に強く言われて、「ああ、このことなのだな」と思いました。つまり、出水で言っていても、あるいはたぶん今も辺野古でずっと座り込みをしている人たちがいても、やはりここで日常過ごしていると、すぐそのことがどこかへ行ってしまうということなのです。そこからどうやって考えていけばいいか。
問題がすごく深いと思うのは、そのように日常を過ごしている――例えば大学から巣立っていく――人たちが、例えば、行政の中に入る、企業の中に入っていく。そして、東京本社で、例えば、すごく遠くの熊本支社のことを決める。その人たちは、自分の決断によって何が起こるか、全部はもちろん把握できないわけです。にもかかわらず、決める。そのことが一方で、すごく苦しいことを生み出してしまう。そういう構造が深い。それが問題で、そこから目を逸らしてはならないとその時に思いました。今日、安田講堂という場所でしゃべるということの意味も考えました。この東大から巣立っていかれる学生さんも――といっても、今日は、私よりももっと上の世代の方も多くいらっしゃっていて、こんなことを言うのも恥ずかしいのですが――、やはり日常の場から、例えば、大学院のゼミとか、大学部のゼミのようなところから、考えていかなければいけないのだということを、常々思い返しています。
■パネリスト 3 「富田八郎」と「環境三四郎」
山下英俊(一橋大学 大学院経済科 講師)
小林 では、山下さんお願いします。
山下 一橋大学で講師をしております、山下英俊と申します。私を含め若手が3 人おりまして、3 人の中での私の位置づけを考えてみたのですが、三輪さんは、宇井先生に直接指導を受けた、かなり珍しい方です。そういう方からみると、やはり近づくと宇井先生はかなり厳しい方なのだということが印象として伝わってきます。一方で、友澤さんは、研究者の研究対象として、直接宇井先生と向かい合っている方なのだと思います。ある程度、客観的な距離をおいたところから宇井先生をしっかり見ていらっしゃるのではないかと思っています。では、私はどこにいるかというと、三輪さんのように怪我をするほどには近づかず、やや離れたところから憧れの対象としてずっと宇井先生を見て、追いかけてきた、というような立場ではないかと思っています。
私自身は、水俣病の最初の裁判の判決が出た直後、オイル・ショックの年に生まれて、チェルノブイリの年に中学生になりまして、地球サミットの年に大学に入学しました。そのため、育っていく過程で自然に環境問題への関心がついてきまして、大学に入った頃には環境問題について何か仕事をしたいと思っていました。ただ、とても漠然としていて、どうしたらいいのかよく分からない。どういうアプローチで環境問題に取り組むかということを悩んでいました。その中で、大学2
年生の春に、宇井先生の講演をお聞きするという形で、初めてお会いしました。
講演の中では、宇井先生が東大の自主講座時代の活動をお話しされたところが、今でも印象に残っています。その自主講座の経験から私が受取ったのは、大学という場所の持っている意味だったと思うのです。一つには、宇井先生のお話でいえば、「大学の助手なり教員になってしまえば、最低限の身分保障はあって、そこに最低限の自由がある。企業に入ってしまうと色々しがらみがあるけれども、ある程度の自由があるから、我々は自分が立つべき立場に立って研究ができるのだ」という研究の場として意味があります。
写真:束になってかかれば成果は出ると語る山下英俊さん
もう一つ、当時のお話で印象に残っているのが、自主講座の事務局があった部屋の電話が、当時、東大の中で一番電話代がかかっていたというお話でした。その意味で、大学という場が実際に運動の拠点にもなりうるのだということを教えていただいたとも思っています。
このように、当時の私は、非常に漠然と環境問題に何か取り組みたいと思っていただけでした。それが、宇井先生と出会うことによって、取り組みの現場として――友澤さんの話ともつながると思うのですが――日々勉強したり遊んだりしている大学という場が、自分の最初の現場になるのではないかと感じるようになりました。
ちょうどそういうタイミングで、私の友人から声がかかりました。その頃は環境が一つのブームだったので、環境問題に関するゼミや講義が幾つかありました。そこでいつも顔を合わせていた友人の一人が、「A SEED JAPAN 」という青年環境NGO に参加していました。当時、A SEED JAPANでは、アメリカの大学で始まった「キャンパス・エコロジー」という、大学で環境問題に取り組む運動を、日本の大学にも広めようという活動を行っていたようです。彼は、キャンパス・エコロジー活動を東大で行う受け皿として、サークルを作ろうという話を持ってきました。私もそれに乗って、2 年生の秋に「環境三四郎」というサークルを立ち上げました。私たちの頃よりは、今の後輩たちの方がさまざまな活動していますので、是非、三四郎のホームページを見ていただけたらと思います。
私たちが始めた活動としては、「テーマ講義」という、環境問題をテーマにしたオムニバスの講義を作るという活動がありました。というのは、当時、東大にあった環境問題の講義は、それぞれの専門分野ごとに、工学部の先生は工学部の先生の話をするし、農学部の先生は農学部の先生がその分野で話をする。逆に社会科学系、政策的な話ができる先生は、あまり学内にいない、というような状況でした。そこで、自分たちで話を聞きたい先生たちを1
人1 回ずつ集めてきて、環境問題の講義を作ろうという活動をしました。
この活動が10 年余り続き、後に、私が大学院に進学してからですが、後輩たちが宇井先生をテーマ講義にお呼びし、宇井先生にも出講してくことができました。その時に、宇井先生が後輩たちに託したのが、「講義を作るというのが第一歩だとしたら、次は、自分たちで教科書を作りなさい。10 年ぐらいかけて、少しずつ情報を集めながら改訂を重ねていくと、よいものができるだろう」というメッセージでした。もちろん、すぐに応えることはできなかったのですが、しばらく後の後輩が、テーマ講義をもとにして教科書を作りました。それが、今日も手元に持ってきましたが、『エコブームを問う――東大生と学ぶ環境学』(学芸出版)という本です。これも宇井先生との、直接的ではないですが、共同作業の一つの成果ではないかと考えております。
この教科書を作った後輩たちは、教科書のもとになったテーマ講義に私を講師として呼んでくれました。そこで私は――こんなことをテーマにしてよいのかという声もありますが――、「東大に環境学は可能か」というテーマで話をしました。どういうことかと申しますと、おそらく自主講座の世代の皆さんは、ある程度お分かりになるのではないのかと思います。宇井先生をはじめ、飯島伸子先生、あるいは西村肇先生のように、70 年代に東大で環境問題に取り組もうとして、ある先生はそのまま助手に留め置かれ、ある先生は学内ではポストが得られなくなり、ある先生は教授になりたかったら公害の研究は止めろと言われたわけです。このように、東大で環境・公害に関する研究がタブーだった時代がありました。こうしたことは、それぞれの先生が本に書かれていますので、それを通じて私たちも確認することができます。一方で、地球環境の時代になった今は、タブーではなくなっているのか。東大で環境学ができるのか。こうしたことを学部の1、2 年生たちに問いかけるという講義にしてみました。
今回の公開自主講座の準備会議の際に、実行委員の先生方とお話しする機会があったので、自己紹介もかねて今の話をさせていただきました。そのとき、「今は、実際に環境問題あるいは環境を研究している研究者は、東大にもたくさんいるのだから、その答えはもう出ているのではないか」というご意見をいただきました。私はすぐに返事をすることができませんでした。可能になったか否かを判断する上で、まず考えておかなければいけないのは、「では、環境学とは何か?」というとこではないかと思ったのです。
「環境学」を定義する一つの条件としては、前半の講演の中でも出てきたと思いますが、宇井先生がおっしゃっていた「第三者はいない」ということが響いてくると思います。公害問題でいえば、被害者の立場、あるいは被害者のためにというスタンスで科学ができるかどうか。もう少し広くいうと、「市民の科学」――市民のための科学なのか、市民による科学なのかといったことについては議論があるとは思いますが――、というスタンスで環境問題の解決に取り組んでいるかどうかということが、一つの基準になるのではないかと考えました。
そこで、「東大で環境学は可能か」という問いの答えについてですが、ここでは直接答えを出す代わりに、最近の大学が置かれている状況を指摘しておきたいと思います。数年前に国立大学が法人化されました。それ以降の状況は、成果主義的なものが次々と導入されています。成果を残さないと大学の中に生き残れないという状況です。若手教員の多くは期限付きの採用になってしまっており――私は幸い違うのですが――、成果を出さないと残れないというシステムが強化されています。そこでの成果というのは、市民のためにどれだけ役に立ったかというようなことではなくて、論文を何本書いたか、学術誌に何本書いたか。外からどのくらい研究費をとってきたか。そういうことで測られてしまう。そういう時代になっています。ということは、市民のために、被害者のために研究をしても成果と認められない。宇井先生の時代には最低限の身分保障があって、被害者のために取り組む自由があった。それがもしかしたら、今の大学にはなくなってきているのかもしれない。そういう状況ではないかと感じています。
ここまでで終わってしまうと、悲観的な話でこれからの展望が見えませんので、最後に少しポジティブな話もしなければと思います。前半で講演をされた淡路先生が、環境科学あるいは環境問題に取り組む研究者は、自分が依拠する個別の専門分野でも、その分野の中で認められるような成果、その分野の中のトップとまではおっしゃっていなかったかもしれませんが、十分認められるような成果を出さなければいけない、とおっしゃっていました。そういう意味では、競争の世界でも認められながら、かつ市民の科学も出来るような、そういう強さを我々の世代は持たなくてはいけないのではないかと考えています。
私自身がそうなっているかというと、かなり心許ないのですが、かわりに「環境三四郎」の中で有望な後輩を紹介したいと思います。今日も参加してくれていますが、大竹君という最近農学部で博士を取った後輩です。彼は、ダイオキシンの環境ホルモンとしての毒性がどのように現れるかという分子生物学的なメカニズムを研究しています。まだ30前なのですが、Nature に筆頭で論文を2 本も書いています。そういう意味では、圧倒的な能力があれば不可能なことが可能になるのかと、後輩を見て思っています。
私たちは、一人一人では宇井先生にはなれないとは思いますが、「環境三四郎」が全体として――私たちの世代から数えて、一度在席しただけというような人たちも含めると、もう250
人ほどいるようですので――束になれば、宇井先生一人分くらいの貢献ができるのではないかと思いつつ、何とか後に続いていければと思っています。
■パネリスト 4 「研究者は<第三者>をいかに超えられるか」
鬼頭秀一(東京大学 大学院新領域創成科学研究科 教授)
鬼頭 鬼頭と申します。私は、この安田講堂での攻防戦があって入試中止になった翌年、1970 年に入学しました。当時から環境のことを考えていたのですが、ちょうど、宇井さんが工学部の2
号館で自主講座を始めていらっしゃいました。私は結局、自主講座の実行委員会には入らなかったのですが、お客さんとしてというのは変かもしれませんが、ずっと自主講座に通いました。その後も、直接宇井さんと話したわけではないのですが、絶えず宇井さんに叱られているような感じを持ち続けていました。その中で、自分に何ができるのか、悶々と悩みつつ試行錯誤を経て、最終的には今、環境倫理をやっています。しかも比較的最近になって、実は、東大の柏キャンパスにある新領域創成科学研究科に来ました。しかも環境学ということを標榜した大学院で、東大では環境学を標榜しているのは、私がいるところだけです。私のような文科系の人間と、工学系とか、農学系とか、いろいろな分野の人がいます。
今の山下さんの「環境学があるのか?」という問いは、私のように東大の環境学の教員をやっている立場からすると、「お前のやっていることは、本当にちゃんとやっているのか?」ということになります。「宇井さんがずっと言っていたことは、今の東大ではどうなのだ」と責められているような気がして、いろいろなことを考えていました。
実は、宇井さんが残した言葉の中でも、私はやはり「第三者はいない」という言葉にずっと拘ってきました。それは私自身が、専門家というか研究者の道を選んだわけですが、しかも研究者として見るということは、それは加害者と同じなのだという意味なのです。加害者にならないような研究のあり方は何なのだろうか。被害者の立場に立つとは何なのだろうか。実はそう簡単でもないと思うのです。
写真:「第三者はいない」の意味は重いと指摘する鬼頭秀一さん
現実に今、環境の運動などいろいろな活動をされている方と接触する機会があります。例えば、自然科学の中の人たちで、被害者の立場に立って一緒に運動をやられている方もおられます。そういうのを見ると、確かにそれは被害者のために科学が役に立つということもある。けれども、本当はそこで活動している人たちは、もっと違うものを求めているのではないかという場合でも、科学が入ることによって、自然科学のある分野の領域にどんどん落としこめられているような感じもします。そうすると、それは本当に被害者のための学問なのかというと、そうでもないような感じもするのです。
宇井さんの「第三者はいない」という意味は、要するに、被害者ではない――例えば、第三者に立とうという――人が、公害の被害を見た時に、結果的に加害者と同じものを見ることになってしまう、同じように捉えてしまう、ということなのだと思います。それはなぜかというと、平等に捉えるとか、数量的に捉えようとするためです。例えば水俣病であれば、被害をハンター・ラッセル症候群という枠組みで捉えてしまう。つまり、学問分野のある限られた枠組みの中で、問題を捉えようとするためです。第三者が被害を平等に、客観的に捉えようとすると、ある枠組みの客観性に取り込まれるような範囲でしか見ないのです。でも、被害者が見ている被害、あるいは被害者が感じている被害――「つらい」というような感情も含めて――はそういうものではありません。身体全体で、あるいは歴史性のあるものでもあるし、全体的に抱えているものとして見ているのです。ところが、それを第三者が捉えようとした時に、それをある枠組みで切り取ろうとすると、結局、加害者がやっていることと同じことをやってしまうことになる。
ということは、ある特定の枠組みで切りとるというスタイルを、どこかで超えなければ駄目なのではないかということになります。一つは現場に出る。フィールドの意味はそういうことだと思うのです。現場に行けば、対象がトータルに見えるような気がします。私も環境倫理をやっていますが、現場に出てフィールドでいろいろな話を聞くことや、現場に立つということが重要だと思うのです。錯覚かもしれませんが、現場に立っていろいろな人の話を聞くと、今まで捉えていたものと全然違うものが見えてくる。さらにもう少し、当事者の人たちと心を通わせるような話をすると、段々と違うように見えてくるところがある。それがずっと生きるかどうかは難しいですが、少なくともフィールドワークや現場に立って考えることをしなければ、結局、ある特定の枠組みで捉えるということになってしまうわけです。
ところがもう一度研究室に戻ってきて、現場の経験を学問的な論文にしようとすると、どんどん切り取られてしまって、またある特定の枠組みの中で捉えてしまうことになる。その繰り返しのようなところがあるわけです。
では、特定の枠組みで捉えてしまうことを超えるにはどうしたらよいか。さきほど宮内さんが、「宇井さんが歴史性のことを言われた」という話をしました。つまり、工学から捉えていた人が、歴史ということを言わざるをえなかったわけです。学際という言い方はしたくないのですが、もっと違う領域、違う立場からいろいろなものを捉える、つまり総合的に捉えるということが必要だと思うのです。
ただし、総合的に捉えるというのは、ただいろいろな立場から捉えればよいということではありません。現場の被害者、あるいは現場でうごめいて生きている人間、その生き様、生きている個別の人間そのものの中から見えるようなものを基本的に大事にしながら、何かを見ていくということでしかありません。それは、どうやっても学問という枠の中に押し込められないようなものだと思うのです。
この困難な壁をどうやって超えるか。もし超えられれば、環境学が可能になるといえます。ただ分野が集まれば学際性などという、いいかげんなものではありません。現場から見えてくるものから物事を構成して、本質を見ることができれば、環境学ができるのではないかと思うのです。かなり困難なことではありますが、少なくとも宇井さんは、工学の立場でそういうことをやってきたのだと思います。今度は私たちが、いろいろな分野の中でそれをやらなければいけない。それは多分、自らが持っている学問の枠組みを、どこかで乗り越えなければならない。
このことは、三輪さんが水俣の「もやい直し」の話の中で紹介された、吉本哲郎さんの「結局、学者がいっぱい研究したけれど、何も地域に残していない」という言葉にも関係します。地域の中で生きるような学問を、どういう形で作ることができるか、という問題なのです。逆にいうと、研究者・学者がそれをやらなければいけないと考えることが、ある意味非常に傲慢なのです。宮内さんが言われていた、「住民運動には科学が必要であり、住民運動の中で行うことが科学である」という「市民の科学」の可能性が、非常に重要だと思います。
今までは、研究者・学者が現場の中で学問的な枠組で捉えて、論文や本にしていました。けれども、市民が、現場をトータルに捉えざるを得ないという被害者の特質に基づいて、自分たちで問題解決に取り組むことが必要です。それが科学にならなければならないと思います。専門家は、むしろそれをどう支援するかが問われているのではないかと感じます。その意味では、実は、「第三者はいない」ということと、「現場・フィールド」ということと、「市民の科学」ということが非常にかかわっているのです。
先ほど、友澤さんが「現場をねじ込む」ということを言われました。私たちは、例えば研究者として、第三者的に現象を見ているわけです。お茶の間で、日常生活の中で、日本で起こっているいろいろなことを見る。ある意味では、加害者が見ているのと同じような世界で見ているわけです。それに対して、「現場をねじ込む」ということは、現場の中で生きている人間が捉えるような視点から見ていくということを、言われたのだと思います。これが、宇井さんが言われたことの本質なのではないかと思います。おそらく学問の世界でもそうです。あるいは、現場で住民運動に具体的に携わってきた時に、科学的なものを含めて現場の科学を立ち上げていくにはどうするのか。そこに研究者はどう関わるのか。こうしたことがさまざまに結びついてくるのではないかと思いました。
小林 実は、今回、実行委員の皆さんに予め寄稿していただいた「講演要旨」を拝見してわかったことがあります。宇井さんのアプローチは、意外な分野で、環境や公害から多少離れた分野で実を結びつつある、価値が出てきていると思いました。というのは、ここに寄稿していただいた皆さんは、必ずしも環境や公害の専門ではありません。けれども、宇井さんのアプローチや生き方に、非常にインスピレーションを得て、それぞれの立場で活動されているわけです。それぞれの立場で、フィールドワークや現場が非常に意味を持つわけです。「現場」や「第三者」といったキーワードを、もう少し広い立場から見直すとまたいろいろな意味が見えてくるのではないかという気がします。
写真:三輪大介さん(左)と友澤悠季さん
友澤 今の話に直接つながるかは分からないのですが、私が「現場とは何か」と考えることと、歴史の欠如をつなぎ合わせて考えないといけないと思った理由の一つに、山下さんが「最後はポジティブに終わらないといけない」と言われたことが関わっています。
ポジティブは残ると思うのです。ネガティブは消えていくと思うのです。消えてはいけないはずだし、渦中におかれている方から考えれば消えるはずがないのですが、教科書からは消えていく。日常性の進行の中では、ネガティブなものは消されていく。見たくないし、考えたらつらい。苦しいし、腹が立ってしまう。このような、見ようとしなければ消えていくものに、今、公害がされているような気がしています。環境と公害という言葉が二つあるのはなぜかということも、一つのヒントになると思っています。さきほど「1980
年生まれです」と言いました。私が社会科の教科書で習う時には、「公害から環境へと、問題は広く複雑に、そして多種多様になりました」という説明で習いました。今日おられる若い方も、おそらくそう習ったのではないかと思います。それなら公害は単純なものなのかと考えると、それは違うと思うのです。「環境問題の一つが公害」という位置づけで、歴史がとても単線的に描かれてしまうということを、逆にして考えていかないといけないと思いました。つまり、「公害の一つが環境」と位置づけても考え始めることができるのではないかと思っています。
ポジティブは残ると言ったのは何を指しているかというと、環境関連の学問は発展してきたということです。環境とつく大学の学部も多いし、学会も1990
年代前後からたくさん増えてきたし、環境関連の本もたくさん出てきた。それはなぜだろうと考えました。最初、本当に苦しくて腹が立って、なぜだと思っていることから始まったものが、どんどん発展していくというのはどういうことなのだろう。つまり、解決したい問題があって始まったもので、本来ならば解決したら終わりたいはずのものなのに、でも学問だけは発展しているように見える。このギャップに気づいた時に、「大学ってちょっとやばいんじゃないか」と私は思ったのです(拍手)。でも今、私は大学院生なのです(笑い)。そこにすごく引き裂かれる部分があって、それを思いました。
先ほど、最首先生、桜井先生が、この場所で沖縄のことや、ベトナムのことを話されました。この場所に現場をそこでねじ込まれたなという気がして、その時も圧倒されてしまいました。そういう形で言葉に力を持たせるしかないのかもしれないと思いました。学問というものに、もし一つ何か明かりを見出すとしたら、きちんとした言葉で、きちんとしたことを語るということにある。そこに歴史がなくならないように語るにはどうしたらいいのか、ということが課題ではないかと思いました。
写真:山下英俊さん(左)と鬼頭秀一さん
山下 今の友澤さんの「大学はやばい」発言と会場の拍手で勇気が出ました(笑い)。先ほどの鬼頭先生のお話にどちらで切りかえそうか迷っていたのですが、やはりここ東大の安田講堂にいますので、東大の問題を東大の先生に語ってもらわないといけないのではないかと思います。鬼頭先生は、理想論できれいに回避しているのではないかという気がします。司会のお二人も東大の先生ですし、フロアーにもいらっしゃるはずなので発言していただきたいと思っております(拍手)。
友澤さんから、歴史の中で、特にネガティブなものは忘れられるという話がありました。宇井先生や、飯島先生、1西村先生が、ご自分の言葉で残されたからこそ、私は過去のタブーだった時代を知ることができたわけです。けれども、多くの東大生たちは、そういうことすら知らずに卒業していってしまっているのだと思います。そういう状況に対して、それでも東大で環境学をやろうと思ったら、どういうことをすべきか、何ができるか、何をしているか、という話をしていただけると、私もこの後、自分がどう進んだらいいかという時の参考にさせていただけるのではないかと思います。
井上 『キミよ歩いて考えろ』という本があります。この本は、宇井さんがちょうど現在の私と同じくらいの年齢の時に書いた本だということを知りました。この本の最後に何が書いてあるかといいますと、「分からない時、自分が壁にぶつかった時は、まず動いてみる。ずいぶん変化の多い道をたどってきた私が言えることは、この平凡な結論である」。このことが私は非常に重要だと思っています。簡単にいえば、現場主義、現場に出なさい、現場から学ぼう、ということになるわけです。そこから見えてくることは、非常に多い。例えば、我々、普通に生活していますと、ある人が所属する組織や、会社の名前など――あの会社は、悪いとかいいとか、役所だったらこうではないかとか、東大だったらこうではないか――といった色眼鏡でどうしても見てしまうところがあります。ところが、現場に行きますと、現場から見えてくることは、われわれが持っている色眼鏡とは違った動きを、その個人がどんな動きをしているのか、ということから判断できる場面が多いと思うのです。そういう意味で、これも宇井さんがおっしゃっていた「どんな立場にいても、連帯できる。協力できる。やることはある」という言葉にも繋がってくると思います。
さらに言うならば、その上で、自分たちが何ができるのかが問われます。実は、私にはかなり学生がいます。その学生たちは皆、フィールドワークをやっております。フィールドに行って、現場で悩むわけです。若い学生たちが現場で悩みます。ここに研究に来ている自分というのは何なのだろうかということを、常に悩むわけです。おそらく研究室で本を読んでいる時には、あまり悩まないことです。それが現場に行きますと、自分の人間すべてが試されるわけです。そこで悩む。そこからどうするかという話になります。研究者の現場とのかかわり方については、私の周りにいる若い人たちは常に誰もが考えているわけです。
若干違うのは、必ずしも加害者と被害者ということではないということです。熱帯地域の農山村を中心に、日本も含めて山村でフィールドワークをやる学生が多いのですが、そこでこの人たちのために自分は何ができるのか、自分がいることは何なのか、そういう悩み方をします。ですから、必ずしも加害・被害ということではないのですが、少なくとも誰のための研究であるかということは、フィールドで常につきつけられることです。昨年、そういった悩みを学生たちに書いてもらった本を出しました。『躍動するフィールドワーク』という本です。それを読んでみて改めて、この悩みというのはもしかすると永遠に消えないのではないかと思いました。
では、この先どうするかということについては、例えば、大学という場で、「こうしなさい」と教えることはできないと思います。そうでなく、悩んでいる若い人たちと一緒に、我々教員も悩む。一緒に議論していく。悩みを共有していくところから、若い人たちがそれぞれの道を見つけていくための場作りをする。それが重要ではないかと思っています。その意味で、大学は捨てたものではないというのが私の考えです。
写真:モデレーターを務めた小林和彦さん(左)と井上真さん
小林 私も何か言わなければいけないと思います。特に私の場合は、環境省からかなりのお金をもらって、研究をやっています。私自身の学生にも環境問題の研究でペーパーをいっぱい書いて、有名な人になってもらいたいと思っています。というのは、これは真面目に言いたいのですが、宇井さんは自主講座開講の言葉の中で「立身出世に役立たない」と言いました。ですが、環境問題の研究が何らか世の中に役に立つとすれば、やっている人が立身出世につながっていかないと、広がっていかないと私は思っています。立身出世にもいろいろな意味がありますが、研究をやっていて良かった、研究者として良かったということがないと、環境問題の研究は進んでいかないと私は思います。そういう意味では、環境問題をやっていて、ペーパーをいっぱい書いて、いい研究者になってもらいたいと思っています。
一方で、先ほど井上さんが言ったような後ろめたさ――こんなことをやってこの場所の人に何の役に立つんだろう、ということ――を忘れてはいけないと思います。そのことは極めて大事です。私の学生もベトナムに行ったり、中国に行ったりして仕事をしています。ですが、そんなことをしてその場所の人に何か役に立つのかと考えてしまうと、それはなかなか難しい問題で、容易には解決しないと思います。先日、新聞を読んでいましたら、ある女性で、イスラエルのパレスチナ人とユダヤ人が住んでいる場所しばらくおった方が、こういうことをパレスチナ人に言われたという記事が載っていましたので、紹介したいと思います。「ものごとを中立に見るのではなくて、両側から語れる人になって欲しい」ということを言われたらしいのです。中立に生きるということは、特に、イスラエルの場合はあり得ないのだと思います。そのため、「両側のことが少なくとも分かる人になってもらいたい、と言われたのだと思います。私も、私の学生にはそういう風になってもらいたいと思います。それぞれの立場があるけれども、両方の立場がきちんと把握できるということが、最低限必要ではないかと思っています。
鬼頭 私も答えなければいけないと思っているのですが、どちらかというと山下さんにかなり挑戦的に言っていただいて、大変良かったと思っています。
山下さんが言われたとおりで、私は非常に理想論的な、きれいごとを言ってきたのですが、今の東大を見てどうなのかということについては、いろいろ考えることはあります。ただ、現実には、単なるきれいごとでなくて、今私のいるポジションで考えているわけです。別の言い方をすれば、私は、私がまさか東大の教員になるとは思いもしなかったのです。一つはおそらく環境倫理という言葉が、何だか分からないけれども、魔力を持っていて、どうやらそういうものは必要だから欲しいということになった。しかし、少なくとも理系との関係で環境倫理を議論できるような研究者がいない。仕方がないので私が教職に就くことになったと思うのです。けれども、逆に私は今どう自分のポジションを捉えようかということを、非常に悩んでいるところです。
埼玉大学の共生社会研究センターに、宇井さんの所蔵されていた資料の大半が寄贈されて、「宇井文庫」ができました。開設記念で、宇井さんの講演とシンポジウムが行われました。そこで私が指名されて、宇井さんの業績を紹介しながら、現代的な意味を話しました。その時は、私は恵泉女学院大学の教授という立場で気が楽だったのですが、いざニュースレターをまとめるから書けとなった時に、東大の教授になっていました。東大の教員が宇井さんについて書くというのは非常に違和感を持って、変なことを書いた覚えがあります。
その時に感じたことで、今も感じていることですが、東大全体としては、どう考えても今の状態には異常な部分があると感じています。かつて、宇井さんが東大に対して向かっていた時の構造とも全く違うわけです。昔は産学共同などということは、それ自体が最初から問題だったわけです。今は産学協同をやらなければいけないという、構造的に逆転した状況の中にいます。また、先ほども出ましたが、非常に競争社会で、外部資金を取ってやらなければいけないという状況もあります。ただ、その中で環境学というところは非常に特異な位置にあります。学問分野が非常にきっちりしたところだと、方法論が決まっているのでそこで競争社会で評価されて、教育されるというになります。
一方、環境学というのはわけの分からないものですから、いろいろな分野の人がいるので――東大のいいところでもあると思いますが――、お互いの分野を尊重してあまり侵害しないという部分があります。ですから、勝手なことをやっていても平気でいられるというところがあるのです。つまり、今まで東大型の学問の基準では研究にならないとされていた研究に対して、東大の教員になったら、それをきちんとサポートすれば、学位を出して学問として位置づけることもできるわけです。そういう形の役割が、もしかしたらできるかもしれないと感じています。良いか悪いか分かりませんが、私の研究室は、東大からは誰も受験しません。文学部や農学部で教えていても分かるのですが、やはり東大生の皆さんは、宇井さんの言葉にもありましたが、立身出世のための学問という、何かそれなりの形になるものを求めます。ところが、私のところは何だかよく分からないので、そういうところは自分がやるべきではないと、おそらく皆思うのです。私の研究室には、女性が多いです。男の子は、何かそれなりに形にしなければならないと思うようです。一方、女性は自由です。自分がやりたいことはストレートにやりたいという感じです。結果的に、東大生は来ないで、女性がどんどん多くなるという、非常に奇妙な状況です。この状況の中で、これからどういうことになるのか、非常に面白いです。
現実に、私が思ってもみないような勢いで、どんどん皆さん研究しています。その結果、今までの学問の壁を壊すことになるかどうかは分かりません。ですが、私よりは若い人のほうがいろいろなエネルギーがあるので、少なくともそれをサポートすることぐらいはできるのではないかと思います。逆に、学際的な領域だとできないことはない。だから、最終的にはそういう隙間産業のようなところを狙って、東大の主流なところでは巨額の公金が動いているはずですが、その中でどこまで生き延びられるかというのを、やれるところまでやってみるというのは面白いのではないかというのが実感です。
山下 ありがとうございました。だいぶ具体的なイメージまでお話しいただけたので、私も先ほどよりは、ポジティブな印象が持てるようになりました。
鬼頭先生がおっしゃっている方向性については、本郷から離れて柏に行っているということが、踏ん切りをし易くできる要因の一つではないかと思います。でも、今おっしゃっているのは、一個一個の研究室、自分のゼミの中でという対応だと思います。けれども、組織としてみたら相変わらず東大だとすると、そこには相変わらずの限界が残ってしまうと思うのです。本郷にいると、最初に流していたビデオの中でも宇井先生がおっしゃっていましたが、「国家鎮護の大学」というイメージが付きまとってしまいます。けれども、同じ東大でも千葉県のほうに離れましたので、その自由度を生かして、柏キャンパスの環境学は、皆で――宇井先生の言葉で言うと――「けつをまくって、企業のための科学ではなくて、市民のための科学をやるキャンパスにするのだ」というような方向で、実験的取り組みをしていただけると、もう一つ違う東大が出来てくるのではないかと思います。昔そこにいた人間としては、そういう期待を持って、柏キャンパスを見ております。
小林 そろそろ東大のは話しは止めにして、宇井さんの「現場主義」とか、「フィールドワーク」とか、そういった方向の話をしましょう。フロアにももういろいろなことを言いたくてうずうずしている方がだいぶおられるのではないかと思います。ご希望の方は挙手を願います。お名前と所属を述べられてからご発言ください。
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