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2007年6月23日午後6時30分から、東京・文京区の「文京区民センター」で<宇井純さんを偲ぶ集い>が「宇井純さんを偲ぶ会」主催で開かれた。同日午後、東大・安田講堂での<自主講座 宇井純を学ぶ>から会場を移しての開催で、約400人が参加した。『月刊むすぶ』のご好意により全発言者の記録を一部追加修正して掲載する。
    【文責:≪環っ波≫編集部/写真:広瀬美紀】



「追悼の部」

司会団  それではただいまより、<宇井純さんを偲ぶ集い>を始めたいと思います。進行を藤原、金玉、菅井の3人で務めさせていただきます。よろしくお願いいたします。

お手元のプログラムを見ていただきたいのですが、これから7時まで「追悼の部」として宇井さんゆかりの方々からお話しをいただきたいと思います。それから短い休憩を取りまして、会場を3階のA会議室に移して、7時10分から「懇親の部」を8時40分まで行ないたいと思います。

それでは初めに宇井純さんに黙祷を捧げたいと思います。ご起立願います。前に遺影がございます。黙祷を捧げたいと思います。 黙祷! …… 黙祷終わります。ご着席ください。

本日は各地から多くの方々においでいただいておりますので、宇井さんにまつわるいろいろなお話しを伺いたいと思います。まず報道写真家の桑原史成さんをご紹介いたします(拍手)。桑原さんは1960年代初めにプロカメラマンになる際、「水俣病」をテーマに選び、同時期に病状の実態解明を決意して活動していた宇井さんと知り合い、いわゆるネコ実験のデータの存在をつきとめられる研究者と実態を写真で世に知らしめたいと願う新鋭のカメラマンという異色のコンビを組んだかたです。その作品が世の中に広く知られ、衝撃を与えたことはみなさまよくご存知と思います。

写真:3人で構成した司会団(左から藤原、金玉、菅井さん)

 

□桑原史成さん□   宇井さんの人生決めた?細川氏への確認結果

 

桑原 桑原です。トップバッターでお声がかかること嬉しくも思いますけれども、緊張もしております。宇井さんの誕生日は6月25日。あさってです。宇井さんと何の脈絡もないんですけれども、宇井さんが18歳になられたときの6月25日は朝鮮戦争が勃発した日とまったく同じなんです。朝鮮戦争は1950年6月25日に起きましたので宇井さん18歳の誕生日だということなんです。なんの脈絡もありませんが(笑い)。

今日の昼間の会は真面目な会でありました(笑い)。ここではあまりマジメではない、本当のようなウソのような本当の話をさしていただこうと考えております。宇井さんと僕は別々でしたけど、1960年−昭和35年に水俣に入っております。宇井さんとお会いしたのはそれから約2年くらいたった1962年1月か2月だったと思いますが、当時、数寄屋橋にありました朝日新聞社の『朝日ジャーナル』の編集部でお会いして、知り合いました。そして、夏ごろ水俣に一緒に行こうということになりまして、一緒に行ったのがともに行動した最初です。その頃の水俣は安定賃金闘争といって、あの水俣工場が争議で大きく分裂して、ロックアウトとかストライキとか大変な争議の町と化していました。そこで、起きた事の一つのお話しすることでそれに特化することで責を果たしたいと思います。

写真:桑原さん、とつとつとした語りだが中身は本邦初公開?

実は1962年−昭和37年8月11日という日をちょっと記憶に留めて下さいませんでしょうか。その日に何があったかというと、実は宇井さんの人生を変えるような出来事に出くわしたんです。僕も横で見ておりました。だから目撃者といっていいんじゃないかと思います。実はチッソが極秘にネコ実験をやっていたということを宇井さんがどこで情報を収集したのかどうかよく分からないんですけれども、8月10日の夜、同じ宿に泊まっておりましたら、宇井さんが僕に、「あした、時間もらえませんか」って言うから、「何ですか」って聞いたら、「一緒に来て下さい」というわけです。多分、翌日の午前10時台だったと思いますけれども、チッソ水俣病院を訪ねました。宇井さんは細川一(はじめ)院長がいると思ったようですけれども、その時応対してくれたのはその施設で働いてらっしゃる先生でした。そこでしばらく会話あったんですが、「実はこういう実験やっております」と言ってノートを見せられたんです。ネコ実験やってたデータを見せられまして、宇井さん驚いてますけれども、わたしは写真家志望ですので、実はそれ自体にはあまり関心なかったんで(笑い)、横で黙って聞いておりました。そこに、看護婦さんから連絡があって、電話が入ったのかよく分かりませんけれども、その先生がちょっと席を外されたんです。おとなしく見てればいいんですけれど、宇井さんが僕に視線をくれるんですよ。おい、おいっていう感じでですね(笑い)。それで僕はカメラを持っておりましたんで、マイクロレンズであわてて、10数ページ複写したんです。で、宇井さんがその後出された『君よ歩いて考えろ』の本を読むと、僕の名前が出ていて、しかも複写したって書いてあるんですね。そのとおりなんですけれど、宇井さんは何したか、横でノートとってましたって書いてたんで、これはそう書かないと宇井さんも書けなかった、その時期の70年代の本ですので。

本当は、どのページを撮っていいのか僕は分からないもんですから、どこだっていうと、ここだここだって言うから、宇井さんがノートを手で抑えながら、僕が必死になって上からシャッター切って10数枚撮りました。ほどほどにやめないと、黙って撮るんでしょう。これはやっぱり書写権侵害っていう不法行為になるんですよ。たまたま10数ページ撮ったところで、お医者さんの足音が聞こえたからやめたようなもんですけれども(笑い)。で、それは無事に終わりました。僕はその年の8月9月に東京の銀座富士フォトサロンというところで7人で水俣展やってデビューしていくんですけれど、写真家として。そのデータをどうするかって宇井さんずっと考えあぐねておりまして、で、院長を辞められて郷里に帰ってらっしゃる細川一を愛媛県大洲市に訪ねて行きました。宇井さん一人で行けばいいのに、僕についてこいっていうわけですよね。やっぱり一人で行くの怖かったんだと思いますね。で宇井さんから「飛行機代や旅費出すから桑原さん、2、3日あけてください」って言われて、大洲に同行しました。わたしとしてはただの同行。そこで院長先生の家に泊めてもらって、そのあと実はこういうデータを持っておりますけれども、これは本当でしょうか、と。細川先生に宇井さんが尋ねました。「嘘ならノーと言ってください。イエスなら黙ってて下さい。それで充分ですから」というようなことを言ったんですね。細かいやりとりは忘れてますけれども、夜はお酒ごちそうになったりおもてなしを受けました。

翌日朝帰る頃細川先生は、僕にじゃないです、宇井さんを引き留められました。「もう少し話しがあります」と。で、引き留められて僕はその席は全部いませんでしたけれど、「実は君達が持っているそのネコ実験のデータよりも前のデータがある」と。それも猫のデータ。細川ノートというんですけれど、それを宇井さんに打ち明けられたんです。秘密。口外してはいけないことになっているのを宇井さんには話されたんですね。宇井さん一晩の説得というか、院長の宇井さんに対する、あのこう信頼度があったんじゃないかと思いますけれど。その秘密を貰って宇井さんは東京に僕と一緒に帰りました。実はそのあまりにもでっかい秘密を知り得たために宇井さんは以後人生が狂うような形になります(笑い)。

そして以後、15年間も自主講座が続けられ、それはついに東大教授になれない見果てぬ夢のまま終わっていくような経過がありまして、それについてはご存知の方も多いと思います。NHKに「その時歴史が動いた」というドラマがありますが、宇井さんにとっては1962年8月11日は彼の人生の歴史が動いた日であったと思います。

ただ、カメラマンとしては、水俣で宇井さんの写真をもっとたくさん撮ってもよかったのに、あのころは単なる学生さんという印象しかなかったし、こんなに有名になる宇井さんだったらもっと撮っときゃ良かったと思うんですが、後悔先に立たずです(笑い)。ありがとうございました。

 

□坂東克彦さん□   “宇井データ”なくして新潟訴訟の勝訴はなかった

 

司会団  桑原さん、ありがとうございました。続きまして元新潟水俣病弁護団長で弁護士の坂東克彦さんをご紹介いたします。坂東さんは、新潟水俣病の第一次訴訟において宇井さんを特別補佐人として迎えて新潟地裁における画期的な判決を勝ち取られました。ではよろしくお願いいたします。

坂東  しばらくでございます。久しぶりにお会いした方もおられるかと思います。懐かしい感じが致します。随分前から、桑原さんには「その秘密はなんだ」と問いつづけていたのに、今まで私には何も言ってくれなかったのですが、この場でもって秘密を明らかにされた、こういうことがよく分かりました(笑い)。

私がこれからお話しするのは、いわばその後日談です。宇井さんと私が一番最初に出会ったのは新潟水俣病第一次訴訟提起の前日前夜、決起集会をやっているときに彼が会場の新潟市の公民館に見えたのが最初でした。で、それはそれとして、その後宇井さんは新潟の水俣病に関して特別の情熱をかけていただき、大変なお世話になりましたが、その際にいつも「四国の大洲に引退されている細川先生はこれからの水俣病裁判に必要な方であるから」というようなことを私にいつも言っておられたんです。いま、桑原さんのお話を伺って、その意味も今よく分かりました(笑い)。そして桑原さんには「チッソの病院に宇井さんと2人で行ったときにカメラマンとして、シャッター切らないはずはないでしょう?」と詰問したんだけれど、絶対言わない。やっぱり言えない気持ちがあったんですね。だけど私は確信しておった。今日本当に記念すべき日になったような気がします(笑い)。

写真:“坂東節”は相変わらず冴えわたった

さて、それからまた物語りは展開するわけです。昭和44年の4月にチッソの第一組合から「水俣に来て、チッソの工場の正門前で闘う第一組合に激励の言葉を言ってくれ」と言ってきたんで、きょう家内も来てますが、二人で招待を受けました。そしたら石牟礼道子さんから手紙が来て、これもみんな示し合わせたという感じもしないでもないんですけれども、実はその、坂東が水俣に来る前に大洲に寄ってきてくれと。そして、細川先生のお宅にあるネコ400号の実験ノートを見せてもらってきてくれと。あるかないかと、あるなら中身を確かめてきてくれ、と。今その中身を確かめることができるのは坂東さんしかいないから。それで、水俣へ行く前に四国に渡って宇井さんのいう“細川ノート”を見せていただきました。まさしく書いてありました。ネコ400号、昭和34年7月何日からアセトアルデヒドの排水を毎日20ccずつ基礎食にかけて食べさせたところ、8月の7日か10日に発症。そして、そのネコの遺体は熊本大学、鹿児島大学と九州大学でしたか、そこに送って病理解剖を依頼した、とこうなっているわけです。まあそんなことで、申し上げたいことは熊本の地方裁判所は昭和48年4月に、34年12月30日に「チッソと水俣病患者家庭互助会が締結したかの有名な見舞金契約は民法第90条の公序良俗に違反して無効なり」という患者前面勝利の判決を下したわけです。そして、私に言わせると、その決定的証拠になりましたのが、ネコ400号の実験を確認した宇井さんと桑原さんのお仕事であったし、大阪・枚方に居られる医師の小嶋照和さんです。私は産婆役として、枚方で出張尋問がありましたときに、小嶋先生を尋問いたしました。また東京・大塚の癌センター病院の病床で細川先生を尋問いたしました。以上が宇井さんと水俣との関係です。

それから、私はきょう、改めて新潟水俣病に対する宇井さんの最大の功績はなんであったかということを考えました。それは、ここに持参しましたが、現代技術史研究会ならびに合化労連の機関紙に「富田八郎」の名前で連載した合本『水俣病』です。確か12、3回か連載しているときに水俣の事件が起きたわけです。この中にいろんな秘密が書いてあります。

そして、昭和42年6月12日に事件が公表されました。県の衛生部長の北野博一さんが法廷で証言されました。宇井さんがやった最大の仕事は、当事、新潟では水俣病にたいする情報が皆無でした。水俣の情報は一切ありませんでした。唯一頼りにしたのが宇井さん・富田八郎の書いた『水俣病』でした。

宇井さんはさっそく飛んできてるんです。新潟水俣病が起こったらすぐ衛生部に彼が調べた水俣の情報を伝えたわけです。その情報があったからこそ、次から次へと新潟県は対応を打ち出していったわけです。被害地域の住民の健康診断、そのほか様々な調査をあるいは臨床調査を早期に行なえたというのは、宇井さんが提供した資料によるものです。そしてまた胎児性水俣病、出産する可能性のある婦人に対してはいち早く妊娠規制の、これは問題があろうかと思いますが、妊娠規制のこの指示を出すのと同時にそれに母乳もやっちゃいかんということでミルクの支給も、そういうきめ細やかな対応も新潟県はとったわけですね。そのことによって原因究明が早く進み、早めに患者の被害状況が大雑把につかめたということが新潟県の被害を最小限度に抑えることができたことです。もし、宇井さんのこの情報が伝わらなければ、新潟もまた熊本と同じようにめちゃくちゃにやられておっただろうし、もっともっと被害が発生していたと思います。

そういう意味でいろいろ鑑みると、宇井さんのおかげで我々弁護団は本当に助かりました。これを見てください。水俣で得たたくさんの一般紙、そして新納正雄さんが出していたガリ版刷りの『水俣タイムス』を含めた新聞記事、あるいは熊本大学の先生方の書いた論文……全部マイクロフィルムにとってあるんです。これをとりながら彼は富田八郎の連載をやっていたと思います。私たちが第一次訴訟を提起したとき、水俣に関する資料はまったくありませんでした。そういう中で私たちは43年の秋に最初の弁論を展開しました。水俣病のあやまちを再び起した責任は誰にあるのか。そして被害が起きてからの水俣の混乱状況。記録されている各種の新聞。患者たちの暴力を断固取り締まれ。そういった現地の状況がみんな書いてあります。庶民が押しかけ排水の停止を求めた。その訴状を私が担当したわけですが、宇井さんの水俣病のマイクロフィルムの拡大を持って読みながら書き上げた記憶があります。

時間をオーバーしましたがもう少し続けさせてください(笑い)。宇井さんは新潟の裁判には自ら参考補佐人として法廷に出てくださいました。私たちは被告の昭和電工が繰り出す科学者の証人に対する反対をやるにしても限度があります。法廷で宇井さんは自分の持てる知識をフルに発揮しながら、経緯をあいまいにし、患者を切り捨てようとする被告側の証人に対する反対尋問をやってくれました。そしていよいよ最終弁論です。宇井さんの最終弁論です。最終弁論で、宇井さんは「発生源の設備原因についての知識を持たない被害者側が原因についてのすべてを立証しなければならないとするのには不平等である」との論陣をはったのであります。これを受けて新潟地裁は昭和46年9月、原告勝訴の判決を下しましたが、その中で原告が工場の門前まで因果関係の立証を行なえば被告会社が明確な反対立証をしない限り、因果関係を認めるとしたのであります(拍手)。

今も私は水俣病と闘っております。といいますのは今年に入りまして、新潟県の泉田裕彦知事が新潟水俣病の抜本的な解決をはかりたい、という積極的な姿勢を示しました。そして9人のメンバーを指名して水俣病の歴史環境を、解決に向けて提案してほしいということを求められ、知事はそのメンバーの1人に任命しました。知事は新潟水俣病が一度ならず二度もおき、そして今の混迷した状況、これをどうすべきかということで、なんとしても水俣の歴史的な検証を行なったうえで、被害者救済のための方策を是非提案してほしいということです、私1人の力ではまっとうできるとは思えません。水俣病に関心ある皆さん方のこれから半年が勝負だと思っております。その間のご支援を最後にお願いして、宇井さんが笑えないのは残念だけれども、私の報告とさせていただきたいと思います。ありがとうございました。時間をオーバーしてすみませんでした。

 

□メッセージ 1□   「カネミ油症」 矢野トヨコ/忠義夫妻

 

司会団  ありがとうございました。後ろで立っておられる方、前の方の席が空いておりますので、どうぞ。本日はカネミ油症医療恒久救済対策協議会の矢野会長にお越しいただく予定でしたが、ご体調が思わしくなく、お手紙を頂いておりますので、代読させていただきます。お手元のプログラムの方にメッセージが記載してありますので、どうぞご覧下さい。

【メッセージ】 故宇井純先生を偲んで

生きる事と闘うことの人生教師

油症未認定患者の掘り起こし   元代表 矢野トヨコ

油症医療恒久救済対策協議会会長  矢野忠義

カネミ油症事件の初期頃において、宇井純先生から私たちの人生に於ける貴重ないただきものがある。これは私たちの油症問題に取り組む姿勢そのものに大きな影響を与えたことは感謝に値する宝物である、ともいえる。ここに今は亡き宇井純先生を偲びつつ、それをいくども広げ読み返し、手垢にまみれてもこの記録と体験は35年後の今日もいまだに終わりはないのである。私矢野トヨコは宇井純先生の遺影に向かって語りたくても今は病床に伏し、外出もままならず、無念の思いのままにこの「赤本」を遺影として、語りかけている状況である。
「赤本」と通常言われているのは「公害言論 公開自主講座 九州講座」である。カネミ油症という甚大な人体被害を受け、苦しむ中で裁判闘争などで揺れ動く被害者にとっては実に貴重な体験であったのである。そして成長していったのでもある。思えば当初、北九州市で反公害と労災問題で取り組んでいた村田久氏が「公害原論 東大自主講座」を、世界では初の化学物質による人体実験といわれる、カネミ油症事件の現地での数回に及んで「カネミ油症九州講座」として開催するよう努力されたことは、快諾された宇井純先生とともに深く評価されるものである。
また宇井純先生は人生のほとんどを環境と水問題などに尽力され、しかも東大助手という身分に甘んじず、信念の人として過されたことは驚嘆であり、大学とは何なのかということ、日本という国のあり方を教えていただいたものである。今も私たち夫婦は宇井純先生の無言の教訓が生きがいであり、終世の誇りとして多くの人に伝え語り合う事の宝物としていることを遺影に捧げていきたい。 
平成19年6月23日

司会団  以上です。続きまして宇井さんの故郷、「那須の自然に学ぶ会」早乙女順子さんをご紹介いたします。早乙女さんは那須塩原市−旧黒磯市なんですが、市議会議員をして那須中央に広がる産廃処分場に対する反対運動、栃木県の水問題で宇井さんのアドバイスを受けながら仲間とともに活発に活動してこられました。それでは早乙女さん、よろしくお願いします。

 

□早乙女順子さん□   印象深い「男はアテにならない。婦人部を作りなさい」

 

早乙女  本来でしたら、栃木県から来て、しかも宇井先生と縁があるのだったら「足尾」の問題を話す方が登壇するのではないかというふうに思われるんでしょうし、私以外の発言者も本当にお名前を聞いただけでどのような働きをなさっている方かお分かりになるような方ばかりで、ここに立つということにすごく迷いがありましたけれども一言お話させていただきます。

私は宇井先生から公害とかそういう大きな問題の支援をしていただけではなくて、小さな地域の産廃の問題、ごみの問題、そういうことにも同じように力を私たちに貸して下さいました。ですから、そのことのところでもう少しみなさんに先生のお人柄をお伝えできるかなと思っております。私の住んでいる那須塩原市、旧黒磯市なんですけれども、そこで産廃の問題が起きました。そのとき先生に地元の人たちは産廃がなんかわからなかったので、講師をお願いしました。で、こころよく那須塩原まで来てくださいまして、先生は地元で産廃がどんな問題を抱えているかわからない私たちに運動の作り方ひとつひとつから、産廃がどうして駄目なのかということのお話しをしてくださいました。印象的だったのは、運動の作り方で、「婦人部を作りなさい、男なんてすぐひいちゃうから。それから若い人たちの青年部を作りなさいよ」というようなことを本当に細かいような事まで教えてくださいました。

写真:大きなことも小さなことも教わったと述べる早乙女さん

それでも那須塩原市は産廃が集中してしまっています。あるとき、宇井先生がその集中した産廃処分場を一緒に回りたいからということで、来ていただいたことがあります。で、そのときに余りの多さに先生は「実態を調査すべきだ、私が退職したら調べにくるよ」とおっしゃっていました。そのときに一つ反省したんですけれど、初めて地元にただ産廃が多い、という認識だけで、現実を正確に確認していなかったということに気が付き、産廃処分場、沢山ある処分場の一つ一つを地図に落としました。ミニ処分場といって1400平方メートル以下のちっちゃな処分場もありますので、ある地域に120箇所も地図に書き入れました。そんなことしているときに宇井先生から紹介されたのでということで、水俣の方から電話がありました。それは「水俣に大きな規模の産廃処分場が計画されている。その業者が那須塩原市で営業しているからその実態を案内してくれ」ということでした。で、わたしはそのご縁で産廃処分場が一つつくられると、本当にあとはどんな状況になるかというのを知らせるために水俣に伺いました。産廃上については自分は中立だと言っていた市長をすげかえることもその後しました。「那須塩原の市長でも産廃は反対だって言っているにもかかわらず、できちゃうんだから中立だって言っているのは賛成に等しいですよ」ということくらいしかアドバイスはできなかったんですけれども、そういうようなことをお話ししました。で、そのときに偶然に案内して下さった方があの『原爆の図』を描いた丸木位里先生、俊先生が『水俣の図』を描いたところを案内していただきました。その時思い出したんですけれども、栃木には丸木美術館の栃木館というのがありまして、その丸木先生と俊先生が足尾鉱毒問題を取り上げた『鉱毒の図』をそこで描かれました。その『鉱毒の図』の前で宇井先生と夜遅くまで産廃メンバーと一緒に飲んだ事を懐かしく思い出しました。

で、宇井先生は沖縄に行かれる前、「栃木県には水問題をやる団体がなかったんですね」と言われて、その後、栃木に水問題に取り組む団体をつくった時に先生に基調講演をお願いしましたが、そのとき「よかった、栃木に水問題をやる団体ができてって」とおっしゃってくださいました。先生とのやりとりっていうのはそのようなときだけ、一番多いのは産廃に関してのことばかりのやりとりで最後の先生との関わりもあの水俣に産廃処分場ができる、そのことでした。

先生は。ご自分の体がすでに悪かったんですけれど、水俣のことをすごく心配しておりました。ですからもう少しでもあの先生のあの教えを、少しでもなにか実践が出来ればということを今日、ここにお誓いして、それと栃木のあの市民運動を支えてくれた仲間を代弁して、心から「宇井先生長い間ありがとうございました」とこの場をお借りして申し上げたいと思います(拍手)。

 

□平仲信明さん□   沖縄で実践してくれた赤土対策などの遺志継ぎたい

 

司会団  ありがとうございました。続きまして沖縄からお越しいただきました元WBA世界ジュニアウェルター級チャンピオン平仲信明さんをご紹介いたします。平仲さんは環境事業も手がけておられ、沖縄大学に赴任していた宇井さんと知り合い、宇井さんの指導で牛のし尿処理の酸化溝実験を自ら胸までし尿につかりながら行なったことに宇井さんが感動され、ここから二人の”野獣の付き合い”が始まったと沖縄では有名な話になっているそうです。また平中さんは、今年から東大のボクシングチームのコーチをされるということです。それでは平仲さんお願いします。

 

平仲  沖縄からきました平仲です。沖縄でボクシングジムで若いボクサーの育成のほか、赤土問題を中心に環境開発の仕事をさせてもらっています。宇井先生との出会いは、県庁で赤土問題で抗議活動をしている中で宇井先生と意見交換で直接争ったんですよ。ところが、宇井先生、僕に対して反発されないんです(笑い)。僕は宇井先生との出会いは神様との出会いだと思うんですけれども、その後沖縄大学の近くの居酒屋で会ったんですね。そして宇井先生に「なんであのとき、僕に反論しなかったんですか」と聞きましたら、君が怖かったって(笑い)。ぶんなぐられると思ったと(笑い)。水俣とか新潟訴訟で相手側に平仲君みたいのがいたら、絶対僕ははむかわない、と(笑い)。それから、あれだけ真剣にものを言えるというのを僕は初めて見た、と。

実は、僕は日大の畜産学科に入りまして、化学をそれなりに勉強しました(笑い)。ボクシングではおかげさまで世界チャンピオンになりましたが、関係ない話ですが、ボクシングの世界チャンピオンが大学歩いてるのは何人もいないんです(笑い)……。

僕はきょう、本当に宇井先生に手を合わせたいと沖縄から来ましたが、一つだけ、奥さんに謝らなければならないことがあります。宇井先生には酒飲んだとき、タバコいつも吸わしてました。本当に僕が宇井先生の寿命短くしたかもしんないです。そのくらい僕、宇井先生にはかわいがってもらって、実は自分のおじいちゃんもおばあちゃんもいないこともあって、じいちゃんと孫みたいな関係でかわいがってもらいました。

写真:平仲チャンプを宇井さんが最初恐がったのは本当らしい……

さきほどご紹介されましたが、豚の堆肥や牛の堆肥がある中に僕、つっこんでいったんですよ。ほんとに目まいして、もし倒れたら新聞に、「世界チャンピオン、堆肥に埋もれ死ぬ」なんて書かれたかもしれないけれど、それくらい僕は真剣勝負やりました。そのときです、宇井先生が突然、「平仲君、どのくらい自信があったら世界チャンピオンに挑戦するの?」って聞かれ、「30%の確率があったらやりますよ」とお答えしました。その時に「実は日本の学生、ま、特に東大とは言わないけれど、自分の勝率の悪さに対して挑戦するハートがない」。そして、「根性がない、バカになってつっこんでいく生徒がないんだよ」と言われました。プラスアルファしか考えないけれど、そういう意味で「東大からノーベル賞は取れないんだ、日本の科学はそうなんだ。でもその中で平仲君が30%の確率があれば勝負すると言ったことは評価したいね」と言われたことをきのうのように覚えています。

そういうことを僕に言われたことと、あとは、生意気かも知んないけれど、宇井先生の遺言と捉えているのですが、沖縄で「宇井基金」を作って、赤土問題など沖縄の環境問題に貢献する研究をしてくれる学生に勉強してもらいたいと思っているんです。さきほど、安田講堂で言われていましたが、反対派の気持ち、賛成派の気持ち、両方知らないといけないと言っていったことのようにですがね、日本の環境や汚染をなくしていく、公害をなくすビジネスに取り組んで行きたいと思っています。

そして、最後に一つだけ言いたいのは、何故宇井先生がノーベル賞を取れなかったかということです。これだけやったら、ノーベル賞取って当たり前じゃないですか。違いますか? それぐらい僕は好きだったんです。もう一つすみません。僕は弟(注:信敏氏。有望視されていたが日本フェザー級チャンピオンのときに事故死)が死んだときにも涙流さなかったけれど、宇井先生が死んだときはくやしかったです。学生さんや若い方々にお願いします。宇井先生のこの志を、夢をもって環境のありがたさ、自然のありがたさいろんなことを学んでくだし。僕は沖縄で赤土に関わる沖縄のサンゴを守ってくれたのは宇井先生だと思ってるし、僕は頭はよくありませんが、どうにか先生の志を持って、がんばっていきたいといま自分に誓っています。

東大のボクシングの選手の指導もし、いずれ世界チャンピオンも作っていきたいと思うし、栃木からは偉大なる世界チャンピオンのガッツ石松も出ています。そして、科学、環境の世界チャンピオンの宇井純も栃木で育ちました(笑い)。ありがとうございました(拍手)。

 

司会団  ありがとうございました。以上をもちまして、各地からのみなさまのお話を終えさせていただきます。「追悼の部」を終えたいと思います。これから短い休憩の後、3階の3A会議室へ移動していただき、7時10分から「懇親の部」を始めたいと思います。




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