「病い」と闘った一生でもあった

幾度となく死線をさまよう

宇井純は「病い」とも闘った。普通の人間なら二度三度死んでいたであろう大病をそのつど克服している。今回も、家族や親しい人間は「またクリアーしてくれるだろう」と一様に思っていた。しかし、奇跡は起らなかった………。宇井純の人生の中で、宇井純の“もう1つの闘い”であった病魔との闘いを振り返ってみる。

写真:脳腫瘍の手術の為、丸坊主にされた
=2000年5月21日、東京・港区の慈恵医大付属病院で

≪宇井純の主な病歴≫

年   月

病   名

概         要

1969年3月

急性十二指腸潰瘍

ブタペスト(ハンガリー)滞在中に発病。紀子夫人急遽日本から駆け付ける。

1979年2月

急性肝炎

アフリカ→アジアから帰国直後、体調不良ながら1週間ほど講演予定などをこなしているうちに倒れ、意識を失い入院。約3ヵ月入院・加療す。

1991年12月18日

心臓バイパス手術

沖縄・琉球大学付属病院の古謝景春外科部長(当時)の執刀でバイパス3本の手術。

2000年 6月13日

脳腫瘍切除手術

東京・慈恵医大付属病院で手術。

2005年 9月13日

冠動脈バイパス手術

        同

2005年11月17日

縦隔炎で手術

        同

2006年 1月28日

胸部皮下の膿瘤でデブリードマン手術

        同

5月8日

退院

 

9月6日

再入院

 

      10月3日

 

動脈瘤の存在を知らされる

11月11日03:34

 

胸部大動脈瘤破裂にて死去



最初の大病は37歳のとき。1969年3月、ハンガリーのブタペストで得たものだった。WHO(世界保健機構)上級研究者としてヨーロッパの公害調査のためにブタペスト滞在中に猛烈な腹痛に襲われ、入院。かなり厳しかったのであろう、紀子夫人に日本からの“出動”を求めている。紀子夫人が駆け付けたときは病の峠は越えていたが、結婚5年後初めてのことで、現地に着くまでは生きた心地がしなかったと紀子は振り返っている。

次が10年後の1979年2月、アフリカからアジア各地を旅して帰国した直後のことであった。「よくある海外旅行の疲れとは明らかに異なりました。でも日本を空けた分、予定が過密になり、昼間は毎日講演などに出かけても帰ってくると、泥のように眠っていました。しかし、一向に回復せず、熱も引かなかったため、素人判断で、これはアフリカかアジアでウィルスに感染したと思い、訪れた国の在日大使館を訪ねてワクチンの有無を聞いて回っていましたが、あろうはずはなく、そのうち身体中に黄疸が出て、ついに意識を失い、倒れてしまいました。ちょうど姉が三井記念病院に勤めていましたので、そこに担ぎ込んだら、即入院と言われ、ナースに「どうしてこんなになるまで放っておいたの!」と言われるほどでした。医師の診断は急性肝炎でした。2ヵ月入院しました」(紀子)

さらに12年後、沖縄で心臓バイパス手術を受けるが、後段触れることにして、結果論だが06年11月11日の旅立につながったのではないかと思われる最初の手術は沖縄を引揚げ、東京に戻ってきて2年後の05年9月13日だった。以後14ヵ月の間に都合3回の手術を余儀なくされ、この間12ヵ月の入院生活を送ったことになる。


帰京後最初の手術………2005年9月13日

帰京後の最初の手術は2005年9月13日午後、東京・港区の慈恵医大附属病院で行われた。
術後、医師団から家族に次のような説明が行われた。

1>4本(4ヵ所)のバイパス手術を行なった。内胸動脈を使用した。

2>15年前(沖縄/琉大病院)の手術個所、その他が石灰化し、癒着が著しかったが除去した。通常以上に念入りに消毒した。

3>輸血をした。

4>人工心肺は使用しないで済んだ。

写真左:
手術の前夜、紀子夫人とともにベッドで食事
写真右:
手術の前夜行われた医師(右)によるインフォームドコンセント

写真:手術の「承諾書」。なぜか「年」を記入する欄がない………。
=いずれも2005年9月12日、東京・港区の慈恵大学付属病院で

要するに、難易度の高い手術だったが、無事終了したということであった。
それらの説明を聞き、術後、宇井と面会した次男・修は同日夜、関係者に次のような「報告」をしている。

08:15 母・紀子らに見送られ、病室を出て麻酔。
10:30に手術が始まり、中心となる手術は15:40に終了しました。
術後、先生から以下のような説明がありました。

・前回と同じところを切った。
・胸と足の血管を両方使用した。
・癒着がひどくかなり汚れていた。
・前に感染症を起こしたようだ。
・血管そのものに問題はないが、癒着していたため血管を取るのが大変だった。
・止め具(ステンレス製)は前回と同じ場所に止めた。
・4ヵ所処置済み。
・人工心肺は利用しなかった。
・輸血はした。
・人工肺は使用しなかった。
18:00ごろ、ICUでの面会が許されたが、麻酔からさめていなかったため、手が冷たく、呼びかけには反応しませんでした。
その後、修が19:20頃再度面会した際は呼び掛けにうなずき、目を明け、反応しました。因みにそのとき知らされたデータは心拍数60前後、 血圧 150/50でした。

その後の経過は、手元のメモに、「9月13日は集中治療室に1泊、翌14日は個室に1泊したが、術後3日目にはもとの部屋に戻り、歩行も自力で可能に。食事もすぐに通常食、通じもほぼ通常。ただ、傷口や全身の節々の痛み、かつ倦怠感が続いているため、見舞いを受けても話が出来るのは10月中旬以降と思われる」と記されている。

そして、退院後も静養、リハビリは必須で、この時点では宇井本人は「本格始動は正月明けでしょうかねえ」と語っている。
当時、当面のアクションとして、11月5日に水俣産廃場反対集会が設定されており、「せめて顔見世くらいはしたいなあ」と言い、さらに11月25日から上海で開催される環境被害日中ワークショップに「行きたいなあ」とポツリと語ったことが記憶に残っている。



退院どころか2度目の手術を受ける羽目に………2005年11月17日

しかしながら、産廃処理場反対集会も上海行きも叶うどころか、なぜか「再手術が必要」との判断が医師団から出された!
写真:激励に駆け付けた“戦友”桑原史成さん(右端)と雑誌編集者(左端)。左から2人目は居合わせた次男・修氏
=2005年11月4日 東京・港区の慈恵医大病院で

話は専門的になり、かつ冗長になるが、前日のインフォームドコンセントの様子から紹介しよう。
インフォームドコンセントは手術の前日、11月16日、11時〜12時、16時半〜19時と2度にわたって、延べ3人の医師から心臓外科分野と形成外科分野に分かれて行われた。午前は紀子夫人と筆者が、午後は3人のお子さん方も加わった。

医師団の説明を要約すると―

・病名は「縦隔炎」(じゅうかくえん)とのこと。慈恵医大でも年間1〜2の臨床例しかないとか。
・心臓のバイパス手術そのものは「難航したが成功した」ものの、手術(9月13日)後、丸2ヵ月過ぎたが、傷口の皮膚のくっつきが芳しくない。14年前、沖縄での最初の時もそうだったようで、これは糖尿が原因。
・さらに11月3日頃から微熱が断続的に出たものの、5日の外出(※注=水俣産廃処分場反対集会を東京で開き、外圧を与えようと宇井純・土本典昭両氏が呼掛人になり、それが娑婆への復帰第一戦と位置付けていた)も当日朝、一端は「すれすれでOKだった」が、昼近くになり発熱兆候が見られたので外出は禁止にした。
・発熱の原因を追求したが、いまいちはっきりしない。白血球のバランスも正常の範囲内だし…。と言ってるうちに、昨日朝、かねてジュクジュクしていた手術の傷跡から量的にまとまった膿が出たこと、一度は消えたMRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌。多くの抗生物質に耐性を示す多剤耐性菌)が再び認められ始めた。
・これは「何らかの原因による感染症と判断し、数日前から使っていた抗生物質では化膿している箇所が胸骨の裏側だと薬が届かないため、再手術を勧めたい。
・手術の段取りは先に心臓外科が行い、患部を除去・消毒する。その後、形成外科が引継ぎ、空洞を胃の辺りにある「大網」(だいもう)を移植、埋め込む。それだけで3〜4時間、合計では前回同様7〜8時間に及ぼう。もちろん全身麻酔。
―であった。

後々に響く大事な場面だった。医師団は初めて「MRSA」を口にし、「感染症」についても触れた。ご家族も筆者も「なぜ急に再手術をするのか? 先の手術で消耗した体力も復していないのに」と糺したのに対し、医師団は「もちろんそれも視野に入れたが、感染がはっきりした以上、少しでも早く手術しないと、最悪の場合、敗血症につながる危険がある」とし、家族は同意した。

再手術は2005年11月17日に行われた。この日も08:30〜15:30にわたった。
術後、心臓外科の主治医から行われた説明を要約すると以下のようになる。

<病名> 
縦隔炎(じゅうかくえん)

<手術名>
・開創 ・創部洗浄 ・大網移植を心臓外科→形成外科→心臓外科の順で行われた。

<手術の概要>
・ほぼ予測の通りであったが、14年前に沖縄(琉大付属病院)で行った最初のバイパス手術時に施した「ゴアテックス」(※注=米デュポン社が開発した超薄膜の高機能繊維)を先の手術で全て除去したつもりだったが下部に残っていた。
・骨髄炎の兆候もあり、該当患部を除去した。
・これらの感染個所を全て除去、消毒し、それによって生じた“空間”を(自前の)「大網」(だいもう)を活用、埋め込んだ。
・輸血は適量行った。
・今夜は集中治療室で過ごし、明日中には病室に移れよう。
・今回の処置は「感染源を排除し、回復への土台作りをした」ということで、本格治癒はこれからの本人の気力、体力および根本原因である糖尿との闘いに尽きる。

<今後の見通し> 
これから1週間が最初のヤマ。次の1ヵ月が第2のヤマと考えられる。

この説明だけでは分かりにくいであろう。補足説明をしたい。
医師団から「沖縄での手術の際に使った超薄膜の繊維が取り切れていないように思える」との説明があったので、それでは当時どのくらいの大きさのものを使ったかが分かれば最初の手術のときに取り切れたのか取り残したのか分かるのでは?………という素朴な疑問から、沖縄で執刀してくれた古謝景春(こじゃ・かげはる)医師を探し当て、記憶を呼び戻してもらった。

古謝医師は沖縄では著名な外科医で、その後、琉大付属病院長を経て現在は私立病院に所属しているが、問い合わせて1週間くらいして筆者への質問状に対し、次のような答えを寄せてくれた。その全文を紹介する(原文通り)。


この度は宇井純先生の件でのお問い合わせ誠にご苦労様でございます。
宇井先生には度重なる手術、心身共にご負担のこととお察し申しあげます。
琉球大学付属病院における先生の手術は1991年12月18日に行われております。

さてお問い合わせの手術の際に使用いたしましたゴアテックスのサイズですが、正確な計測はしておりませんが約10cm(幅)×15cm(縦)の大きさと記憶しております。当時の心臓手術の大部分の患者様にほぼ同じ大きさのゴアテックスを使用致しましたが、ほとんど問題なく経過しております。お役に立てれば幸いに存じます。

宇井先生のご健康の回復を祈願いたしております。くれぐれもよろしくお伝え下さい。

嶺井第一病院心臓血管外科
古謝 景春

一方、ゴアテックスを開発・生産した米デュポンの日本企業、デュポン・ジャパンにゴアテックスによる医療トラブルの有無などを糺したが、残念ながら回答は得られなかった………。
患者側も打てる手は打ち、医師団にこの結果を知らせたが、それが活かされたのかどうかも残念ながら今日まで不明である。

手術室から集中治療室に移されたところで、家族とともに短時間面会したが、すでに麻酔が醒めつつあり、こちらからの呼掛けには時折、目を開け、軽くうなずくという、全身麻酔を経験した者にとっては驚異的な宇井の強さとしか言い様がない。

この時点では、問い合わせを受けた先に「年末までには退院され、新年はご自宅で迎えられるのではないでしょうか。そして、リハビリを経て、移動を含めた対外活動は春暖の頃というところかと思われます」と答えているメモがある。いまにして思えば、多分に希望的観測であったとしか言い様がない。

しかし、この頃から気になる状況になってきた。
体力はもちろんだが、気力の落ち込みが顕在化してきたのだ。
例えば、平均週2度ほど世田谷の自宅で膨大なメールをチェックし、その帰路、病院に顔を出して報告などすると、それには軽く受け流し、とにかくいま起きていたのに、次の瞬間には眠りについて、問いかけにほとんど反応しなくなったりする比率が増え始めた。医師団の病状の説明の時もほとんど頭に入っていない感じで、途中で眠ってしまう場面も見られた。

ある日のこと。
話しているうちに、突然、顔をくしゃくしゃにして「もう、再起は出来そうもない。もう、ボクはだめです」と言って絶句し、やがて大粒の涙が両頬を伝わった………。同じ場面を、中学時代からの親友の阿久津幸彦も「2度ほど経験した。あの宇井純がとショックを受けた」と最近述懐している。医学的には「老人性鬱」で、病院内の精神科医で診察も受け、薬も投与されていた。その安定剤のために常に睡魔に襲われている状態が続いた。



ついに3度目の手術も避けられなくなった………2006年1月28日

そのような状況が繰り返されているうちに、なんと3度目の手術の話しが医師団からもたらされた。

2回目の時に感染による膿瘍を全て除去した筈だったのに、結果的にはそれが複数の要因はあるものの、完全でなく、急遽、除去手術(デブリードマン)を行うことになった。

3度目の手術は年も明けた2006年1月28日に行われた。

決まったのは3日前だった。

にもかかわらず、この時期宇井はひとつのことを非常に気にしていた。前の年から温めていた「水俣病公式確認50年」ということで国や県・市は当然国家予算、県予算を使って、いろいろなイベントを展開しよう。しかし、「民」でも一矢報いようではないか―ということだった。それを日本環境会議がしっかり受け止めてほしいという気持ちだった。手術を翌日に控えた1月27日、病床で気力を絞って、テープにメッセージを吹き込んだ。翌日開催された「公害研究委員会」の席上、そのメッセージは伝えられた。以下がその概要である。

 公害研究委員会のみなさま、こちらは宇井です。このたびは私の急な発病と手術のため中国(上海)のワークショップ初め、いくつかの企画で大変ご迷惑をおかけしまして申し訳ありません。そのことが気になって、歯ぎしりが毎日口癖のようになってしまいました。

 いまのところ、手術の予後は余談を許さず、最悪の事態も予想しなければなりませんが、3回目の手術でなんとか頑張ろうと考えています。

 さて、今年は「水俣病公式確認50年」になります。官側でもいろいろな企画があるようですが、水俣、東京ともに民間有志による企画が計画されています。私も去年の春からそれを呼びかけて自分が中心になってやるつもりで準備をしてまいりましたが、このような不測の事態が発生したため、そこから先は何もできないままに日を過しております。このことも毎日の歯ぎしりの要因になっていることは正直言って認めなければなりません。

  JECのみなさんがこの方向に沿ってご協力くださることを切に希望します。(以下略)


写真左:
講演のため上京した機会に合い間を縫って見舞いに駆け付けた水俣の語り部・杉本栄子さん夫妻。病室からロビーに出てくる宇井さんに走り寄り握手した(右端)
写真右:
ロビーで宇井夫妻と談笑する杉本夫妻(左から2人目と3人目)と桑原さん(左端)
=いずれも2006年2月18日、東京・港区の慈恵医大付属病院で

手術は、事前説明を上回る3時間余りかかった。
術後、執刀したT医師(形成外科)の説明は実に慎重だった。

1>1ヵ所と思っていた膿の穴が2ヵ所になった(2日前のCTSでは写らなかったが、前日からあいたとのこと)
2>その新たな穴は15年前に沖縄で受けた際の異物が残っていて(結局、前回取り切れていなかった)、それが心臓に癒着しており膿瘍の元凶となっているとも考えられるが、今回のオペでは確認できなかった。
3>当分は「閉鎖性吸引療法」を用い、膿瘍を吸引し、回復具合をウォッチする。
4>今後の見通しとしては、膿瘍の菌の検知(1〜2週間)と手術痕の回復(肉付き)いかんによるものの、「見極めまでには最低1ヵ月は必要」というのが現時点での診断だ。

前回は楽観的だったT医師も「俗な表現をすると爆弾を抱えている感じ」で、手放しで楽観は出来ない、というトーンに変ってきた………。
ただ、全身麻酔をされた割には術後2時間余りで意識ははっきりしており、声をかけたら「あしたはよろしく」と目こそつぶっていたが、翌日開かれる公害研究委員会を気にしての言葉だった。はっきりとした声だった。

1月28日の手術後は「あと1ヵ月くらいで退院できよう」から、「もう少しかかりそうだけど、春になれば………」に変り、結局、ずるずると入院生活は長期化し、最終的に退院したのは2006年5月8日のことだった。
この日、病院で最後の昼食を食べ、タクシーで自宅に着いたのが午後2時頃。椅子に座るやいなや入院中に依頼されていた原稿の校正のことで『週刊金曜日』の編集部に電話を入れる。退院して久々に家に帰ったのに機嫌が悪い。原因は、原稿の末尾に編集部がつけた宇井の肩書きが「社会評論家」となっていたためだ。「落ちぶれたとは言え、そんな職業についた覚えはない!」と怒鳴った。

写真:退院後、“シャバ”に戻っての第一声は電話での怒鳴りだった………
=2006年5月8日、東京・世田谷の自宅で

退院したときは薫風吹き抜ける5月だった。決して快調と言うわけにはいかなかったが、気力・体力とも多少の充実を感じ始めたようだった。その1つの表れが大後輩の山下英俊・詠子さんの結婚披露宴への出席だった。生憎の雨だったが、長女・美香さんに付き添われて母校東大の本郷キャンパスに駆け付け、開催のあいさつを行い、しばらく休養したのち、披露宴には最後まで着席、フランス料理のフルコースを堪能した。

写真左:
約300名の出席者の前で開式の宣言をする宇井さん
=2006年5月13日、東京・本郷の東大「弥生講堂」で
写真右:
今となっては最後のフルコースを堪能した
=2006年5月13日、東京・本郷のフォーレスト本郷で

また、地方から上京した際、あいさつしたいという人たちの来訪を歓迎したり、ジャーナリストのインタビューを受けたりもした。

写真左:
天草の環境NGO・松本基督さん(右)の現地の報告を聞く
=2006年6 月11日、東京・世田谷の宇井宅で
写真右:
フリージャーナリストの井部正之さん(左)のインタビューを受ける
=2006年7月25日 東京・世田谷の宇井宅で

そして、8月の旧盆には久しぶりに98歳になる父・俊一の待つ栃木県壬生市の実家に墓参りを兼ねて帰省した。実は、俊一とは1年以上も顔を合わせていなかった。そのため、機会あるごとに「純はどうした?」と尋ねる俊一に、紀子はいつもなにか口実を考えねばならなかった。しかし、会えば二人とも寡黙な空間を作っていた。純と父・俊一との直接面談はこのときが最後になった。

2006年は9月に入っても厳しい残暑が続いていた。そして、5日夜に至って事態は暗転した。出血したのだ。医師の指示もあり、世の明けるのを待って救急車で、またまた慈恵医大付属病院へ入院した。そして、結局、再び外には出られなかった………。