【弔辞】………………柴田徳衛

主賓を代表して日本環境会議代表理事の一人で東京都立大・東京経済大名誉教授の柴田徳衛が弔辞を読んだ。柴田の弔辞はほとんどがアドリブで、このために多くの文献・資料の中から探し出してきた『公害研究』の創刊号で都留重人らと一緒に出ている宇井純のエピソードなどを親しみの持てる話術で、故人にというより遺族や会葬した人たちに語りかけた型破りの弔辞だった。              
 【文責=司 加人】


理論だけでなく、現場の実際技術を踏まえて研究した
「公害問題で“専門家”が出てきたら用心しろ」は名言

弔辞とは、本来故人に向かって述べるものでしょうが、宇井さんへの弔いの言葉はきょうここにご会葬の方々に向かって、みなさんと一緒に故人の業績を偲び、一緒にお送りしたいと考えます。

宇井さんと親しくなる前に、こんな噂が耳に入ってきました。東京大学には2人の総長がいる。昼の総長と、夜もう一人の総長がいるというんです。何事かと思っていたら、それは宇井純というひとで、昼の肩書きは万年助手、夜は自主講座を開き、いろいろな講義をなさっていた。実は、その実力は夜の総長のほうがもっていて、財界や大物の大教授らが宇井さんが何か言うと震え上がる………こんな噂でした。
写真:『公害研究』創刊号を示しながら弔辞を述べる柴田さん

そのうちに、「水俣病」に身を挺して研究され、『水俣病』という自費出版をされ、その著者名がなんと「富田八郎」となっていて、はて富田八郎とはどういう人かと思っていたら、それは「とんだやろう」と読むんだと教えられ驚きました。
写真:残された我々は貫いた姿勢をしっかり受け止めたい

そして、一時、大学から化学会社へ勤められ、そこで実社会、なかんづく化学会社の裏表というものを身をもって経験されました。
しかし、1962年に新しくできた東大の都市工学科の助手になられて、以後、大活躍されたわけです。その後、1971年のことですが、我々、都留重人先生を中心に『公害研究』という本を出しまして、それの巻頭に東西の公害問題の論客を集めて座談会を開きました。とくに都留先生、戒能先生、庄司先生と宇井さんが並んでいます。この人たちを我々は泣く子も黙る恐い先生と呼んでいましたが、以後、毎号各論客が論陣を張るということを続けました。
その後、1992年9月に現在の『環境と公害』に改題しましたが、宇井さんはその中心的な一人として研究を重ね、とくにカナダ先住民地区における水銀汚染の影響というテーマで宮本憲一さん、原田正純さんらと一緒に研究され、その段階で私も公私ともに親しくさせていただきました。

そういう中で宇井理論をいろいろ聞きました。その一端をここでご紹介したいと思います。
宇井さんの名言の1つに「公害問題で“専門家”が出てきたら気をつけろ」というのがあります。これは社会と自然の競合的な新しい現象は教科書にもどこにも書いてない。学界でも承服されていない―と言って、“専門家”と称する輩はみな切り捨ててしまう。役所は諸事先例に則って動いている。水俣病というものは先例がない。ゆえに、ないことにしようという形で切り捨てられてしまう世界だ。しかし、切り捨てられることが日本経済が発展した裏というか陰があり、それが大事なんだ―ということを宇井さんは盛んに主張されました。

一方、海外へも幾度となく赴き、下水道の理論も起こされ、日本では「下水道」という名の下に大変な無駄がある。たとえば、7億円かかったというが宇井さんから見れば1億円もかからない代物だ、ということを具体的にあげていました。

このように、「技術」をただ理論でなく、現場の技術を踏まえた実際の技術といいますか、そういう視点から裏でいかに手加減というかインチキがあるかを次々と告発されました。ただ、おかしいというのでなく、具体的な事実をつきつけての告発であっただけに、我々も宇井さんには大変学びました。

しかしながら、最近の傾向として地球温暖化が表面化してきたこともあって、「公害問題」から「環境問題」に表現が変わり、広がっています。学界でも若い研究者が育っています。このこと事態は結構なことですが、どうも宇井さんの目から見ると、抽象論というか、きれいなモデルを作って、アレンジしてしまう。それでは環境の研究は進むが、環境自体は滅んでいくのではないか、ということを盛んに言われていました。水俣病にしても最近顕在化しているアスベスト問題にしても、さらに地球温暖化にしても超大型台風の出現や北極の氷がどんどん溶けてくるなど次々と問題が出てきているわけです。宇井さんは身を挺して研究していけ、と私たちに教えていただいたんだという気がします。

宇井さんが亡くなってあらゆるメディアが宇井さんの業績を取り上げていますが、残された私たちは宇井さんが貫いた姿勢、意志を改めて思い起こし、少しでも住みよい世界にすることに努めて行きたいと考えます。

心からご冥福をお祈りします。


紀子夫人への弔意の手紙………………宮本憲一

故人と長い付き合いの宮本憲一は宇井純が急逝した日も葬儀の日も沖縄での現地調査のため会葬が叶わず、紀子夫人へ弔意を表す手紙を出している。双方の了解の下、全文を原文のまま紹介する。


水俣調査の帰路、進路めぐり朝まで飲み明かす
世界環境調査で「高度恐怖症」であることを知る

宇井君の死去はまことに残念でした。
ちょうど沖縄の基地問題の調査にいっており、通夜にも告別式にも参列できず申訳ありませんでした。これまでの四〇年にわたる交遊からいえば、当然弔辞をのべなければならぬところ、以上のような事情で柴田徳衛さんにおねがいしました。柴田さんからFAXで弔辞の原文がおくられてきましたが、宇井君の仕事や情熱がよく表現されていました。安心しておまかせいたしました。
宇井君と最初に会ったのは、一九六六年頃だったと思います。彼はアルバイトで貯めたお金で水俣に調査にいっていましたが、その途次に相談があるというので大阪に寄ってくれたのです。当時、彼は工業技術者として進むことと、公害の社会科学的な調査と執筆をするジレンマに悩んでいました。公害ということばが辞書にない時代で、私と庄司光さんの共著『恐るべき公害』(一九六四年、岩波新書)が、このことばを定着させることになったぐらいですから、世間とくに学界からの圧力が、公害研究に重くのしかかり、そのような状況の下でこれからどのように研究をすすめればよいかという相談でした。
写真左:
東大「自主講座」で講演する宮本憲一さん(左)と宇井純さん=1971年5月24日
写真右:
「あおぞら財団」のシンポジウムで議論するお二人=2001年2月21日


私も経済学者として、公害という学際的領域で、これまで経済学の業績の少ない分野をきりひらくことで、頭を痛めていましたので、その夜は朝まで飲みながら話をしたことをなつかしく思い出します。別れにあたってはお互いに、公害研究を協力して発展させるべきだと結論したのです。彼がその後出版した『公害の政治学』は工学者の手になるものですが、社会科学としても傑作であり、水俣病研究の基盤を確立した作品でした。
幸いにしてそれから市民の間で公害反対や市民運動が発展し、公害や環境問題の研究を妨害する人は少なくなっていきましたが、それでも四大公害裁判が勝訴する七〇年代半ばまでは、政府や財界の圧力は相当なものでした。とくに東大のようなアカデミズムの牙城では公害の講座はおろか研究の妨害もつづいていました。学生の叛乱もあって、彼の公害原論という自主講座がこの時代の大きな社会教育の柱であったと思います。

彼と私は公害反対の運動と理論については対立することも多くありました。論争もしました。研究についても分野がちがっていたので評価もことなるところがありました。しかし、敵対したことはなく、よい論争相手だったと思います。思い出の中で色が濃いのは、一九七五年の世界環境調査です。これは後に上下二巻で岩波新書から出したものや、唐木清志さんのルポなども入れて中日新聞社から出版されたものがあります。都留先生に命じられて私が団長となって、約一か月世界をまわりました。年輩組と若年組と、アメリカで別れて、宇井、原田、唐木の三氏と私が、アラマゴールドを出発点にカナダにはいり、さらにヨーロッパを廻りました。カナダのインディアンの水銀中毒事件の調査は、今から思えば氷上飛行機(よく墜落していました)で往復するという冒険旅行でした。いまだにこの問題は解決していず、公害の典型である差別が原因の社会問題でした。この旅で彼が高所恐怖症であったことを知り、彼の愛すべき弱点を知りました。

このように書いてくると思い出はつきない感じです。先述のように論敵でもありましたが、『水俣レクイエム』(岩波書店)に書いたように、「彼がもし野たれ死にをしても彼の骨は拾ってやると、ずっと思っていました」。幸い、宇井君は野たれ死にすることなく、それどころか、晩年も沖縄をはじめ沢山の地域から尊敬され、支持されて、立派に輝かしい一生を終えられたことは、友人として心から敬意を払います。野たれ死にをした田中正造の時代よりは、日本も少しはよくなったのかもしれません。しかし、おそらく学界の内部はそれほど民主化しているとは思えません。彼の志をついで若い研究者が貧しい被害者の立場に立って、公害や環境問題の解決に死力をつくしてくれることを願わざるにはおれません。
学長を辞めて、時間の自由ができたにもかかわらず相変わらず少しもひまができず、おくやみの手紙が今日までおくれたことを申し訳なく思っています。
おそらく、いろいろの団体が「偲ぶ会」の企画をもっているようなので、そういう機会にでもおめにかかれれば幸いに思っています。さいごに宇井君の冥福を祈ります。
宇井紀子様

宮本憲一
2006年11月21日

写真:宇井紀子夫人宛の弔意の手紙